今年の4月。かねてよりお参りに行きたかったお寺、大阪の四天王寺に出かけた。

想像以上に大きなお寺だった。
日本仏法最初の官寺の四天王寺。四天王寺のHPによればこうある。
推古天皇元年(593)に建立。今から1400年以上も前のこと。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り「もしこの戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立された。
とある。小学生の歴史の教科書にも出てくる有名な話が残る寺だ。

四天王寺はぐるっと見て回るだけでもかなりの時間を要する。その広い境内の中で気になるものがいくつもあった。
その中でも、一番驚いたのが物部守屋を祀る祠があったことだ。
四天王寺の中心伽藍のさらに奥、太子殿と呼ばれる、聖徳太子を祀るお堂がある。四天王寺の中でも特に大切と思われる一角で、塀に囲まれている。調べてみたら聖徳太子の御廟という面もあるようだ。
その大切な霊地の中に、聖徳太子を祀る場所に、聖徳太子と敵対し討たれた物部守屋が祀られているのである。

この日は平日だったが、大勢の参拝客がいた。しかしこの守屋の祠には誰一人いなかった。何故なら祠には近寄れないよう柵が設けられていたからだ。
この画像の位置からしか守屋の祠は確認できない。しかも丁度木の枝葉が遮り、直視出来ないようになっている。ここから少し見える赤色の祠がそれである。
敵対した守屋が祀られているのも驚きだったが、お参り出来ないようになっていたのも不思議だった。
太子殿は塀に囲まれており、参拝できる位置は2か所設けられていた。一つは参拝客が太子殿を正面からお参りする位置。
もう一つは、塀沿いに歩くと現れる、太子殿を横からお参りできる位置だ。この場所には門があり閉まっていた。

この場所、門を開けるとすぐそこに太子殿があるのだが、実はこの太子殿の奥が、守屋を祀る祠になっており、どうもこの位置から手を合わすと守屋の祠が正面を向いているように造られている。
守屋の祠をこの位置からお参り出来るように門が設けられていると思うが、その祠を直視出来ないように太子殿があるのだ。
一つ一つ気になり始めると、この祠が厳重注意扱いになっているのでは?と思えてきた。
後で書籍をあさってみたが、どうも古くからの言い伝えでは、守屋は死後四天王寺に対して祟ったようである。キツツキの大群となり四天王寺を壊そうとするが、聖徳太子が鷹になりこれを追い払うというような昔話もあった。

直観だが、守屋の祠は封じ扱いになっていると思った。その一角を担っているのがこちらの弁天堂だと思う。
空中からこの周辺の様子を見ると、どうもそれらしく建物が配置されているようだ。
仏教寺院であれば、祟る相手は仏の力で供養するのが普通だ。四天王寺には神仏習合していた時代の名残りもあるので、祟る守屋を仏と習合することにより供養すればいいものを、どうもそうはせずに(出来なかった?)神として祀っているようだ。
四天王寺の災難は歴史を振り返ると多く、近年では昭和9年の室戸台風で、五重塔が倒壊、金堂は傾斜破損、仁王門(中門)も壊滅するなど、境内全域が相当な被害を被った。
昭和15年には五重塔を再建するものの、昭和20年には大阪大空襲により、六時堂や五智光院、本坊方丈など伽藍の北の一部の建物を残し、境内のほぼ全域が灰燼に帰している。
その時代を経験した僧侶達は「物部守屋が祟っているのでは?」と思ったのではないか・・・。
そんなことも考えながら、境内を散策しているとまた気になるものが出てきた。

石舞台だ。

国の重要文化財に指定されている石舞台は、毎年4月22日に行われる聖霊会の舞台でもある。
聖霊会は聖徳太子の命日を偲んで行われる、四天王寺の行事の中でも最も重要で大規模な舞楽法要で、千四百年の歴史を持つ聖霊会は、法要と舞楽が一体となった古の大法要である。
1400年の歴史を持つ祭というのも凄いが、看板を読んで引っかかったのは「聖徳太子の御霊をお慰めするもの」という箇所だ。
御霊というのは、神道で言う魂、和魂とか荒魂を指す言葉だが、怨霊という一面もある言葉だ。
聖徳太子も歴史家の中には暗殺されたという説を唱える人もいるが、この「慰める」という言葉からは、「聖徳太子も、もしかすると祟るかもしれない」という恐れる気持ちを感じた次第です。

想像以上に大きなお寺だった。
日本仏法最初の官寺の四天王寺。四天王寺のHPによればこうある。
推古天皇元年(593)に建立。今から1400年以上も前のこと。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り「もしこの戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立された。
とある。小学生の歴史の教科書にも出てくる有名な話が残る寺だ。

四天王寺はぐるっと見て回るだけでもかなりの時間を要する。その広い境内の中で気になるものがいくつもあった。
その中でも、一番驚いたのが物部守屋を祀る祠があったことだ。
四天王寺の中心伽藍のさらに奥、太子殿と呼ばれる、聖徳太子を祀るお堂がある。四天王寺の中でも特に大切と思われる一角で、塀に囲まれている。調べてみたら聖徳太子の御廟という面もあるようだ。
その大切な霊地の中に、聖徳太子を祀る場所に、聖徳太子と敵対し討たれた物部守屋が祀られているのである。

この日は平日だったが、大勢の参拝客がいた。しかしこの守屋の祠には誰一人いなかった。何故なら祠には近寄れないよう柵が設けられていたからだ。
この画像の位置からしか守屋の祠は確認できない。しかも丁度木の枝葉が遮り、直視出来ないようになっている。ここから少し見える赤色の祠がそれである。
敵対した守屋が祀られているのも驚きだったが、お参り出来ないようになっていたのも不思議だった。
太子殿は塀に囲まれており、参拝できる位置は2か所設けられていた。一つは参拝客が太子殿を正面からお参りする位置。
もう一つは、塀沿いに歩くと現れる、太子殿を横からお参りできる位置だ。この場所には門があり閉まっていた。

この場所、門を開けるとすぐそこに太子殿があるのだが、実はこの太子殿の奥が、守屋を祀る祠になっており、どうもこの位置から手を合わすと守屋の祠が正面を向いているように造られている。
守屋の祠をこの位置からお参り出来るように門が設けられていると思うが、その祠を直視出来ないように太子殿があるのだ。
一つ一つ気になり始めると、この祠が厳重注意扱いになっているのでは?と思えてきた。
後で書籍をあさってみたが、どうも古くからの言い伝えでは、守屋は死後四天王寺に対して祟ったようである。キツツキの大群となり四天王寺を壊そうとするが、聖徳太子が鷹になりこれを追い払うというような昔話もあった。

直観だが、守屋の祠は封じ扱いになっていると思った。その一角を担っているのがこちらの弁天堂だと思う。
空中からこの周辺の様子を見ると、どうもそれらしく建物が配置されているようだ。
仏教寺院であれば、祟る相手は仏の力で供養するのが普通だ。四天王寺には神仏習合していた時代の名残りもあるので、祟る守屋を仏と習合することにより供養すればいいものを、どうもそうはせずに(出来なかった?)神として祀っているようだ。
四天王寺の災難は歴史を振り返ると多く、近年では昭和9年の室戸台風で、五重塔が倒壊、金堂は傾斜破損、仁王門(中門)も壊滅するなど、境内全域が相当な被害を被った。
昭和15年には五重塔を再建するものの、昭和20年には大阪大空襲により、六時堂や五智光院、本坊方丈など伽藍の北の一部の建物を残し、境内のほぼ全域が灰燼に帰している。
その時代を経験した僧侶達は「物部守屋が祟っているのでは?」と思ったのではないか・・・。
そんなことも考えながら、境内を散策しているとまた気になるものが出てきた。

石舞台だ。

国の重要文化財に指定されている石舞台は、毎年4月22日に行われる聖霊会の舞台でもある。
聖霊会は聖徳太子の命日を偲んで行われる、四天王寺の行事の中でも最も重要で大規模な舞楽法要で、千四百年の歴史を持つ聖霊会は、法要と舞楽が一体となった古の大法要である。
1400年の歴史を持つ祭というのも凄いが、看板を読んで引っかかったのは「聖徳太子の御霊をお慰めするもの」という箇所だ。
御霊というのは、神道で言う魂、和魂とか荒魂を指す言葉だが、怨霊という一面もある言葉だ。
聖徳太子も歴史家の中には暗殺されたという説を唱える人もいるが、この「慰める」という言葉からは、「聖徳太子も、もしかすると祟るかもしれない」という恐れる気持ちを感じた次第です。
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