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紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

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◆藤の木の昔話 後編

牧野村五社の一つ、厳島神社へお参りに行きました。

太閤厳島神社6


五社のうち、工事前の椿神明社、こちらの厳島神社、この神社の天王社、そして稲荷社は今回と過去に訪れたことになります。


四社の印象は、どちらかと言えばちょっときつい感じのする神社でした。こちらの厳島社はまだお参りはしやすかったです。境内の入り口が変わってしまったと思いますが。
 

こちらの厳島神社は、江戸期では弁才天として祀られていたようです。おそらく明治期の法令で同体とされた市杵島姫命に変わったと思われます。

太閤厳島神社5


神社の来歴によれば、延享4年(1747年)にこの地に遷座されたとあります。調べると、1600年頃には既に牧野村に存在していた弁才天社のようです。


一体どこから来たのかはよく分かっていないそうですが、牧野村の別の場所にあったのは間違いなさそうです。今でこそ牧野五社と言われていますが、古くは椿神明社と神明社の二社を併せて牧野三社と呼ばれていたようです。
 

私はこの弁天様は、椿神明社の近くの笈瀬川にあったと思います。椿神明社のほぼほぼ境内です。具体的には川近くにあった山伏塚と椿(伝承では切り倒された藤の大木)に建立されていたと考えています。

 
もし山伏塚があったとすると、川の近くというのは水の神の力で封じようとしたという発想があったのかもしれません。川の近くに弁才天があるのも不思議ではないです。弁才天は水の神様でもあるからです。そして怨敵退散のご利益、強力な封じの力があるのも弁才天です。


大昔、旅の途中でこの辺りで亡くなった人か、あるいは人柱とか、何らかの理由で亡くなった人がおり、山伏塚として埋められていた場所に椿の木を植えた。

 
時は過ぎ、それを忘れていた人達が自分たちの都合で木を切った。木を塚に植えるというパターンは各地にありますが、これは木が神様の依り代になる為、自分達の信仰する神を塚の木に宿らせ、抑えるという意味があるのでしょう。


それを切り倒したものですから、中に抑えられていたモノが出る、疫病が流行ったので強力な封じの力を持つ仏教由来の弁才天を祀ったのでは?と思います。


あるいは、現在の厳島神社の位置に藤の霊木(山伏塚)があり、それを切ったら祟ったので、椿神明社にあった弁才天社を、現在の地に移した可能性もあります。

 
今年はコロナ禍でしたので、甘酒祭が行われたかどうか分かりませんが、昔話では椿神明社や神明社に供えた甘酒ですが、これはそうではなく、弁才天に供えたのではと思えます。

 
実際に現在の甘酒祭はこちらの弁才天社でも何故か行われていますし、この弁才天が頭上に蛇体の神、宇賀神を乗せている姿の宇賀弁才天であるならなおのことです。宇賀神とは宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)ですので、稲の神です。宇賀弁才天とは弁才天と稲荷神が習合した仏様なので、やはり米や酒とは切っても切れない深い関係です。

太閤厳島神社4

牧野五社のうち四社を巡りましたが、随分区画整理や再開発で神社の敷地や形も変化しているのが良く分かりました。天王社に至っては元々境内だった所が道路になっているので、歩道に注連縄がしてある楠の御神木が、ブロックに囲まれて残っていたりします。
 
 
笈瀬川も無くなっているので、推測した山伏塚も調べようがありません。この辺りは空襲があったので神社も燃えているでしょうから神社に伝わっていた資料の類も無いのでしょう。


散らばった点と点を結んでいったら、私はこのような結論になりました。
 
 


紅葉屋はこちらまで





参考サイト 名古屋神社ガイド 中村区厳島社のページ

https://jinja.nagoya/top/nakamuraku/taikou-itukusima-sya
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