◎玉圓尼和尚と白旗稲荷について
地蔵寺釈厄外伝記に登場する主役が戒心玉圓尼和尚と、白旗稲荷大明神です。
現在、地蔵寺の守護神をしていらっしゃる白旗稲荷大明神。
元々、地蔵寺が創建されてからしばらくはこのお稲荷さんはいませんでした。玉圓尼和尚が地蔵寺の6代目を継いだ時に、白旗稲荷も祀られるようになりました。
白旗稲荷は伏見稲荷から分かれた稲荷大明神です。明神とは神を仏教側から呼ぶ尊称です。伏見稲荷は、古代豪族の秦(はた)氏が信仰していた神様です。現在の伏見稲荷は完全に神道稲荷になってしまいましたが、明治の神仏分離、廃仏毀釈運動があった前は、密教系の寺院が中にあったのではと思います。
京都には秦氏が建てた寺院、広隆寺という京都最古の仏像などを多数祀る寺院があることから、奈良時代には秦氏は仏教に傾倒していたと思われます。
白旗稲荷大明神は、幕末~明治に生きた玉圓尼和尚を守護していた稲荷神なので、何時頃分魂したのかは定かではないですが、まだ伏見稲荷が仏教系の稲荷神、荼枳尼天(だきにてん)だった頃に分かれた稲荷でしょう。
因みに、元々仏教系の稲荷神を本尊で祀っていた寺が、ある時人間の勝手な事情で仏教を止めて神道に変わった場合、祀り方もガラッと変わる訳ですが、この場合仏教系の稲荷神は追い出され、神道系の稲荷神に変わるようです。
話を戻しますが、玉圓尼の名の一文字、「玉」は稲荷が持っている「宝珠」からとったと記述があるので、玉圓尼が僧侶になって間もなく、あるいはなる前か、人生のかなり早い段階で玉圓尼は白旗稲荷とご縁があったのではと推測します。そして白旗稲荷と会話ができる、意思の疎通が出来ていたようです。玉圓ありきの白旗稲荷であり、白旗稲荷ありきの玉圓尼という間柄でした。
玉圓尼がどこの出身かは分かりません。ただ分かっているのは、大和の国のとある村で尼庵の住職をしていました。ちゃんとした寺ではなく粗末な家だったようです。玉圓尼は白旗稲荷大明神の加護を受け、種々の奇特(特別にすぐれていること。また、行いが感心なこと。)あり、沢山の人々から信仰を受けていました。
ある時霊夢のお告げがあり、その村を後にして二度と帰らなかったようです。旅立ちの日は引きとめる村人を説得し、尼庵の床下に白い石があること、それには白旗稲荷大明神の眷属が宿っているので、それを御神体にして祀る様に告げ旅に出ました。
その後は全国を修行で歩いていた遊行僧となりました。布教をしたり、寺の無い村では村人に頼まれて供養をしたり、善光寺への代参を頼まれればそのようにしたり、四国や知多の霊場をまわっていたようです。

玉圓尼は大変優れた才能を持っていた女性の僧侶です。江戸時代にあった全ての仏教宗派の経典に通じておりました。修行の旅の途中立ち寄る村によっては、先祖供養を頼まれることもありましたが、どんな宗派でも対応出来たそうです。
また加持祈祷に長け、病や災難の原因を突き止め解決したり、易学にも精通しておりました。その人柄、驚異的な能力を持っていたことから、何時の頃からか「地蔵菩薩の生まれ変わり」と呼ばれていたそうです。私が思うに、修験者のようなお坊様だったのでしょう。
玉圓尼は全国を修行や布教で歩いていた訳ですが、ある時、玉圓尼と白旗稲荷が現愛知県の半田市のとある村に立ち寄った際、たまたま親類の法事の為に半田に来ていた地蔵寺5代目住職、「寿教尼和尚」と出会いました。
寿教尼和尚は、今目の前にしている玉圓尼和尚がただものではないと見抜き、ぜひ自分の後を継いで欲しいと願い出ました。それを聞いた玉圓尼はその願いを聞きとげ、地蔵寺の6代目の住職となった訳です。
ただ、その時、玉圓尼が初めて地蔵寺の門を潜ろうとした際に、想定外の事態が起こりました。玉圓尼と白旗稲荷が思ってもみないことが起こったのです。
続く~
地蔵寺釈厄外伝記に登場する主役が戒心玉圓尼和尚と、白旗稲荷大明神です。
現在、地蔵寺の守護神をしていらっしゃる白旗稲荷大明神。
元々、地蔵寺が創建されてからしばらくはこのお稲荷さんはいませんでした。玉圓尼和尚が地蔵寺の6代目を継いだ時に、白旗稲荷も祀られるようになりました。
白旗稲荷は伏見稲荷から分かれた稲荷大明神です。明神とは神を仏教側から呼ぶ尊称です。伏見稲荷は、古代豪族の秦(はた)氏が信仰していた神様です。現在の伏見稲荷は完全に神道稲荷になってしまいましたが、明治の神仏分離、廃仏毀釈運動があった前は、密教系の寺院が中にあったのではと思います。
京都には秦氏が建てた寺院、広隆寺という京都最古の仏像などを多数祀る寺院があることから、奈良時代には秦氏は仏教に傾倒していたと思われます。
白旗稲荷大明神は、幕末~明治に生きた玉圓尼和尚を守護していた稲荷神なので、何時頃分魂したのかは定かではないですが、まだ伏見稲荷が仏教系の稲荷神、荼枳尼天(だきにてん)だった頃に分かれた稲荷でしょう。
因みに、元々仏教系の稲荷神を本尊で祀っていた寺が、ある時人間の勝手な事情で仏教を止めて神道に変わった場合、祀り方もガラッと変わる訳ですが、この場合仏教系の稲荷神は追い出され、神道系の稲荷神に変わるようです。
話を戻しますが、玉圓尼の名の一文字、「玉」は稲荷が持っている「宝珠」からとったと記述があるので、玉圓尼が僧侶になって間もなく、あるいはなる前か、人生のかなり早い段階で玉圓尼は白旗稲荷とご縁があったのではと推測します。そして白旗稲荷と会話ができる、意思の疎通が出来ていたようです。玉圓ありきの白旗稲荷であり、白旗稲荷ありきの玉圓尼という間柄でした。
玉圓尼がどこの出身かは分かりません。ただ分かっているのは、大和の国のとある村で尼庵の住職をしていました。ちゃんとした寺ではなく粗末な家だったようです。玉圓尼は白旗稲荷大明神の加護を受け、種々の奇特(特別にすぐれていること。また、行いが感心なこと。)あり、沢山の人々から信仰を受けていました。
ある時霊夢のお告げがあり、その村を後にして二度と帰らなかったようです。旅立ちの日は引きとめる村人を説得し、尼庵の床下に白い石があること、それには白旗稲荷大明神の眷属が宿っているので、それを御神体にして祀る様に告げ旅に出ました。
その後は全国を修行で歩いていた遊行僧となりました。布教をしたり、寺の無い村では村人に頼まれて供養をしたり、善光寺への代参を頼まれればそのようにしたり、四国や知多の霊場をまわっていたようです。

玉圓尼は大変優れた才能を持っていた女性の僧侶です。江戸時代にあった全ての仏教宗派の経典に通じておりました。修行の旅の途中立ち寄る村によっては、先祖供養を頼まれることもありましたが、どんな宗派でも対応出来たそうです。
また加持祈祷に長け、病や災難の原因を突き止め解決したり、易学にも精通しておりました。その人柄、驚異的な能力を持っていたことから、何時の頃からか「地蔵菩薩の生まれ変わり」と呼ばれていたそうです。私が思うに、修験者のようなお坊様だったのでしょう。
玉圓尼は全国を修行や布教で歩いていた訳ですが、ある時、玉圓尼と白旗稲荷が現愛知県の半田市のとある村に立ち寄った際、たまたま親類の法事の為に半田に来ていた地蔵寺5代目住職、「寿教尼和尚」と出会いました。
寿教尼和尚は、今目の前にしている玉圓尼和尚がただものではないと見抜き、ぜひ自分の後を継いで欲しいと願い出ました。それを聞いた玉圓尼はその願いを聞きとげ、地蔵寺の6代目の住職となった訳です。
ただ、その時、玉圓尼が初めて地蔵寺の門を潜ろうとした際に、想定外の事態が起こりました。玉圓尼と白旗稲荷が思ってもみないことが起こったのです。
続く~
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