2022年10月16日、家族で滋賀県にある百済寺(ひゃくさいじ)に参拝に行きました。
百済寺の秘仏、十一面観世音菩薩像が御開帳されたからです。
私は昔、父と二人で参拝に行きました。今回は初めて訪れる妻と娘と一緒です。前回の御開帳は湖東三山と呼ばれる三か所のお寺、百済寺、西明寺、金剛輪寺が何かの記念で一斉開帳されました。今回は聖徳太子千四百年御聖忌で御開帳されたようです。
こういう何かの記念ではないかぎり、原則御開帳は住職一代限りとのことでした。

釈迦山百済寺は、飛鳥時代、推古14年(606)に聖徳太子の勅願によって開かれた近江最古の仏教寺院。後に天台宗となります。長い歴史の中で、幾度か戦乱や厄災により本堂は度々焼失したそうです。

百済寺はお庭も見事です。
鯉にエサをあげれますが、沢山集まってくるので最初は驚きました。

さて、秘仏の十一面観世音菩薩像ですが、お寺のHPにはこうありました。

昔、聖徳太子が、八日市の太郎坊山の麓に宿をとられた時、毎夕方に東の山中に瑞光(妙光)をご覧になられた。
不思議に思われた太子が翌朝、山中に分け入られると光湧の場所には幹の上半分が切り取られた大木が立っていた。
この大木の周りには、たくさんの山猿が果物を供えて礼拝している。
太子はその光景を見られて、この杉の大樹こそ聖木であると感ぜられ、この大木を生えたまま、観世音菩薩像を作り上げるよう指示され、第一刀を入刀された。
この観世音は根の付いた大樹であることから「植木観音」と呼ばれ、上半分の幹は百済の龍雲寺で東向きに安置された「十一面観音」となり、西向きの「植木観音」が相向き合った「同木二体の観音さま」となりました。
まず興味深いなと思えた個所は、「山に瑞光があり、その場所へ行くと上半分が切り取られた杉の大木があった」とその大木を「猿が拝んでいた」というものです。既に最初の件で、尋常ではない霊木という事が分かります。神が宿っている木なのでしょう。
比叡山を守護している神社に日吉大社があります。日吉大社の神様の御眷属が猿の神様です。そう考えると、この場合の猿は野生の其れではなく神猿(まさる)という意味も出てくるかも。
そして霊木を見つけた聖徳太子は、「この大木を生えたまま、観世音菩薩像を作り上げるよう指示され、第一刀を入刀された」とあります。ここも興味深い記述です。木を切ってから仏像を彫るのではなく、生えた状態で仏像を彫ったのです。一番最初の状態は、仏像が地面に繋がったままで御堂が建ってたのかもしれません。
「この観世音は根の付いた大樹であることから『植木観音』と呼ばれた」とのこと。妻は寺社参拝時、御朱印帳を持ち歩いています。百済寺の御朱印を見せて貰ったら「植木観音」とありましたので、なんだこれはと思いましたが、そういうことでした。
実際の十一面観世音像の御姿は異形です。まっすぐの体躯、突き出た顔、太く長い腕。時代は奈良時代で一木作り。比べれば違うのでしょうが、どこか昔お参りした甚目寺観音の秘仏と似ているところがありました。どちらも異形の仏像です。像高は3.2メートルとあります(これ多分蓮華台も含めてだと思う)。
このブログを纏めるにあたり、朝日新聞の記事がありました。以下新聞記事より抜粋。
奈良時代以前の仏像は、仏教を伝えた中国の影響で銅造や塑造(そぞう)(粘土)が多い。木造は平安時代以降に盛んに造られるが、それ以前のものは飛鳥時代の法隆寺・百済(くだら)観音(国宝)など奈良が中心地だ。その後いったん廃れ、文化庁によると奈良時代の現存例は20~30体ほどしかないという。
百済寺の観音像は滋賀県で最古の木造仏とみられる。高さは、同時代の木造仏では安祥寺(あんしょうじ)(京都市山科区)の十一面観音立像(2・52メートル)に次ぎ最大級だ。
像の表面には、漆で接着した当初の金箔(きんぱく)が残り、保存状態が良い。一方で長身ながらも頭部が小さい特異な姿をし、正面の彫り具合は浅く、立体感が少ない。
こうした特徴から、造ったのは仏師ではなく、半専門的に仏像を造った僧侶(造仏僧)などとみられる。
なるほど、確かに都の腕の良い仏師というより、どこか素人っぽいところはあります。お坊さんが彫ったのかも。でもそれも含めてこの仏像の魅力になっていると思います。記事を読んで「奈良時代以前の木彫像と言うのは全国でも20~30体ほどしかない」というのも言われてみて「あっ、そうか」でした。確かに少ないです。
大きな十一面観音をお参りして、気になったのは足元が見えなかったことです。しかし、この朝日新聞の記事は全体像の写真入りだったので有難かったです。

ほんとに下まで真っすぐです。木そのものが観音になったかのよう。寺の縁起には書かれていなかったことが新聞記事で分かりました。それは・・・
「杉の大木の上半分が百済(くだら)(朝鮮半島の一国)の寺の仏像用に運び出されたことを知った太子が、根がついたままの下半分の木に観音像を刻んだという伝承だ。1573年に織田信長の焼き打ちに遭い、運んで逃げる際に台座が切断された」

・・・というものです。当初は仏像の蓮花台が根っこになっていたというのです。その姿を想像すると、完全に杉の霊木から仏が顕現された表現です。寺伝の通り、杉の霊木ありきの十一面観世音菩薩像です。
本堂付近にあった看板には、信長焼討の前日に難を逃れたこと、本堂から8キロ離れた場所へ僧侶たちが非難させたことなどが書いてあります。大きい仏像ですし、山の中なので移動するだけでも大変そうです。
昔の人の英断と行動力のお陰で、今こうして尊い御姿がお参り出来る訳です。誠に有難いことです。しかし、よく焼討の前日に避難できたなと思いました。それも含めて観音様の霊力なのでしょう。凄い話です。
紅葉屋呉服店はこちらまで
百済寺の秘仏、十一面観世音菩薩像が御開帳されたからです。
私は昔、父と二人で参拝に行きました。今回は初めて訪れる妻と娘と一緒です。前回の御開帳は湖東三山と呼ばれる三か所のお寺、百済寺、西明寺、金剛輪寺が何かの記念で一斉開帳されました。今回は聖徳太子千四百年御聖忌で御開帳されたようです。
こういう何かの記念ではないかぎり、原則御開帳は住職一代限りとのことでした。

釈迦山百済寺は、飛鳥時代、推古14年(606)に聖徳太子の勅願によって開かれた近江最古の仏教寺院。後に天台宗となります。長い歴史の中で、幾度か戦乱や厄災により本堂は度々焼失したそうです。

百済寺はお庭も見事です。
鯉にエサをあげれますが、沢山集まってくるので最初は驚きました。

さて、秘仏の十一面観世音菩薩像ですが、お寺のHPにはこうありました。

昔、聖徳太子が、八日市の太郎坊山の麓に宿をとられた時、毎夕方に東の山中に瑞光(妙光)をご覧になられた。
不思議に思われた太子が翌朝、山中に分け入られると光湧の場所には幹の上半分が切り取られた大木が立っていた。
この大木の周りには、たくさんの山猿が果物を供えて礼拝している。
太子はその光景を見られて、この杉の大樹こそ聖木であると感ぜられ、この大木を生えたまま、観世音菩薩像を作り上げるよう指示され、第一刀を入刀された。
この観世音は根の付いた大樹であることから「植木観音」と呼ばれ、上半分の幹は百済の龍雲寺で東向きに安置された「十一面観音」となり、西向きの「植木観音」が相向き合った「同木二体の観音さま」となりました。
まず興味深いなと思えた個所は、「山に瑞光があり、その場所へ行くと上半分が切り取られた杉の大木があった」とその大木を「猿が拝んでいた」というものです。既に最初の件で、尋常ではない霊木という事が分かります。神が宿っている木なのでしょう。
比叡山を守護している神社に日吉大社があります。日吉大社の神様の御眷属が猿の神様です。そう考えると、この場合の猿は野生の其れではなく神猿(まさる)という意味も出てくるかも。
そして霊木を見つけた聖徳太子は、「この大木を生えたまま、観世音菩薩像を作り上げるよう指示され、第一刀を入刀された」とあります。ここも興味深い記述です。木を切ってから仏像を彫るのではなく、生えた状態で仏像を彫ったのです。一番最初の状態は、仏像が地面に繋がったままで御堂が建ってたのかもしれません。
「この観世音は根の付いた大樹であることから『植木観音』と呼ばれた」とのこと。妻は寺社参拝時、御朱印帳を持ち歩いています。百済寺の御朱印を見せて貰ったら「植木観音」とありましたので、なんだこれはと思いましたが、そういうことでした。
実際の十一面観世音像の御姿は異形です。まっすぐの体躯、突き出た顔、太く長い腕。時代は奈良時代で一木作り。比べれば違うのでしょうが、どこか昔お参りした甚目寺観音の秘仏と似ているところがありました。どちらも異形の仏像です。像高は3.2メートルとあります(これ多分蓮華台も含めてだと思う)。
このブログを纏めるにあたり、朝日新聞の記事がありました。以下新聞記事より抜粋。
奈良時代以前の仏像は、仏教を伝えた中国の影響で銅造や塑造(そぞう)(粘土)が多い。木造は平安時代以降に盛んに造られるが、それ以前のものは飛鳥時代の法隆寺・百済(くだら)観音(国宝)など奈良が中心地だ。その後いったん廃れ、文化庁によると奈良時代の現存例は20~30体ほどしかないという。
百済寺の観音像は滋賀県で最古の木造仏とみられる。高さは、同時代の木造仏では安祥寺(あんしょうじ)(京都市山科区)の十一面観音立像(2・52メートル)に次ぎ最大級だ。
像の表面には、漆で接着した当初の金箔(きんぱく)が残り、保存状態が良い。一方で長身ながらも頭部が小さい特異な姿をし、正面の彫り具合は浅く、立体感が少ない。
こうした特徴から、造ったのは仏師ではなく、半専門的に仏像を造った僧侶(造仏僧)などとみられる。
なるほど、確かに都の腕の良い仏師というより、どこか素人っぽいところはあります。お坊さんが彫ったのかも。でもそれも含めてこの仏像の魅力になっていると思います。記事を読んで「奈良時代以前の木彫像と言うのは全国でも20~30体ほどしかない」というのも言われてみて「あっ、そうか」でした。確かに少ないです。
大きな十一面観音をお参りして、気になったのは足元が見えなかったことです。しかし、この朝日新聞の記事は全体像の写真入りだったので有難かったです。

ほんとに下まで真っすぐです。木そのものが観音になったかのよう。寺の縁起には書かれていなかったことが新聞記事で分かりました。それは・・・
「杉の大木の上半分が百済(くだら)(朝鮮半島の一国)の寺の仏像用に運び出されたことを知った太子が、根がついたままの下半分の木に観音像を刻んだという伝承だ。1573年に織田信長の焼き打ちに遭い、運んで逃げる際に台座が切断された」

・・・というものです。当初は仏像の蓮花台が根っこになっていたというのです。その姿を想像すると、完全に杉の霊木から仏が顕現された表現です。寺伝の通り、杉の霊木ありきの十一面観世音菩薩像です。
本堂付近にあった看板には、信長焼討の前日に難を逃れたこと、本堂から8キロ離れた場所へ僧侶たちが非難させたことなどが書いてあります。大きい仏像ですし、山の中なので移動するだけでも大変そうです。
昔の人の英断と行動力のお陰で、今こうして尊い御姿がお参り出来る訳です。誠に有難いことです。しかし、よく焼討の前日に避難できたなと思いました。それも含めて観音様の霊力なのでしょう。凄い話です。
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