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2022-06-29

◆霊符とは? 第5回 神農と蚩尤

前回で神農のことが出て参りました。黄帝の御先祖にあたる薬の神様です。「農」という文字があるように農業の神でもあります。


今回のブログ趣旨は霊符についてのものですが、調べている内に神農と蚩尤について興味が出てきたので、少し脱線します。


黄帝の御先祖にあたるのが神農です。手元の資料によれば古代中国の最も有名な皇帝の一人で漢方薬の祖とあります。


実際にいた人なのか?それとも神様なのか?死んでから神となったのかは分かりません。日本の神社でも実際にいた人が死後神となった例もありますし、古事記に出てくる神々は、本当は実在した人間では?と思うこともあります。


さてこの神農、その姿は人身牛頭で姓を姜(きょう)と云います。生後三日目に言葉を話し、5日目に歩き、7日目には歯が生えるなど異常な速さで成長し、成人した時には3メートルに及びました。


神農は太一皇人(たいいつこうじん)なる人物が医学の大家であることを聞き、教えを請いに出かけましたが、本人不在の為会うことは出来ませんでした。しかし、太一皇人の弟子から天元玉冊という書物を授かります。


その思想に感銘を受けた神農は、各地に人を派遣し草木を集めさせ、自分の身体を実験台としてその汁を舐めました。多い時は一日で70種類もの毒草をなめ、その効能を調べました。


その中には強烈な毒草もあり、100回毒草に当たるも、100の薬草をみつけて生き返ったとの話もありました。そんな地道な命懸けの努力の結果、神農は365種類の薬を考案しました。


神農は自分の研究成果を本に纏めました。それが「神農本草」です。残念ながらこの本は現存していませんが、後に道教の大家、陶弘景(とうこうけい)がそれを基に「神農本草経」を完成させました。明の時代になると「本草綱目(ほんぞうこうもく)」が編纂され、漢方薬が確立しました。


神農は日本でも薬を生業とする人たちの間では信仰されているようで、日本で最初の神農に纏わる記録としては、寛永15年(1638)、幕府が江戸の牛込に御薬園(農事試験場)開設した際、園内に神農を祀る御堂を建てたというものがありました。


また、神農は降雨を自在に操ることが出来た雨師でもあったそうです。


神農について調べてみましたが、気になった個所が出てきました。


①神農の姿は蚩尤(しゆう)と同じ、人身牛頭である。

②蚩尤は天候を操るが、神農もまた雨を自在に降らす。




なにかもう神農と蚩尤は同族のような気がしてきました。蚩尤を調べますと81人の兄弟がいるとか、神農の子孫という話も出てきました。そうなると同じ神農の子孫である黄帝とは同族対決ということになります。


日本における道教は、陰陽道に形を変えて残りました。その陰陽道では、恐るべき祟り神の王ともいえる牛頭天王様が出てきます。八坂神社や津島神社にかつて主祀神として祀られていた神様です。牛頭天王様は密教に出会ったことで薬師如来と習合されましたが、祟り神時代はあらゆる病の王でもありました。
  
 
※牛頭天王様については過去ブログ参照 

 
その牛頭天王様も顔が牛なのです。人身牛頭の姿の、病を治す薬の王である神農とは真逆の存在です。陰陽道のルーツを辿ると道教に行き着くとするならば、神農と同じ姿の荒ぶる神であった蚩尤が、ひょっとすると牛頭天王様と関係あるやもしれません。もしくは同じ兄弟が81人いたということなので、その中の誰かかも・・・。本当のところは分かりませんが、大変興味深い神話です。

ミノタウロス
画像はミノタウロス


参考文献 学研     道教の本
       新紀元社  日本の神々 多彩な民族神たち  戸部民夫 著


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2022-06-24

◆霊符とは?第4回 黄帝(こうてい)

霊符とは? 第二回で、黄帝という人物が出てきました。中国の伝説的な皇帝です。今回は黄帝についてもう少し掘り下げたいと思います。


黄帝は神農(しんのう)の後裔です。神農とは道教に登場する薬の神様です。炎帝とも呼ばれます。今日でも東洋医学で御世話になっている人も多いであろう漢方薬の神様と言っても良いでしょう。黄帝はその神農から数えて8代目の子孫にあたります。 


第二回でも述べましたが、黄帝は蚩尤(しゆう)という怪物と戦い勝利した英雄でもあります。しかし黄帝は蚩尤に簡単に勝てた訳ではありません。


強大な力をもっていた黄帝ですが、開戦直後は蚩尤に全く歯が立たず敗走しました。蚩尤は風雨や濃霧を自由に操ったということなので、どれだけ軍事力があったとしても人間では敵う訳がなかったのです。


その様子を見ていた天の神が蚩尤を打ち破るために黄帝に授けたのが、霊宝五符真文などのいくつかの武器でした。この天の神が西王母(せいおうぼ)と云われています。


黄帝は天の神から授かった武器を手に蚩尤との決戦に挑みます。蚩尤は凄まじい暴風雨で攻め立てますが、黄帝は旱(ひでり)の神を呼び寄せ風雨を蹴散らし、ついに蚩尤を倒しました。


その後、黄帝は戦乱が起こるたび、蚩尤を画いた絵を持ち出し戦いに臨みました。


敵はその絵を見ると戦意を失くし、降参しました。黄帝は晩年、多くの仙人と会い、神仙修道の法を学び、最後は天から降りて来た龍の背に跨り昇天したと云われています。


天候を自在に操る蚩尤、もはやそれは日本的に言うなれば荒ぶる神と言えます。しかし、黄帝にも神様が味方しました。蚩尤との戦いでは「旱の神を呼び寄せ」とあるので、これは西王母から授かった武器の中に神を呼び出す武器・道具(霊符)があったのでしょう。


神様が応援したくなる、せざるをえないような立派な人が黄帝ということです。どこの国でも神様はちゃんと人を観ているということですね。



158002.jpg


参考文献 学研 道教の本

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2022-06-20

◆霊符とは? 第3回  出土例

霊符の「霊」とは神霊、あるいは霊妙という意味があり、「符」は竹冠がついていることから分かるように、元々は「竹製の割符」のことを言いました。
 

古代中国の人々は記号を記した竹片を割って半分ずつ持ち、事があるとその半片を合わせ、お互いが約束を交わした印としました。
 

「史記」によれば、古くは戦国時代(紀元前403年~前221年)に診陵君という人物が、虎符(兵符)を使って趙を救ったという話があります。この虎符というのは、虎の形に作った銅製の割符で、王とその配下の将軍が半分ずつ持ち、兵を発するにあたり、それが偽りの命令ではないことを確認するためのものでした。
 

前漢(紀元前202年~紀元後8年)以前の符には、符薬、符信、竹使符、銅使符などと呼ばれるものがありました。これらは単に君臣間において、その約束事を保証する一種の印に過ぎず、霊符としての働きはもっていませんでした。
 

いわゆる現世利益を目的とした霊符の最古の例は、後漢(25年~220年)時代の墓から発見されました。それは陝西省(せんせいしょう)戸県の墓から出土した陶瓶に朱書された霊符で「陽嘉二年八月己巳朔」と書かれています。陽嘉二年は西暦133年です。鎮墓符と考えられていますが、用途は不明です。
 

また江蘇州高郵県の墓から出土した木簡にも「急如律令」などの語とともに霊符が記されています。その他にも年代は記されていませんが、多数の霊符が洛陽、定州、高ゆうなどの後漢の墓から出土しています。
 

日本ですと平城京の遺跡から急々如律令と書かれた木簡が出ていますが、何らかの呪(まじな)いかと思われます。
 

霊符の種類は大変多く、財運招来、開運招福、厄災消除、健康長命、家内安泰、恋愛成就、破魔破邪等々多岐に亘ります。

霊符イラスト



参考文献 学研 霊符全書 大宮司朗著


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2022-06-20

◆伊勢志摩 潮仏

家族で伊勢神宮に参拝に行きました。この日の行程は、伊勢神宮(内宮)参拝→伊勢志摩の海女小屋で食事→真珠の養殖場で真珠取り出し体験という流れでした。

 
昼食後、真珠の養殖場見学の予約時間まで、一時間ほど空いたので近くにお寺とか神社とかないかと探して見つけたのが潮仏と呼ばれる場所でした。

 
真珠の養殖場からもそんなに離れていなかったので、ここへお参りに行くことになりました。


ナビが示した場所は、かなり狭そうな道でしたので、通行止めになってるとまずいと思い、潮仏近くの漁港に車をとめ歩くことに。


潮仏1


画像右側に小さな鳥居がありますが、ここが潮仏と呼ばれる場所です。


この鳥居がこちらです。

潮仏4

仏というと寺のイメージでしたが、入り口は鳥居です。神仏習合の匂いがします。

潮仏2

ぱっとみ寺と思しき建物はありませんでした。小さなお堂や祠といったものもありません。

鳥居を潜り、潮仏が祭られている場所がこちらです。

潮仏5

ここが祈りの場です。

鳥居の近くに来歴を記した看板がありました。

潮仏3

それによると、こうありました。その昔(いつの頃からかは不明)石仏のお地蔵様がこの浦で祀られていた。ある時、村人の弥吉老人が昼寝をしていると夢にお地蔵さまが現れた。

 
お地蔵さんは、


「我は御座浦の地蔵菩薩なり。古くより因縁を感じてこの処に姿を現す。至心に祈願せんものには誓って腰より下の病室を治すべし。我海水の浸すところに在りて、諸人の為に常に代わりて苦忠を洗浄せん。必ず高所に移すことなかれ」


というお告げがありました。この霊夢の話を聞いた村人たちは、迷いの雲が晴れたように地蔵尊に帰依し、日参して病苦の平癒を祈願して御仏の慈悲にすがったというものです。ご利益は婦人の腰から下の病、子宝、安産、生理を調節などとあります。人それぞれの願いをかけて救いを求めてもよしということですが、看板からは女性の信仰が強いのかなと思いました。


潮仏とはお地蔵さんでした。しかも全国でおそらくここだけの海中の仏です。潮が引かないとその姿は分からないということです。

潮仏7

この場に立った時、一体どこにお地蔵さんがあるかは全く分かりませんでした。しかし、よく辺りを見渡すと、線香を置く場所があります。どうもこの位置がお地蔵さんの正面のようです。


後で調べてみましたが、どうもこの赤い矢印の小さな岩がお地蔵さんのようです。


潮仏8

海水に浸かっているのでよく分かりませんでしたが、とくに仏像が彫ってある訳ではなさそうです。なんの変哲もないこの小さな岩がお地蔵さんなのです。


神道では木や岩が神様が宿るご神体として祀られるケースがありますが、あれと同じ感じがしました。一木一草皆仏。木にも草にも仏性は宿るという話を聞いたことがありますが、ただの岩がお地蔵さんであるのも、そう考えれば違和感はありません。
 
 
そこには確かにお地蔵さまが宿っているのでしょう。


この岩の横に石仏がありました。

潮仏9


潮水で摩耗していますが、確かにお地蔵さんです。これが本尊かと思いましたが、こちらは昭和になってから奉納されたお前立のようです。ある意味、潮の満ち引きにより御開帳がある天然の秘仏と言えます。


潮仏6


海中のお地蔵さんの後ろには岩があり、鳥居が立っています。方位を調べるのを忘れていたのが悔やまれますが、何か意味があるのやもしれません。


しかし、不思議なお地蔵さんです。


女性の下半身の病気、安産とか子宮に関する病に良いとうのは、やはりこの辺りは海女さんが多いので、体を冷やしたり酷使することで病気になったり、冷えることで生理不順になってしまうことが多かったのかなと推測します。子供の出産も命がけだったでしょう。それゆえに女性の信仰をより集めたお地蔵さんなのだと思いました。仏教ではお地蔵さんもお釈迦様と同じで人間時代があったとされていますが、人間だった頃は女性でした。


海女の歴史も調べましたが弥生時代!からあったそうです。そういえば昼食で訪れた海女小屋で、海女さんから話を聞きましたが、ウエットスーツを着るようになってから大分寒さが気にならなくなったと言っていました。


女性の参拝者が多い、ご利益が女性向けというのは分かりましたが、何故海中なのか?それは村人がそうしたのではなく、地蔵菩薩が自ら海中に祀られることを望んだ・・・。


現場にいた時は答えが出ませんでしたが、このブログを纏めているときに「あっ!」と思い出したことがありました。滋賀県の伊崎寺に伝わる古くからある行事、「竿飛び」です。


伊崎寺は琵琶湖に面した半島にある修行寺です。今は半島ですが昔は島だったそうです。竿飛びとは琵琶湖に突き出た木製の長い竿から僧侶が琵琶湖に飛び込む行事です。お寺のHPから引用しますとこうありました。


「伊崎寺で毎年8月1日の千日会に行われる棹飛びは、水面から数メートルの高さに突き出した棹の突端から琵琶湖へと飛び降りる雄壮な行事です。長きにわたって地域の人々から親しまれているのはもちろん、全国的にも知られ、伊崎寺の代名詞ともいえます。伝承では1000年近く続いてきたといわれており、文献的にも16世紀にはすでに行われていたことが確認されています。」


続けて引用します。


一人の行者が棹の先端まで歩き湖に飛び込むというのは、「捨身(しゃしん)の行」、つまり報恩や他者救済のため、自らを犠牲にして仏道を求める修行の姿です。行者は人々のさまざまな願いを背負っています。」


「棹というのはいわば『人生』、行者は多くの願いを背負いながら先まで歩き、自分の身よりも人々の願いのためにわが身を捨ててそこから飛び込み、そしてまた陸に帰る=生まれ変わります。この行は「再生」の意味合いも持っているのです。」

IMG_2832.jpg
(伊崎寺の竿飛び)

ようやく納得できました。


お地蔵様が自ら海中に潜った理由は、捨身の行だったのです。生活の為に、生きていくために冷たい海に潜らねばならない海女達。体を壊したり亡くなってしまうことも多々あったのでしょう。

 
お地蔵様はそんな海女達の為に、漁が無事終わるように、体を壊さぬように自らが救済の為に海に潜り身代わりとなる。そして命を落としてしまった人は再生できるよう地蔵菩薩の浄土へと導く・・・そういうことだと思います。


私は今まで好きな寺のお参りは、どちらかというと古い仏像を目当てにしていくことが多かったです。仏像は素晴らしいし、そこに魂があり芸術性もあります。今でも時間があればお寺参りはしたいと思っています。

 
しかし、この潮仏のようにただの岩が、実は古仏に匹敵するような尊いものであると気付くことが出来ました。この伊勢旅行では最も感動したのがこちらの潮仏でした。いつか干潮の時にお参りに再訪したいものです。

潮仏10

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2022-06-13

◆霊符とは? 第2回 生まれた背景

道教は中国独自の宗教です。宗教であれば、そこには様々な神々が登場します。道教も然りです。
 

道教に登場する神々の中で、至高の神と言われているのが玉皇大帝(ぎょっこうたいてい)です。
 

日本の神仏習合のように、道教の神様もあっちの神様が、実はこっちの神様と同体というように、少々ややこしいところがあります。例えば、玉皇大帝は至高の神という位置づけですが、道教における最高神は三清という三人(?)の神様です。
 
 
元始天尊、聖宝天尊、道徳天尊の三神です。この内の道徳天孫が、老師が神格化した存在、「太上老君(たいじょうろうくん)」の別名、同じ神様という解釈だそうです。

 
道徳天孫=太上老君=老子です。
 
 
かと思えば、老師が神格化した太上老君が、先程の道教の至高神「玉皇大帝」と報身・応身の関係にあると言われています。報身・応身の関係とは、言葉を変えると神の本体が報身、神の本体が姿を変えて現れたのが応身という感じです。
 

道徳天孫=太上老君=玉皇大帝=老子です。


更に、この玉皇大帝には別名があり、三天太上道君(さんてんたいじょうどうくん)とも言います。この二神も報身・応身の関係のようです。即ち、


道徳天孫=太上老君=玉皇大帝=三天太上道君=老子


となります。姿は変われど、本質は皆同じということです。調べ始めて最初にこの辺がこんがらがった訳ですが、これおそらく、道教の成立には民間の伝承や考え方なども多数取り込まれているのが原因かと思います。これが正しい!と自信をもって言える学者はいなさそうです。先に進みましょう。


霊符には様々な種類がありますが、そのルーツを辿ると二つの霊符が基本となっているようです。


「東方結気門(とうほうけっきもん)」「五岳真形図(ごがくしんぎょうず)」です。


この二つの霊符が出現した経緯の話が道教の神話に出てきます。このようなものです。



三天太上道君が大宇宙の元気※の動きを伺っている時、東方の元気が発動し、そこに自然と気が凝り結んで(結気)、文を成すものが現れた。この結気の文の形を三天太上道君が書写したものが「東方結気文」と云う。
 

三天太上道君が五岳をしっかりと立てられた後、天に飛翔し、虚空から地上を見下ろして、大きな海に大小の川、大小高低のある山岳などが蛇のように曲がりくねった様を、自らの神眼に映じるままに写したものが「混沌五岳真形図」である。
 

この二つが霊符の始めと云われる。
 

三天太上道君は「東方結気文」と「五岳真形図」を自らの住む宮殿の奥深くに封印。霊威の徳が備わり、高位の位階に至った真人にのみこれを与えた。五岳真形図には三皇内文という文字がしたためられている。これは三天太上道君が発した、神々に対する命令で、「五岳真形図」をもつ者を、一切の神々は守護するように、大神から命ぜられている。
 

五岳真形図を最初に授かった人物が黄帝である。黄帝は牛頭人身の怪物、蚩尤(しゆう)と戦った際、「霊宝五符真文」という勝利を約束する霊符などを授けられ、蚩尤を打ち破ったという。
 



・・・というものです。


この神話のように、霊符とはその起源を辿ると、元来、古神仙が天地自然の数象を写し取ったものであり、神々が人に授けたものであると云われ、霊符には神々の力が宿っていると信じられ、様々な現世利益が得られると云われています。
 



霊符のデザインは多岐に亘り、漢字らしきものもあれば、何と表現して良いか分からない記号や線で構成されています。その摩訶不思議な図像を見ていると、これは神から授かったものであるのであれば、なるほどという感じがします。


※元気・・・万物を生み出す根源となる気。


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老子


参考文献 霊符全書 大宮司朗著 学研
2022-06-08

◆霊符とは? 第1回 道教について

神社やお寺で分けて頂く御札。主に御祈祷をしてくれるお寺には魔除けの御札があったり、自分で家でお参りするための御札があったりします。

 
神社で頂ける、その神社で祀られている神様の御札、お寺で頂ける仏様の御札・・・。


御札の歴史を調べると、もともと神道や仏教には御札的なものは無かったように思えます。日本の場合、陰陽道がそのルーツであるようです。
 
 
陰陽道のルーツを辿ると中国の道教に行き着きます。中国独自の宗教です。道教はその範囲がめちゃくちゃ広く、基本は中国独自の神や仙人といった存在が中心にいますが、それに儒教や仏教が取り込まれ複雑化しています。加えてシャーマニズムや易学、五行、漢方薬まで色々なものが取り込まれているから尚更です。
 
 
道教は元々自然発生的に生まれた宗教で何か教祖的な人が始めたものではないようです。明確に定義づけできない民族的な道教を民衆道教と言います。

 
それに対して成立道教というものもあります。これは戦国時代に起源を発する老荘思想が、漢の初期に少しずつ歴史の表舞台に現れ、六朝時代に入り、貴族や知識人を中心に大流行した際、それに合わせるように民間信仰として急速に教義が整えられていった道教のことです。


成立道教を調べると、その源流は二つの道教宗教団体に行きつきます。後漢末期(2世紀)に現れた太平道と五斗米道です。


この当時、政治の混乱や過酷な税金、天災や飢饉によって農民の生活は非常に貧しいものでした。家や財産を失くし多くの人々が流民となりました。このような状況の中、心の支えとして宗教が求められました。

 
そんな中、張角という道家が指導者となり、道教の教えをといて出来た宗教団体が大平道です。張角の教えは「太平清領書」と云う書物を基にしていたようです。その内容は陰陽五行説や子孫を得るための術、シャーマンにかかわるものなど雑多な内容を含んでいました。

 
張角は自らを大賢良師と称し、もっぱら病気治療による教説流布をはかり、10余念の間に信徒を数十万!も獲得したそうです。


その後、184年には黄巾の乱がおきました。太平道の信者たちが一斉に武装蜂起したのです。。これは中国初の宗教反乱でした。日本でも織田信長がいた時代にもこうした一揆がありましたね。
 
 
この黄巾の乱、子供の頃漫画で読んだ「三国志」に出てきてたのを思い出しました。あれは道教の宗教団体だったと初めて知りました。
 
 
太平道は蜂起して1年で朝廷から派遣された軍隊に敗れ、その後急速に縮小、途絶えたようです。


このブログは霊符のことを記そうと思いますので、道教の歴史はまだまだ続きますが、このあたりでまずは締めたいと思います。次回は霊符について調べたいと思います。

仙人

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参考文献

学研 道教の本




プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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