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紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

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◆考察・「天神山町」 その4 ~移築から再建・富士浅間社~

一度は移築されたものの、何かしら理由があり元の位置へまた神社を造る・・・。名古屋城の地にあった牛頭天王社はこんな経緯があったのではと思ったのは、前例があったからだ。


それが「富士浅間社」だ。

西区・富士浅間社①

名古屋城下町にあるそんなに大きくないこの神社。

西区・富士浅間社②
(以上二つの画像は西区の富士浅間社)



もともとこの場所に祀られていた神社ではない。400年ほど前に現在地へ移築された。最初に建っていた地は今で言う名古屋市の東区、「高岳(たかおか)」と呼ばれる交差点の近くにあった(以下「元浅間社」とします)。いや、移築後再建されたので、今でも残っている。

東区・富士浅間社③
(以下画像は元浅間社)

応永5年(1398年)に前山源太夫なる人物が富士浅間社(静岡)を参拝し、その御分霊を勧請したとのこと。看板を読むに近郷稀に見る霊地だったそうだ。

東区・富士浅間社②

徳川家康も参拝に来ている。そして名古屋城築城を切っ掛けにこの神社は名古屋城下町に移築が決定し壊されることになった。

東区・富士浅間社①

浅野幸長が社域に普請小屋を設けたため、神社は移築されたと云う。

元浅間社の境内には来歴はよく分からない石が今でも残っている。

東区・富士浅間社⑥

赤い桝形は一種のトレードマークか。石垣用ということで結構な大きさがある。

東区・富士浅間社⑤

この石は理由があって、元浅間社に戻された。素人目に見ても石垣としては十分使えそうな感じだったが、何か事情があり戻され埋められたのだ。


話は変わるが名古屋市の北区はかつて「古墳百墳」といわれるほど古墳があったが、現在はかなり少なくなっている。これ、実は家康公の命令を受けた加藤清正により、相当数の古墳が壊されたことによる。


古墳の中には石室とよばれる遺体を納める部屋があるが、どうもその石室に使われた石を目当てに古墳を壊していたようだ。


名古屋城は当時の例で見てもかなり大きな天守閣だ。想像以上に材料をかき集めるのに苦労したと思う。巨大な天守閣を支える石垣も凄い量が集められた。しかし、名古屋城が建つ地は山などない場所。掘れば石が出る所など近隣にはない。


故に、掘れば確実に石が出てくると分かっている箇所、古墳がターゲットになったのだ。


元浅間社の来歴には何も記されていないが、私はこの元浅間社の位置に古墳があったのではと考えている。古来からそういう場所は霊地になったり寺社が建てられることは多いからだ。そう考えたら、一度掘り出され、それが切っ掛けで異変が起こり、元の場所へ戻した・・・という理屈が通る。


元浅間社から出土した石は大きい。これは名古屋の古墳を調べた本に記されていたが、古墳の形により、使われる石のサイズが違うというのが分かった。この大きさの石が使われる古墳は、前方後円墳クラスの古墳である。


元浅間社の地名も「高岳」と呼ぶのも、この地に大きな前方後円墳があったと仮定すれば理屈に合う。あの辺りに行けば分かるが、見渡す限り平地であるのに高岳と言うからだ。


別の郷土史を読んでいたら、この元浅間社を移築した時に不思議なことがあったことが分かった。「元に戻せ!」という何者かが関係者の夢に出てきて告げたのだという。


当時の名古屋城築城について想像するに、造る方は大変な苦労を強いられたと思う。それこそ考えられる限り材料をかき集めるのに奔走した。徳川家康も古墳を壊すということを決定するまで、よーく考えたと思う。そうなると祟りが起きるかもしれないと。


石垣を集めた加藤清正と浅野幸長、そして牛頭天王の社を移築した佐久間政実(さくままさざね)。この三人に共通しているのは皆昔は豊臣方の侍だったということだ。


家康公としても、元豊臣方の侍三人に経済的打撃を与えるという目的もあっただろうが、古墳を壊したり、荒ぶる神の神社を移築するというそんな危ない仕事は、三河時代からの苦楽を共にした大事な家臣達にはとてもさせたくなかったのではと思う。


話を戻すが、名古屋城下に残る二つの牛頭天王を祀る神社の謎も、この浅間社の例で考えると案外そういうことなのでは?と思えます。


続く~


◎追記

名前は忘れたが北区には、古墳から掘り起こされたものの、何らかの理由で使わなくなった石が庭石として奉納された寺があった。





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