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主に寺社参拝を通しての気付・思ったことのお話

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紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

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◆注意すべき神社  その⑤

ようやく一区切りつきそうです。


人を神として祀った神社、⑤と⑥について考えてみます。


⑤当事者が生きていた時代には無く100年単位の時間が経過して祀られた神様の神社

⑥戦没者を祀る神社



・・・です。


これは非常に稀なケースですが、昔、岐阜県の海津市付近を散策していた時に見つけました。

薩摩藩士を祀った神社です。

薩摩藩士神社③



薩摩藩士神社①

上の画像から少々修正して文字化します。

~昔からこの地域は木曽川・揖斐川・長良川の支流が網目のようにあった。その間に出来た区画を「輪中」といい、堤防を築いて水を防いでいた。


ところが、その三つの河川の川床(かわどこ:川の底、または河川の堤防の内側)は、東から木曽川・長良川・揖斐川の順に八尺(2.4メートル)も差があるので、大雨が降るたびに一番低い揖斐川へ滝のように水が流れ込んだ。
 
 
そして逆流してくる水と一緒になって、輪中の堤防を決壊させたり、あふれて洪水となり、農作物はもちろん命まで失われると言う被害が連続して起こった。
 
 
この惨状を見て、民たちは徳川幕府に訴えたところ、徳川幕府は工事に着手することになったが、実際に工事をしたのは幕府ではなく、岐阜から遠く離れた薩摩藩へ命じた。
 
 
時は宝暦4年正月(1754年)。当時の藩主、島津重年公は当時の金としては莫大な金40万両を借金し、家老の平田靱負(ひらたゆきえ)を総奉行として現地に派遣した。


大変な難工事で、幕府の重圧に耐え、苦心に苦心を重ねついに完成したが、八十八名の犠牲者を出した。~



薩摩藩士神社②

続きを文字化します。


~この大堰川洗堰(あらいぜき:水流を横ぎって、川幅いっぱいに石を敷き詰めて造る堰)は、その事業の一つで対岸の勝賀と大藪の間に、高さ1.2メートル、幅178.4メートルに亘って堰を造るという難工事中の難工事でした。
 
 
これは長良川の水位が1.2メートルまでは、揖斐川に流れないようにし、水位が1.2メートルを超えると自然に洗堰を超えて水が流れ込み、その水勢も弱まる様に設計されたものでした。


後に明治の改修ですっかり埋まってしまい、完全に遮断されましたが、当時は尾張藩が強く、ここを締め切ると尾張側が危険にさらされるというので許されず、洗堰で水の調整をはかっていたのです。
 
 
この工事完了は宝暦四年十二月、経費は金四千九百八十八両と云われています。


ここに薩摩藩士の功績を讃え、当地が五穀豊穣の地として今日あるを感謝し、その偉勲を永く後世につあてるため、昭和5年この地に現在の記念碑を建立したのであります。~



薩摩藩士神社④


この神社を知ったのは偶然でした。たまたま近くを通った際に立ち寄りました。後に調べてみましたが、難工事を完成させた平田靱負は八十八名の犠牲者を出したことに責任を感じ、自害しました。
 
 
そして私が訪れたこの神社は、洗堰の現場に立てられた神社で、後に新聞で知りましたが昭和の50年代に社が建てられたようです。大勢の犠牲者を出してから200年以上経って祀られた、島津藩士が神様となっています。
  
 
祀られた経緯は、昭和になってから洪水がこの近辺であり、「もしかしたら島津藩士が祟っているのでは?」という考えから慌てて祀られたようでした。
 
 
このブログ作成にあたり、つい最近しりましたが海津市には治水神社という、同じく薩摩藩士と家老の平田靱負を神として祀る神社があると知りました。


こちらの治水神社の方が、現場に立てられた神社より少し古く、昭和の13年に建立された神社でした。昭和の13年ですから、やはりこちらも犠牲者を出してから200年以上経って建立された神社です。

 
当事者を知る人たちが生きていない、時を隔てて行き成り建立したということは、やはり昭和初期頃に大きな水害があり、これは家老の平田靱負や薩摩藩士を弔っていなかったから、彼らを忘れてしまっていたからではないか?と考えたと思われます。もしくは不幸な出来事が連続して起こったのかもしれません。


いずれにせよ、200年も経って犠牲になった人達の慰霊の為の神社が出来ると言うのは、異常事態です。


時系列順で言えば、昭和5年に現場だった場所に碑が出来る。それから8年後に治水神社を建立。そして昭和の50年代に現場にも神社が建立されました。
 

今では非科学的なことは信用しないという人も増えてきていますが、人間の深層心理には、どこかに誰でも得体のしれないモノ、コトに対して畏れという感情があるのでは?と思います。


しかし、徳川幕府も大変な作業を薩摩藩へ命じたものです。これは幕府に逆らえないよう、薩摩藩の力を減らす為にやらせたのでしょう。もう嫌がらせです。島津の殿様からしたら、国力と大事な家臣達を同時に失った訳です。後の歴史を見るに、徳川幕府は西からの勢力、薩長同盟により一つの時代が終わります。そう考えると薩摩武士の恨みというのも読み取れる神社でした。


長くなって来たので、⑥は次回で・・・。



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