菅原家は名門の御家柄だった。古くから朝廷に仕えていた。そんな菅原家に関するお話も出て来たので紹介する。
先祖神は天穂日命(あまのほひのみこと)で、その子孫には相撲の神様とも呼ばれるあの野見宿祢(のみのすくね)へと繋がる。
天穂日命については、記紀神話ではこうある。
天照大御神と素戔嗚尊が誓約をした際、素戔嗚尊は天照大神から渡された八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を、天真名井の聖水を降りすすぎ、噛んで吐き捨てた。その息から五柱の神々が生まれた。その中の一柱が天穂日命だ。
菅原家の先祖神に、荒ぶる神素戔嗚尊に繋がる神様がいたというのはなるほどなと思う。
野見宿祢の有名な話は、日本最初の相撲の取り組み(?)、当麻蹴速との力比べが有名だ。この勝負では野見宿祢が勝っている。また野見宿祢は古墳に設置する埴輪を提案した人物だと云う。
その当時、身分の高い人が亡くなると、沢山の殉死者を生きたまま埋葬(!)していたというが、これを止めさせ、代わりに埴輪を埋葬することを考えたのだ。古墳に行く時はこれから注意しよう。
この功績により、野見宿祢の一族は土師(はじ)氏の名を賜り、以後天皇家の葬儀などに関わる様になった。それから時代は下って天応元年(781年)、野見宿祢の子孫、近江介(おうみすけ:近江の国の公務員の役職の一つ)だった土師宿祢古人(はじのすくねふるひと)ら一族15名は朝廷に奏上し、居住地である菅原の姓に変えることを許可された。
改姓したことで、葬儀屋という印象を払拭し、一族の進む道を学問のみとし心機一転することになる。
以後、菅原家は遣唐使や侍読(じどく:簡単に言えば天皇の家庭教師)などを務める優れた学者を多く輩出した。その血統は道真公にも受け継がれて行った。
子供の頃から才能豊かだった道真公、11歳で詩をつくり、13歳では父に劣らぬ和歌を詠むようになった。その後、猛勉強の末、菅原家では初の右大臣に任命された。学者出身で右大臣になったのは吉備真備以来だったと云う。
前回のおさらいだが、その後道真公は無実の罪、天皇家の転覆を画策したという理由で太宰府へと流される。後の資料から、太宰府のすまいは「屋根は雨漏りし、官舎の入り口は草に覆われ、井戸は土砂が詰まって使えず、家の周りの垣根は壊れている」という廃屋さながらだったようだ。
その後、ご存知の通り失意のまま亡くなり、鬼神として復活し祟りが起きる。恐れた人々は神として祀るようになった。
祀られるに至る際、こんな話があった。
まずは太宰府天満宮。こちらは延喜五年(905年)、太宰府の味酒安行(まさけやすゆき)が神託により神殿を建て道真公を祀ったと云う。祀る際に道真公の神名を「天満大自在天神」とした。
道真公を祀る今一つの有名神社、北野天満宮も天暦5年(947年)、近江国の神良種(かみよしたね)の息子、太郎丸なる人物や、北野にある朝日寺の僧もご神託をうけたことが切っ掛けだった。
北野の地は元々「天神」即ち天津神(天上の神々)を祀る神社だったが、こちらに道真公を一緒に祀ることになった。しかし、だんだんと道真公の人気の方が大きくなり、元々祀られていた天津神は、主祀神の座を入れ替えられてしまった。
それだけ祀る方も神経を使ったのだろう。今日では「天神」という言葉は、本来の天津神を差すのではなく、菅原道真公になってしまった。
祟る荒ぶる神になってしまうと、もうこれは祀って崇めるしかないというのが、古くからの被害を受けないようにする考え方の一つだ。しかし、いくら祀る方が神社を建立しても、それは一方的な考え方で、建ててお参りすれば治まるというものでもないだろう。
当の祀られる荒ぶる神が、納得しないで祀ろうと思ってもそれは無理だ。かえって火に油を注ぐ事態にもなりかねない。
道真公の場合は、結果を見るに祀ることに成功した。これはやはり、道真公が元々秀才であり、また観世音菩薩を個人的に信仰していこと、有名な天台宗の僧侶と親交があったことなどから、仏教も学んでいたことが大きかったのではと思う。祟る鬼神でい続けることを良しとしなかったのだろう。付け加えるなら、目的を果たしたことである程度溜飲が下がったこともあると思う。
道真公は天満自在天として生まれ変わった。自身が謂れのない罪を着せられ苦労したこともあり、自分のような仕打ちを受けた弱者に対しては(きちんとすがってお参りする者には)必ず耳を傾けてくれると思う。
天満大自在天の御利益は、学問の向上が有名だが、農業関係の願い、そして冤罪を晴らしたいという願いには大いに御力添えを頂けると思います。

参考文献
日本の神様 読み解き事典 柏書房
鬼 新紀元社
※紅葉屋呉服店はこちらまで
先祖神は天穂日命(あまのほひのみこと)で、その子孫には相撲の神様とも呼ばれるあの野見宿祢(のみのすくね)へと繋がる。
天穂日命については、記紀神話ではこうある。
天照大御神と素戔嗚尊が誓約をした際、素戔嗚尊は天照大神から渡された八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を、天真名井の聖水を降りすすぎ、噛んで吐き捨てた。その息から五柱の神々が生まれた。その中の一柱が天穂日命だ。
菅原家の先祖神に、荒ぶる神素戔嗚尊に繋がる神様がいたというのはなるほどなと思う。
野見宿祢の有名な話は、日本最初の相撲の取り組み(?)、当麻蹴速との力比べが有名だ。この勝負では野見宿祢が勝っている。また野見宿祢は古墳に設置する埴輪を提案した人物だと云う。
その当時、身分の高い人が亡くなると、沢山の殉死者を生きたまま埋葬(!)していたというが、これを止めさせ、代わりに埴輪を埋葬することを考えたのだ。古墳に行く時はこれから注意しよう。
この功績により、野見宿祢の一族は土師(はじ)氏の名を賜り、以後天皇家の葬儀などに関わる様になった。それから時代は下って天応元年(781年)、野見宿祢の子孫、近江介(おうみすけ:近江の国の公務員の役職の一つ)だった土師宿祢古人(はじのすくねふるひと)ら一族15名は朝廷に奏上し、居住地である菅原の姓に変えることを許可された。
改姓したことで、葬儀屋という印象を払拭し、一族の進む道を学問のみとし心機一転することになる。
以後、菅原家は遣唐使や侍読(じどく:簡単に言えば天皇の家庭教師)などを務める優れた学者を多く輩出した。その血統は道真公にも受け継がれて行った。
子供の頃から才能豊かだった道真公、11歳で詩をつくり、13歳では父に劣らぬ和歌を詠むようになった。その後、猛勉強の末、菅原家では初の右大臣に任命された。学者出身で右大臣になったのは吉備真備以来だったと云う。
前回のおさらいだが、その後道真公は無実の罪、天皇家の転覆を画策したという理由で太宰府へと流される。後の資料から、太宰府のすまいは「屋根は雨漏りし、官舎の入り口は草に覆われ、井戸は土砂が詰まって使えず、家の周りの垣根は壊れている」という廃屋さながらだったようだ。
その後、ご存知の通り失意のまま亡くなり、鬼神として復活し祟りが起きる。恐れた人々は神として祀るようになった。
祀られるに至る際、こんな話があった。
まずは太宰府天満宮。こちらは延喜五年(905年)、太宰府の味酒安行(まさけやすゆき)が神託により神殿を建て道真公を祀ったと云う。祀る際に道真公の神名を「天満大自在天神」とした。
道真公を祀る今一つの有名神社、北野天満宮も天暦5年(947年)、近江国の神良種(かみよしたね)の息子、太郎丸なる人物や、北野にある朝日寺の僧もご神託をうけたことが切っ掛けだった。
北野の地は元々「天神」即ち天津神(天上の神々)を祀る神社だったが、こちらに道真公を一緒に祀ることになった。しかし、だんだんと道真公の人気の方が大きくなり、元々祀られていた天津神は、主祀神の座を入れ替えられてしまった。
それだけ祀る方も神経を使ったのだろう。今日では「天神」という言葉は、本来の天津神を差すのではなく、菅原道真公になってしまった。
祟る荒ぶる神になってしまうと、もうこれは祀って崇めるしかないというのが、古くからの被害を受けないようにする考え方の一つだ。しかし、いくら祀る方が神社を建立しても、それは一方的な考え方で、建ててお参りすれば治まるというものでもないだろう。
当の祀られる荒ぶる神が、納得しないで祀ろうと思ってもそれは無理だ。かえって火に油を注ぐ事態にもなりかねない。
道真公の場合は、結果を見るに祀ることに成功した。これはやはり、道真公が元々秀才であり、また観世音菩薩を個人的に信仰していこと、有名な天台宗の僧侶と親交があったことなどから、仏教も学んでいたことが大きかったのではと思う。祟る鬼神でい続けることを良しとしなかったのだろう。付け加えるなら、目的を果たしたことである程度溜飲が下がったこともあると思う。
道真公は天満自在天として生まれ変わった。自身が謂れのない罪を着せられ苦労したこともあり、自分のような仕打ちを受けた弱者に対しては(きちんとすがってお参りする者には)必ず耳を傾けてくれると思う。
天満大自在天の御利益は、学問の向上が有名だが、農業関係の願い、そして冤罪を晴らしたいという願いには大いに御力添えを頂けると思います。

参考文献
日本の神様 読み解き事典 柏書房
鬼 新紀元社
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