◎天子南面す (てんしなんめんす)
名古屋台地に建つ名古屋城も四神相応の地を選んでいる。
名古屋城は北側に建ち、城下町の殆どは城の南に固まっている。これは平野がそうなっているからだが、昔から偉い人、天皇や権力者は北に座し、南に向くと言われる。
これを「天子南面す」と云う。これは天体の中心である北極星を背負うものは、神であるという意味がある。
名古屋の地の北に建ち、南の城下町を見る名古屋城は、徳川が最高権力者であるということを意味する。
これは理屈に合っている。至極当然のことだ。
しかし、この理屈故に大須観音やその近くの七つ寺、清州から引っ越された多くの寺院が一か所に纏められ寺町となったのだと私は考える。
この場所に寺町が出来た切っ掛けは、一説にはいざ有事の時にここで踏みとどまる為の、要塞的な場所とも言われるが、どうもそれだけとは思えない。
何故、現在の大須観音周辺に寺院が寄せ集められたのか?
それはこの地に尾張氏に所縁のある、古代豪族の古墳があったからだ。

上の画像は大須演芸場の裏にある前方後円墳である。現在の姿は半分壊れ円墳になっている。
この古墳のある地に立ち四方を見渡せば寺社で固められているのが分かる。

こちらは烏枢沙摩明王を本尊として祀るお寺。

浅間神社もあった。
公園の古墳は、元々寺の敷地内にあったことも分かった。

しかも公園内の看板によれば、嘗てこの辺りには大きな古墳がいくつも存在していたこも・・・。

スケートのまおちゃんが、現役時代よく練習していたアイススケート場の地にも、嘗ては大きな前方後円墳があったのだ。


そう、大須観音周辺は古墳群が存在していたのだ。家康公の時代よりも遥かに古い霊地だったのである。
通常、当時の街造りにおいて最も気をつけねばならないのが、鬼門と裏鬼門の守りをどうするかという問題だ。
当然、名古屋城もそれには留意しているが、天海僧正が名古屋の街造りにおいて、最も気を使ったのが現在の大須観音周辺、古代の古墳群が残る霊地だったのだと思う。
家康公は名古屋城下から離れた北区の古墳群は、石垣の石を取る為壊しているが、実際の城下町の古墳はあまり手をつけていない節がある。気を使っていたようなのだ。
名古屋の新たな支配者になる徳川家を、尾張の元々の氏神とも言える豪族達の墓を見下ろす構図になる名古屋城を、彼らは許してくれるのか?敵意の対象になるのでは?と思ったのだ。
しかも古墳群の更に南には、三種の神器を神として祀る熱田神宮もあるのである。
地元の神々を敵に回してはとても敵わない・・・。
故に、神をも救うと考えられた仏教の仏達を「これでもか」と言わんばかりに集めたのが、この寺町誕生の切っ掛けだったのではと思う。城へ向かう荒ぶる力への対抗、一種の霊的バリケードである。
この寺町の要は、大須観音と七つ寺だと思う。
大須観音の本尊の出自を辿ると、大阪の四天王寺(聖徳太子の建てた最初の寺)に繋がる。
現在は戦争で焼失してしまったが、七つ寺の本尊は奈良時代の行基由来の仏像だった。
どちらも名門、有名であり、双方とも力のありそうな仏像を寺毎移築しているのだ。
ここまでは実際に足を使って調べて導いた答えだが、南方面の守りはこの寺町だけではなかった。
次回はブラタモリで知った話を元に続けてまいります。
名古屋台地に建つ名古屋城も四神相応の地を選んでいる。
名古屋城は北側に建ち、城下町の殆どは城の南に固まっている。これは平野がそうなっているからだが、昔から偉い人、天皇や権力者は北に座し、南に向くと言われる。
これを「天子南面す」と云う。これは天体の中心である北極星を背負うものは、神であるという意味がある。
名古屋の地の北に建ち、南の城下町を見る名古屋城は、徳川が最高権力者であるということを意味する。
これは理屈に合っている。至極当然のことだ。
しかし、この理屈故に大須観音やその近くの七つ寺、清州から引っ越された多くの寺院が一か所に纏められ寺町となったのだと私は考える。
この場所に寺町が出来た切っ掛けは、一説にはいざ有事の時にここで踏みとどまる為の、要塞的な場所とも言われるが、どうもそれだけとは思えない。
何故、現在の大須観音周辺に寺院が寄せ集められたのか?
それはこの地に尾張氏に所縁のある、古代豪族の古墳があったからだ。

上の画像は大須演芸場の裏にある前方後円墳である。現在の姿は半分壊れ円墳になっている。
この古墳のある地に立ち四方を見渡せば寺社で固められているのが分かる。

こちらは烏枢沙摩明王を本尊として祀るお寺。

浅間神社もあった。
公園の古墳は、元々寺の敷地内にあったことも分かった。

しかも公園内の看板によれば、嘗てこの辺りには大きな古墳がいくつも存在していたこも・・・。

スケートのまおちゃんが、現役時代よく練習していたアイススケート場の地にも、嘗ては大きな前方後円墳があったのだ。


そう、大須観音周辺は古墳群が存在していたのだ。家康公の時代よりも遥かに古い霊地だったのである。
通常、当時の街造りにおいて最も気をつけねばならないのが、鬼門と裏鬼門の守りをどうするかという問題だ。
当然、名古屋城もそれには留意しているが、天海僧正が名古屋の街造りにおいて、最も気を使ったのが現在の大須観音周辺、古代の古墳群が残る霊地だったのだと思う。
家康公は名古屋城下から離れた北区の古墳群は、石垣の石を取る為壊しているが、実際の城下町の古墳はあまり手をつけていない節がある。気を使っていたようなのだ。
名古屋の新たな支配者になる徳川家を、尾張の元々の氏神とも言える豪族達の墓を見下ろす構図になる名古屋城を、彼らは許してくれるのか?敵意の対象になるのでは?と思ったのだ。
しかも古墳群の更に南には、三種の神器を神として祀る熱田神宮もあるのである。
地元の神々を敵に回してはとても敵わない・・・。
故に、神をも救うと考えられた仏教の仏達を「これでもか」と言わんばかりに集めたのが、この寺町誕生の切っ掛けだったのではと思う。城へ向かう荒ぶる力への対抗、一種の霊的バリケードである。
この寺町の要は、大須観音と七つ寺だと思う。
大須観音の本尊の出自を辿ると、大阪の四天王寺(聖徳太子の建てた最初の寺)に繋がる。
現在は戦争で焼失してしまったが、七つ寺の本尊は奈良時代の行基由来の仏像だった。
どちらも名門、有名であり、双方とも力のありそうな仏像を寺毎移築しているのだ。
ここまでは実際に足を使って調べて導いた答えだが、南方面の守りはこの寺町だけではなかった。
次回はブラタモリで知った話を元に続けてまいります。
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