◎父と地蔵寺釈厄外伝記について
これも長くなるので簡単に解説します。よろしければご一読下さいませ。
父は幼少の頃、母、祖母と三人で豊川市にある三明寺という千手観音と弁才天を祀るお寺へ参拝に行きました。
その時、境内にあった稲荷神を祀る祠の所で、二柱の稲荷がじっとこちらを見ているのに気づきました。同行していた母親と祖母には見えません。
その時、首元に巻いていた狐のショール目がけて稲荷が二柱すっと入ったそうです。狐のショールの尻尾が一瞬動いたそうです。
元々父は体が弱く、小学校も2年間は休んだそう。部屋に閉じこもっていることが多かった子供でした。その頃からです。父が稲荷の言葉を文字にし始めたのは。稲荷が言うにはそう言った才能を「お筆先」というそうです。
内容は様々でしたが、古代の神々の話なども出ていたそうです。お筆先の能力は稲荷が憑いた幼少期から高校生頃まで続き、部屋にびっしり書き込まれた紙(原稿用紙や広告の裏)が入った段ボール箱が何箱もありましたが、高校卒業後、仕事を覚える為に豊橋市のとある呉服店に住み込みで働きに行った時期がありましたが、その間に祖父が捨ててしまいました。あれば凄いお宝になったと思うので、大変残念です。
それから時は流れ、地蔵寺の縁起書を書くことになった訳ですが、縁起書を書き始めた頃に、強烈に脳裏に浮かんだ映像がありました。尼僧が稲荷を背負い、幟を杖代わりにして歩いている映像です。

そのイメージを父が絵にしたのがこちらの画像です。
先代のご住職から依頼を受けて数日後のことです。次から次へと言葉が紡がれます。聞いたことのない言葉も沢山出て参ります。父が言うには稲荷の言葉は人間の言葉とは全然違うので、それを訳して(という表現が合ってるのかは疑問)出てきます。今までの父のお筆先により紡がれる言葉は、幼少の頃から縁のあった稲荷神と、我が家で祀るお稲荷さんの言葉が出て参りましたが、地蔵寺縁起書の場合は、どうも地蔵寺の守護神、白旗稲荷のようでした。
正確に言えば、白旗稲荷は寺の守護神がお仕事なので、その場から動くことはありません。白旗稲荷が父に縁のあった稲荷に伝言しているようでした。
そして物語を書き進むうち判明しましたが、父が幼少時に憑いた稲荷二柱は、白旗稲荷から分かれた稲荷でありました。名前は狐童女稲荷(きつねめいなり)と財賀稲荷です。
縁起書は割とすんなり終わるだろうというのが、書き始めた父の腹積もりでしたが、本人の予想を裏切る膨大な量が出てきました。
「このまま書き進んでいいものか?」
と当時のご就職に相談に行きました。
実は相談がとご住職に話を切り出し、まず最初に玉圓と白旗稲荷の絵を見せました(上の画像)。
それを見たご住職、腰を抜かさんばかりに驚き、こう言いました。
「!?どうしてこの絵を知っているのですか? 空襲で燃えてしまいましたが、戦前はこの絵と全く同じ構図の掛軸がありました。寺宝として大切にし檀家にも見せたことが無い掛軸でした・・・。」
その場に居た私も、ご住職の話を聞いて驚きました。
「ではこれはどう思われますか?」
父は自分の書いた縁起書の中から、すらすら出てきた和歌を数首見せました。玉圓と白旗に因んだ歌です。
それをじっと見たご住職、
「それも覚えがあります。玉圓尼は大変歌の才能のある方で、戦前は玉圓尼が遺した和歌が沢山記された本が何冊もありました。今ではそれも焼失しましたが・・・。紅葉屋さん、これはもう書かされている文章ですから、くれぐれもお体に気を付けて書いて下さい。」
と言われたのを記憶しています。
次回は地蔵寺縁起書から和歌の部分を抜粋して御紹介致します。
続く~
これも長くなるので簡単に解説します。よろしければご一読下さいませ。
父は幼少の頃、母、祖母と三人で豊川市にある三明寺という千手観音と弁才天を祀るお寺へ参拝に行きました。
その時、境内にあった稲荷神を祀る祠の所で、二柱の稲荷がじっとこちらを見ているのに気づきました。同行していた母親と祖母には見えません。
その時、首元に巻いていた狐のショール目がけて稲荷が二柱すっと入ったそうです。狐のショールの尻尾が一瞬動いたそうです。
元々父は体が弱く、小学校も2年間は休んだそう。部屋に閉じこもっていることが多かった子供でした。その頃からです。父が稲荷の言葉を文字にし始めたのは。稲荷が言うにはそう言った才能を「お筆先」というそうです。
内容は様々でしたが、古代の神々の話なども出ていたそうです。お筆先の能力は稲荷が憑いた幼少期から高校生頃まで続き、部屋にびっしり書き込まれた紙(原稿用紙や広告の裏)が入った段ボール箱が何箱もありましたが、高校卒業後、仕事を覚える為に豊橋市のとある呉服店に住み込みで働きに行った時期がありましたが、その間に祖父が捨ててしまいました。あれば凄いお宝になったと思うので、大変残念です。
それから時は流れ、地蔵寺の縁起書を書くことになった訳ですが、縁起書を書き始めた頃に、強烈に脳裏に浮かんだ映像がありました。尼僧が稲荷を背負い、幟を杖代わりにして歩いている映像です。

そのイメージを父が絵にしたのがこちらの画像です。
先代のご住職から依頼を受けて数日後のことです。次から次へと言葉が紡がれます。聞いたことのない言葉も沢山出て参ります。父が言うには稲荷の言葉は人間の言葉とは全然違うので、それを訳して(という表現が合ってるのかは疑問)出てきます。今までの父のお筆先により紡がれる言葉は、幼少の頃から縁のあった稲荷神と、我が家で祀るお稲荷さんの言葉が出て参りましたが、地蔵寺縁起書の場合は、どうも地蔵寺の守護神、白旗稲荷のようでした。
正確に言えば、白旗稲荷は寺の守護神がお仕事なので、その場から動くことはありません。白旗稲荷が父に縁のあった稲荷に伝言しているようでした。
そして物語を書き進むうち判明しましたが、父が幼少時に憑いた稲荷二柱は、白旗稲荷から分かれた稲荷でありました。名前は狐童女稲荷(きつねめいなり)と財賀稲荷です。
縁起書は割とすんなり終わるだろうというのが、書き始めた父の腹積もりでしたが、本人の予想を裏切る膨大な量が出てきました。
「このまま書き進んでいいものか?」
と当時のご就職に相談に行きました。
実は相談がとご住職に話を切り出し、まず最初に玉圓と白旗稲荷の絵を見せました(上の画像)。
それを見たご住職、腰を抜かさんばかりに驚き、こう言いました。
「!?どうしてこの絵を知っているのですか? 空襲で燃えてしまいましたが、戦前はこの絵と全く同じ構図の掛軸がありました。寺宝として大切にし檀家にも見せたことが無い掛軸でした・・・。」
その場に居た私も、ご住職の話を聞いて驚きました。
「ではこれはどう思われますか?」
父は自分の書いた縁起書の中から、すらすら出てきた和歌を数首見せました。玉圓と白旗に因んだ歌です。
それをじっと見たご住職、
「それも覚えがあります。玉圓尼は大変歌の才能のある方で、戦前は玉圓尼が遺した和歌が沢山記された本が何冊もありました。今ではそれも焼失しましたが・・・。紅葉屋さん、これはもう書かされている文章ですから、くれぐれもお体に気を付けて書いて下さい。」
と言われたのを記憶しています。
次回は地蔵寺縁起書から和歌の部分を抜粋して御紹介致します。
続く~
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