本年10月、兵庫県の鶴林寺と朝光寺の御開帳に家族で出かけた。
どちらも素晴らしいお寺だったが、この旅で一番印象に残ったのは
鶴林寺から朝光寺に向う途中でたまたま見つけた木梨神社だった。

参道の両脇は田んぼで、鳥居を潜りまっ直ぐ進み、高速道路の下を通り抜けると
神社が見えた。


崇神天皇の代(BC148~BC29)に物部八十手が、この地に八十枉津日神(やそまがつひのかみ)を
祀ったのが始まりで、その後、将軍彦座命が丹波の賊を征伐した際、当地において神託があり、
神社を創建されたという。

感想としてはキツイ感じを受ける神社だった。
参道入り口にあった看板には、この地に残る昔話が記されていた。
「多田池の伝説」と云うものだ。
昔、昆陽池(行基が造らせた池)の辺りをある巡礼者が通った際、若い女性から
「○○の家にこの手紙を届けて欲しい」と手紙が入った文箱を託された。
巡礼者はこれを引き受け家を探したが、家は見当たらなかった。
仕方なく文箱を開けたら中から小さな蛇が現れ、蛇は草むらに隠れてしまった。
やがてこの蛇は成長し大蛇となり、池(多分これが多田池)のほとりの氏神さまを
お参りする人を呑むようになった。
困り果てた人々を救う為、藤田村の三郎大夫という若者が蛇退治に名乗り出た。
三郎大夫は瓢箪に火薬を詰め、それを藁人形に仕掛け、社前に置き鈴を鳴らした。
やがて大蛇が現れ人形を丸呑みするが、火薬が爆発しのた打ち回った。
大蛇が暴れた際、堤防が壊れ家が沢山流され、ずっと下流で止まった。※1
水が流れたのを見た神社の神主が、神前で御幣を振って祈った所、
水が逆流し多くの人が助かった。※2
水のすっかり無くなった池は水田になり、人々が住むようになった。
・・・というものだ。とても興味深い昔話だ。
神社の境内を歩いていると他にも社があるのに気付いた。

その中の一つに、大蛇を退治した若者の社があった。
何時頃から有るのかは定かではないが、若者は神として祀られていた。

これ、実はとても稀なケースである。何故ならその土地でしか祀られていない神は、
明治の廃仏毀釈の折、殆どが古事記に登場する有名な神々に変ってしまっているからだ。
ひょっとすると一度は無くなったが戦後になって地元の人達の手により
復活したのかもしれない。
しかしこの神社と来歴、土地に残る多田池の伝説・・・。
調べれば調べるほど謎だらけでる。
多田池の伝説からは「女性・箱・蛇・行基の池・火薬・鈴・逆流・御幣」等のキーワードが気になる。
神社名の「木梨(こなし)」も気になったので調べてみたら「木梨軽皇子」という
允恭天皇(いんぎょうてんのう)の第一皇子に因んだものであった。
何でも皇子が幣帛(へいはく)を捧げられた因縁からきたらしい。
そしてこの皇子、最後は自害していた…。
私が住んでいる愛知県からは遠い神社なので、すぐ行ける訳ではないが、
機会があればこの周辺を調べてみたい。
それだけ魅力溢れる神社でした。
※1…現在ではこの辺りのことを「家原」と云う。
※2…現在では「逆川」と云う。
また蛇がのたうち回ったことから「蛇ころび」や「蛇枕」という地名もあるそうです。
どちらも素晴らしいお寺だったが、この旅で一番印象に残ったのは
鶴林寺から朝光寺に向う途中でたまたま見つけた木梨神社だった。

参道の両脇は田んぼで、鳥居を潜りまっ直ぐ進み、高速道路の下を通り抜けると
神社が見えた。


崇神天皇の代(BC148~BC29)に物部八十手が、この地に八十枉津日神(やそまがつひのかみ)を
祀ったのが始まりで、その後、将軍彦座命が丹波の賊を征伐した際、当地において神託があり、
神社を創建されたという。

感想としてはキツイ感じを受ける神社だった。
参道入り口にあった看板には、この地に残る昔話が記されていた。
「多田池の伝説」と云うものだ。
昔、昆陽池(行基が造らせた池)の辺りをある巡礼者が通った際、若い女性から
「○○の家にこの手紙を届けて欲しい」と手紙が入った文箱を託された。
巡礼者はこれを引き受け家を探したが、家は見当たらなかった。
仕方なく文箱を開けたら中から小さな蛇が現れ、蛇は草むらに隠れてしまった。
やがてこの蛇は成長し大蛇となり、池(多分これが多田池)のほとりの氏神さまを
お参りする人を呑むようになった。
困り果てた人々を救う為、藤田村の三郎大夫という若者が蛇退治に名乗り出た。
三郎大夫は瓢箪に火薬を詰め、それを藁人形に仕掛け、社前に置き鈴を鳴らした。
やがて大蛇が現れ人形を丸呑みするが、火薬が爆発しのた打ち回った。
大蛇が暴れた際、堤防が壊れ家が沢山流され、ずっと下流で止まった。※1
水が流れたのを見た神社の神主が、神前で御幣を振って祈った所、
水が逆流し多くの人が助かった。※2
水のすっかり無くなった池は水田になり、人々が住むようになった。
・・・というものだ。とても興味深い昔話だ。
神社の境内を歩いていると他にも社があるのに気付いた。

その中の一つに、大蛇を退治した若者の社があった。
何時頃から有るのかは定かではないが、若者は神として祀られていた。

これ、実はとても稀なケースである。何故ならその土地でしか祀られていない神は、
明治の廃仏毀釈の折、殆どが古事記に登場する有名な神々に変ってしまっているからだ。
ひょっとすると一度は無くなったが戦後になって地元の人達の手により
復活したのかもしれない。
しかしこの神社と来歴、土地に残る多田池の伝説・・・。
調べれば調べるほど謎だらけでる。
多田池の伝説からは「女性・箱・蛇・行基の池・火薬・鈴・逆流・御幣」等のキーワードが気になる。
神社名の「木梨(こなし)」も気になったので調べてみたら「木梨軽皇子」という
允恭天皇(いんぎょうてんのう)の第一皇子に因んだものであった。
何でも皇子が幣帛(へいはく)を捧げられた因縁からきたらしい。
そしてこの皇子、最後は自害していた…。
私が住んでいる愛知県からは遠い神社なので、すぐ行ける訳ではないが、
機会があればこの周辺を調べてみたい。
それだけ魅力溢れる神社でした。
※1…現在ではこの辺りのことを「家原」と云う。
※2…現在では「逆川」と云う。
また蛇がのたうち回ったことから「蛇ころび」や「蛇枕」という地名もあるそうです。
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