岐阜県揖斐郡春日村中山にある小西神社に行って来た。
伊吹山付近なので周りは山。


山と山の間に家がある、そんな感じだ。
お目当ての小西神社は村の鎮守さまである六社神社の近くにあった。

六柱の神々が祀られているとこらから、この社名になったようだ。
やはりお寺でも神社でも山の中にあるものは迫力がある。
それは建物の見事さというより、場の雰囲気から来るものだろう。

神社の中には仏像を祀るお堂があった。
県の文化財に指定されているが、拝観は出来ない。
事前に予約が必要だと思う。

今回の目的である小西神社はこの神社の脇にある登り口から上がれるようになっていた。

小西神社の御祭神は戦国武将の小西行長だ。
手元の資料によれば、関ヶ原の戦いで西軍についていた小西行長は、
戦に負けたあとこの伊吹山麓辺りの中山村に逃げのび匿われる。

しかし、追っての徳川軍が懸賞金を掛けたため、隣村の村人が密告してしまう。
中山村の村人が密告したと思った小西行長は、呪いの言葉を吐いた。
それは生まれて来る子供に災いがくるよう、村が焼き払われるよう、という恐ろしいものだった。
その後、行長の言霊の通りの出来ごとがおきた。
残った村人は行長の祟りだと騒ぎ、やがて彼が残した小刀を埋めて墓を建て、
位牌をお寺に置き供養した。
時は流れ1923年(大正時代)、村にとある僧が立ちよった。僧は
「私の所に小西行長の霊が現れ『中山が私を仏として扱うのは不快なり』と申された。
今後は神として祀るように・・・。」と言った。
そして仏教式で祀られていた小西行長は、神として神社で祀られる事になったと云う。
その神社はどこななく寂しい感じのする小さなお社だった。

不思議なのは、きちんと仏教式で供養されていたのに
行長本人は気に入らなかったということだ。
気になったので調べてみたら、彼は切支丹大名であった。
何でも追っ手に捕まった後、切腹を命じられたが行長はこれを拒否。
よって斬首されたとあった。
侍が切腹を拒否と聞くと最後のあがきかと思ってしまうが、
切支丹であったなら納得である。
何故ならキリスト教では自害は禁じられているからだ。
死してなお怨霊となった小西行長、仏として祀られるより神として祀られなければ
納得しなかったのだろう。
亡くなってから長い間、仏教式で祀られていたが数百年後ようやく神として祀られ
村人達により社を建てられた。この場所に来てみて分かったが、小西行長の社は
村の鎮守様や仏を祀っている御堂よりも更に高い場所に建てられている。
それを見るに、今なお村人達からは畏敬の対象としてそこにあるのだなと思った。
伊吹山付近なので周りは山。


山と山の間に家がある、そんな感じだ。
お目当ての小西神社は村の鎮守さまである六社神社の近くにあった。

六柱の神々が祀られているとこらから、この社名になったようだ。
やはりお寺でも神社でも山の中にあるものは迫力がある。
それは建物の見事さというより、場の雰囲気から来るものだろう。

神社の中には仏像を祀るお堂があった。
県の文化財に指定されているが、拝観は出来ない。
事前に予約が必要だと思う。

今回の目的である小西神社はこの神社の脇にある登り口から上がれるようになっていた。

小西神社の御祭神は戦国武将の小西行長だ。
手元の資料によれば、関ヶ原の戦いで西軍についていた小西行長は、
戦に負けたあとこの伊吹山麓辺りの中山村に逃げのび匿われる。

しかし、追っての徳川軍が懸賞金を掛けたため、隣村の村人が密告してしまう。
中山村の村人が密告したと思った小西行長は、呪いの言葉を吐いた。
それは生まれて来る子供に災いがくるよう、村が焼き払われるよう、という恐ろしいものだった。
その後、行長の言霊の通りの出来ごとがおきた。
残った村人は行長の祟りだと騒ぎ、やがて彼が残した小刀を埋めて墓を建て、
位牌をお寺に置き供養した。
時は流れ1923年(大正時代)、村にとある僧が立ちよった。僧は
「私の所に小西行長の霊が現れ『中山が私を仏として扱うのは不快なり』と申された。
今後は神として祀るように・・・。」と言った。
そして仏教式で祀られていた小西行長は、神として神社で祀られる事になったと云う。
その神社はどこななく寂しい感じのする小さなお社だった。

不思議なのは、きちんと仏教式で供養されていたのに
行長本人は気に入らなかったということだ。
気になったので調べてみたら、彼は切支丹大名であった。
何でも追っ手に捕まった後、切腹を命じられたが行長はこれを拒否。
よって斬首されたとあった。
侍が切腹を拒否と聞くと最後のあがきかと思ってしまうが、
切支丹であったなら納得である。
何故ならキリスト教では自害は禁じられているからだ。
死してなお怨霊となった小西行長、仏として祀られるより神として祀られなければ
納得しなかったのだろう。
亡くなってから長い間、仏教式で祀られていたが数百年後ようやく神として祀られ
村人達により社を建てられた。この場所に来てみて分かったが、小西行長の社は
村の鎮守様や仏を祀っている御堂よりも更に高い場所に建てられている。
それを見るに、今なお村人達からは畏敬の対象としてそこにあるのだなと思った。
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