鬼に纏わる話を拾って行こうということで、しばし何から紹介しようかと思案しました。
歴史上には様々な鬼が登場する。一つ一つ調べると正直気軽にブログにして大丈夫かという気持ちになる。
例えアクセス数の少ない私のつたないブログでも、間違ったことを紹介すると怒られるのではと内心ビクビクしております。
最初の鬼は何にしようか?これをお読みの皆さんが知っていて、意外に自分の住んでいる近くにも祀られている、そういう存在が最初は良いのでは?と考えた所、この神様に辿り着いた。
学問の神様、天神様こと菅原道真公だ.。無論、天神様は全国から信仰を集める立派な神様だが、そうなる前は鬼神として恐れられていたことがあった。
個人的には子供の頃から縁があり、手を合わせるようになってから随分経つ。好きな神様だ。そんなこともあり、天神様についてはそれなりに理解しいるつもりだったが、改めて調べると知らなかったことも幾つか出てきた。まずはざっとだが簡単に菅原道真公について昔話っぽく紹介致します。
◎天神様 菅原道真公について
北野天満宮や太宰府天満宮、各地に残る天神社、天満宮のご祭神である菅原道真公は、幼少の頃より学業に励み、情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作るなど優れた才能の持ち主でした。
学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、異例の出世を重ねられた道真公は、昌泰2年(899)右大臣の要職に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括されます。
ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰4年(901)大宰権帥に左遷され、そのわずか2年後、大宰府の配所にて波乱の生涯を閉じられました。
七日七晩、天拝山に上り天の神に祭文を唱え、無実を訴えたとの言い伝えが残っています。道真公の死後、しばらくして都では異変が相次ぎました。
左大臣、藤原時平が39歳で急病に倒れ、時平の妹、隠子皇后の子、皇太子保明親王が21歳で病死しました。世人は皆、菅原公の怨霊の仕業と噂しました。朝廷も放置出来ず、道真公を本管の右大臣に復し、正二位を贈り、太宰府配流の詔書を破棄させ怨霊を慰めよう努めました。
しかし、保明親王の没後、直ちに立太子した時平の外孫、慶頼(よしより)王も延長3年(925年)、わずか5歳で亡くなり、さらに延長8年6月、清涼殿落雷という衝撃的な事件が起こりました。
この時、天皇は清涼殿の東廂(ひさし)に出座しておりましたが、御前に居合わせた大納言、藤原清貫が雷に打たれて即死したのです。この出来事を目の当たりにした天皇は病床につき、その年の9月に譲位し間もなく世を去りました。
こうして道真公は「火雷神」と呼ばれ、もっとも恐ろしい怨霊とされ、それをなだめるために各地に神社が建てられました。
その一方、学者・文人の間では早くから学問の神として崇敬されており、やがて両者が合体して天神信仰を高め、さらに学問の神としての信仰が、御霊信仰を上回って一般庶民まで広まり現代に及び、人々の生活のなかで受け継がれています。
道真公の精神は「和魂漢才」の四文字に集約されるように、自国の歴史と文化にしっかりとした誇りを持ち、他国の文化も受けいれる寛容さが特徴です。道真公が生涯一貫された「誠の心」は、今も日本人の心に生きつづけています。
また天神様の御神徳としましては、学問の向上以外に、農耕(雷神・雨)、正直・至誠、冤罪を晴らす、文学・和歌、芸能、厄除けなどもございます。
・・・という感じだ。
政権争いに巻き込まれ、無実の罪で遠方に追いやられた道真公。その恨み、怒りの凄まじさは鬼神となって祟るようになる。鬼神にならざるをえなかったその心中は、さぞ無念であっただろう。誰もが好き好んで鬼になるのではない。望まない酷い仕打ち、被害を被ることで鬼になってしまうこともあるのだ。
道真公は怨霊神という呼ばれ方もする。当初、怨霊と鬼は違うのかな?と思っていたが、鬼の意味を調べればどちらも殆ど同じに思える。明確な区別があるのかもしれないが、現状では分からない。
今回改めて調べてみて新たな発見もあった。例えば鬼神となった道真公には16万8千もの眷属(けんぞく:部下みたいなもの)がいたというものや、天神縁起の挿絵の中に、清涼殿に雷を落とす黒雲に乗った赤い鬼神があるが、この赤鬼に名前があったことなどだ。

鬼となった道真公(あるいはその眷属の名前かも)は「火雷火気毒王(からいかきどくおう)」と云う。これは知らなかった。
16万8千もの眷属がいるとか、強烈な印象を与える凄い鬼の名前など、後の人が脚色したものも多いであろうが、それは裏返せばそれだけ凄まじい力を持っている、貴方様には敵いませんという畏敬の念と、荒ぶる神の凄さを称えている表現だと思う。
また、文字や絵で残すことで、後のお参りする人達へ、道真公のことを忘れないようにしたかったという思惑もあるだろう。事実、それだけの災厄を齎し、人々を震え上がらせたのだから・・・。
次回はもう少し天神様のことについて考えてみたいと思います。
参考文献 太陽スペシャル 「天神伝説」 平凡社
参考資料 北野天満宮 HP http://kitanotenmangu.or.jp/about_michizane.php
※紅葉屋呉服店はこちら
歴史上には様々な鬼が登場する。一つ一つ調べると正直気軽にブログにして大丈夫かという気持ちになる。
例えアクセス数の少ない私のつたないブログでも、間違ったことを紹介すると怒られるのではと内心ビクビクしております。
最初の鬼は何にしようか?これをお読みの皆さんが知っていて、意外に自分の住んでいる近くにも祀られている、そういう存在が最初は良いのでは?と考えた所、この神様に辿り着いた。
学問の神様、天神様こと菅原道真公だ.。無論、天神様は全国から信仰を集める立派な神様だが、そうなる前は鬼神として恐れられていたことがあった。
個人的には子供の頃から縁があり、手を合わせるようになってから随分経つ。好きな神様だ。そんなこともあり、天神様についてはそれなりに理解しいるつもりだったが、改めて調べると知らなかったことも幾つか出てきた。まずはざっとだが簡単に菅原道真公について昔話っぽく紹介致します。
◎天神様 菅原道真公について
北野天満宮や太宰府天満宮、各地に残る天神社、天満宮のご祭神である菅原道真公は、幼少の頃より学業に励み、情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作るなど優れた才能の持ち主でした。
学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、異例の出世を重ねられた道真公は、昌泰2年(899)右大臣の要職に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括されます。
ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰4年(901)大宰権帥に左遷され、そのわずか2年後、大宰府の配所にて波乱の生涯を閉じられました。
七日七晩、天拝山に上り天の神に祭文を唱え、無実を訴えたとの言い伝えが残っています。道真公の死後、しばらくして都では異変が相次ぎました。
左大臣、藤原時平が39歳で急病に倒れ、時平の妹、隠子皇后の子、皇太子保明親王が21歳で病死しました。世人は皆、菅原公の怨霊の仕業と噂しました。朝廷も放置出来ず、道真公を本管の右大臣に復し、正二位を贈り、太宰府配流の詔書を破棄させ怨霊を慰めよう努めました。
しかし、保明親王の没後、直ちに立太子した時平の外孫、慶頼(よしより)王も延長3年(925年)、わずか5歳で亡くなり、さらに延長8年6月、清涼殿落雷という衝撃的な事件が起こりました。
この時、天皇は清涼殿の東廂(ひさし)に出座しておりましたが、御前に居合わせた大納言、藤原清貫が雷に打たれて即死したのです。この出来事を目の当たりにした天皇は病床につき、その年の9月に譲位し間もなく世を去りました。
こうして道真公は「火雷神」と呼ばれ、もっとも恐ろしい怨霊とされ、それをなだめるために各地に神社が建てられました。
その一方、学者・文人の間では早くから学問の神として崇敬されており、やがて両者が合体して天神信仰を高め、さらに学問の神としての信仰が、御霊信仰を上回って一般庶民まで広まり現代に及び、人々の生活のなかで受け継がれています。
道真公の精神は「和魂漢才」の四文字に集約されるように、自国の歴史と文化にしっかりとした誇りを持ち、他国の文化も受けいれる寛容さが特徴です。道真公が生涯一貫された「誠の心」は、今も日本人の心に生きつづけています。
また天神様の御神徳としましては、学問の向上以外に、農耕(雷神・雨)、正直・至誠、冤罪を晴らす、文学・和歌、芸能、厄除けなどもございます。
・・・という感じだ。
政権争いに巻き込まれ、無実の罪で遠方に追いやられた道真公。その恨み、怒りの凄まじさは鬼神となって祟るようになる。鬼神にならざるをえなかったその心中は、さぞ無念であっただろう。誰もが好き好んで鬼になるのではない。望まない酷い仕打ち、被害を被ることで鬼になってしまうこともあるのだ。
道真公は怨霊神という呼ばれ方もする。当初、怨霊と鬼は違うのかな?と思っていたが、鬼の意味を調べればどちらも殆ど同じに思える。明確な区別があるのかもしれないが、現状では分からない。
今回改めて調べてみて新たな発見もあった。例えば鬼神となった道真公には16万8千もの眷属(けんぞく:部下みたいなもの)がいたというものや、天神縁起の挿絵の中に、清涼殿に雷を落とす黒雲に乗った赤い鬼神があるが、この赤鬼に名前があったことなどだ。

鬼となった道真公(あるいはその眷属の名前かも)は「火雷火気毒王(からいかきどくおう)」と云う。これは知らなかった。
16万8千もの眷属がいるとか、強烈な印象を与える凄い鬼の名前など、後の人が脚色したものも多いであろうが、それは裏返せばそれだけ凄まじい力を持っている、貴方様には敵いませんという畏敬の念と、荒ぶる神の凄さを称えている表現だと思う。
また、文字や絵で残すことで、後のお参りする人達へ、道真公のことを忘れないようにしたかったという思惑もあるだろう。事実、それだけの災厄を齎し、人々を震え上がらせたのだから・・・。
次回はもう少し天神様のことについて考えてみたいと思います。
参考文献 太陽スペシャル 「天神伝説」 平凡社
参考資料 北野天満宮 HP http://kitanotenmangu.or.jp/about_michizane.php
※紅葉屋呉服店はこちら
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