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紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

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福井の仏像 ~白山を仰ぐ人々と仏たち~ その②

今回の展示会ではいろいろと考えさせられたが、その中の一つに五智如来像があった。この仏様は2015年の5月に福井の秘仏巡りツアーに参加した時にお参りした。

その時の写真がこちら。

大日如来修復後

まさかまたこうしてお姿をお参り出来るとは思わなかったが、五智如来とは画像の大日如来を中心とした阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、宝生如来の五つの如来のこと。

この大日如来像は平安時代のもので、現在の姿は修復されたものである。修復前の姿がこちら。

大日如来修復前

比べると全然顔が違う。これは平安時代に作られた仏様が、江戸期に修理された際、顔が変わってしまった例だ。これを調査した結果、江戸時代の直しの下に平安時代の顔があることが分かった。


今回の展示会の図録には、その時の修復の様子が載せられていた。


福井の仏像 釈迦如来2

こちらが同じ五智如来の一つ、釈迦如来像だが、江戸期の修復履歴があるらしい。


これを先の大日如来と同じく、丁寧に調べたら、やはり顔の下に平安時代の釈迦如来のお顔があった。


福井の仏像 釈迦如来3

お化粧のパックみたいにズルッと剥ける感じだ。

福井の仏像 釈迦如来4

これが剝がされた江戸期の修復部分。顔や体の部分までごっそり紙や漆で盛られていた訳である。

福井の仏像 釈迦如来1

で、こちらが出てきた平安時代の姿を補修した現在の御姿。いかにも古像という雰囲気だ。

今回展示こそなかったが、この日参加した薬師如来をテーマにした講義の中で、五智如来の修復と同じケースの薬師如来が、やはり福井のとあるお堂にあるとの話があった。

福井の仏像 薬師如来3

赤・青・金色という目に厳しい配色の薬師如来像だ。

この像も、直した箇所の下には古い顔があると地元の人達に伝えた所、「ならば本来の姿にしたい」との意向を受け、現在表面の漆を剥がす作業をしているとのこと。

福井の仏像 薬師如来2

これが修理中の写真だが、もう全然違う。元の方が遥かにカッコイイ。


講義の中で「なるほど」と思ったのは、解体修理して判明したが、造像に用いられた木が雷に打たれた痕跡がある木材を使っていたことだった。この薬師如来像も霊木像だったのだ。


また、この修理中の薬師如来像がある地域は港町、海岸沿いであるが、この海岸沿いには薬師如来を祀るお堂が他にもいくつかあるらしい。古くからの港町に薬師如来像が多いのは、外からくる災いを退ける意味があったのかもというお話だった。


これはつまり、薬師如来自体が病気を治すご利益があるが、昔は病気=厄神や怨霊のせいと考えられていたので、それらを封じる、退ける力をもっていたのが薬師如来と考えられていたからだ。


話を戻すが、どちらの仏像も江戸期の修理の折、顔や姿をすっぽり隠すような形で手直しされていた。


こう言った直し方の例は地方にしかないのかなぁと思ったが、帰宅後に京都の超有名寺院でも似たような例があったと思い出した。京都駅から五重塔が見える、教王護国寺、所謂「東寺」の宝物館に祀られる大きな千手観音像だ。


東寺千手観音2

春・秋の一時期しか公開されていない宝物館の2階にある、像嵩5メートルを超える素晴らしい千手観音像(重要文化財)だ。個人的には多くの仏像が遺る東寺の中で、一番好きな仏像だったりする。


実はこの千手観音、元は宝物館ではなく、境内にある食堂という建物の中に祀られていたが、昭和5年に火災にあい千本あった手は焼失し焼けただれてしまった。

燃える前の姿が蔵書にあったので拝借するが、こんな感じだった。

東寺千手観音1

この千手観音、東寺に残る古文書と照らし合わせることで、過去に何度か修理されていることが分かった。

①900年頃に完成してから30年ほど後に、足元が損傷し修理。

②元久元年(1204年:鎌倉時代)に2年をかけて修理

③嘉禄3年(1227年)7月7日、千手観音転倒(おそらく修理)

④延宝8年(1680年:江戸時代)

⑤天保2年(1831年)

⑥蔓延元年(1860年)


また怪我の功名ではないが、炭化した部分を丁寧に調べることで、顔が江戸期の顔、鎌倉期の顔、そして平安の顔があったと分かった。福井のパックされたような仏像と同じような直し方がしてあったのだ。千手観音像は修復の際、どの時代の顔にするか議論し、結果的に現在拝観できる、造像当初の平安の顔になった。


都には当然、地方とは違い腕の良い仏師がいたし、官寺である東寺には豊富な資金力もあったと思う。しかし何度かあった修理の機会ごとに、少なくとも2回は顔を全て隠すような修理をした。平安時代の顔を活かした修理も充分可能であったにも関わらず、あえてそれをしなかった。

 
これは、千手観音を彫った木が強力な巨大な霊木であったので、その強すぎる力を少しでも抑えるように顔を新たに覆ったのではと思う。
 
 
私はまだお参りしたことがないが、関東の方には「覆面観音」という平安時代の千手観音像がある。これはあまりにも力の強い仏像で、人が挑発するような行為をすると容赦なく仏罰が当たる為、その力を抑えるために仮面をつけたという。今でも仮面の下のお顔は公開していないようだ。これは千手観音ではなく、彫られた霊木の怒りによるものだと思う。

覆面観音
(画像はネットより)


この話を踏まえて考えると、東寺の千手観音像や、福井の薬師如来像や五智如来像のように、元の姿が見えないようにパックする直し方の真意は、「全部包み隠した方が安全ではないか?」という発想があったからだと思う。


ひょっとしたら、全てを包み隠さずにはおられない、何か事件があったのかもしれない。


展示会場で平安当時の姿に修復された仏像は、とても迫力があった。


江戸時代にこの仏像の修理をした、当時の仏師の心境を考えると、今の姿よりも痛みもあった筈だから、更に畏れ多い仏像に見えたのでは?と思います





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