霊符の「霊」とは神霊、あるいは霊妙という意味があり、「符」は竹冠がついていることから分かるように、元々は「竹製の割符」のことを言いました。
古代中国の人々は記号を記した竹片を割って半分ずつ持ち、事があるとその半片を合わせ、お互いが約束を交わした印としました。
「史記」によれば、古くは戦国時代(紀元前403年~前221年)に診陵君という人物が、虎符(兵符)を使って趙を救ったという話があります。この虎符というのは、虎の形に作った銅製の割符で、王とその配下の将軍が半分ずつ持ち、兵を発するにあたり、それが偽りの命令ではないことを確認するためのものでした。
前漢(紀元前202年~紀元後8年)以前の符には、符薬、符信、竹使符、銅使符などと呼ばれるものがありました。これらは単に君臣間において、その約束事を保証する一種の印に過ぎず、霊符としての働きはもっていませんでした。
いわゆる現世利益を目的とした霊符の最古の例は、後漢(25年~220年)時代の墓から発見されました。それは陝西省(せんせいしょう)戸県の墓から出土した陶瓶に朱書された霊符で「陽嘉二年八月己巳朔」と書かれています。陽嘉二年は西暦133年です。鎮墓符と考えられていますが、用途は不明です。
また江蘇州高郵県の墓から出土した木簡にも「急如律令」などの語とともに霊符が記されています。その他にも年代は記されていませんが、多数の霊符が洛陽、定州、高ゆうなどの後漢の墓から出土しています。
日本ですと平城京の遺跡から急々如律令と書かれた木簡が出ていますが、何らかの呪(まじな)いかと思われます。
霊符の種類は大変多く、財運招来、開運招福、厄災消除、健康長命、家内安泰、恋愛成就、破魔破邪等々多岐に亘ります。

参考文献 学研 霊符全書 大宮司朗著
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古代中国の人々は記号を記した竹片を割って半分ずつ持ち、事があるとその半片を合わせ、お互いが約束を交わした印としました。
「史記」によれば、古くは戦国時代(紀元前403年~前221年)に診陵君という人物が、虎符(兵符)を使って趙を救ったという話があります。この虎符というのは、虎の形に作った銅製の割符で、王とその配下の将軍が半分ずつ持ち、兵を発するにあたり、それが偽りの命令ではないことを確認するためのものでした。
前漢(紀元前202年~紀元後8年)以前の符には、符薬、符信、竹使符、銅使符などと呼ばれるものがありました。これらは単に君臣間において、その約束事を保証する一種の印に過ぎず、霊符としての働きはもっていませんでした。
いわゆる現世利益を目的とした霊符の最古の例は、後漢(25年~220年)時代の墓から発見されました。それは陝西省(せんせいしょう)戸県の墓から出土した陶瓶に朱書された霊符で「陽嘉二年八月己巳朔」と書かれています。陽嘉二年は西暦133年です。鎮墓符と考えられていますが、用途は不明です。
また江蘇州高郵県の墓から出土した木簡にも「急如律令」などの語とともに霊符が記されています。その他にも年代は記されていませんが、多数の霊符が洛陽、定州、高ゆうなどの後漢の墓から出土しています。
日本ですと平城京の遺跡から急々如律令と書かれた木簡が出ていますが、何らかの呪(まじな)いかと思われます。
霊符の種類は大変多く、財運招来、開運招福、厄災消除、健康長命、家内安泰、恋愛成就、破魔破邪等々多岐に亘ります。

参考文献 学研 霊符全書 大宮司朗著
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