時には恵みを、時には災厄を齎すのが日本の神様です。
神様は、向き合った人間の態度、考え方、信仰心によっては、人を守って頂くこともあれば猛威を振るうこともあります。
しかし、仏教の仏様は違います。仏様の場合は救済があるのです。
仏教用語では「慈悲」と言います。慈悲とは仏や菩薩が世の人々に楽しみを与え、苦しみをとりのぞくという意。天台宗では慈母・慈父という言葉で例えました。「慈」を父親の「楽を与える」愛、「悲」を母親の「苦しみをとりのぞく」愛と説くそうです。
この慈悲という概念が神道にはない凄いものです。人間は勿論のこと生きとし生けるもの全てに注がれています。そして仏様の慈悲は、仏に敵対する存在、嫌う存在にも注がれています。
魔神、夜叉、悪鬼までもが仏様の慈悲の力で、仏や人間を守る存在になるのです。
仏教で言えば、大黒天や毘沙門天、鬼子母神などの神様が、元を辿ると魔神とか夜叉にあたります。
日本に仏教が伝来すると、おそらく奈良時代頃には神と仏を習合させる考え方が出来たように思えます。
誰が最初にそういう発想を持ったのかは分かりませんが、これはおそらく、修行を積んだ一部の宗教者だけではなく、ごくごく一般的な凡人でも、神様を普通に、安全にお参りできるように大慈悲の仏様と習合させたのだと思います。
日本の神様は気まぐれです。うまくお付き合いできれば守って頂けることもあるでしょうが、神様から見て気に入らないことがあれば猛威を振るいます。もともと仏様と違い、人間を助ける義務などありません。人間からすれば、一体何が原因で機嫌を損ねるのかはさっぱり分かりません。(原因が分かるとそりゃ怒るよねと思うことは多い)
広辞苑の神の解説にもありましたが、神様の前に立つ時は、畏怖の念が前提でお参りせねばならないのです。神の種類は膨大です。今自分がお参りしている神様は一体どういった性格の神様なのかは誰にも分かりません。特に現代の神社は御祀神が入れ替わってることが多いので尚更です。
神様とのお付き合いは、本来腫れ物に触るように本当に気をつけねばならないのです。そうであるが故に大慈悲の仏様と習合させることで、お参りしやすくしたり、神様の荒ぶる気持ちを抑えてもらったりする訳です。
神と仏を習合させた事例の最も分かりやすい例が霊木仏と呼ばれる仏像です。
日本に伝来した最初の仏像は金銅仏と考えられています。文字通り銅の上に金を被せて出来た仏像です。飛鳥時代~近年でも作られていますが、日本の仏像の場合、圧倒的に多いのは木彫像です。
本来神道の考え方には、神様の姿と云うのは特にありませんでした。しかし、仏教伝来と共に仏像が日本に来ると、神道関係者は衝撃を受けたそうです。異国の神(仏)というものは姿があるのか!と。
木彫の仏像が作られるようになると、その着想からヒントを得て、神社の神様も木彫で作られることになります。それが神像です。
仏様は光輝く存在であるので、金(銅)を用いられて作られた訳ですが、日本では木彫像が主流でした。そして神像も金銅では作られず木を彫って作られました。
これはコストの問題や環境の問題もあるでしょうが、仏像も神像も、造像の際は木でなければならなかったからでしょう。
それは木には神が宿るからです。
霊木仏と呼ばれる仏様にはパターンがあり、仏像が彫られる前の木の状態の時から尋常ではない様子であることが多いです。簡単に言えば祟りまくる木です。言い方を変えれば荒ぶる神が宿っている、あるいは人間の行いにより荒ぶる存在になってしまった神が宿っている御神木です。
一度祟り神となってしまった御神木は、もはや何ともしようがありませんが、唯一解決できるとすれば仏様の姿を彫って開眼し、祭ることです。うまく祀ることに成功すると、今度は途轍もない力、ご利益を齎す有難い仏様となるのです。仏様の大慈悲の力は荒ぶる祟り神でさえも気分よく落ち着いてしまうのです。
平安時代以前の密教像は、ほぼほぼ霊木仏なのではと個人的には思います。強い力の仏像が求められたという一面もあったのでは?と思います。
神社参拝も寺参拝も両方好きな私は、ある時、神社とお寺の違いというのが感覚的にあるなと思いました。お寺はじんわり暖かい雰囲気、神社は冷たい川のようなきりっとした雰囲気です。背筋が伸びる感じです。
これは仏様の慈悲の関係かなと理解しましたが、今年の冬に訪れた那智熊野大社では神社なのに神社ではない、どこか暖かい雰囲気を感じました。
日本の寺社は明治以後、神仏が真っ二つに分けられてしまいましたが、那智熊野大社では表向きは分けられたとはいえ、今でもきちんと神様と仏様が繋がっているのだと思いました。
日本の神仏の関係は双方が喜ぶ、win winの関係ですね。すぐには難しいと思いますが、いつか未来は今よりも神仏習合だった時代に寺も神社も戻れば良いなと思います。
あくまで個人の感想です。おしまい。

※参考文献 現代人のための仏教知識百科 主婦と生活社
紅葉屋呉服店はこちらまで
神様は、向き合った人間の態度、考え方、信仰心によっては、人を守って頂くこともあれば猛威を振るうこともあります。
しかし、仏教の仏様は違います。仏様の場合は救済があるのです。
仏教用語では「慈悲」と言います。慈悲とは仏や菩薩が世の人々に楽しみを与え、苦しみをとりのぞくという意。天台宗では慈母・慈父という言葉で例えました。「慈」を父親の「楽を与える」愛、「悲」を母親の「苦しみをとりのぞく」愛と説くそうです。
この慈悲という概念が神道にはない凄いものです。人間は勿論のこと生きとし生けるもの全てに注がれています。そして仏様の慈悲は、仏に敵対する存在、嫌う存在にも注がれています。
魔神、夜叉、悪鬼までもが仏様の慈悲の力で、仏や人間を守る存在になるのです。
仏教で言えば、大黒天や毘沙門天、鬼子母神などの神様が、元を辿ると魔神とか夜叉にあたります。
日本に仏教が伝来すると、おそらく奈良時代頃には神と仏を習合させる考え方が出来たように思えます。
誰が最初にそういう発想を持ったのかは分かりませんが、これはおそらく、修行を積んだ一部の宗教者だけではなく、ごくごく一般的な凡人でも、神様を普通に、安全にお参りできるように大慈悲の仏様と習合させたのだと思います。
日本の神様は気まぐれです。うまくお付き合いできれば守って頂けることもあるでしょうが、神様から見て気に入らないことがあれば猛威を振るいます。もともと仏様と違い、人間を助ける義務などありません。人間からすれば、一体何が原因で機嫌を損ねるのかはさっぱり分かりません。(原因が分かるとそりゃ怒るよねと思うことは多い)
広辞苑の神の解説にもありましたが、神様の前に立つ時は、畏怖の念が前提でお参りせねばならないのです。神の種類は膨大です。今自分がお参りしている神様は一体どういった性格の神様なのかは誰にも分かりません。特に現代の神社は御祀神が入れ替わってることが多いので尚更です。
神様とのお付き合いは、本来腫れ物に触るように本当に気をつけねばならないのです。そうであるが故に大慈悲の仏様と習合させることで、お参りしやすくしたり、神様の荒ぶる気持ちを抑えてもらったりする訳です。
神と仏を習合させた事例の最も分かりやすい例が霊木仏と呼ばれる仏像です。
日本に伝来した最初の仏像は金銅仏と考えられています。文字通り銅の上に金を被せて出来た仏像です。飛鳥時代~近年でも作られていますが、日本の仏像の場合、圧倒的に多いのは木彫像です。
本来神道の考え方には、神様の姿と云うのは特にありませんでした。しかし、仏教伝来と共に仏像が日本に来ると、神道関係者は衝撃を受けたそうです。異国の神(仏)というものは姿があるのか!と。
木彫の仏像が作られるようになると、その着想からヒントを得て、神社の神様も木彫で作られることになります。それが神像です。
仏様は光輝く存在であるので、金(銅)を用いられて作られた訳ですが、日本では木彫像が主流でした。そして神像も金銅では作られず木を彫って作られました。
これはコストの問題や環境の問題もあるでしょうが、仏像も神像も、造像の際は木でなければならなかったからでしょう。
それは木には神が宿るからです。
霊木仏と呼ばれる仏様にはパターンがあり、仏像が彫られる前の木の状態の時から尋常ではない様子であることが多いです。簡単に言えば祟りまくる木です。言い方を変えれば荒ぶる神が宿っている、あるいは人間の行いにより荒ぶる存在になってしまった神が宿っている御神木です。
一度祟り神となってしまった御神木は、もはや何ともしようがありませんが、唯一解決できるとすれば仏様の姿を彫って開眼し、祭ることです。うまく祀ることに成功すると、今度は途轍もない力、ご利益を齎す有難い仏様となるのです。仏様の大慈悲の力は荒ぶる祟り神でさえも気分よく落ち着いてしまうのです。
平安時代以前の密教像は、ほぼほぼ霊木仏なのではと個人的には思います。強い力の仏像が求められたという一面もあったのでは?と思います。
神社参拝も寺参拝も両方好きな私は、ある時、神社とお寺の違いというのが感覚的にあるなと思いました。お寺はじんわり暖かい雰囲気、神社は冷たい川のようなきりっとした雰囲気です。背筋が伸びる感じです。
これは仏様の慈悲の関係かなと理解しましたが、今年の冬に訪れた那智熊野大社では神社なのに神社ではない、どこか暖かい雰囲気を感じました。
日本の寺社は明治以後、神仏が真っ二つに分けられてしまいましたが、那智熊野大社では表向きは分けられたとはいえ、今でもきちんと神様と仏様が繋がっているのだと思いました。
日本の神仏の関係は双方が喜ぶ、win winの関係ですね。すぐには難しいと思いますが、いつか未来は今よりも神仏習合だった時代に寺も神社も戻れば良いなと思います。
あくまで個人の感想です。おしまい。

※参考文献 現代人のための仏教知識百科 主婦と生活社
紅葉屋呉服店はこちらまで
スポンサーサイト