今回は⑥の御神木を撮る際の注意点について述べたいと思います。
そもそも巨木と言うのは、それ自体が大きな生命体とも言えますし、古木ともなれば人間よりも長生きしている大先輩です。魂もあるでしょうし、神様も宿る場合もあります。
なので結論を先に言えば、御神木を撮る際も、先に一礼したり、お写真頂きますと述べた方が良いでしょう。御神木は見た目が立派だったり、根元に祠が合ったり、注連縄がしてあったりしていると直ぐに分かりますが、神社の中には注連縄も無ければ祠も無い御神木もあります。
その場合、参拝者が見分けるのは困難なので、やはり気になる木があり、写真を撮りたい場合は、木に注連縄や祠が無くと、一礼して写真を撮ることをお勧めします。
木に某かの霊的な力が籠るものを御神木とするならば、大きく分けて御神木にも2パターンあると言えます。
一つは寺社に生えている御神木。もう一つは塚に植えられた御神木です。
昔の大きな街道沿いに、一定の距離ごとに設けられた一里塚というものもありますが、あれは違います。ああいう土盛と言う意味の塚もありますが、ここで取り上げる塚とは墓の意味です。
これは非業な死を遂げた人が埋葬された場合、その上に木を一本植えることがあります。昔、愛知県刈谷市の富士松駅付近には富士松塚という塚がありました。今はなくなってしまいましたが、その松は枯れても新たに植えられているようです。
この今は現存していない富士松塚。戦国の頃、旅人がこの付近を歩いていたら、桶狭間に向かう今川勢の侍達に難癖をつけられ、旅人は暴行を受けて亡くなったそうです。その亡骸を村人達が弔い、埋めたのが富士松塚です。
その塚にはやがて松が植えられました。
テレビで見ましたが、織田信長の首塚というのがありました。それはこんもりした塚にやはり木が一本植えられていました。この墓に木を植えると言う発想はどういうものなのでしょうか?
後世に伝える為に、あの場所は気を付けて管理せよと言う目印的に木を植えるということか、あるいは無念の内に亡くなった人の怒りの矛先を木に吸わせるという意味もあったように思います。
実際、テレビで放映していた信長公の首塚ですが、木のこぶが明らかに細長い人の顔になって見えました。見間違いかもしれないので、一度お寺に行って確認したいですが、ちょっと気が重くなりますね。他所の神社で社名は言えませんが、その社の後ろに御神木がありますが、どう見ても木の様相が断末魔の人間のようにしか見えない木もありました。
神社巡りをしていると様々な発見がありますが、地元名古屋市西区に「伊奴神社」という古い神社があります。その境内にはさすると病が治るという言い伝えがある御神木があります。

もう朽ちている(朽ちかけ?)の御神木ですが、皆がさするので様々な念を受けて弱ったのだと思います。気の毒です。木と言うのは念を吸うという一面もあるのかもしれません。
少々怖い話をしましたが、非業な死を遂げた場所に植えられて御神木になった木と、からっとした神社、環境の良い神社の御神木はやはり一味違います。

個人的に「凄い!」と思えた御神木のお写真です。愛知県蒲郡市にある清田の大楠です。
近隣でも信仰の対象になっている御神木のようで、小さな祠が根元にあり、管理も行き届いている大楠でした。お供え物もあります。
二度ほどお参りに行きましたが、物凄い存在感です。楠が霊木であると言うのが良く分かります。祀ってある神様は名前が書いてある訳でもないので、はっきりとは分かりませんが、前回の「三井寺その2」のブログにもありましたが、木の根元には龍神が祀られていることが多いので、この木もおそらく龍神様が宿っていると思います。
もう何年も前にお参りに行きましたが、当時、何となく弁天様の真言かなと思い、唱えてお参りしておりました。後で撮った写真を見たら、木の窪みやコブが、どう見ても大きな龍神様の頭みたいです。

どうでしょうか?
今回のブログに合わせて、この時の写真を整理、再確認しましたが、別角度で撮った写真に不思議なものもありました。(アップは控えます)
木には人の想いや念、そして神様が宿るという性質があるように思います。人間よりも長生きしている大先輩な木もあります。気になる木があり、お写真が撮りたい場合は先にお参りしてからというマナーも必要でしょう。
また、御神木には首塚のように、非業な死を遂げた人の念を吸うという場合もあるので、その御神木がどういう御神木が分からない場合は、写真を控えると言うのもまた必要かと思います。
最後に、特に観光地化してる神社で、大きな木があるとやたらと触っている人をたまに見かけますが、あれも止めた方が安全かと思います。どんな神様が宿っているのか誰も分かりませんので。
※紅葉屋呉服店はこちらまで
そもそも巨木と言うのは、それ自体が大きな生命体とも言えますし、古木ともなれば人間よりも長生きしている大先輩です。魂もあるでしょうし、神様も宿る場合もあります。
なので結論を先に言えば、御神木を撮る際も、先に一礼したり、お写真頂きますと述べた方が良いでしょう。御神木は見た目が立派だったり、根元に祠が合ったり、注連縄がしてあったりしていると直ぐに分かりますが、神社の中には注連縄も無ければ祠も無い御神木もあります。
その場合、参拝者が見分けるのは困難なので、やはり気になる木があり、写真を撮りたい場合は、木に注連縄や祠が無くと、一礼して写真を撮ることをお勧めします。
木に某かの霊的な力が籠るものを御神木とするならば、大きく分けて御神木にも2パターンあると言えます。
一つは寺社に生えている御神木。もう一つは塚に植えられた御神木です。
昔の大きな街道沿いに、一定の距離ごとに設けられた一里塚というものもありますが、あれは違います。ああいう土盛と言う意味の塚もありますが、ここで取り上げる塚とは墓の意味です。
これは非業な死を遂げた人が埋葬された場合、その上に木を一本植えることがあります。昔、愛知県刈谷市の富士松駅付近には富士松塚という塚がありました。今はなくなってしまいましたが、その松は枯れても新たに植えられているようです。
この今は現存していない富士松塚。戦国の頃、旅人がこの付近を歩いていたら、桶狭間に向かう今川勢の侍達に難癖をつけられ、旅人は暴行を受けて亡くなったそうです。その亡骸を村人達が弔い、埋めたのが富士松塚です。
その塚にはやがて松が植えられました。
テレビで見ましたが、織田信長の首塚というのがありました。それはこんもりした塚にやはり木が一本植えられていました。この墓に木を植えると言う発想はどういうものなのでしょうか?
後世に伝える為に、あの場所は気を付けて管理せよと言う目印的に木を植えるということか、あるいは無念の内に亡くなった人の怒りの矛先を木に吸わせるという意味もあったように思います。
実際、テレビで放映していた信長公の首塚ですが、木のこぶが明らかに細長い人の顔になって見えました。見間違いかもしれないので、一度お寺に行って確認したいですが、ちょっと気が重くなりますね。他所の神社で社名は言えませんが、その社の後ろに御神木がありますが、どう見ても木の様相が断末魔の人間のようにしか見えない木もありました。
神社巡りをしていると様々な発見がありますが、地元名古屋市西区に「伊奴神社」という古い神社があります。その境内にはさすると病が治るという言い伝えがある御神木があります。

もう朽ちている(朽ちかけ?)の御神木ですが、皆がさするので様々な念を受けて弱ったのだと思います。気の毒です。木と言うのは念を吸うという一面もあるのかもしれません。
少々怖い話をしましたが、非業な死を遂げた場所に植えられて御神木になった木と、からっとした神社、環境の良い神社の御神木はやはり一味違います。

個人的に「凄い!」と思えた御神木のお写真です。愛知県蒲郡市にある清田の大楠です。
近隣でも信仰の対象になっている御神木のようで、小さな祠が根元にあり、管理も行き届いている大楠でした。お供え物もあります。
二度ほどお参りに行きましたが、物凄い存在感です。楠が霊木であると言うのが良く分かります。祀ってある神様は名前が書いてある訳でもないので、はっきりとは分かりませんが、前回の「三井寺その2」のブログにもありましたが、木の根元には龍神が祀られていることが多いので、この木もおそらく龍神様が宿っていると思います。
もう何年も前にお参りに行きましたが、当時、何となく弁天様の真言かなと思い、唱えてお参りしておりました。後で撮った写真を見たら、木の窪みやコブが、どう見ても大きな龍神様の頭みたいです。

どうでしょうか?
今回のブログに合わせて、この時の写真を整理、再確認しましたが、別角度で撮った写真に不思議なものもありました。(アップは控えます)
木には人の想いや念、そして神様が宿るという性質があるように思います。人間よりも長生きしている大先輩な木もあります。気になる木があり、お写真が撮りたい場合は先にお参りしてからというマナーも必要でしょう。
また、御神木には首塚のように、非業な死を遂げた人の念を吸うという場合もあるので、その御神木がどういう御神木が分からない場合は、写真を控えると言うのもまた必要かと思います。
最後に、特に観光地化してる神社で、大きな木があるとやたらと触っている人をたまに見かけますが、あれも止めた方が安全かと思います。どんな神様が宿っているのか誰も分かりませんので。
※紅葉屋呉服店はこちらまで
スポンサーサイト