○ 地蔵寺年代記
開基 源明厚淳尼和尚 安永五年二月十九日遷化 (一七七六年)
開基厚淳尼は濃洲の人で、(森太兵衛家二代目の人と伝ふ)深く仏教を渇仰せられ、出家得度の後諸国の寺社を巡拝、特に四国八十八箇所霊場に巡礼されたこと八十八回に及びました。厚淳尼の所有地六畝八歩の現在の所有地に、津島の興福寺から一堂宇を寛保元年七月二十六日(一七四一年)に移築いたし、尼の護持仏「地蔵菩薩」を本尊に安置され、長栄寺八世、魯堂詳伯大和尚を請拝されて、御開山となされました。
※詳白大和尚は宝永七年(一七一〇年)八月十一日、長栄寺に住職。明和六年(一七六九年)二月十七日寂
二世 戒圓順教尼和尚 文化十二年八月廿五日遷化
三世 心空物元尼和尚 寛政九年九月十二日遷化
四世 鶴巖齢寿尼和尚 天保十一年二月十九日遷化
五世 保錦寿教尼和尚 文久元年九月八日遷化
六世 戒心玉圓尼和尚 明治十七年八月廿一日遷化
七世 祥山芳瑞尼和尚 大正十二年十月廿九日遷化
八世 即応戒心尼和尚 明治四十年八月廿一日遷化(芳瑞尼の在世中に遷化なさる)
当寺は草創の時代から、志水甲斐守並びに石河主文氏の帰依により、年々甚大な浄財を寄進戴いていましたが、明治維新の廃藩にあたり、浄財が無くなるのみならず、地蔵堂の土地所有権まで召上げられ貧窮の極みに達しました。八世即応尼は、七世芳瑞師尼とはかり、明治丗六年総代諸氏の御協力のもと地蔵堂保存会を設立。毎月の積立金を基礎として十方檀邦の浄財を得て、旧寺地の内二百五十有余坪を買い戻し、併せて諸堂の大修復をなし面目を一新せられました。
九世 賢瑞辨英尼和尚 昭和廿六年二月十日遷化
九世賢瑞辨英尼堂守となられて数年後の明治四十五年一月、近隣の火災に類焼の難に会い伽藍の大半は焼失。誠に不幸の極みでした。
火災保険の下付けで残余の堂を修復なされたとはいえ、堂宇の面目保たれず遺憾の念に奮起なされ、総代森太兵衛、宮田久兵衛、大岩米次郎、澤田濱次郎、並びに建築委員、森田清助諸氏の御協力を得て十万信徒の喜拾に預かり、本堂(間口七間、奥行五間半)庫裡(間口三間、奥行七間余)の大殿堂を新築落成。
大正三年秋、本堂再建、入佛供養大法會の盛典を修行致されました。爾来、近隣の大堂庵として宗風を宣揚。橋本恵光老宗師の眼蔵会等、信徒の修行道場として日夜精進されました。
第二次世界大戦勃発いたすに及び、名古屋市の大半は空襲により一大焼野原と化し、当庵も不幸昭和廿年五月十四日午前九時焼夷弾中に全堂焼失。見る影もなく辨英尼の辛苦も一朝の露となりました。
戦い収まるや急遽燃土を盛り、ささやかなる仮堂を建てやうやく御本尊延命地蔵を奉安。守護神白旗大明神の鎮守堂も信徒方の一大労力に預かり新築落成され信仰をあおいでいられます。
十世 戒心宗賢尼和尚
昭和廿六年四月五日、師尼の遺意に従い現、宗賢尼和尚十世として住職に任ぜられ、いよいよ諸堂再建の熱意を傾注いたし今日に至ります。(現在十世 戒心宗賢尼和尚は遷化され、11代目となります。地蔵寺は初代から10代目まで尼様がご住職をなされていました。)
五月そら けふも揺れるは 白旗の ハタ、ハタ、ハタと 心躍るや
詠み人しらず 合掌

※参考文献
地蔵寺縁起書
地蔵寺世代記 鵜飼宗賢
八百万の神々 戸部民夫著 新紀元社
日本の神々 多彩な民族神たち 戸部民夫著 新紀元社
愛知の神社 愛知県郷土資料刊行会
深草稲荷 深草稲荷保勝会
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開基 源明厚淳尼和尚 安永五年二月十九日遷化 (一七七六年)
開基厚淳尼は濃洲の人で、(森太兵衛家二代目の人と伝ふ)深く仏教を渇仰せられ、出家得度の後諸国の寺社を巡拝、特に四国八十八箇所霊場に巡礼されたこと八十八回に及びました。厚淳尼の所有地六畝八歩の現在の所有地に、津島の興福寺から一堂宇を寛保元年七月二十六日(一七四一年)に移築いたし、尼の護持仏「地蔵菩薩」を本尊に安置され、長栄寺八世、魯堂詳伯大和尚を請拝されて、御開山となされました。
※詳白大和尚は宝永七年(一七一〇年)八月十一日、長栄寺に住職。明和六年(一七六九年)二月十七日寂
二世 戒圓順教尼和尚 文化十二年八月廿五日遷化
三世 心空物元尼和尚 寛政九年九月十二日遷化
四世 鶴巖齢寿尼和尚 天保十一年二月十九日遷化
五世 保錦寿教尼和尚 文久元年九月八日遷化
六世 戒心玉圓尼和尚 明治十七年八月廿一日遷化
七世 祥山芳瑞尼和尚 大正十二年十月廿九日遷化
八世 即応戒心尼和尚 明治四十年八月廿一日遷化(芳瑞尼の在世中に遷化なさる)
当寺は草創の時代から、志水甲斐守並びに石河主文氏の帰依により、年々甚大な浄財を寄進戴いていましたが、明治維新の廃藩にあたり、浄財が無くなるのみならず、地蔵堂の土地所有権まで召上げられ貧窮の極みに達しました。八世即応尼は、七世芳瑞師尼とはかり、明治丗六年総代諸氏の御協力のもと地蔵堂保存会を設立。毎月の積立金を基礎として十方檀邦の浄財を得て、旧寺地の内二百五十有余坪を買い戻し、併せて諸堂の大修復をなし面目を一新せられました。
九世 賢瑞辨英尼和尚 昭和廿六年二月十日遷化
九世賢瑞辨英尼堂守となられて数年後の明治四十五年一月、近隣の火災に類焼の難に会い伽藍の大半は焼失。誠に不幸の極みでした。
火災保険の下付けで残余の堂を修復なされたとはいえ、堂宇の面目保たれず遺憾の念に奮起なされ、総代森太兵衛、宮田久兵衛、大岩米次郎、澤田濱次郎、並びに建築委員、森田清助諸氏の御協力を得て十万信徒の喜拾に預かり、本堂(間口七間、奥行五間半)庫裡(間口三間、奥行七間余)の大殿堂を新築落成。
大正三年秋、本堂再建、入佛供養大法會の盛典を修行致されました。爾来、近隣の大堂庵として宗風を宣揚。橋本恵光老宗師の眼蔵会等、信徒の修行道場として日夜精進されました。
第二次世界大戦勃発いたすに及び、名古屋市の大半は空襲により一大焼野原と化し、当庵も不幸昭和廿年五月十四日午前九時焼夷弾中に全堂焼失。見る影もなく辨英尼の辛苦も一朝の露となりました。
戦い収まるや急遽燃土を盛り、ささやかなる仮堂を建てやうやく御本尊延命地蔵を奉安。守護神白旗大明神の鎮守堂も信徒方の一大労力に預かり新築落成され信仰をあおいでいられます。
十世 戒心宗賢尼和尚
昭和廿六年四月五日、師尼の遺意に従い現、宗賢尼和尚十世として住職に任ぜられ、いよいよ諸堂再建の熱意を傾注いたし今日に至ります。(現在十世 戒心宗賢尼和尚は遷化され、11代目となります。地蔵寺は初代から10代目まで尼様がご住職をなされていました。)
五月そら けふも揺れるは 白旗の ハタ、ハタ、ハタと 心躍るや
詠み人しらず 合掌

※参考文献
地蔵寺縁起書
地蔵寺世代記 鵜飼宗賢
八百万の神々 戸部民夫著 新紀元社
日本の神々 多彩な民族神たち 戸部民夫著 新紀元社
愛知の神社 愛知県郷土資料刊行会
深草稲荷 深草稲荷保勝会
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