前回毘沙門天の御利益の話がありましたので、今回は神仏の御利益の話を少し拡げてみました。あくまで私の感覚です。
神仏と一緒に生活して40数年になりますが、(途中家を離れていましたが)最近ようやくですがお参りを続けることで学びが増えてまいりました。
寺や神社にお参りに出かける人で、お願い事をする人、しない人はまちまちかと思います。中には「すがった所で何もない。人生は自分の力だけで切り開くものだ」と言う人もいるでしょう。
また、願い事をする人の中にも、「やってはいるけどそれほど期待せずにお参りする」と言う人もいるかと。
あるいは、「願い事をするのは失礼だから、感謝だけにしている。」と言う人もいます。
どれもよく分かります。私自身もこのように思ったことは過去を振り返るとありました。

その上で、ほぼ毎日お参りしたり、願ったりしたりして分かってきましたが、神仏の御利益はあります。もうこれはずっと一緒に生活していて確信しましたが、必ずあります。
しかし、それを頂くのに必須なのは(いろいろとありますが)、手を合わせる神仏を信じないと繋がるものも繋がらないということです。
神仏は信じないと御利益を上げないというケチ臭いことを言ってる訳ではないです。
言い換えれば、信じると言うことは、まずもって素直になること。素直になるには我が邪魔する、我が邪魔すると本来誰でも頂けるものも頂けないということです。
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神仏と一緒に生活して40数年になりますが、(途中家を離れていましたが)最近ようやくですがお参りを続けることで学びが増えてまいりました。
寺や神社にお参りに出かける人で、お願い事をする人、しない人はまちまちかと思います。中には「すがった所で何もない。人生は自分の力だけで切り開くものだ」と言う人もいるでしょう。
また、願い事をする人の中にも、「やってはいるけどそれほど期待せずにお参りする」と言う人もいるかと。
あるいは、「願い事をするのは失礼だから、感謝だけにしている。」と言う人もいます。
どれもよく分かります。私自身もこのように思ったことは過去を振り返るとありました。

その上で、ほぼ毎日お参りしたり、願ったりしたりして分かってきましたが、神仏の御利益はあります。もうこれはずっと一緒に生活していて確信しましたが、必ずあります。
しかし、それを頂くのに必須なのは(いろいろとありますが)、手を合わせる神仏を信じないと繋がるものも繋がらないということです。
神仏は信じないと御利益を上げないというケチ臭いことを言ってる訳ではないです。
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