日本のコロナ騒動も、ようやく落ち着きかけてきた。
しかし、世界中の人々に恐怖を植え付けたと思うので、元のような経済状況になるにはまだまだ時間がかかるだろう。
ゴールデンウィークに入る少し前、新型コロナウィルス=疫病に強いと言われる神様をお参りに行こうとということで、愛知県津島市の「津島神社」へ参拝に出かけた。現在の御祭神は「須佐之男命」である。

津島神社のHPにも、疫病封じのご利益があるとある。コロナ騒動中は毎日ご祈祷をあげているようだ。

◆津島神社の縁起(HPより抜粋)
津島神社の創建は欽明天皇元年(540年)で、当初は「津島社」と呼ばれていましたが、奈良時代仏教の伝来と共に「神仏習合」と言う考えが生まれ、御祭神「建速須佐男之命」は「牛頭天王」に替わり、社名も「津島牛頭天王社」と呼ばれるようになり江戸時代まで続きました。 明治の神仏分離により「津島神社」に改められました
奈良時代に「疫病」が起こり、平安時代には全国に広まり、時の朝廷は「疫病」を鎮める為、京都神泉苑に於いて全国66の国の数の鉾を立て悪疫を鎮める「御霊会」が行われ、これが現在の京都八坂神社の「祇園祭」のはじまりです。
全国天王信仰(全国約3,000社)の総本社津島神社では、当時の神職が琵琶湖の東岸から鎌倉辺りまで、各地の有力者の家に一週間ほど泊まり、祈祷やお札の配布を行い、疫病除けの「天王信仰」を広め、大神様の御神徳に感謝して「天王祭」が行われるようになりました。
またこうもあった。
欽明天皇元年(540年)に西国対馬より大神がご来臨なられたのが始まりとされ、その後弘仁元年(810年)に神階正一位と日本総社の号を賜り、一条天皇の正暦年間に天王の号を賜りました。
津島とは対馬のことであるのかもしれない。須佐之男命が大陸に渡ってまた日本に帰ってきたという説もある。対馬からやってきた渡来人が須佐之男命を祀ったのか。
創建は540年。その当時は津島社と呼ばれていたという。それが「奈良時代仏教の伝来と共に『神仏習合』と言う考えが生まれ、御祭神『建速須佐男之命』は『牛頭天王』に替わり、社名も『津島牛頭天王社』と呼ばれるようになり江戸時代まで続きました」とある。
津島社が神仏習合の影響で、牛頭天王が主になって恐らく1000年以上信仰が続き、明治になって須佐之男命に変わった。圧倒的に須佐之男命として祀られるより、牛頭天王時代が長かったと分かる。
明治になって神仏を分けてしまった。明治時代には廃仏毀釈の運動が激しかったので、多くのお寺が壊され、仏像が捨てられたりした。お寺にとっては受難であったが、神社も大幅にてこ入れされる場合があった。
例えばその地域独特の、記紀神話に出てこない地元密着型の神様(先祖神)の場合、記紀神話の有名な神様に御祀神が変わってしまうことが多かった。
その御祭神が入れ替えられたケースで、もっとも酷かった例が牛頭天王だと思う。全国3000社とあるので、その全てが須佐之男命に、ある時一斉に変わってしまったのだ。それは時の天皇陛下と同じ発音の、「天王」の名を持つこと、そして天皇家とは何の関係もない神様だったことが問題になったからだろう。
愛知県には、牛頭天王を祀っていたという神社は多い。また名古屋城下町には、かつて一般庶民の家の屋根に「屋根神様」という、家のひさしに小さな祠を設けることが多かった。この屋根神様も、調べてみたらほぼ90%以上が牛頭天王であった。
また、名古屋城築城以前の、名古屋最古の地図(尾張村:現名古屋場周辺)を見るに、そこには「天王社」の記述が確認できる。
あちこちの氏神として、家の守り神として、一般庶民の一番身近にいた神様が牛頭天王なのである。
津島神社の参拝は、今回で2回目だ。一人で来るのは初めてである。
参拝に来た目的は、疫病には無類の強さを発揮する牛頭天王様へのお参り(コロナなんとかしてください)と、少しでも津島神社に牛頭天王の痕跡が残っていないかの二つだ。一人で来たのは、じっくりと観察出来るからである。

長くなったので、続きは次回。足を使って色々見て回りました・・・。
続く・・・
しかし、世界中の人々に恐怖を植え付けたと思うので、元のような経済状況になるにはまだまだ時間がかかるだろう。
ゴールデンウィークに入る少し前、新型コロナウィルス=疫病に強いと言われる神様をお参りに行こうとということで、愛知県津島市の「津島神社」へ参拝に出かけた。現在の御祭神は「須佐之男命」である。

津島神社のHPにも、疫病封じのご利益があるとある。コロナ騒動中は毎日ご祈祷をあげているようだ。

◆津島神社の縁起(HPより抜粋)
津島神社の創建は欽明天皇元年(540年)で、当初は「津島社」と呼ばれていましたが、奈良時代仏教の伝来と共に「神仏習合」と言う考えが生まれ、御祭神「建速須佐男之命」は「牛頭天王」に替わり、社名も「津島牛頭天王社」と呼ばれるようになり江戸時代まで続きました。 明治の神仏分離により「津島神社」に改められました
奈良時代に「疫病」が起こり、平安時代には全国に広まり、時の朝廷は「疫病」を鎮める為、京都神泉苑に於いて全国66の国の数の鉾を立て悪疫を鎮める「御霊会」が行われ、これが現在の京都八坂神社の「祇園祭」のはじまりです。
全国天王信仰(全国約3,000社)の総本社津島神社では、当時の神職が琵琶湖の東岸から鎌倉辺りまで、各地の有力者の家に一週間ほど泊まり、祈祷やお札の配布を行い、疫病除けの「天王信仰」を広め、大神様の御神徳に感謝して「天王祭」が行われるようになりました。
またこうもあった。
欽明天皇元年(540年)に西国対馬より大神がご来臨なられたのが始まりとされ、その後弘仁元年(810年)に神階正一位と日本総社の号を賜り、一条天皇の正暦年間に天王の号を賜りました。
津島とは対馬のことであるのかもしれない。須佐之男命が大陸に渡ってまた日本に帰ってきたという説もある。対馬からやってきた渡来人が須佐之男命を祀ったのか。
創建は540年。その当時は津島社と呼ばれていたという。それが「奈良時代仏教の伝来と共に『神仏習合』と言う考えが生まれ、御祭神『建速須佐男之命』は『牛頭天王』に替わり、社名も『津島牛頭天王社』と呼ばれるようになり江戸時代まで続きました」とある。
津島社が神仏習合の影響で、牛頭天王が主になって恐らく1000年以上信仰が続き、明治になって須佐之男命に変わった。圧倒的に須佐之男命として祀られるより、牛頭天王時代が長かったと分かる。
明治になって神仏を分けてしまった。明治時代には廃仏毀釈の運動が激しかったので、多くのお寺が壊され、仏像が捨てられたりした。お寺にとっては受難であったが、神社も大幅にてこ入れされる場合があった。
例えばその地域独特の、記紀神話に出てこない地元密着型の神様(先祖神)の場合、記紀神話の有名な神様に御祀神が変わってしまうことが多かった。
その御祭神が入れ替えられたケースで、もっとも酷かった例が牛頭天王だと思う。全国3000社とあるので、その全てが須佐之男命に、ある時一斉に変わってしまったのだ。それは時の天皇陛下と同じ発音の、「天王」の名を持つこと、そして天皇家とは何の関係もない神様だったことが問題になったからだろう。
愛知県には、牛頭天王を祀っていたという神社は多い。また名古屋城下町には、かつて一般庶民の家の屋根に「屋根神様」という、家のひさしに小さな祠を設けることが多かった。この屋根神様も、調べてみたらほぼ90%以上が牛頭天王であった。
また、名古屋城築城以前の、名古屋最古の地図(尾張村:現名古屋場周辺)を見るに、そこには「天王社」の記述が確認できる。
あちこちの氏神として、家の守り神として、一般庶民の一番身近にいた神様が牛頭天王なのである。
津島神社の参拝は、今回で2回目だ。一人で来るのは初めてである。
参拝に来た目的は、疫病には無類の強さを発揮する牛頭天王様へのお参り(コロナなんとかしてください)と、少しでも津島神社に牛頭天王の痕跡が残っていないかの二つだ。一人で来たのは、じっくりと観察出来るからである。

長くなったので、続きは次回。足を使って色々見て回りました・・・。
続く・・・
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