開創1250年記念の特別開帳が行われた、和歌山県の古刹「紀三井寺」にお参りに行った。

西国三十三観音の二番目のお寺。昨年参拝に来ましたが、あの時にはなく、今回あったのは仁王門向かって左側の閻魔像。熊野は死者の国とも云われるので、入り口に閻魔像があるというのは何ともそんな感じです。

前回来た時は、確かなかのお厨子は閉まっていたと思いますが、今回は本尊の御開帳だからか、こちらの観音堂のお厨子も開いていました。暗かったですが、平安時代位はありそうな観音様でした。
紀三井寺の歴史は、お寺のHPによるとこんな感じです。(抜粋)
◆紀三井寺略縁起
奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。
そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。
上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三礼のもとに刻み、一宇を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされています。
大陸から渡来した高僧、為光上人によって建てられたのが紀三井寺ですが、古い時代の密教寺院は山の中が多いですね。山そのものが神様であったり、山はあの世、異界というのが古い日本人の考え方であるので、やはり奈良時代には日本古来の神と、大陸から来た仏を習合させていたのかなと思います。
紀三井寺は正式名は「紀三井山金剛宝寺護国院」と言い、名前の由来は寺領の中に三か所の井戸(名水)が湧き出ていることからのようです。

231段ある階段です。この坂は「結縁坂」とも呼ばれています。この坂に関する昔話も残ってました。江戸時代の豪商「紀ノ国屋文左衛門」のお話ですね。それによると・・・
◆紀ノ国屋文左衛門とおかよの昔話
江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。
ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。
困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。
これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。
紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになりました。」 と。
商売繁盛、良縁成就、その他何事もまずは、信心からと申せましょう。
若い頃、父から聞かされた話の中には、この豪商の話もありました。その紀ノ国屋文左衛門所縁の地がこの紀三井寺だったとは。思わぬ発見でした。
しかし、あの坂道を親を背負って上るとは・・・。花緒が切れることも観音様の御利益か。商売繁盛や良縁成就、むしろ後者の方のが御利益が強そうですが、御縁を頂きたいと言う方はお参りに行くと良さそうです。この日はお寺だけのお参りでしたが、この玉津神社も気になりますね。

こちらが秘仏「十一面観音」と「千手観音像」を祀る本堂。1759年建立、総欅造りの建物です。迫力がありました。
こちらのお寺、秘仏の本尊は十一面観音像と千手観音像です。珍しいことに一つの厨子の中に二体の仏像が祀られていました。撮影禁止なので御姿はありませんが、購入した記念図録によれば、十一面観音像は10世紀前半で、楠の一木造。背面に穴を開け、像内を削り出し後で板で覆うと言う内刳りという技法で造像されているとのこと。
もう一体の千手観音像も同様で、おそらく同じ時期に造像された仏像だそうです。千手観音は手がきちんと千本造られています。
どちらの御像も素晴らしい観音様でした。十一面観音は特に迫力がありました。
そして強い仏様だなと思いました。日本の仏像の特徴は彫られた「木」にありますね。木ありきの仏像のようです。他にも紀三井寺には観音像や薬師如来と言った古像が多数残っています。
紀三井寺のブログは、二部構成でアップしたいと思います。次回はお寺の中で、気になったものに着目します。
※紅葉屋呉服店はこちらまで

西国三十三観音の二番目のお寺。昨年参拝に来ましたが、あの時にはなく、今回あったのは仁王門向かって左側の閻魔像。熊野は死者の国とも云われるので、入り口に閻魔像があるというのは何ともそんな感じです。

前回来た時は、確かなかのお厨子は閉まっていたと思いますが、今回は本尊の御開帳だからか、こちらの観音堂のお厨子も開いていました。暗かったですが、平安時代位はありそうな観音様でした。
紀三井寺の歴史は、お寺のHPによるとこんな感じです。(抜粋)
◆紀三井寺略縁起
奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。
そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。
上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三礼のもとに刻み、一宇を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされています。
大陸から渡来した高僧、為光上人によって建てられたのが紀三井寺ですが、古い時代の密教寺院は山の中が多いですね。山そのものが神様であったり、山はあの世、異界というのが古い日本人の考え方であるので、やはり奈良時代には日本古来の神と、大陸から来た仏を習合させていたのかなと思います。
紀三井寺は正式名は「紀三井山金剛宝寺護国院」と言い、名前の由来は寺領の中に三か所の井戸(名水)が湧き出ていることからのようです。

231段ある階段です。この坂は「結縁坂」とも呼ばれています。この坂に関する昔話も残ってました。江戸時代の豪商「紀ノ国屋文左衛門」のお話ですね。それによると・・・
◆紀ノ国屋文左衛門とおかよの昔話
江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。
ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。
困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。
これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。
紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになりました。」 と。
商売繁盛、良縁成就、その他何事もまずは、信心からと申せましょう。
若い頃、父から聞かされた話の中には、この豪商の話もありました。その紀ノ国屋文左衛門所縁の地がこの紀三井寺だったとは。思わぬ発見でした。
しかし、あの坂道を親を背負って上るとは・・・。花緒が切れることも観音様の御利益か。商売繁盛や良縁成就、むしろ後者の方のが御利益が強そうですが、御縁を頂きたいと言う方はお参りに行くと良さそうです。この日はお寺だけのお参りでしたが、この玉津神社も気になりますね。

こちらが秘仏「十一面観音」と「千手観音像」を祀る本堂。1759年建立、総欅造りの建物です。迫力がありました。
こちらのお寺、秘仏の本尊は十一面観音像と千手観音像です。珍しいことに一つの厨子の中に二体の仏像が祀られていました。撮影禁止なので御姿はありませんが、購入した記念図録によれば、十一面観音像は10世紀前半で、楠の一木造。背面に穴を開け、像内を削り出し後で板で覆うと言う内刳りという技法で造像されているとのこと。
もう一体の千手観音像も同様で、おそらく同じ時期に造像された仏像だそうです。千手観音は手がきちんと千本造られています。
どちらの御像も素晴らしい観音様でした。十一面観音は特に迫力がありました。
そして強い仏様だなと思いました。日本の仏像の特徴は彫られた「木」にありますね。木ありきの仏像のようです。他にも紀三井寺には観音像や薬師如来と言った古像が多数残っています。
紀三井寺のブログは、二部構成でアップしたいと思います。次回はお寺の中で、気になったものに着目します。
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