~続き
「かごめかごめ」の童歌、次は「鶴と亀が崇部(すうべ)った」についてだ。鶴亀は縁起物の象徴である。とてもメデタイことが、すべった訳だ。言葉通りに解釈すると悲惨なイメージがある。
しかし、これは「ツルッと(昔の言葉だと「つーっと」)亀が崇部った」であった。そう、鶴ではなくコケタ時の擬音を意味しているのだ。滑ったのは鶴亀でななく、亀だけだという訳だ。
だが、亀のお腹は平だし、四足である。亀は滑っただけではコケはしない。つまり、表向きでは鶴亀がズッコケタと解釈されがちだが、真の意味は「鶴亀は無事だった」ということになる。
また「崇」は「あがめる」と読む。部をつけると「あかべ」つまり「あっかんべ」であった。この言葉も諸説あるが、相当古い日本語のようだ。現代語だと拒否とか否定という意味になる。
最後に超難関な「後ろの正面誰」である。これも暦を見ればよく分かった。辨財天は蛇と関係が深いと述べた。つまり、暦で言う所の巳の方位、その真反対を見よと言う意味だった。
(辨財天:巳の)後ろ(亥)の正面(亥の前)には何がいるのか?と言う事だ。亥の前には人間を病気にしてしまうという「病府」と言うやっかいな疫病神が回座している。
また、今年は巳の前に「病府」よりも更に恐ろしい「死府」という疫病神がいる。しかし、辨財天は厄除けの神(厄介なものを閉じ込める:籠目のこと)である。辨財天は自らの真後ろにある病府を押さえつける。そうする事によって目の前に死府が来ていても意味をなさなくなるのだ。
人は健康→病気→死という過程を経る。病気が無くなれば死も遠ざかるということだ。神道には呪術の一つとして「後ろでの所作」という、おまじないがある。憎い相手に掛ける呪詛の一つだ。辨財天は「病府」に背を向けたまま、それを無効にしたのである。
長くなってきたので、今日はここまでにします。次回は「後ろでの所作」を紹介します。
続く~
「かごめかごめ」の童歌、次は「鶴と亀が崇部(すうべ)った」についてだ。鶴亀は縁起物の象徴である。とてもメデタイことが、すべった訳だ。言葉通りに解釈すると悲惨なイメージがある。
しかし、これは「ツルッと(昔の言葉だと「つーっと」)亀が崇部った」であった。そう、鶴ではなくコケタ時の擬音を意味しているのだ。滑ったのは鶴亀でななく、亀だけだという訳だ。
だが、亀のお腹は平だし、四足である。亀は滑っただけではコケはしない。つまり、表向きでは鶴亀がズッコケタと解釈されがちだが、真の意味は「鶴亀は無事だった」ということになる。
また「崇」は「あがめる」と読む。部をつけると「あかべ」つまり「あっかんべ」であった。この言葉も諸説あるが、相当古い日本語のようだ。現代語だと拒否とか否定という意味になる。
最後に超難関な「後ろの正面誰」である。これも暦を見ればよく分かった。辨財天は蛇と関係が深いと述べた。つまり、暦で言う所の巳の方位、その真反対を見よと言う意味だった。
(辨財天:巳の)後ろ(亥)の正面(亥の前)には何がいるのか?と言う事だ。亥の前には人間を病気にしてしまうという「病府」と言うやっかいな疫病神が回座している。
また、今年は巳の前に「病府」よりも更に恐ろしい「死府」という疫病神がいる。しかし、辨財天は厄除けの神(厄介なものを閉じ込める:籠目のこと)である。辨財天は自らの真後ろにある病府を押さえつける。そうする事によって目の前に死府が来ていても意味をなさなくなるのだ。
人は健康→病気→死という過程を経る。病気が無くなれば死も遠ざかるということだ。神道には呪術の一つとして「後ろでの所作」という、おまじないがある。憎い相手に掛ける呪詛の一つだ。辨財天は「病府」に背を向けたまま、それを無効にしたのである。
長くなってきたので、今日はここまでにします。次回は「後ろでの所作」を紹介します。
続く~
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