神社に関心を持つようになったのは20代半ば頃からであったが、大きな観光地の神社というより、誰も行かないような神社や非常に怖い神社をこの頃は探してよくお参りに行っていた。
その延長線上で、町中にある生活に密着した小さな祠にも、通りかかったりすると着目するようになったが、町の祠は圧倒的にお地蔵さんや稲荷神が多い。それに姫神系が後に続くが、お地蔵さんや稲荷神に比べると全然少ない。菅原道真公の天神様に至っては、見たことがない。
私が知っている菅原道真公の祠は、名古屋市千種区の上野天満宮近くの、セブンイレブン駐車場内にあるものだ。しかし、これは天神様が常駐している祠ではなく「御旅所」と呼ばれるもので、ある期間だけ天神様が泊まられるという祠だ。
天神様を祀っている神社は主に天満宮と言うが、どこの天満宮もちゃんとした敷地の中に祀られている。家と家の間にポツンとあるような祀られ方は私の知る限り思いつかない。これは天神様自体が嘗ては祟りまくる怨霊神であった為、丁重に祀られるからだ。
天神山の由来となった天神様の正体。それにはまず、昔の庶民にとって、名古屋城下の人々にとって一体どんな神様が身近だったのか?を突き止めることが先決になった。
まず、名古屋城が出来る前、その城周辺の土地には一体何が祭られていたかを調べてみることにした。最初に見つけたのが元々名古屋城の建っている土地(御深井丸の南)にあり、築城と共に現在地へ移転したこの神社。

その社名は「武嶋天神社」という。

「西区の歴史」という郷土資料によれば、御祭神は特定出来ていないようだ。というのも現在では御祭神が少彦名命(スクナヒコナノミコト)となっているが、尾張誌という本には天神(菅原道真)が中央、左に中将殿、右に吉祥天とあった。最初は辨財天を祀る社で何時頃からか天神社になったという説もある。

境内の少し変わった形の灯篭にはこんな文字が彫ってあった。


「志那事変記念」とある。調べたら昭和12年頃の事件なので、そのあたりに奉納されたものだろう。他には牛の石像もあった。

鳥居も含めてどれも昭和になってから設置されたものだった。牛が奉納されたということは、この頃は菅原道真公が御祭神だと誰もが信じていたのだろう。
現在の御祭神は少彦名命とあるので、どこから資料が出て来たのかハッキリしないが、菅原道真公ではなかったことだけは判明したようだ。「天神」という言葉は基本的には菅原道真公を指す言葉だが、「天津神(あまつかみ:記紀神話における天上の神々)」を指す場合もある。
しかし、この神社の御祭神については、どうにも違うように思う。
この「武嶋天神社」の読み方は「たけしま」と読むと思うが、「むとう」と読むとすれば、それは「武塔」の文字が最初に充てられていた可能性もある。そうすれば武塔天神、即ち「牛頭天王」のことだ。(吉祥天と牛頭天王というのも関係性がある)
調べていくと、名古屋城の建つ地にもともとあった神社はそれだけではなかった。弁財天と習合した宗像三神(むなかたさんしん:広島の厳島神社の御祭神)は三か所に分けて祀られていたし、他にも「亀尾天王社」や「若宮八幡社」もあったと分かった。この二つの神社はどちらも現存(移築)している。亀尾天王社は調べてみたが、牛頭天王を嘗ては祀る神社だった。
そうなると、武嶋天神社が牛頭天王だとすると、二つの牛頭天王社が名古屋城築城以前の地に祀られていたことになる。これはどういうことなのか?
次回は若宮八幡社と亀尾天王社についてもう少し掘り下げてみることにする。
その延長線上で、町中にある生活に密着した小さな祠にも、通りかかったりすると着目するようになったが、町の祠は圧倒的にお地蔵さんや稲荷神が多い。それに姫神系が後に続くが、お地蔵さんや稲荷神に比べると全然少ない。菅原道真公の天神様に至っては、見たことがない。
私が知っている菅原道真公の祠は、名古屋市千種区の上野天満宮近くの、セブンイレブン駐車場内にあるものだ。しかし、これは天神様が常駐している祠ではなく「御旅所」と呼ばれるもので、ある期間だけ天神様が泊まられるという祠だ。
天神様を祀っている神社は主に天満宮と言うが、どこの天満宮もちゃんとした敷地の中に祀られている。家と家の間にポツンとあるような祀られ方は私の知る限り思いつかない。これは天神様自体が嘗ては祟りまくる怨霊神であった為、丁重に祀られるからだ。
天神山の由来となった天神様の正体。それにはまず、昔の庶民にとって、名古屋城下の人々にとって一体どんな神様が身近だったのか?を突き止めることが先決になった。
まず、名古屋城が出来る前、その城周辺の土地には一体何が祭られていたかを調べてみることにした。最初に見つけたのが元々名古屋城の建っている土地(御深井丸の南)にあり、築城と共に現在地へ移転したこの神社。

その社名は「武嶋天神社」という。

「西区の歴史」という郷土資料によれば、御祭神は特定出来ていないようだ。というのも現在では御祭神が少彦名命(スクナヒコナノミコト)となっているが、尾張誌という本には天神(菅原道真)が中央、左に中将殿、右に吉祥天とあった。最初は辨財天を祀る社で何時頃からか天神社になったという説もある。

境内の少し変わった形の灯篭にはこんな文字が彫ってあった。


「志那事変記念」とある。調べたら昭和12年頃の事件なので、そのあたりに奉納されたものだろう。他には牛の石像もあった。

鳥居も含めてどれも昭和になってから設置されたものだった。牛が奉納されたということは、この頃は菅原道真公が御祭神だと誰もが信じていたのだろう。
現在の御祭神は少彦名命とあるので、どこから資料が出て来たのかハッキリしないが、菅原道真公ではなかったことだけは判明したようだ。「天神」という言葉は基本的には菅原道真公を指す言葉だが、「天津神(あまつかみ:記紀神話における天上の神々)」を指す場合もある。
しかし、この神社の御祭神については、どうにも違うように思う。
この「武嶋天神社」の読み方は「たけしま」と読むと思うが、「むとう」と読むとすれば、それは「武塔」の文字が最初に充てられていた可能性もある。そうすれば武塔天神、即ち「牛頭天王」のことだ。(吉祥天と牛頭天王というのも関係性がある)
調べていくと、名古屋城の建つ地にもともとあった神社はそれだけではなかった。弁財天と習合した宗像三神(むなかたさんしん:広島の厳島神社の御祭神)は三か所に分けて祀られていたし、他にも「亀尾天王社」や「若宮八幡社」もあったと分かった。この二つの神社はどちらも現存(移築)している。亀尾天王社は調べてみたが、牛頭天王を嘗ては祀る神社だった。
そうなると、武嶋天神社が牛頭天王だとすると、二つの牛頭天王社が名古屋城築城以前の地に祀られていたことになる。これはどういうことなのか?
次回は若宮八幡社と亀尾天王社についてもう少し掘り下げてみることにする。
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