社歴や神名から神様の得意分野を確認してみたが、「相手を知る」ということは何もそれだけではない。
次に境内に目を移してみる。

池があり龍神様が祀られている。神社に古くからある訳ではない。昭和になってから近隣の人達がこの池に祀ったもの。小さい祠だが確かにいらっしゃると思った。

境内には社務所があり、お守りなどが販売していた。その社務所の前に超珍しい神様が祀られていた。歳徳神、恵方の女神である。神道の神社に陰陽道の神様が祀られていたのだ。まさかあま市の甚目寺町に歳徳神様が祀られているところがあるとは・・・。
歳徳神様については私の過去ブログ「恵方巻について」にあるので興味のある方はそちらをどうぞ。
この歳徳神様の祠、左右に稲荷像が祀られていた。豊川稲荷か。
画像は直した後だが、私が参拝した時、稲荷の左右が入れ替わっていた。お尻が祠に向いていたのだ。これはおかしいと神職の方に話したら、「あっ!ありがとうございます」とすぐに入れ替えていた。多分直さねばと思っていたものの、忘れてしまっていたのだろう。
こうやって境内にある祠を一つ一つ参拝して回っていると、意外な発見があったりする。
さて、ここで今一度社歴に話を戻す。
萱津神社には日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の伝説が残っている。古代の英雄神だ。
日本武尊はその性格の激しさ、力の強さもあり、父親の景行天皇からは、いつ死ぬか分からない戦場へと何度も送り出されていた。ある意味日本武尊は、親からは良い扱いをされていなかったと私には思える。
その日本武尊、最後の戦場が伊吹山で、伊吹山の神の攻撃で重傷を負い、それがもとで命を落としてしまう。その伊吹山での戦いの前に寄ったのがこの萱津の地であった。
その時、地元の人達は日本武尊一行をもてなし、その中で漬物を出した。
日本武尊はそれを食し、大層気に入りこう言ったとある。
「藪に香の物だな」
この日本武尊の言葉(言霊)からも、その背景を読み取ることが出来る。
最初にこの言葉を知った時「これは差別用語だ」と思った。
古語辞典によれば、「藪」とは雑草、雑木、竹などのことを指す。もてなした人たちに対する大変無礼な言葉だ。
「藪のようなお前らにしては、美味いものを出すではないか」
というような意味にもとれる。また、御祭神の鹿屋野比売神は「野の神」「草の神」でもあるので、この神様やそれを祀る人達を皮肉った言葉ともとれる。

そして最後にこの本殿が建っている位置。
大変低い位置になっている。
この地へ足を運ぶと分かるが、隣がすぐ庄内川だ。川の堤防の間近、それもかなり低い位置にこの神様は祀られているのである。
現在でこそ、この堤防もしっかり造られているので、大雨でも洪水の心配はないのかもしれないが、今ほど堤防がしっかりしていなかった時代はよく水害があったと思う。
地元の古代神を祀る場所には適さない。水害の危機がすぐ傍なのである。
日本武尊の発した言葉や、この神社の位置から考えるに、こちらの神様や、かつてこの神を祀っていた古代人達は言われなき差別を受けていたのではと思う。
鹿屋野比売神も大変苦労されていたのかもしれない。このことも相手を知るという意味では大切なことだ。
甚目寺町は今でこそ聞かなくなったが、私の父が子供だった頃は部落問題があったと聞いたことがある。
昔、川沿いの堤防を車で走っていた時、ふと堤防の下が視界に入った。
走行中だったので一瞬だったが、そこには驚くべきものが有った。
河原に墓地があったのだ。
堤防の下の萱津神社しかり、そこにしか祀れなかったのかと考えると、とても辛い気持ちになる。
昨今では日本でもヘイトスピーチが問題になっているが、なかなかこういう意識は無くならない。あってはならないことだ。言われた方の気持ちになると駄目なことはすぐに分かりそうなのに・・・。
テーマと話がそれてきたので戻そう。
神社の神様と仲良くなろうとすることは、相手を知るということが第一歩だと述べた。相手を知るには調べないといけないし、目や耳に飛び込んできた情報の点と点を結ぶことも欠かせない。そして結んだ情報を元に想像することも必要だ。
こうして、考え始めると、神様も苦労されたのだと分かる。
またそんな神様を崇め、祀って来た人達も沢山いた。
そんな心情になると、もう手を合わせた時の感じが、調べる前とでは大きく変わってきていると思います。
次回はこの萱津神社と所縁の深い、もう一つの神社をもとに解説していきます。
次に境内に目を移してみる。

池があり龍神様が祀られている。神社に古くからある訳ではない。昭和になってから近隣の人達がこの池に祀ったもの。小さい祠だが確かにいらっしゃると思った。

境内には社務所があり、お守りなどが販売していた。その社務所の前に超珍しい神様が祀られていた。歳徳神、恵方の女神である。神道の神社に陰陽道の神様が祀られていたのだ。まさかあま市の甚目寺町に歳徳神様が祀られているところがあるとは・・・。
歳徳神様については私の過去ブログ「恵方巻について」にあるので興味のある方はそちらをどうぞ。
この歳徳神様の祠、左右に稲荷像が祀られていた。豊川稲荷か。
画像は直した後だが、私が参拝した時、稲荷の左右が入れ替わっていた。お尻が祠に向いていたのだ。これはおかしいと神職の方に話したら、「あっ!ありがとうございます」とすぐに入れ替えていた。多分直さねばと思っていたものの、忘れてしまっていたのだろう。
こうやって境内にある祠を一つ一つ参拝して回っていると、意外な発見があったりする。
さて、ここで今一度社歴に話を戻す。
萱津神社には日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の伝説が残っている。古代の英雄神だ。
日本武尊はその性格の激しさ、力の強さもあり、父親の景行天皇からは、いつ死ぬか分からない戦場へと何度も送り出されていた。ある意味日本武尊は、親からは良い扱いをされていなかったと私には思える。
その日本武尊、最後の戦場が伊吹山で、伊吹山の神の攻撃で重傷を負い、それがもとで命を落としてしまう。その伊吹山での戦いの前に寄ったのがこの萱津の地であった。
その時、地元の人達は日本武尊一行をもてなし、その中で漬物を出した。
日本武尊はそれを食し、大層気に入りこう言ったとある。
「藪に香の物だな」
この日本武尊の言葉(言霊)からも、その背景を読み取ることが出来る。
最初にこの言葉を知った時「これは差別用語だ」と思った。
古語辞典によれば、「藪」とは雑草、雑木、竹などのことを指す。もてなした人たちに対する大変無礼な言葉だ。
「藪のようなお前らにしては、美味いものを出すではないか」
というような意味にもとれる。また、御祭神の鹿屋野比売神は「野の神」「草の神」でもあるので、この神様やそれを祀る人達を皮肉った言葉ともとれる。

そして最後にこの本殿が建っている位置。
大変低い位置になっている。
この地へ足を運ぶと分かるが、隣がすぐ庄内川だ。川の堤防の間近、それもかなり低い位置にこの神様は祀られているのである。
現在でこそ、この堤防もしっかり造られているので、大雨でも洪水の心配はないのかもしれないが、今ほど堤防がしっかりしていなかった時代はよく水害があったと思う。
地元の古代神を祀る場所には適さない。水害の危機がすぐ傍なのである。
日本武尊の発した言葉や、この神社の位置から考えるに、こちらの神様や、かつてこの神を祀っていた古代人達は言われなき差別を受けていたのではと思う。
鹿屋野比売神も大変苦労されていたのかもしれない。このことも相手を知るという意味では大切なことだ。
甚目寺町は今でこそ聞かなくなったが、私の父が子供だった頃は部落問題があったと聞いたことがある。
昔、川沿いの堤防を車で走っていた時、ふと堤防の下が視界に入った。
走行中だったので一瞬だったが、そこには驚くべきものが有った。
河原に墓地があったのだ。
堤防の下の萱津神社しかり、そこにしか祀れなかったのかと考えると、とても辛い気持ちになる。
昨今では日本でもヘイトスピーチが問題になっているが、なかなかこういう意識は無くならない。あってはならないことだ。言われた方の気持ちになると駄目なことはすぐに分かりそうなのに・・・。
テーマと話がそれてきたので戻そう。
神社の神様と仲良くなろうとすることは、相手を知るということが第一歩だと述べた。相手を知るには調べないといけないし、目や耳に飛び込んできた情報の点と点を結ぶことも欠かせない。そして結んだ情報を元に想像することも必要だ。
こうして、考え始めると、神様も苦労されたのだと分かる。
またそんな神様を崇め、祀って来た人達も沢山いた。
そんな心情になると、もう手を合わせた時の感じが、調べる前とでは大きく変わってきていると思います。
次回はこの萱津神社と所縁の深い、もう一つの神社をもとに解説していきます。
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