では次に「簠簋内伝金烏玉兎集(ほきないでんきんうぎょくとしゅう:以下、玉兎集)」における牛頭天王縁起について触れてみることにする。かなり詳細に書かれてあり、全て紹介するのは大変なので、「備後国風土記」との違う箇所を挙げてみる。話の筋はだいたい同じなので、おそらく玉兎集の牛頭天王縁起は、備後国風土記を基本としていると思う。
◆「玉兎集版:牛頭天王縁起」の相違点
◎序文がある
北天竺の摩訶陀国の霊鷲山(りょうじゅせん)の東北、波尸那城(はしなじょう)の西にあたる吉祥なる天の下に王舎城という都城があり、その大王を商貴帝(しょうきてい)と言った。
商貴帝は天竺の神々の王である帝釈天に仕え、天界に住んでいた。この時、商貴帝は諸々の星の世界の監督目付の仕事を帝釈天から授かり、世界を飛び回っていた。その時の名を天刑星と言った。
やがて天刑星は天界を離れることとなる。今度は人間界に転生し、王舎城の大王、商貴帝になったのだ。こうして地に下った天刑星であったが、その後、名前を牛頭天王と改めた。鋭く尖った二本の角、黄牛の面貌をした牛頭天王の姿はまるで人を傷つけ、食らうことを生業をする夜叉のようであった。
しかし、そんな恐ろしい姿からは想像できなかったが、国を治めるその姿は素晴らしかった。国民は富み、国は豊かに栄えていた。国民は皆幸せであったが、由一の心配事は牛頭天王のその恐ろしい容貌のため、妃がいないことだった。
そんなある時、牛頭天王の元に帝釈天の使いの青い鳥が現れ、海の向こうの龍宮にすむ三女が、あなたの妻になると伝えた。これに喜んだ牛頭天王は嫁探しの旅に出た。
◎巨旦との戦い
以後は備後国風土記をベースにしている。宿を断った巨旦(こたん)、逆に宿を提供した蘇民、数年後、蘇民一家以外皆殺しという話だ。
しかし、かなり風土記と違う箇所も多々ある。それを挙げてみよう。
①宿を借りに行った巨旦は人間ではなく、人々を苦しめる巨旦大王という鬼の王で、その国民は全て魑魅魍魎の類だった。
②宿を探す牛頭天王へ「蘇民なら泊めてくれる」と促した女性がいた。
③龍宮の姫と結婚し、八柱の子供(八王子)を授かった牛頭天王は、それぞれの子供たちに軍備を整えさせ、巨旦の住む鬼の城 に襲撃をかける。
④牛頭天王と八王子の襲撃を知った巨旦大王は1000人の僧侶の力を借り結界を貼るが、一人が居眠りしていたので、結界が一部綻び、そこを突かれたことで侵入を許し絶滅する。
⑤牛頭天王を泊めた蘇民一家と、蘇民を案内した女は助かる。後は全滅。女は「急々如律令」という札を牛頭天王から得ていた。
⑥牛頭天王は巨旦の躰をバラバラ(五つに分けた)にし、五節句に配当し巨旦調伏の祀りを行った。
そして数年後、長者となり大きな屋敷を建てた蘇民将来は、牛頭天王と八王子が来るのを待っていた。そして蘇民の家に挨拶に来た牛頭天王達を迎え入れた蘇民はこんな話を牛頭天王から聞いた。
◎五節句の意味
①牛頭天王は「末の世には、自分は疫病の神になり、八王子も諸国を暴れ回るだろう」と伝える。
②「末法の世(仏の教えがすたる頃)、人々は三毒に侵され、世は乱れ、寒熱二病を受ける。この病は牛頭天王と八王子の障りである。それを逃れたいのなら蘇民将来の子孫であると述べよ。そして障りを受けたくなければ五節句をしっかりと執り行い、二六の秘文(何かは不明)を守って厚く信敬するように」と伝えた。
③牛頭天王は蘇民に五節句の意味を伝えた。それは・・・
・1月1日の紅白の鏡餅は「巨旦の骨肉」
・3月3日に供える蓬の草餅は「巨旦の皮膚」
・5月5日の菖蒲のちまきは「巨旦の髭と髪」
・7月7日の小麦の素麺は「巨旦の筋」
・9月9日の黄菊の酒は「巨旦の血脈」
であるという。また蹴鞠の鞠は「巨旦の頭」、的は「巨旦の目」、正月の門松は「巨旦の墓」であると蘇民に伝えた。
◆ここまでを考える。
玉兎集においては、牛頭天王は祟り神になる前は偉大な王であったこと。巨旦が鬼の王であったことなどが違う点だ。これらを読むに、「牛頭天王は偉大であり、恐るべき神である」ということを読んだ人に分からせるよう、畏敬の念を抱かせるように書き込まれたのではと思える。
しかし、ちまきや鏡餅が、牛頭天王に殺された巨旦の躰だったという箇所は寒気が走る。
巨旦の躰の一部を模した供え物は、牛頭天王への感謝の気持ち、相手が喜ぶお祭りであり、そのお供えを頂くことは牛頭天王と、それを供えて祀った人間は同族ですよという解釈なのだ。だから、疫病は来ないでくださいという意味なのである。
かくに恐るべき牛頭天王であるが、この神を祀るのが、祇園祭で有名な京都の八坂神社、津島祭りで有名な愛知県の津島神社だ。そして牛頭天王の御子息である八王子は、八王子神社のことなのです。
続く~
南無観世音菩薩 南無観世音菩薩 南無観世音菩薩・・・。

画像は観音様です。ネットより
◆「玉兎集版:牛頭天王縁起」の相違点
◎序文がある
北天竺の摩訶陀国の霊鷲山(りょうじゅせん)の東北、波尸那城(はしなじょう)の西にあたる吉祥なる天の下に王舎城という都城があり、その大王を商貴帝(しょうきてい)と言った。
商貴帝は天竺の神々の王である帝釈天に仕え、天界に住んでいた。この時、商貴帝は諸々の星の世界の監督目付の仕事を帝釈天から授かり、世界を飛び回っていた。その時の名を天刑星と言った。
やがて天刑星は天界を離れることとなる。今度は人間界に転生し、王舎城の大王、商貴帝になったのだ。こうして地に下った天刑星であったが、その後、名前を牛頭天王と改めた。鋭く尖った二本の角、黄牛の面貌をした牛頭天王の姿はまるで人を傷つけ、食らうことを生業をする夜叉のようであった。
しかし、そんな恐ろしい姿からは想像できなかったが、国を治めるその姿は素晴らしかった。国民は富み、国は豊かに栄えていた。国民は皆幸せであったが、由一の心配事は牛頭天王のその恐ろしい容貌のため、妃がいないことだった。
そんなある時、牛頭天王の元に帝釈天の使いの青い鳥が現れ、海の向こうの龍宮にすむ三女が、あなたの妻になると伝えた。これに喜んだ牛頭天王は嫁探しの旅に出た。
◎巨旦との戦い
以後は備後国風土記をベースにしている。宿を断った巨旦(こたん)、逆に宿を提供した蘇民、数年後、蘇民一家以外皆殺しという話だ。
しかし、かなり風土記と違う箇所も多々ある。それを挙げてみよう。
①宿を借りに行った巨旦は人間ではなく、人々を苦しめる巨旦大王という鬼の王で、その国民は全て魑魅魍魎の類だった。
②宿を探す牛頭天王へ「蘇民なら泊めてくれる」と促した女性がいた。
③龍宮の姫と結婚し、八柱の子供(八王子)を授かった牛頭天王は、それぞれの子供たちに軍備を整えさせ、巨旦の住む鬼の城 に襲撃をかける。
④牛頭天王と八王子の襲撃を知った巨旦大王は1000人の僧侶の力を借り結界を貼るが、一人が居眠りしていたので、結界が一部綻び、そこを突かれたことで侵入を許し絶滅する。
⑤牛頭天王を泊めた蘇民一家と、蘇民を案内した女は助かる。後は全滅。女は「急々如律令」という札を牛頭天王から得ていた。
⑥牛頭天王は巨旦の躰をバラバラ(五つに分けた)にし、五節句に配当し巨旦調伏の祀りを行った。
そして数年後、長者となり大きな屋敷を建てた蘇民将来は、牛頭天王と八王子が来るのを待っていた。そして蘇民の家に挨拶に来た牛頭天王達を迎え入れた蘇民はこんな話を牛頭天王から聞いた。
◎五節句の意味
①牛頭天王は「末の世には、自分は疫病の神になり、八王子も諸国を暴れ回るだろう」と伝える。
②「末法の世(仏の教えがすたる頃)、人々は三毒に侵され、世は乱れ、寒熱二病を受ける。この病は牛頭天王と八王子の障りである。それを逃れたいのなら蘇民将来の子孫であると述べよ。そして障りを受けたくなければ五節句をしっかりと執り行い、二六の秘文(何かは不明)を守って厚く信敬するように」と伝えた。
③牛頭天王は蘇民に五節句の意味を伝えた。それは・・・
・1月1日の紅白の鏡餅は「巨旦の骨肉」
・3月3日に供える蓬の草餅は「巨旦の皮膚」
・5月5日の菖蒲のちまきは「巨旦の髭と髪」
・7月7日の小麦の素麺は「巨旦の筋」
・9月9日の黄菊の酒は「巨旦の血脈」
であるという。また蹴鞠の鞠は「巨旦の頭」、的は「巨旦の目」、正月の門松は「巨旦の墓」であると蘇民に伝えた。
◆ここまでを考える。
玉兎集においては、牛頭天王は祟り神になる前は偉大な王であったこと。巨旦が鬼の王であったことなどが違う点だ。これらを読むに、「牛頭天王は偉大であり、恐るべき神である」ということを読んだ人に分からせるよう、畏敬の念を抱かせるように書き込まれたのではと思える。
しかし、ちまきや鏡餅が、牛頭天王に殺された巨旦の躰だったという箇所は寒気が走る。
巨旦の躰の一部を模した供え物は、牛頭天王への感謝の気持ち、相手が喜ぶお祭りであり、そのお供えを頂くことは牛頭天王と、それを供えて祀った人間は同族ですよという解釈なのだ。だから、疫病は来ないでくださいという意味なのである。
かくに恐るべき牛頭天王であるが、この神を祀るのが、祇園祭で有名な京都の八坂神社、津島祭りで有名な愛知県の津島神社だ。そして牛頭天王の御子息である八王子は、八王子神社のことなのです。
続く~
南無観世音菩薩 南無観世音菩薩 南無観世音菩薩・・・。

画像は観音様です。ネットより
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