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2020-08-07

◆注意すべき神社  その⑤

ようやく一区切りつきそうです。


人を神として祀った神社、⑤と⑥について考えてみます。


⑤当事者が生きていた時代には無く100年単位の時間が経過して祀られた神様の神社

⑥戦没者を祀る神社



・・・です。


これは非常に稀なケースですが、昔、岐阜県の海津市付近を散策していた時に見つけました。

薩摩藩士を祀った神社です。

薩摩藩士神社③



薩摩藩士神社①

上の画像から少々修正して文字化します。

~昔からこの地域は木曽川・揖斐川・長良川の支流が網目のようにあった。その間に出来た区画を「輪中」といい、堤防を築いて水を防いでいた。


ところが、その三つの河川の川床(かわどこ:川の底、または河川の堤防の内側)は、東から木曽川・長良川・揖斐川の順に八尺(2.4メートル)も差があるので、大雨が降るたびに一番低い揖斐川へ滝のように水が流れ込んだ。
 
 
そして逆流してくる水と一緒になって、輪中の堤防を決壊させたり、あふれて洪水となり、農作物はもちろん命まで失われると言う被害が連続して起こった。
 
 
この惨状を見て、民たちは徳川幕府に訴えたところ、徳川幕府は工事に着手することになったが、実際に工事をしたのは幕府ではなく、岐阜から遠く離れた薩摩藩へ命じた。
 
 
時は宝暦4年正月(1754年)。当時の藩主、島津重年公は当時の金としては莫大な金40万両を借金し、家老の平田靱負(ひらたゆきえ)を総奉行として現地に派遣した。


大変な難工事で、幕府の重圧に耐え、苦心に苦心を重ねついに完成したが、八十八名の犠牲者を出した。~



薩摩藩士神社②

続きを文字化します。


~この大堰川洗堰(あらいぜき:水流を横ぎって、川幅いっぱいに石を敷き詰めて造る堰)は、その事業の一つで対岸の勝賀と大藪の間に、高さ1.2メートル、幅178.4メートルに亘って堰を造るという難工事中の難工事でした。
 
 
これは長良川の水位が1.2メートルまでは、揖斐川に流れないようにし、水位が1.2メートルを超えると自然に洗堰を超えて水が流れ込み、その水勢も弱まる様に設計されたものでした。


後に明治の改修ですっかり埋まってしまい、完全に遮断されましたが、当時は尾張藩が強く、ここを締め切ると尾張側が危険にさらされるというので許されず、洗堰で水の調整をはかっていたのです。
 
 
この工事完了は宝暦四年十二月、経費は金四千九百八十八両と云われています。


ここに薩摩藩士の功績を讃え、当地が五穀豊穣の地として今日あるを感謝し、その偉勲を永く後世につあてるため、昭和5年この地に現在の記念碑を建立したのであります。~



薩摩藩士神社④


この神社を知ったのは偶然でした。たまたま近くを通った際に立ち寄りました。後に調べてみましたが、難工事を完成させた平田靱負は八十八名の犠牲者を出したことに責任を感じ、自害しました。
 
 
そして私が訪れたこの神社は、洗堰の現場に立てられた神社で、後に新聞で知りましたが昭和の50年代に社が建てられたようです。大勢の犠牲者を出してから200年以上経って祀られた、島津藩士が神様となっています。
  
 
祀られた経緯は、昭和になってから洪水がこの近辺であり、「もしかしたら島津藩士が祟っているのでは?」という考えから慌てて祀られたようでした。
 
 
このブログ作成にあたり、つい最近しりましたが海津市には治水神社という、同じく薩摩藩士と家老の平田靱負を神として祀る神社があると知りました。


こちらの治水神社の方が、現場に立てられた神社より少し古く、昭和の13年に建立された神社でした。昭和の13年ですから、やはりこちらも犠牲者を出してから200年以上経って建立された神社です。

 
当事者を知る人たちが生きていない、時を隔てて行き成り建立したということは、やはり昭和初期頃に大きな水害があり、これは家老の平田靱負や薩摩藩士を弔っていなかったから、彼らを忘れてしまっていたからではないか?と考えたと思われます。もしくは不幸な出来事が連続して起こったのかもしれません。


いずれにせよ、200年も経って犠牲になった人達の慰霊の為の神社が出来ると言うのは、異常事態です。


時系列順で言えば、昭和5年に現場だった場所に碑が出来る。それから8年後に治水神社を建立。そして昭和の50年代に現場にも神社が建立されました。
 

今では非科学的なことは信用しないという人も増えてきていますが、人間の深層心理には、どこかに誰でも得体のしれないモノ、コトに対して畏れという感情があるのでは?と思います。


しかし、徳川幕府も大変な作業を薩摩藩へ命じたものです。これは幕府に逆らえないよう、薩摩藩の力を減らす為にやらせたのでしょう。もう嫌がらせです。島津の殿様からしたら、国力と大事な家臣達を同時に失った訳です。後の歴史を見るに、徳川幕府は西からの勢力、薩長同盟により一つの時代が終わります。そう考えると薩摩武士の恨みというのも読み取れる神社でした。


長くなって来たので、⑥は次回で・・・。



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2020-07-31

◆注意すべき神社  その④

前回の続きです。


③祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(全国版)

④祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(地域限定)



次に③と④、祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社です。


どちらも死後、異変が起こり祟っているとされて祀られましたが、規模の違いがある為、全国版と地域限定とさせて頂きました。


全国版で有名なのはやはり天神様こと菅原道真公でしょう。天神とは元来「天津神」、即ち天上の神々のことでしたが、あまりにも有名になり、現在では天神=菅原道真公を表す言葉になってしまいました。(詳しくは過去ブログ参照
 
 
権力者に祟ったことで、国を挙げて祀ることになったこと、道真公自体が天才だったため、後に学問の神として崇められたことが大きく作用し、全国的に有名になり沢山のお社で祀られました。
 


次に地域限定の祟った神様、あるいはその場所のみで祀られる祟り神の神社です。関東方面には佐倉惣五郎という義民が死後、祟ったとされ神に祀り上げられました。舞台化もされた有名な話でもありますが、もうほとんど知られていない、地元の人も忘れかけている個人が祀られているものも、結構あります。


最近、仏像や御開帳参拝が好きな方から教えて頂きましたが、四国に凄い神社がありました。薫的大神(くんてきおおかみ)という神様を祀る「薫的神社」です。これが調べてみたら今回のテーマど真ん中の神社でした。


まず、この薫的大神の概要を紹介したいと思います。生きていたときは薫的和尚と言うお坊様でした。


〇薫的和尚の概要

薫的和尚は、伝説によれば寛永二年(一六二五)に生まれた。十五才で出家得度し、二十二才まで御修行、香美郡土佐山田町楠目の豫岳寺(よがくじ)の住職となった。詩歌、俳句、絵画、彫刻にすぐれ、武術の稽古もしていたと伝えられ、身長は六尺の偉丈夫であった。後に洞ヶ島の曹洞宗瑞應寺(ずいおうじ)に移り、瑞應寺第十七世住職となった。


当時、この地域の有力な寺は二つありました。滅びた長曾我部氏の菩提寺であった「瑞巌寺」と、長曾我部氏滅亡後にこの地にやって来て統治することになった山内氏が設けた、その菩提寺である「真如寺」です。真如寺も曹洞宗のお寺でした。


薫的和尚は瑞巌寺の住職で、真如時の住職、良谷和尚と何かにつけて衝突していました。そんな時、薫的和尚が激怒する事件が起こります。二代目藩主が亡くなり、その戒名を真如寺の良谷和尚がつけましたが、その戒名は「竹巖院殿龍山雲公大居士」でした。
 
 
薫的和尚は、


「巌上の竹は枯死するが松はよく成育する故に松巌院でなければならない。 雲公の雲は、風によって乱れる意味を持つので不吉。 公は三公九郷の高官でなければ使用すべきでない。忠義は従四位侍従であるから公は僭上の嫌いがある」


と指摘。要するに戒名が良くないと言ったのです。また、法事の際、瑞應寺の座列が真如寺の下座に置かれていることを抗議し、対立するようになりました。


薫的和尚はこの問題を宗門支配の周防の国、長源寺に直訴しようと訴状を書き、瑞應寺の脇寺の芳心院(僧侶)に長源寺に行く様託しましたが、芳心院は真如寺に内通してしまいました。


真如寺から内通を受けた奉行「孕石頼母」ら藩の重役は関所違反という無実の罪をきせ、薫和尚を投獄しました。そして7年後、獄中にて経文を血で書き、49日間自ら食を絶ち抗議。


寛文11年(西暦1671年)旧正月10日高知城を睨み付け、自ら舌を噛み切り憤死。享年47才でした。




何とも凄まじい最後です。血書をしたため、食を断って舌を噛みきり自決。しかもお城を睨みながら・・・・・


獄中死した薫的和尚の遺体は、高知市小高坂山の住人、郷士西内半次正義が密に貰い受け、現高知市三の丸の私有地の畑に埋葬。光善芝と名付け、松を植え牛馬を繋ぐことを禁じた。 墓はいつしか忘れ去られていました。


そして異変が起きます。神社のHPより抜粋です。


薫的和尚の判決をした奉行の孕石頼母は、正徳4年(1714年)乱心し庭先を指して、「あの石の上に、緋の衣を着けた坊主が物凄い形相で睨み付ける。」と言って狂死。子・孫も次々に変死をして、血脈が絶えました。
 
 
また、直訴の手紙を託されたにもかかわらず、ライバル関係の真如寺側へ寝返った芳心院は、元禄8年(1695年)薫的和尚の命日より喉を痛め発病、不眠に悩み、発病後21日で発狂し死亡。長男、次男も変死。


ある時、山内家の重臣、山内主馬様のご母堂、光善院様の夢に薫的様が御出現され、「今を去る55年前、無実の罪に陥れられ、無念の死を遂げた。その恨みを7世まで晴らさんものとする。」というお告げをうけた。光善院様は、薫的様の祟りを大変恐れました。


光善院様は家臣に命じ、薫的様のお墓を探し享保12年(1725年)に小高坂山から洞ケ島に御改葬。現在の薫的神社裏の霊光塔にお祀りされている。瑞應寺は明治3年廃仏棄釈により、廃寺となり、洞ケ島神社と称す。昭和24年に薫的神社に改称した。

 


後半、少々分かり辛いので整理すると、


・1671年に薫的和尚、獄中にて自決

・薫的和尚を売った芳心院は1695年に狂死。長男、次男も変死

・薫的和尚を裁いた奉行、孕石頼母は1714年に狂死。その子供、孫も変死

・1725年、光善院の夢枕に薫的和尚が出現。祟りを恐れて忘れられていた薫的和尚の墓地を改め、祀り直す。

・薫的和尚が住職をしていた瑞應寺に祀られたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となる。

・そして神社として復活。洞ケ島神社になる。

・昭和24年に薫的神社に改名し、現在に至る。


死後、祟り神となり、自身を嵌めた関係者の命を奪い、恐れられて寺を守る神(?)として祀られるも、寺は廃仏毀釈により廃寺になる。しかし、祟り神となった薫的和尚を祀る御堂(社?)だけは無くならず、逆にそれを主祀神として祀る神社となる。廃仏毀釈の嵐の中でも、薫的和尚を祀る場所だけは、寺が無くなっても残る・・・。残さなければならなかったのでしょう。
 
 
昭和になって、その神社の名前も変わる。地域の意味を込めた社名から、その御祀神様の名を表す社名に・・・。
 
 
神社のHPがあったので覗いてみましたが、興味深い情報が載っていました。


それは薫的和尚が最後を迎えた当時の牢屋が移築(!)されていること。

孕石頼母の家にあった庭石もあります。この庭石の上に薫的和尚の幽霊が出たとか・・・。

 
古い牢屋などは取り壊されそうなものですが、それすら当時の人にとったら、あの薫的和尚が最後を迎えた牢屋を壊すのは恐ろしいという感情があったのでしょう。


薫的大神様の目線で考えて、果たして薫的和尚が最後を迎えた牢屋を境内に持ってくるというのは大丈夫か?とは思いますが・・・。これは凄いことです。庭石をこの地に持ってきたのも、恐れ故に粗末に出来なかったのでしょう。
 
 
また薫的神社とは違う場所ですが、薫的和尚のお母さんも神として祀られているようです。
 
 
こちらの薫的神社は薫的和尚の神像が遺されています。神像は原則御開帳と言うのはありません。しかし、こちらの神社では50年毎に御開帳があるようです。これはお寺だった時代の名残でしょう。
 
illustrain02-building05.png


死して祟った個人の姿の像をつくると言うのは、凄いことです。ぱっと思い浮かぶのは菅原道真公や平将門公でしょうか。どちらも恐ろしい怨霊伝説が残る神様ですが、薫的和尚もそれぐらい畏れられたので和尚の神像が造られたのでしょう。
 
 
来年が50年毎の節目になるので御開帳をやるそうですが、行かれる方は「一体自分はどんな神様をお参りするのか?」ということを良くご理解して、お参りに行った方が良いかと思います。


 
続く・・・




薫的神社はこちらまで

2020-07-27

◆注意すべき神社   その③

注意すべき神社で項目から外れていた、大事な神社がありました。


それは「もと人間を神として祀っている神社」です。歴史上に実在した人物を祀る神社です。


有名どころだと菅原道真公、平将門公、徳川家康公や豊臣秀吉公、加藤清正や吉田松陰などなどです。ある意味このような方々を祀る神社はお墓とも言えます。


天皇陛下のご先祖神にあたる神様の中だと、最も多いと思われるのが八幡神社の応神天皇やそのお母さんの神宮皇后もそれに該当しそうです。八幡社は全国で二番目に多い神社というので、元人間を神として祀る神社というのは、全国の神社の中でもかなりの割合をしめるかも。
 
 
この元人間の神様と一括りにすると、ちょっと無理が生じます。なので、「祟ったから・あるいは祟りそうだから祀られた」場合と、そうではない場合と大きく分けます。さらにそれを出来る限り細分化すると・・・


①歴史において有名な人物で、勝った方の神様の神社

②歴史において有名な人物で、負けてしまった方の神様の神社

③祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(全国版)

④祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(地域限定)

⑤当事者が生きていた時代には無く100年単位の時間が経過して祀られた神様の神社

⑥戦没者を祀る神社



まだあるかもしれませんが、考えれるだけ考えてみました。①で有名なのはやはり古代の戦争に勝利した戦神、応神天皇を祀る八幡社が該当すると思います。徳川家康公を祀る東照宮もそうですね。

 
②だと平将門公や、京都にある御霊神社が有名です。御霊とは不遇な死に方をした人の霊を神としたものです。
 
 
例で挙げた京都の上御霊神社・下御霊神社、奈良県の秋篠寺付近の八所御霊神社は同じ神様を祀っています。私はこの中で八所御霊神社のみ参拝に行ったことがありました。(調べてて思い出しました)
 
 
この三か所の神社でお祭されている神様は崇道天皇(すどうてんのう)です。気になったので調べてみました。


崇道天皇は平安時代の人物で、その当時は早良親王と呼ばれていました。以下、かいつまんで紹介致します。


延暦三年、桓武天皇は長岡へ遷都。この時、藤原種継の暗殺事件が起こる。長岡京の造宮司の藤原種継は早良親王と敵対関係であったため、早良親王が暗殺事件の首謀者とみなされる。(早良親王は桓武天皇と異母兄弟)

その後親王は、淡路島の乙訓寺にて監禁されることになった。早良親王は無実を訴え、食を断った。10日余り過ぎ、宮内卿の石川恒守らが淡路島へ移送する途中、高瀬橋頭で絶命した。
 
恒守はそのまま遺体を淡路島へ運び葬った。その後、異変が起こる。

桓武天皇の妻、藤原旅子が他界。続いて母親の高野新笠(たかのにいがさ)、皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が他界。天変地異もおきた。さらに皇太子の病気が長引くので占った所、皇位を廃された早良親王の祟りであると出た。

朝廷は淡路国に使者を送り、奉謝を行った。

しかし、これでも祟りは治まらず、早良親王の死後、78年経過した貞観5年(863年)、神泉苑で御霊会を行い、早良親王らを御霊として祀る様になった。



崇道天皇というお名前は、死後早良親王に送られた名前のようです。しかし、皇統譜上では今も正規の天皇としては認められていないようです。

八所社2
 

昔、奈良の方の八所神社はたまたま通りかかった時に参拝しました。御霊神社というのは祟り神を祀っていると聞いていたので、緊張してお参りしたのを思い出しました。

八所社1

当時撮影した看板。
 
火雷大神は荒ぶる神様で雷神です。天神様こと菅原道真公という意味もありそうですが、やはり超自然的な怖い神と考えてよさそうです。崇道天皇以下七柱の神様は人の名前です。御霊とあるので、やはり非業な死を遂げた神様達なのでしょう。
 
 
この看板の注意すべき点は、境内に於いて「①不敬・不浄な行為」、「②鳥獣をとるなどの殺生行為」「③尊厳を疵つける一切の行為」を禁ずるとあることです。どこの神社にも当てはまることです。②のような生き物をとるなというのはたまに見かけますが、①とか③のような強い口調の言葉はあんまりみないかも・・・。
 

それを大々的に入り口に表記するというのは、やはり参拝するのに要注意せよ、怒らせる行為は絶対するな!という恐怖の裏返しかと思います。
 
 
確かにものすごく掃除が行き渡っている神社です。異様に綺麗さに拘っていると思いました。

と同時に、大変緊張する神社でもありました。よく写真撮ってきたなと思います。参拝当時の自分に会えるとしたら、「写真は撮るな!」と言ってたでしょう。
 
こういう神社は謙虚な気持ちでお参りすることが必須です。
 
 
長くなって来たので次回に続きます。


※参考文献 天皇の本 学研

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2020-07-22

◆注意すべき神社   その②

前回の続きです。


③六所神社(七所神社とか八所神社とか〇〇所神社)

④境内に古墳、塚と思われるものが残っている神社。

⑤神明社と呼ばれる神社



今回は上記三つについて考えてみたいと思います。


③と⑤は関連している箇所がありますので、まずは④から。


境内に古墳があるような超古い神社。あるいは史跡認定はされていませんが塚のようなものがある神社です。古墳の上に建っている神社も含みます。

猪子石神社②
(画像は名古屋市にある大石神社:塚っぽい神社です)


古墳も塚も昔の人の墓です。まずその部分だけを取っても、参拝時には敬意を払わねばならないでしょう。


神社境内に古墳がある場合、何故この地に神社(寺)が建立されたのか?を考えるのも大事です。

 
もともと古墳のある地は霊地なので信仰の対象になっていた。だから後に神社が出来た。
猪子石神社①
(こちらも名古屋市内にある猪子石神社の看板。同じく塚っぽい。大石神社と対)
 

あるいは、古墳や古墳に生えていた木などを不用意に傷つけた。傷つけた途端、祟りがおきまくり、慌てて神を祭った。つまり荒ぶる神の封じの為により強い神を持ってきたということがありえると思います。
 
 
前者と後者の割合で言えば、後者の方が多いと思います。


名古屋城の街づくりを見ても、徳川家が古墳に気を使っていたことが良く分かります。


例えば、清州越しで寺を沢山引っ越しさせ、名古屋城から見た南側に寺町をつくりました。現在の大須観音界隈です。商店街を歩くと古墳が残っていますが、その古墳の周りには寺が集中しています。また古墳の上に神社がある所もあります。この辺りは熱田系の豪族の埋葬地だったと思うので、仏教や強い神様の力で封じをしたのでしょう。


名古屋城築城には石垣が足りず、名古屋市内の古墳を徳川家が壊した形跡があります。しかし、どうも気を使っていたようで、古墳を壊す役目は加藤清正など元豊臣家の武将にやらせています。特に名古屋市北区は古墳を壊した形跡が多く、それを恐れたのか江戸時代には残った古墳の上に徳川家が神社が建てたりしています。御祭神は白山菊理姫命、御利益は仲裁です。
 
 
このように、神社に古墳や塚がある所は、過去に何かあったことが多いと思いますので、やはり参拝時にはより厳粛な気持ちでお参りした方が良いでしょう。
 
 
次に③です。⑤とも少し似ています。
 
 
六所神社(ろくしょじんじゃ)とは、六柱の神々を祀っている神社ということです。私が知っている例ですと、七所神社、八所神社などがあります。多い例ですと二十七所社と言うのも見つけたことがあります。
 
 
何故注意した方が良い神社でこの「〇所神社」を上げたかと言うと、一体何を祀っているのか分からないことが多いからです。
 
 
〇所神社の中には御祭神が特定されている神社もあります。例えば愛知県岡崎市にある六所神社です。
 
 
こういう来歴のはっきりした神社は安心できますが、この〇所神社と言うのは元々の神様が変わらない神社もあれば、道路が広くなった、人がその地域に住まなくなったなどの理由で一か所に集められて出来ることもあります。
 
 
また神様のお名前が遡っても不明の場合、祟り神を集めた神社の可能性もあったりします。
 
 
仏教の仏様と違い、神社の神様は神様同士の相性というのもあるので、例えば滅ぼした側の神様と滅ぼされた側の神様を一緒に知らずに祀ってしまったり、古代神話に於いて敵対関係の間柄の神々を、人の都合で知らずに一緒に祀ってしまうと、それだけで場が悪くなりそうです。
  
  
〇所神社、特に祀られている御祀神が多いにも関わらず、何を祀っているか分からない場合は、やはり注意して敬意を持ってお参りした方が良いでしょう。分からない故の怖さのある神社です。
 
 
最後に⑤についてです。
 
 
神明社と言うと、御祀神は天照大神です。社名を見れば「あっ天照大神だ」と分かるぐらい有名ですが、この神明社、特に地方にある神明社は要注意です。
 
 
なぜなら、明治時代以降に御祀神が入れ替えられているケースがあるからです。

 
明治の政策で国家宗教が神道に決まった際、一番大切な神社が伊勢神宮となりました。その際、特に地方に多かったと思いますが、その地域にしかいない特殊な神様、地元の豪族や有力者を祀っているような神社などは、天照大神に入れ替わったことがあるからです。
 
 
こうなると、本当の御祀神は忘れられている可能性があるので、神様からすれば機嫌が良くないと言えます。そんな神社であれば、やはり礼節を守ってお参りすべきです。(まぁ、神社自体、どこへいってもそういう気持ちは大事ですが)
 
 
神明社に限らず、記紀神話に登場する有名な神様へ御祀神が変わった他の神社もあります。関東圏で言えば明神社です。関東圏の明神社と呼ばれる社は、明治以前は殆ど平将門公を祀っていたそうです。しかし、天皇陛下が東京に住むようになると、天皇陛下の御先祖に逆らったのが平将門公になるので、「逆賊を祀るとは何事か!」という理由で全部他の神様へ入れ替わってしまいました。将門公がちょっと気の毒です。
 
 
神明社に話を戻しますが、これも一概に全部が該当する訳ではありません。当然最初から記紀神話の神々を祀っているケースもあります。こればかりはその神社の歴史を調べたり、境内の末社をくまなく見て、聞いたことが無い神様がいるかいないかを観る必要があります。



以上、私が考えるお参りする際に注意すべき神社をお話しましたが、もう一つ忘れていたパターンの神社がありました。それは、


⑥かつて人間だったけど、何らかの理由で神として祀られるようになった神社
 
 
です。次回は⑥について考えてみます。





2020-07-21

◆注意すべき神社   その①

詳しい数はきちんと把握できていないと思いますが、全国には8万社以上の神社があるそうです。


基本、神社参拝は本人が行きたいところへ行けば良いと思います。


それなりに今まであちこち参拝に行きましたが、当然ながら行ってない有名神社も山ほどあります。


全体から見れば全然行けてない、めちゃくちゃ少ない参拝神社数ですが、その中で「この神社は特に参拝時に気をつけた方が良い」という神社を私なりにお話ししたいと思います。行っても全然構わないですが、より衿を正して参拝した方が好ましい神社です。
 
 
雰囲気が暗い神社、荒れてる神社、肌で感じるような緊張する神社などは当然要注意ですが、社名や具体的な特徴で考えてみます。

 
 
①津島神社・八坂神社・須賀神社など。共通しているのは嘗て「牛頭天王様」を祀っていた神社。

②八王子神社

③六所神社(七所神社とか八所神社とか〇〇所神社)

④境内に古墳、塚と思われるものが残っている神社。

⑤神明社と呼ばれる神社



順を追ってみます。まず①ですがこのブログでも度々出てきますが、例で出てきた三つの神社は、現在「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を祀っています。しかし、嘗ては仏教由来でも神道由来でもない、陰陽道由来の荒ぶる厄神の王、牛頭天王様を祀っていました。(詳しくは過去ブログ参照

IMG_6576.jpg
(画像は津島神社)

明治の神仏分離政策で分けられてしまいましたが、果たして人間の都合で外して抹消できる神様なのか甚だ疑問です。八坂神社、津島神社は(愛知県の場合)あちこちにあります。庶民の神様へ願う最大の関心事は、今も昔も病気です。病気の元締め的な牛頭天王様を祀るのは至極当然と言えます。
 
 
今年、数年ぶりに津島神社の大本へ参拝に行きましたが、非常にきっつい、気を遣う神社でした(あくまで私見)。神仏分離、廃仏毀釈は誠に馬鹿げた政策ですが、最大の失敗は津島神社、八坂神社の牛頭天王様を外し、抹消したことだと思います。大分怒っているというか、機嫌がよくないというか、どこかちぐはぐな感じがしました。
 
 
牛頭天王様を祀っていた神社は津島神社、八坂神社、須賀神社が有名ですが、この社名に合致しない牛頭天王様を祀る神社もあります。岐阜県で言えば古井神社、長屋神社、溝旗神社などがそうです。(情報提供:岐阜県在住のK氏)なので、御祀神が分からなければ一度調べるのをお勧めします。
 
 
名古屋市内で言えば、各町内にある素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る氏神様も、嘗ては牛頭天王様を祀っていたと思われます。
 
 
次に②の八王子神社ですが、この方々も陰陽道由来の神様達で、牛頭天王様のお子さん達です。
 
 
簡単に言えば、長女を除き、長男以下七男までは超がつくほどの荒ぶる神様です。祟り神です。ある意味牛頭天王様よりも気をつけねばならない神様達かもしれません。
 
 
詳しく説明したいのですが、正直怖いので止めておきます。検索することもしない方が良いかもしれません。
 
 大将軍八神社
(〇〇〇〇神社)

京都には〇〇〇〇神社という古社があります。この神社、境内に宝物館があり、年に2回、期間を設けてこの神社に残る神像(数十体の神像群。かなり多い)を公開しますが、正直に言いますと無信仰の人、興味本位で行く人は、この宝物館にはあんまり行かない方が良いと思います。八王子神の中に大将軍神という荒ぶる神様がいますが、この大将軍神像で立体曼荼羅が構築されていました。
 
 
重要文化財に指定されている素晴らしい神像群ですが、あまりにも強烈過ぎます。神像というのが見てはいけないということがよく分かります。一体でも十分神社の御神体になりそう神像ですが、なぜこれほど多くの大将軍神像ばかり集められたのか?
 
 
それは平安時代の人たちにとって、最も恐れられていた神様の一柱だったからだと思います。次から次へと権力者たちはこの神像を彫らせ、「あなた様には敵いません」という意味で祭り上げたのでしょう。恐怖の裏返しがこの奉納された大将軍神像群ではと思います。
 
 
〇〇〇〇神社への参拝は気をつければ特に問題ないと思いますが、宝物館へ行かれる方は言動には本当にご注意下さい。もし行くという方は、同じ日に東寺の立体曼荼羅へ参拝に行くと違いが良く分かります。

 
八王子神は牛頭天王様を祀っていた神社と比べれば少ないですが、そもそも津島神社や八坂神社には八王子神が一緒に祀られていたはずです。牛頭天王様が密教に取り入れられたということは、お子さんたちの八王子神も一緒に取り込まれましたが、現在の八王子神を祀る神社は、明治以後に素戔嗚尊の八柱のお子さんたちに変えられてしまいました。
 
 
しかし昔から八王子神だけを牛頭天王様と分けて祀るということは、やはりちょっと別格として考えられていたのでは?と思います。


次回は③~⑤について考えてみたいと思います。



プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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