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2020-07-31

◆注意すべき神社  その④

前回の続きです。


③祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(全国版)

④祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(地域限定)



次に③と④、祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社です。


どちらも死後、異変が起こり祟っているとされて祀られましたが、規模の違いがある為、全国版と地域限定とさせて頂きました。


全国版で有名なのはやはり天神様こと菅原道真公でしょう。天神とは元来「天津神」、即ち天上の神々のことでしたが、あまりにも有名になり、現在では天神=菅原道真公を表す言葉になってしまいました。(詳しくは過去ブログ参照
 
 
権力者に祟ったことで、国を挙げて祀ることになったこと、道真公自体が天才だったため、後に学問の神として崇められたことが大きく作用し、全国的に有名になり沢山のお社で祀られました。
 


次に地域限定の祟った神様、あるいはその場所のみで祀られる祟り神の神社です。関東方面には佐倉惣五郎という義民が死後、祟ったとされ神に祀り上げられました。舞台化もされた有名な話でもありますが、もうほとんど知られていない、地元の人も忘れかけている個人が祀られているものも、結構あります。


最近、仏像や御開帳参拝が好きな方から教えて頂きましたが、四国に凄い神社がありました。薫的大神(くんてきおおかみ)という神様を祀る「薫的神社」です。これが調べてみたら今回のテーマど真ん中の神社でした。


まず、この薫的大神の概要を紹介したいと思います。生きていたときは薫的和尚と言うお坊様でした。


〇薫的和尚の概要

薫的和尚は、伝説によれば寛永二年(一六二五)に生まれた。十五才で出家得度し、二十二才まで御修行、香美郡土佐山田町楠目の豫岳寺(よがくじ)の住職となった。詩歌、俳句、絵画、彫刻にすぐれ、武術の稽古もしていたと伝えられ、身長は六尺の偉丈夫であった。後に洞ヶ島の曹洞宗瑞應寺(ずいおうじ)に移り、瑞應寺第十七世住職となった。


当時、この地域の有力な寺は二つありました。滅びた長曾我部氏の菩提寺であった「瑞巌寺」と、長曾我部氏滅亡後にこの地にやって来て統治することになった山内氏が設けた、その菩提寺である「真如寺」です。真如寺も曹洞宗のお寺でした。


薫的和尚は瑞巌寺の住職で、真如時の住職、良谷和尚と何かにつけて衝突していました。そんな時、薫的和尚が激怒する事件が起こります。二代目藩主が亡くなり、その戒名を真如寺の良谷和尚がつけましたが、その戒名は「竹巖院殿龍山雲公大居士」でした。
 
 
薫的和尚は、


「巌上の竹は枯死するが松はよく成育する故に松巌院でなければならない。 雲公の雲は、風によって乱れる意味を持つので不吉。 公は三公九郷の高官でなければ使用すべきでない。忠義は従四位侍従であるから公は僭上の嫌いがある」


と指摘。要するに戒名が良くないと言ったのです。また、法事の際、瑞應寺の座列が真如寺の下座に置かれていることを抗議し、対立するようになりました。


薫的和尚はこの問題を宗門支配の周防の国、長源寺に直訴しようと訴状を書き、瑞應寺の脇寺の芳心院(僧侶)に長源寺に行く様託しましたが、芳心院は真如寺に内通してしまいました。


真如寺から内通を受けた奉行「孕石頼母」ら藩の重役は関所違反という無実の罪をきせ、薫和尚を投獄しました。そして7年後、獄中にて経文を血で書き、49日間自ら食を絶ち抗議。


寛文11年(西暦1671年)旧正月10日高知城を睨み付け、自ら舌を噛み切り憤死。享年47才でした。




何とも凄まじい最後です。血書をしたため、食を断って舌を噛みきり自決。しかもお城を睨みながら・・・・・


獄中死した薫的和尚の遺体は、高知市小高坂山の住人、郷士西内半次正義が密に貰い受け、現高知市三の丸の私有地の畑に埋葬。光善芝と名付け、松を植え牛馬を繋ぐことを禁じた。 墓はいつしか忘れ去られていました。


そして異変が起きます。神社のHPより抜粋です。


薫的和尚の判決をした奉行の孕石頼母は、正徳4年(1714年)乱心し庭先を指して、「あの石の上に、緋の衣を着けた坊主が物凄い形相で睨み付ける。」と言って狂死。子・孫も次々に変死をして、血脈が絶えました。
 
 
また、直訴の手紙を託されたにもかかわらず、ライバル関係の真如寺側へ寝返った芳心院は、元禄8年(1695年)薫的和尚の命日より喉を痛め発病、不眠に悩み、発病後21日で発狂し死亡。長男、次男も変死。


ある時、山内家の重臣、山内主馬様のご母堂、光善院様の夢に薫的様が御出現され、「今を去る55年前、無実の罪に陥れられ、無念の死を遂げた。その恨みを7世まで晴らさんものとする。」というお告げをうけた。光善院様は、薫的様の祟りを大変恐れました。


光善院様は家臣に命じ、薫的様のお墓を探し享保12年(1725年)に小高坂山から洞ケ島に御改葬。現在の薫的神社裏の霊光塔にお祀りされている。瑞應寺は明治3年廃仏棄釈により、廃寺となり、洞ケ島神社と称す。昭和24年に薫的神社に改称した。

 


後半、少々分かり辛いので整理すると、


・1671年に薫的和尚、獄中にて自決

・薫的和尚を売った芳心院は1695年に狂死。長男、次男も変死

・薫的和尚を裁いた奉行、孕石頼母は1714年に狂死。その子供、孫も変死

・1725年、光善院の夢枕に薫的和尚が出現。祟りを恐れて忘れられていた薫的和尚の墓地を改め、祀り直す。

・薫的和尚が住職をしていた瑞應寺に祀られたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となる。

・そして神社として復活。洞ケ島神社になる。

・昭和24年に薫的神社に改名し、現在に至る。


死後、祟り神となり、自身を嵌めた関係者の命を奪い、恐れられて寺を守る神(?)として祀られるも、寺は廃仏毀釈により廃寺になる。しかし、祟り神となった薫的和尚を祀る御堂(社?)だけは無くならず、逆にそれを主祀神として祀る神社となる。廃仏毀釈の嵐の中でも、薫的和尚を祀る場所だけは、寺が無くなっても残る・・・。残さなければならなかったのでしょう。
 
 
昭和になって、その神社の名前も変わる。地域の意味を込めた社名から、その御祀神様の名を表す社名に・・・。
 
 
神社のHPがあったので覗いてみましたが、興味深い情報が載っていました。


それは薫的和尚が最後を迎えた当時の牢屋が移築(!)されていること。

孕石頼母の家にあった庭石もあります。この庭石の上に薫的和尚の幽霊が出たとか・・・。

 
古い牢屋などは取り壊されそうなものですが、それすら当時の人にとったら、あの薫的和尚が最後を迎えた牢屋を壊すのは恐ろしいという感情があったのでしょう。


薫的大神様の目線で考えて、果たして薫的和尚が最後を迎えた牢屋を境内に持ってくるというのは大丈夫か?とは思いますが・・・。これは凄いことです。庭石をこの地に持ってきたのも、恐れ故に粗末に出来なかったのでしょう。
 
 
また薫的神社とは違う場所ですが、薫的和尚のお母さんも神として祀られているようです。
 
 
こちらの薫的神社は薫的和尚の神像が遺されています。神像は原則御開帳と言うのはありません。しかし、こちらの神社では50年毎に御開帳があるようです。これはお寺だった時代の名残でしょう。
 
illustrain02-building05.png


死して祟った個人の姿の像をつくると言うのは、凄いことです。ぱっと思い浮かぶのは菅原道真公や平将門公でしょうか。どちらも恐ろしい怨霊伝説が残る神様ですが、薫的和尚もそれぐらい畏れられたので和尚の神像が造られたのでしょう。
 
 
来年が50年毎の節目になるので御開帳をやるそうですが、行かれる方は「一体自分はどんな神様をお参りするのか?」ということを良くご理解して、お参りに行った方が良いかと思います。


 
続く・・・




薫的神社はこちらまで

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プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
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