滋賀県、栗東市の狛坂摩崖仏へお参りに行った。金勝山(こんぜやま)ハイキングコースの中にある摩崖仏である。
山の初心者なので、登山が趣味の友人に御同行を願いついてきてもらった。
ありがとうございます。
コースは金勝寺(こんしょうじ)の駐車場から林道を通り、馬頭観音堂がある登山口から入山するルートをとった。片道2時間弱の山道だ。

今回のスタート地点の金勝寺駐車場にあった看板に、室町時代に画かれた境内の地図があった。

上の画像が地図の上半分に当たる、金勝寺周辺の地図。
金勝寺の歴史は古く、聖武天皇の勅願により奈良の都の鬼門(丑寅:東北)を守る国家守護の祈願寺として、天平七年(733年)、良弁僧正が開基し、後に山の中に額安が山の中に伽藍を建立。八世紀の中頃までに、近江の二十五別院を総括する、金勝山大菩提寺として、法相宗興福寺の山岳仏教道場であった。
奈良時代には既に「鬼門」という発想があったのか。ということは陰陽道もその時代にあったのかもしれない。
聖武天皇は思うに、大変気の弱い方だったように思う。何よりも障りや祟りを恐れていたのではないか。歴代の天皇の中でも、最も寺院を建立した方だと思う。国分寺や国分尼寺、他寺院多数、そして巨大な大仏殿・・・。寺巡りをしていると本当に多い。その裏返しは恐れだったのではないのかと思う。
金勝寺は文治元年(1185年)11月15日、失火する。
時の住職、正心上人が再興し、大講堂、常行堂、法華堂、二月堂が建立された。平安後期には天台宗へ転宗。
その後、歴代の天皇、武家将軍から保護されるも、天文18年(1549年)大火により諸堂悉く焼失。
後奈良天皇は再建の論旨を下され、慶長14年(1599)、住職竜王院清賢法院は徳川家康に誓願したが、再建までには至らなかった。現在の本堂は400年前の仮堂である。
本尊は丈六仏の釈迦如来。

※画像はお寺で購入した絵葉書より
重要文化財指定の大きなお釈迦様。12世紀の仏像です。
古いお寺だけあり、古仏が多く残っているが、金勝寺と言えばやはりこちらの仏像が一番印象に残ると思う。
軍荼利明王像だ。

※こちらも同絵葉書より
10世紀(9世紀とも)の仏像で、こちらも重要文化財指定。
像高360.5センチ、桧の一材で彫られている。足元でお参り出来るが大きな尊像である。通常軍荼利明王は、手足に赤色の蛇を巻くが、こちらの像は修理の際に外されたらしい。かなり傷んでいたようだ。
軍荼利明王は五大明王(不動明王、金剛夜叉明王、愛染明王、降三世明王)の一角で、南方に配される。宝生如来が変化して現れた仏様である。
阿修羅、悪鬼などすべての外敵から人間を守護し、種々の生涯を取り省くという。恐ろしいほどの霊験をもたらすとされる歓喜天に対して特別な影響力があり、支配すると云う。
その姿は画像のように1つの顔に8本の腕のものもあれば、4つの顔で4本の腕、1つの顔に4本の腕のものもある。
改めて画像で拝見しても凄い仏像だが、間近で見た迫力は相当なもので、この仏様は強いと素直に思える。識者の間では当初から単独で祀られていたのでは?という見解のようだ。
個人的にはこのサイズで五大明王像があったという説の方が、ロマンがあって良いなと思うが。
山の中の寺なので、雰囲気は静かで大変落ち着く。境内の中には塔の跡や御香水館という井戸が残っている。
歴史的にも天皇家と所縁の深いお寺であるので、かつては毎年正月15日、九重御祝小豆粥の水として京都御所で献上してそうだが、明治3年(1870年)まででこの習慣は途絶えてしまった。
神仏分離令と共に無くなってしまったのだろう。 1200年の歴史の中で、災害や人の考え方で金勝寺は右往左往させられ、現在に至っている。今残っている仏像は奇跡的だと思う。
しかし古い寺院に行くと、廃仏毀釈や神仏分離令という言葉がいつも頭を巡る。人の都合で祀られたり、人の都合で捨てられる。当の神仏はどう見ているのかなと考えてしまった。

金勝寺は電話予約は無くとも参拝できるので、山の雰囲気を楽しみながらお参りしたいという方には、特にお勧めしたいお寺です。
次回は狛坂磨崖仏についてのご紹介です。お読み頂きありがとうございました。
参考文献 金勝寺で頂いたしおり
密教の本 学研
山の初心者なので、登山が趣味の友人に御同行を願いついてきてもらった。
ありがとうございます。
コースは金勝寺(こんしょうじ)の駐車場から林道を通り、馬頭観音堂がある登山口から入山するルートをとった。片道2時間弱の山道だ。

今回のスタート地点の金勝寺駐車場にあった看板に、室町時代に画かれた境内の地図があった。

上の画像が地図の上半分に当たる、金勝寺周辺の地図。
金勝寺の歴史は古く、聖武天皇の勅願により奈良の都の鬼門(丑寅:東北)を守る国家守護の祈願寺として、天平七年(733年)、良弁僧正が開基し、後に山の中に額安が山の中に伽藍を建立。八世紀の中頃までに、近江の二十五別院を総括する、金勝山大菩提寺として、法相宗興福寺の山岳仏教道場であった。
奈良時代には既に「鬼門」という発想があったのか。ということは陰陽道もその時代にあったのかもしれない。
聖武天皇は思うに、大変気の弱い方だったように思う。何よりも障りや祟りを恐れていたのではないか。歴代の天皇の中でも、最も寺院を建立した方だと思う。国分寺や国分尼寺、他寺院多数、そして巨大な大仏殿・・・。寺巡りをしていると本当に多い。その裏返しは恐れだったのではないのかと思う。
金勝寺は文治元年(1185年)11月15日、失火する。
時の住職、正心上人が再興し、大講堂、常行堂、法華堂、二月堂が建立された。平安後期には天台宗へ転宗。
その後、歴代の天皇、武家将軍から保護されるも、天文18年(1549年)大火により諸堂悉く焼失。
後奈良天皇は再建の論旨を下され、慶長14年(1599)、住職竜王院清賢法院は徳川家康に誓願したが、再建までには至らなかった。現在の本堂は400年前の仮堂である。
本尊は丈六仏の釈迦如来。

※画像はお寺で購入した絵葉書より
重要文化財指定の大きなお釈迦様。12世紀の仏像です。
古いお寺だけあり、古仏が多く残っているが、金勝寺と言えばやはりこちらの仏像が一番印象に残ると思う。
軍荼利明王像だ。

※こちらも同絵葉書より
10世紀(9世紀とも)の仏像で、こちらも重要文化財指定。
像高360.5センチ、桧の一材で彫られている。足元でお参り出来るが大きな尊像である。通常軍荼利明王は、手足に赤色の蛇を巻くが、こちらの像は修理の際に外されたらしい。かなり傷んでいたようだ。
軍荼利明王は五大明王(不動明王、金剛夜叉明王、愛染明王、降三世明王)の一角で、南方に配される。宝生如来が変化して現れた仏様である。
阿修羅、悪鬼などすべての外敵から人間を守護し、種々の生涯を取り省くという。恐ろしいほどの霊験をもたらすとされる歓喜天に対して特別な影響力があり、支配すると云う。
その姿は画像のように1つの顔に8本の腕のものもあれば、4つの顔で4本の腕、1つの顔に4本の腕のものもある。
改めて画像で拝見しても凄い仏像だが、間近で見た迫力は相当なもので、この仏様は強いと素直に思える。識者の間では当初から単独で祀られていたのでは?という見解のようだ。
個人的にはこのサイズで五大明王像があったという説の方が、ロマンがあって良いなと思うが。
山の中の寺なので、雰囲気は静かで大変落ち着く。境内の中には塔の跡や御香水館という井戸が残っている。
歴史的にも天皇家と所縁の深いお寺であるので、かつては毎年正月15日、九重御祝小豆粥の水として京都御所で献上してそうだが、明治3年(1870年)まででこの習慣は途絶えてしまった。
神仏分離令と共に無くなってしまったのだろう。 1200年の歴史の中で、災害や人の考え方で金勝寺は右往左往させられ、現在に至っている。今残っている仏像は奇跡的だと思う。
しかし古い寺院に行くと、廃仏毀釈や神仏分離令という言葉がいつも頭を巡る。人の都合で祀られたり、人の都合で捨てられる。当の神仏はどう見ているのかなと考えてしまった。

金勝寺は電話予約は無くとも参拝できるので、山の雰囲気を楽しみながらお参りしたいという方には、特にお勧めしたいお寺です。
次回は狛坂磨崖仏についてのご紹介です。お読み頂きありがとうございました。
参考文献 金勝寺で頂いたしおり
密教の本 学研
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