墨書土器と言う物がある。墨で文字が書かれた土器のことです。

画像の例で言えば、愛知県安城市の彼岸田遺跡から出土したものです。川岸にあった遺跡です。
時代は奈良時代~平安時代(8世紀~9世紀)にかけてのもので、形はたまに神社などで見る「かわらけ」に似ています。文字は1文字のものもあれば、複数の文字が書かれていることもあります。書いてある文字も様々ですが、どうも多いのは田んぼの田の字です。
研究者の間でも、一体何を意味しているのかは分からないそうです。この遺跡の場合ですと、出土数は90数点にものぼり、判読できる文字は田が多いので、何らかの呪術の儀式ではないかと言われています。
研究が進まないのは、このお呪いに関する資料が無く、神道や仏教の中にも見当たらないからなのでしょう。8世紀~9世紀というのは、一般大衆にとっては仏教とはなんじゃらほいという時代でしたから、あんまり民衆には仏教的な考えは広まっていなかったと推測します。
つまりこれは、民間に残っていた仏教以前の原始的なお呪いだったのでしょう。田が特に重宝がられていたようなので、田を書く理由もあったはずです。

個人的に、これはある種の封じか厄払いのお呪いでは?と思います。封じ、つまり出てきてもらっては困るもの、地鎮という意味があったのでは?と思います。
前回のブログにて椿神明社を調べていたら気になる昔話が出てきました。今一度載せますとこんな話です。
◎甘酒祀の云われ(年代不詳)
椿神社境内近くの笈瀬川の川辺に大きな藤の木があり、たいそう評判で毎年大勢の人たちが訪れた。しかし、あまりにも見物人が増えて、近くの畑などを踏み荒らされてしまったため、人がもう来ないようにということで村人がこの木を切り倒したところ、疫病が流行り、村人の殆どが患った。
困った村人の一人が智者に頼み占ったところ、それは藤の木を切り倒したことによる祟りだから、家ごとに酒を作り、その酒を神様に献上するようにと言われた。
ただ、村で酒を作るのは難しいということで甘酒で勘弁してもらって、椿神明社ともう一つの神明社に供え、そのお下がりの甘酒を飲んだたところ、疫病は治まったと云う。
前回同様、気になったのは赤字部分です。今回は赤字部分の中から最後の個所、「家ごとに酒を作り、その酒を神様に献上する」に着目しました。
藤の木の怒りを抑えたのは話から見ると、神明社の天照大神と、椿神明社の豊受大神の力と思いますが、その二柱の神様と「酒の力」があったればこそだという事です。
以前、奈良県の西大寺に参拝の折、たまたま知った「石落神社」に関する昔話も、実は祟る石を清める(?)為に酒を用いていました。
石楽神社の話にある、御神石に酒をかけるようアドバイスした人も、年代不詳の椿神明社に残る話にある、酒を備えるようアドバイスした人も、どうも僧侶ではないようです。お坊様ならお坊様と残る筈ですから。どちらかと言うとシャーマン的な人のように思えます。
祟るケースに酒を用いる・・・。
酒は米から作ります。米とは稲玉、稲の精霊が宿っていると云われます。稲玉は神道では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)をさします。仏教ではお稲荷さんですね。前回ブログの椿明神社付近にも宇迦之御魂神を祀る神社があります。
田んぼの稲は昔の人達にとって生命線であります、またお米は人間も食べますが、神様が宿る鏡餅にもなります。古代の人は神の恵み、神の力が宿る尊い食べ物が米と考えていたと思います。田んぼとは、神が降りる神聖な場なのでしょう。
加えて、田と言う文字を見ていると囲われています。中にあるモノが出てこないようにという意味もあるような気がします。
西大寺の場合、石落神社の御祀神は少名彦命でした。様々な顔を持つ神様ですが農耕神という一面もあります。石落神社が祟る御神石の破片を封じ込めているとすると、そこは稲、田に関する力を持つ少名彦命を持ってきたのも頷けます。
田とは恵みをもたらす強い神が降りる場所、そこで育つ稲は神の力を宿す神聖な食べ物。その神聖な食べ物から作る酒は厄払いや清め、封じに用いられると考えれば、石楽神社の昔話や、椿神明社の昔話に酒が出てくるのも納得出来ました。
墨書土器に田の字が多いのも、同様の理由なのでは?と思います。仏教的な考え方ではなく、神道的、もっと言えば民間に残るシャーマン的な発想なのでしょう。
田という文字、田に降りる神は強いということです。
山の神は春になると村に降りて田んぼの神となり、やがて収穫が終わると今度は山に帰ります。田んぼそれそのものが、神が宿る依り代と言う意味がありそうです。
であれば、墨書土器に書く田の字は、それを埋めた人たちが信じる神の力が宿るようにという意味が出てきます。やはり、田の字は封じという意味がありそうですね。
※参考文献 安城市歴史博物館企画展 「畏きものたち」の図録
紅葉屋はこちらまで

画像の例で言えば、愛知県安城市の彼岸田遺跡から出土したものです。川岸にあった遺跡です。
時代は奈良時代~平安時代(8世紀~9世紀)にかけてのもので、形はたまに神社などで見る「かわらけ」に似ています。文字は1文字のものもあれば、複数の文字が書かれていることもあります。書いてある文字も様々ですが、どうも多いのは田んぼの田の字です。
研究者の間でも、一体何を意味しているのかは分からないそうです。この遺跡の場合ですと、出土数は90数点にものぼり、判読できる文字は田が多いので、何らかの呪術の儀式ではないかと言われています。
研究が進まないのは、このお呪いに関する資料が無く、神道や仏教の中にも見当たらないからなのでしょう。8世紀~9世紀というのは、一般大衆にとっては仏教とはなんじゃらほいという時代でしたから、あんまり民衆には仏教的な考えは広まっていなかったと推測します。
つまりこれは、民間に残っていた仏教以前の原始的なお呪いだったのでしょう。田が特に重宝がられていたようなので、田を書く理由もあったはずです。

個人的に、これはある種の封じか厄払いのお呪いでは?と思います。封じ、つまり出てきてもらっては困るもの、地鎮という意味があったのでは?と思います。
前回のブログにて椿神明社を調べていたら気になる昔話が出てきました。今一度載せますとこんな話です。
◎甘酒祀の云われ(年代不詳)
椿神社境内近くの笈瀬川の川辺に大きな藤の木があり、たいそう評判で毎年大勢の人たちが訪れた。しかし、あまりにも見物人が増えて、近くの畑などを踏み荒らされてしまったため、人がもう来ないようにということで村人がこの木を切り倒したところ、疫病が流行り、村人の殆どが患った。
困った村人の一人が智者に頼み占ったところ、それは藤の木を切り倒したことによる祟りだから、家ごとに酒を作り、その酒を神様に献上するようにと言われた。
ただ、村で酒を作るのは難しいということで甘酒で勘弁してもらって、椿神明社ともう一つの神明社に供え、そのお下がりの甘酒を飲んだたところ、疫病は治まったと云う。
前回同様、気になったのは赤字部分です。今回は赤字部分の中から最後の個所、「家ごとに酒を作り、その酒を神様に献上する」に着目しました。
藤の木の怒りを抑えたのは話から見ると、神明社の天照大神と、椿神明社の豊受大神の力と思いますが、その二柱の神様と「酒の力」があったればこそだという事です。
以前、奈良県の西大寺に参拝の折、たまたま知った「石落神社」に関する昔話も、実は祟る石を清める(?)為に酒を用いていました。
石楽神社の話にある、御神石に酒をかけるようアドバイスした人も、年代不詳の椿神明社に残る話にある、酒を備えるようアドバイスした人も、どうも僧侶ではないようです。お坊様ならお坊様と残る筈ですから。どちらかと言うとシャーマン的な人のように思えます。
祟るケースに酒を用いる・・・。
酒は米から作ります。米とは稲玉、稲の精霊が宿っていると云われます。稲玉は神道では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)をさします。仏教ではお稲荷さんですね。前回ブログの椿明神社付近にも宇迦之御魂神を祀る神社があります。
田んぼの稲は昔の人達にとって生命線であります、またお米は人間も食べますが、神様が宿る鏡餅にもなります。古代の人は神の恵み、神の力が宿る尊い食べ物が米と考えていたと思います。田んぼとは、神が降りる神聖な場なのでしょう。
加えて、田と言う文字を見ていると囲われています。中にあるモノが出てこないようにという意味もあるような気がします。
西大寺の場合、石落神社の御祀神は少名彦命でした。様々な顔を持つ神様ですが農耕神という一面もあります。石落神社が祟る御神石の破片を封じ込めているとすると、そこは稲、田に関する力を持つ少名彦命を持ってきたのも頷けます。
田とは恵みをもたらす強い神が降りる場所、そこで育つ稲は神の力を宿す神聖な食べ物。その神聖な食べ物から作る酒は厄払いや清め、封じに用いられると考えれば、石楽神社の昔話や、椿神明社の昔話に酒が出てくるのも納得出来ました。
墨書土器に田の字が多いのも、同様の理由なのでは?と思います。仏教的な考え方ではなく、神道的、もっと言えば民間に残るシャーマン的な発想なのでしょう。
田という文字、田に降りる神は強いということです。
山の神は春になると村に降りて田んぼの神となり、やがて収穫が終わると今度は山に帰ります。田んぼそれそのものが、神が宿る依り代と言う意味がありそうです。
であれば、墨書土器に書く田の字は、それを埋めた人たちが信じる神の力が宿るようにという意味が出てきます。やはり、田の字は封じという意味がありそうですね。
※参考文献 安城市歴史博物館企画展 「畏きものたち」の図録
紅葉屋はこちらまで
スポンサーサイト