~続き
弁財天に関する昔話を拾っていくと、「そんな願いでも聴くの?」と思う事がある。
今回の例も、相手を滅ぼす願いをするのは人間であるが、結果的にはそれを聴き、
為し遂げている。(源氏の天下も途絶えてしまったが)
何故、弁財天は人を滅ぼす願いをも叶えてしまうのか?
ヒントは意外なところで出会った。
昨年、滋賀県の常楽寺にお参りに行ったとき、堂内にびんずる尊者像があった。
びんずる尊者像はお寺でよく見かける羅漢さんで、病の箇所を触ると治るとされている。
この時も、「びんずるさんか・・・。」位にしか思わなかったが、常楽寺さんには説明書きがあった。
それは、びんずる尊者は神通力(病や怪我を治した)を使った為、釈迦から破門され、
今なお涅槃に入ることを許されていないと言うものだった。
これを知った時は衝撃的だった。
釈迦の有能な弟子が、教えを知らずにいたとは思えない。
びんずる尊者は神通力を使用した際、覚悟を決めていたのだと思う。
目の前の苦しむ人を、まずは救うと決めた。例え釈迦に破門になっても・・・。
お釈迦さまが言わんとした事は理解出来る。人が真の苦しみから脱却するには、
表面的な事では無く、心の問題を解決しなければならないからだ。
かと言ってびんずる尊者が100%悪いとは言えない。
奇跡ばかりを求めてはいけないとは思うが、奇跡を体験することで御仏を信じる人もいるからだ。
愛弟子を破門にしたお釈迦様も、破門覚悟で神通力を使ったびんずる尊者もどちらも凄い。
そこにはそれぞれの覚悟と信念が観えた。
話を戻すが、弁財天の場合は己自身に強烈な願掛けをされたのだと思う。
願いの根底にあるのは苦しみである。人間は目の前に苦しみがあるとそれに囚われてしまう。
囚われたままでは、本来の人がしなければならない悟りへの道へは進めない。
「まずは苦しみは減らす事を優先せねばならない」と、弁天様は考えたのではと思う。
故に「どんな願いも聞く」と覚悟を決められたのだ。
弁財天の「弁」の字は「辨」とも書く。
「辨」の字は」「辛」「リ」「辛」からなる。「リ」は刀、これは弁財天が持つ因縁を断ち切る刀だろう。
「辛」が二つある意味は、願いによっては、例えば相手の不幸を願う場合、
それを聞く弁財天も「辛い」し、呪われた相手、あるいは呪った方も「辛い」となる・・・。
平氏滅亡を願った北条政子の願いは、裏返せばそれが苦しみだった。
しかし、それでも人を呪う願いを神仏に託すというのはいけない。
自分も相手も喜べる願いの方が健全だ。
弁天様へのお参りを続ける内、気付き考えた事を纏めてみたが、
この解釈が正しいかどうか分からない。しかし、どうもそんな気がしてならない。
おしまい。
弁財天に関する昔話を拾っていくと、「そんな願いでも聴くの?」と思う事がある。
今回の例も、相手を滅ぼす願いをするのは人間であるが、結果的にはそれを聴き、
為し遂げている。(源氏の天下も途絶えてしまったが)
何故、弁財天は人を滅ぼす願いをも叶えてしまうのか?
ヒントは意外なところで出会った。
昨年、滋賀県の常楽寺にお参りに行ったとき、堂内にびんずる尊者像があった。
びんずる尊者像はお寺でよく見かける羅漢さんで、病の箇所を触ると治るとされている。
この時も、「びんずるさんか・・・。」位にしか思わなかったが、常楽寺さんには説明書きがあった。
それは、びんずる尊者は神通力(病や怪我を治した)を使った為、釈迦から破門され、
今なお涅槃に入ることを許されていないと言うものだった。
これを知った時は衝撃的だった。
釈迦の有能な弟子が、教えを知らずにいたとは思えない。
びんずる尊者は神通力を使用した際、覚悟を決めていたのだと思う。
目の前の苦しむ人を、まずは救うと決めた。例え釈迦に破門になっても・・・。
お釈迦さまが言わんとした事は理解出来る。人が真の苦しみから脱却するには、
表面的な事では無く、心の問題を解決しなければならないからだ。
かと言ってびんずる尊者が100%悪いとは言えない。
奇跡ばかりを求めてはいけないとは思うが、奇跡を体験することで御仏を信じる人もいるからだ。
愛弟子を破門にしたお釈迦様も、破門覚悟で神通力を使ったびんずる尊者もどちらも凄い。
そこにはそれぞれの覚悟と信念が観えた。
話を戻すが、弁財天の場合は己自身に強烈な願掛けをされたのだと思う。
願いの根底にあるのは苦しみである。人間は目の前に苦しみがあるとそれに囚われてしまう。
囚われたままでは、本来の人がしなければならない悟りへの道へは進めない。
「まずは苦しみは減らす事を優先せねばならない」と、弁天様は考えたのではと思う。
故に「どんな願いも聞く」と覚悟を決められたのだ。
弁財天の「弁」の字は「辨」とも書く。
「辨」の字は」「辛」「リ」「辛」からなる。「リ」は刀、これは弁財天が持つ因縁を断ち切る刀だろう。
「辛」が二つある意味は、願いによっては、例えば相手の不幸を願う場合、
それを聞く弁財天も「辛い」し、呪われた相手、あるいは呪った方も「辛い」となる・・・。
平氏滅亡を願った北条政子の願いは、裏返せばそれが苦しみだった。
しかし、それでも人を呪う願いを神仏に託すというのはいけない。
自分も相手も喜べる願いの方が健全だ。
弁天様へのお参りを続ける内、気付き考えた事を纏めてみたが、
この解釈が正しいかどうか分からない。しかし、どうもそんな気がしてならない。
おしまい。
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