2021-05-19
◆新聞から観る新型コロナ
疱瘡神についてのブログを以前上げました。このブログを纏めるにあたり、新型コロナウィルスは日本では(感染者多数の国と比べて)奇跡的に低い感染者数で推移しているなと思いました。
中日新聞は毎週土曜日に折れ線グラフや棒グラフを通じて、大変分かりやすく現状を紹介してくれているので助かります。
5月8日にあった折れ線グラフはこんな感じです。

(クリックで拡大)
100万人当たりの国別新規感染者数の推移ですが、日本は依然低空飛行を続けています。イギリス型・インド型といった変異株の報道が賑やかになっていますが、若干上がっていますが、まぁ殆ど変わっていないと言っても差し支えないように思えます。
5月15日の新聞には世界地図を色分けした致死率が上がっていました。

(クリックで拡大)
これを見ると、日本のコロナ感染者の致死率は2%以下です。以前のブログにもありますが、コロナ感染者の内、重症化する確率は5.5%です。
またこんな数字もありました。感染者数と死者数の累計です。

これによると、日本の場合計算すると1.6%くらいが致死率になります。
死者58万人越えのアメリカ。現在大きな被害を受けているインドで死者25万人越えですが、致死率で言えば日本と同じ2%以下です。これは感染者数が圧倒的に多い(分母が日本より大きい)からです。

折れ線グラフを見て気づきましたが、日本よりも遥かに感染者数が多いイギリス。ワクチンを接種したイギリス国民は50%になっているそうですが、接種率が上がるにつれ新規感染者数が激減しています。そんな報道を聞いたこともあります。
確かにワクチンの効果なのでしょうが、日本の場合、接種率で言えばほとんどの国民がワクチンを打ってないにも拘らず、ワクチン接種効果で激減したというイギリスと同水準です。
ワクチンをほぼ打ってない日本の新規感染者数が、ワクチンをかなりの人数が接種しているイギリスの新規感染者数とほぼ同じ。
これも事実です。日本の場合、ワクチン要るのか?と言うのが素直な感想です。
新型コロナ、とりわけ変異株の感染力の強さを最近はよく見聞きします。日本の新規感染者数は1年3か月かかって667182人です。
(5/15時点で)
過去を振り返るにインフルエンザが大流行した場合を調べると一週間で173万人ということもありました。
1週間で173万人と1年3か月で66万人・・・。感染力の強さで言えばインフルエンザのが強いように思います。新型コロナの感染者数は、アメリカの3200万人、インドの2300万人と比べれば、66万人の日本はかなり低いようにも思えます。
後は、感染後重症化しない人は94.5%。感染しても生存する人は98.4%。重症化した人の致死率は約29%(7割は生還)・・・。この数字をどう見るかです。ワクチンをほぼ打っていない日本の場合の数字です。
本当に日本は新型コロナが流行っているのか? 重症化率5.5%、致死率1.6%は震え上がるほど恐ろしいウィルスなのか?ですね。私はド素人ですので、致死率1.6%はお医者さん的には恐ろしい数字という可能性もありますが。
中日新聞は毎週土曜日に折れ線グラフや棒グラフを通じて、大変分かりやすく現状を紹介してくれているので助かります。
5月8日にあった折れ線グラフはこんな感じです。

(クリックで拡大)
100万人当たりの国別新規感染者数の推移ですが、日本は依然低空飛行を続けています。イギリス型・インド型といった変異株の報道が賑やかになっていますが、若干上がっていますが、まぁ殆ど変わっていないと言っても差し支えないように思えます。
5月15日の新聞には世界地図を色分けした致死率が上がっていました。

(クリックで拡大)
これを見ると、日本のコロナ感染者の致死率は2%以下です。以前のブログにもありますが、コロナ感染者の内、重症化する確率は5.5%です。
またこんな数字もありました。感染者数と死者数の累計です。

これによると、日本の場合計算すると1.6%くらいが致死率になります。
死者58万人越えのアメリカ。現在大きな被害を受けているインドで死者25万人越えですが、致死率で言えば日本と同じ2%以下です。これは感染者数が圧倒的に多い(分母が日本より大きい)からです。

折れ線グラフを見て気づきましたが、日本よりも遥かに感染者数が多いイギリス。ワクチンを接種したイギリス国民は50%になっているそうですが、接種率が上がるにつれ新規感染者数が激減しています。そんな報道を聞いたこともあります。
確かにワクチンの効果なのでしょうが、日本の場合、接種率で言えばほとんどの国民がワクチンを打ってないにも拘らず、ワクチン接種効果で激減したというイギリスと同水準です。
ワクチンをほぼ打ってない日本の新規感染者数が、ワクチンをかなりの人数が接種しているイギリスの新規感染者数とほぼ同じ。
これも事実です。日本の場合、ワクチン要るのか?と言うのが素直な感想です。
新型コロナ、とりわけ変異株の感染力の強さを最近はよく見聞きします。日本の新規感染者数は1年3か月かかって667182人です。
(5/15時点で)
過去を振り返るにインフルエンザが大流行した場合を調べると一週間で173万人ということもありました。
1週間で173万人と1年3か月で66万人・・・。感染力の強さで言えばインフルエンザのが強いように思います。新型コロナの感染者数は、アメリカの3200万人、インドの2300万人と比べれば、66万人の日本はかなり低いようにも思えます。
後は、感染後重症化しない人は94.5%。感染しても生存する人は98.4%。重症化した人の致死率は約29%(7割は生還)・・・。この数字をどう見るかです。ワクチンをほぼ打っていない日本の場合の数字です。
本当に日本は新型コロナが流行っているのか? 重症化率5.5%、致死率1.6%は震え上がるほど恐ろしいウィルスなのか?ですね。私はド素人ですので、致死率1.6%はお医者さん的には恐ろしい数字という可能性もありますが。
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2021-05-15
◆地蔵寺釈厄外伝記について その6
○ 地蔵寺年代記
開基 源明厚淳尼和尚 安永五年二月十九日遷化 (一七七六年)
開基厚淳尼は濃洲の人で、(森太兵衛家二代目の人と伝ふ)深く仏教を渇仰せられ、出家得度の後諸国の寺社を巡拝、特に四国八十八箇所霊場に巡礼されたこと八十八回に及びました。厚淳尼の所有地六畝八歩の現在の所有地に、津島の興福寺から一堂宇を寛保元年七月二十六日(一七四一年)に移築いたし、尼の護持仏「地蔵菩薩」を本尊に安置され、長栄寺八世、魯堂詳伯大和尚を請拝されて、御開山となされました。
※詳白大和尚は宝永七年(一七一〇年)八月十一日、長栄寺に住職。明和六年(一七六九年)二月十七日寂
二世 戒圓順教尼和尚 文化十二年八月廿五日遷化
三世 心空物元尼和尚 寛政九年九月十二日遷化
四世 鶴巖齢寿尼和尚 天保十一年二月十九日遷化
五世 保錦寿教尼和尚 文久元年九月八日遷化
六世 戒心玉圓尼和尚 明治十七年八月廿一日遷化
七世 祥山芳瑞尼和尚 大正十二年十月廿九日遷化
八世 即応戒心尼和尚 明治四十年八月廿一日遷化(芳瑞尼の在世中に遷化なさる)
当寺は草創の時代から、志水甲斐守並びに石河主文氏の帰依により、年々甚大な浄財を寄進戴いていましたが、明治維新の廃藩にあたり、浄財が無くなるのみならず、地蔵堂の土地所有権まで召上げられ貧窮の極みに達しました。八世即応尼は、七世芳瑞師尼とはかり、明治丗六年総代諸氏の御協力のもと地蔵堂保存会を設立。毎月の積立金を基礎として十方檀邦の浄財を得て、旧寺地の内二百五十有余坪を買い戻し、併せて諸堂の大修復をなし面目を一新せられました。
九世 賢瑞辨英尼和尚 昭和廿六年二月十日遷化
九世賢瑞辨英尼堂守となられて数年後の明治四十五年一月、近隣の火災に類焼の難に会い伽藍の大半は焼失。誠に不幸の極みでした。
火災保険の下付けで残余の堂を修復なされたとはいえ、堂宇の面目保たれず遺憾の念に奮起なされ、総代森太兵衛、宮田久兵衛、大岩米次郎、澤田濱次郎、並びに建築委員、森田清助諸氏の御協力を得て十万信徒の喜拾に預かり、本堂(間口七間、奥行五間半)庫裡(間口三間、奥行七間余)の大殿堂を新築落成。
大正三年秋、本堂再建、入佛供養大法會の盛典を修行致されました。爾来、近隣の大堂庵として宗風を宣揚。橋本恵光老宗師の眼蔵会等、信徒の修行道場として日夜精進されました。
第二次世界大戦勃発いたすに及び、名古屋市の大半は空襲により一大焼野原と化し、当庵も不幸昭和廿年五月十四日午前九時焼夷弾中に全堂焼失。見る影もなく辨英尼の辛苦も一朝の露となりました。
戦い収まるや急遽燃土を盛り、ささやかなる仮堂を建てやうやく御本尊延命地蔵を奉安。守護神白旗大明神の鎮守堂も信徒方の一大労力に預かり新築落成され信仰をあおいでいられます。
十世 戒心宗賢尼和尚
昭和廿六年四月五日、師尼の遺意に従い現、宗賢尼和尚十世として住職に任ぜられ、いよいよ諸堂再建の熱意を傾注いたし今日に至ります。(現在十世 戒心宗賢尼和尚は遷化され、11代目となります。地蔵寺は初代から10代目まで尼様がご住職をなされていました。)
五月そら けふも揺れるは 白旗の ハタ、ハタ、ハタと 心躍るや
詠み人しらず 合掌

※参考文献
地蔵寺縁起書
地蔵寺世代記 鵜飼宗賢
八百万の神々 戸部民夫著 新紀元社
日本の神々 多彩な民族神たち 戸部民夫著 新紀元社
愛知の神社 愛知県郷土資料刊行会
深草稲荷 深草稲荷保勝会
紅葉屋呉服店はこちらまで
開基 源明厚淳尼和尚 安永五年二月十九日遷化 (一七七六年)
開基厚淳尼は濃洲の人で、(森太兵衛家二代目の人と伝ふ)深く仏教を渇仰せられ、出家得度の後諸国の寺社を巡拝、特に四国八十八箇所霊場に巡礼されたこと八十八回に及びました。厚淳尼の所有地六畝八歩の現在の所有地に、津島の興福寺から一堂宇を寛保元年七月二十六日(一七四一年)に移築いたし、尼の護持仏「地蔵菩薩」を本尊に安置され、長栄寺八世、魯堂詳伯大和尚を請拝されて、御開山となされました。
※詳白大和尚は宝永七年(一七一〇年)八月十一日、長栄寺に住職。明和六年(一七六九年)二月十七日寂
二世 戒圓順教尼和尚 文化十二年八月廿五日遷化
三世 心空物元尼和尚 寛政九年九月十二日遷化
四世 鶴巖齢寿尼和尚 天保十一年二月十九日遷化
五世 保錦寿教尼和尚 文久元年九月八日遷化
六世 戒心玉圓尼和尚 明治十七年八月廿一日遷化
七世 祥山芳瑞尼和尚 大正十二年十月廿九日遷化
八世 即応戒心尼和尚 明治四十年八月廿一日遷化(芳瑞尼の在世中に遷化なさる)
当寺は草創の時代から、志水甲斐守並びに石河主文氏の帰依により、年々甚大な浄財を寄進戴いていましたが、明治維新の廃藩にあたり、浄財が無くなるのみならず、地蔵堂の土地所有権まで召上げられ貧窮の極みに達しました。八世即応尼は、七世芳瑞師尼とはかり、明治丗六年総代諸氏の御協力のもと地蔵堂保存会を設立。毎月の積立金を基礎として十方檀邦の浄財を得て、旧寺地の内二百五十有余坪を買い戻し、併せて諸堂の大修復をなし面目を一新せられました。
九世 賢瑞辨英尼和尚 昭和廿六年二月十日遷化
九世賢瑞辨英尼堂守となられて数年後の明治四十五年一月、近隣の火災に類焼の難に会い伽藍の大半は焼失。誠に不幸の極みでした。
火災保険の下付けで残余の堂を修復なされたとはいえ、堂宇の面目保たれず遺憾の念に奮起なされ、総代森太兵衛、宮田久兵衛、大岩米次郎、澤田濱次郎、並びに建築委員、森田清助諸氏の御協力を得て十万信徒の喜拾に預かり、本堂(間口七間、奥行五間半)庫裡(間口三間、奥行七間余)の大殿堂を新築落成。
大正三年秋、本堂再建、入佛供養大法會の盛典を修行致されました。爾来、近隣の大堂庵として宗風を宣揚。橋本恵光老宗師の眼蔵会等、信徒の修行道場として日夜精進されました。
第二次世界大戦勃発いたすに及び、名古屋市の大半は空襲により一大焼野原と化し、当庵も不幸昭和廿年五月十四日午前九時焼夷弾中に全堂焼失。見る影もなく辨英尼の辛苦も一朝の露となりました。
戦い収まるや急遽燃土を盛り、ささやかなる仮堂を建てやうやく御本尊延命地蔵を奉安。守護神白旗大明神の鎮守堂も信徒方の一大労力に預かり新築落成され信仰をあおいでいられます。
十世 戒心宗賢尼和尚
昭和廿六年四月五日、師尼の遺意に従い現、宗賢尼和尚十世として住職に任ぜられ、いよいよ諸堂再建の熱意を傾注いたし今日に至ります。(現在十世 戒心宗賢尼和尚は遷化され、11代目となります。地蔵寺は初代から10代目まで尼様がご住職をなされていました。)
五月そら けふも揺れるは 白旗の ハタ、ハタ、ハタと 心躍るや
詠み人しらず 合掌

※参考文献
地蔵寺縁起書
地蔵寺世代記 鵜飼宗賢
八百万の神々 戸部民夫著 新紀元社
日本の神々 多彩な民族神たち 戸部民夫著 新紀元社
愛知の神社 愛知県郷土資料刊行会
深草稲荷 深草稲荷保勝会
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2021-05-14
◆地蔵寺釈厄外伝記について その5
今回は地蔵寺縁起書の続き、白旗稲荷についての記述部分を御紹介致します。
○地蔵寺守護神、白旗稲荷と深草稲荷(伏見稲荷)のこと
白旗稲荷の縁起を知るにはまず、深草稲荷を知らねばなりません。深草(伏見)稲荷と申せば、日本中知らぬ者無しの稲荷の総本山、どなたも白狐の姿を思い浮かべます。しかし、これは稲荷の霊力を知らしめす為の仮の姿であって、御神体は別に確りと存在致します。御祭神は、五柱神、
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
佐田彦大神 (さたひこのおおかみ)
大宮能売大神 (おおみやのめのおおかみ)
田中大神 (たなかのおおかみ)
四大神 (しのおおかみ)
となり、宇迦之御魂大神は、古事記によれば、須佐之男命(すさのおのみこと)と市比売命(いちひめのみこと)の二神の子として生まれ、宇迦は倉稲(うが)あるいは食(うけ)とか御饌都(みけつ)とか言われるが、何れも食物であり、ウカノミタマとは稲玉そのものと解釈できる。
御神号は「伊奈利」であり、最古の文献と言われる山城国風土記や扶桑略記にこの「伊奈利」の文字を見出す。その後、稲が成るが稲荷に転化した。
白旗稲荷の縁起を語るに、この「山城国風土記」を見過ごす訳には行かない。この風土記に「餅の的」という話がある。古代、豪族の秦氏の先祖に、伊呂具と言う男があった。
この伊呂具、こともあろうに、鏡餅を的に弓の射比べをした。すると、誰ぞの弓が見事に鏡餅を射抜いた。するとどうだ、鏡餅は白い鳥に変化し、ハタハタと飛んで行った。あまりの事に腰を抜かした者もあったが、皆、白い鳥を追った。
しら鳥は深草の山頂辺りに舞い降りた。翌年、その山の辺り一面に稲穂がたわわに実り、稲荷になったと云う。しら鳥がハタハタと舞い飛ぶ故事は、白旗すなわち伏見稲荷の象徴であり、古代豪族秦氏とも深い係りを持つ。
その後の伊呂具は、貧窮の日々が続き、失落し亡くなった。更に時が経ち、その末裔の一人が伏見稲荷社に許しを請い、結果、神の許しを得て、その後秦氏は永く繁栄したと云う。ここまで稿を進めれば、玉圓尼の、白鳥の歌の真意が見えてくる。
「しら鳥の ハタ、旗、秦と 飛び舞ひて 霊夢の稲荷 白旗とぞ言ふ」
白鳥とは、古事記を見ても、日本武尊がその最後に白鳥に変化して飛び去ったとあるように、古来より霊鳥は白い鳥と解釈されていた。その飛び交う羽音がハタ、ハタ、ハタと表現されています。
注目すべきは玉圓尼の歌にあるように、それは一字ずつ文字面を替えていると言う事です。最初はハタ、次は旗、これは白旗稲荷を表現し、最後は秦となり、これが稲荷の霊夢、白旗稲荷の御神号となり、今に伝えられた訳です。

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○地蔵寺守護神、白旗稲荷と深草稲荷(伏見稲荷)のこと
白旗稲荷の縁起を知るにはまず、深草稲荷を知らねばなりません。深草(伏見)稲荷と申せば、日本中知らぬ者無しの稲荷の総本山、どなたも白狐の姿を思い浮かべます。しかし、これは稲荷の霊力を知らしめす為の仮の姿であって、御神体は別に確りと存在致します。御祭神は、五柱神、
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
佐田彦大神 (さたひこのおおかみ)
大宮能売大神 (おおみやのめのおおかみ)
田中大神 (たなかのおおかみ)
四大神 (しのおおかみ)
となり、宇迦之御魂大神は、古事記によれば、須佐之男命(すさのおのみこと)と市比売命(いちひめのみこと)の二神の子として生まれ、宇迦は倉稲(うが)あるいは食(うけ)とか御饌都(みけつ)とか言われるが、何れも食物であり、ウカノミタマとは稲玉そのものと解釈できる。
御神号は「伊奈利」であり、最古の文献と言われる山城国風土記や扶桑略記にこの「伊奈利」の文字を見出す。その後、稲が成るが稲荷に転化した。
白旗稲荷の縁起を語るに、この「山城国風土記」を見過ごす訳には行かない。この風土記に「餅の的」という話がある。古代、豪族の秦氏の先祖に、伊呂具と言う男があった。
この伊呂具、こともあろうに、鏡餅を的に弓の射比べをした。すると、誰ぞの弓が見事に鏡餅を射抜いた。するとどうだ、鏡餅は白い鳥に変化し、ハタハタと飛んで行った。あまりの事に腰を抜かした者もあったが、皆、白い鳥を追った。
しら鳥は深草の山頂辺りに舞い降りた。翌年、その山の辺り一面に稲穂がたわわに実り、稲荷になったと云う。しら鳥がハタハタと舞い飛ぶ故事は、白旗すなわち伏見稲荷の象徴であり、古代豪族秦氏とも深い係りを持つ。
その後の伊呂具は、貧窮の日々が続き、失落し亡くなった。更に時が経ち、その末裔の一人が伏見稲荷社に許しを請い、結果、神の許しを得て、その後秦氏は永く繁栄したと云う。ここまで稿を進めれば、玉圓尼の、白鳥の歌の真意が見えてくる。
「しら鳥の ハタ、旗、秦と 飛び舞ひて 霊夢の稲荷 白旗とぞ言ふ」
白鳥とは、古事記を見ても、日本武尊がその最後に白鳥に変化して飛び去ったとあるように、古来より霊鳥は白い鳥と解釈されていた。その飛び交う羽音がハタ、ハタ、ハタと表現されています。
注目すべきは玉圓尼の歌にあるように、それは一字ずつ文字面を替えていると言う事です。最初はハタ、次は旗、これは白旗稲荷を表現し、最後は秦となり、これが稲荷の霊夢、白旗稲荷の御神号となり、今に伝えられた訳です。

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2021-05-10
◆地蔵寺釈厄外伝記について その4
地蔵寺釈厄外伝記の特徴の一つに、言葉が5,7,5のリズムで出てくることがあります。
これは父(稲荷)がのっている時に顕著で、言葉がコロコロ転がるような、声にすると大変気持ちの良い言霊のリズムとなります。気分が落ち込んでいる時に読むと気分が上がります。(稲荷はそういう状態を「じょうじょうげげるに」と言う)
地蔵寺縁起書(寺に先に納めた方)を書き進めると、玉圓尼と白旗稲荷の旅立ちの話が出て参りました。そこから6首の歌を御紹介するつもりでしたが、前後の文脈を見るに縁起書を丸っとアップした方が楽だなと思いましたので、3回位に分けて御紹介致します。

地蔵寺縁起書
○地蔵寺守護神、白旗稲荷と六世玉圓尼のこと
六世玉圓尼が大和の国、尼庵の住職なされし時、「白旗稲荷大明神」の加護を受け、種々の奇特あり。在の衆より格別の信仰を受けられた。ところが、玉圓尼がこの地を去る縁が生じた。その日が、いよいよ間近になった頃、その噂を聞きつけた在の衆が、近郊からバタバタと集合した。
その長老とも言うべき人が、こう言った。
「玉圓尼さま、白旗稲荷大明神を此の地の守護神として永く祭りたい。これが、皆の衆の気持ちじゃ。どうか、稲荷明神を此の地に残して下され」
と懇情嘆願して来た。尼は
「玉圓あっての大明神ゆえ」
と静かに申された。しかし長老は、一歩も引き下がらなかった。長老は、
「皆の衆、玉圓尼さまにお願いするのじゃ。稲荷明神を此の地に残してもらうよう、お願いするのじゃ」と。
村人も、玉圓尼さま。どうかどうかと、必死で懇願して来た。しかし玉圓尼は微動だにせず、こう申された。
「我が玉圓なる法名は、稲荷宝珠の丸き玉圓に由来せしもの。故に玉圓あっての稲荷大明神、これまた大明神ありての玉圓なり」
とその迫力に、もはや異論を唱える者はいなかった。更に玉圓尼は、今朝明け方夢見た、霊夢をお話しなされた。白旗稲荷大明神は、白鳥に変化して、ハタハタと舞い飛びて「玉圓、我も供に」と申されたと。
この時の玉圓尼の詠みし、白旗稲荷の歌(其の一)が残されている。
しら鳥の ハタ、旗、秦と 飛び舞ひて 霊夢の稲荷 白旗とぞ言ふ
更に玉圓尼の霊夢に言うに、
「この尼庵の御宝前、砂利石の下に白い玉石あり。これぞ白旗稲荷の眷属なり。慎みて勧請せよ」
と申された。村人や在の衆は大いに納得したと云う。
◎玉圓尼、白旗稲荷の歌(其の二)
バタバタと 走り来たりし 在の衆 帰り藁は ハタハタと聞く
玉圓尼と、白旗稲荷大明神の出発の日が来た。しかしそれは、村人や在郷の人々にとっては、別れの日となった。涙を浮かべた者もあった。それぞれの思いが行き交い見送った。しかし奇特もあった。尼庵の御宝前、玉砂利の下より、耀くような白い玉石が出土した。その上、長老の夢枕に白鳥が舞い込んだことも重なって、見送る在郷の衆は、大和の国の国境まで続いたと伝えられる。
◎玉圓尼、白旗稲荷の歌(其の三)
白旗の 奇特の縁ぞ たのもしや 送る人波 国境まで
いよいよ峠を越える玉圓尼であった。時は新緑の五月、再び大和を訪れる事はあるまいと、峠から見下ろす大和の国は、目に滲みる程、美しかった。
◎玉圓尼、白旗稲荷の歌(其の四)(其の五)
この時ぞ ばかりは神妙 稲荷なる 大和の峠 今越え行かん
玉圓の 肩に寄り添う 白旗の 揺れるに任せる 神妙稲荷
やがて玉圓尼は、大明神を荷うて、矢田郡半田の港に到着致しました。そこで暫時の草庵を結び、ややあって、五世寿教尼の請いに応えられ、尾張名古屋の地蔵寺に到着なされました。白旗稲荷大明神は、奇なる縁を持って地蔵寺の鎮守神として併祭されました。
尚、白旗稲荷大明神の鳥居前に鎮座する石像、不動明王立像は、「嘉永五年壬子八月 海老屋町 施主 山本□和吉」の刻名を持ち、もと白山神社(榎権現)にあった物が、明治の廃仏毀釈の折、当地に移されると聞く。稲荷と不動尊は、ことのほか相性良く、摩訶不思議なる稲荷の神域の理を知る。
◎玉圓尼、白旗稲荷の歌(其の六)
不動あり 白旗稲荷の 神域に 流転の時ぞ 思いは廻る
続く・・・
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これは父(稲荷)がのっている時に顕著で、言葉がコロコロ転がるような、声にすると大変気持ちの良い言霊のリズムとなります。気分が落ち込んでいる時に読むと気分が上がります。(稲荷はそういう状態を「じょうじょうげげるに」と言う)
地蔵寺縁起書(寺に先に納めた方)を書き進めると、玉圓尼と白旗稲荷の旅立ちの話が出て参りました。そこから6首の歌を御紹介するつもりでしたが、前後の文脈を見るに縁起書を丸っとアップした方が楽だなと思いましたので、3回位に分けて御紹介致します。

地蔵寺縁起書
○地蔵寺守護神、白旗稲荷と六世玉圓尼のこと
六世玉圓尼が大和の国、尼庵の住職なされし時、「白旗稲荷大明神」の加護を受け、種々の奇特あり。在の衆より格別の信仰を受けられた。ところが、玉圓尼がこの地を去る縁が生じた。その日が、いよいよ間近になった頃、その噂を聞きつけた在の衆が、近郊からバタバタと集合した。
その長老とも言うべき人が、こう言った。
「玉圓尼さま、白旗稲荷大明神を此の地の守護神として永く祭りたい。これが、皆の衆の気持ちじゃ。どうか、稲荷明神を此の地に残して下され」
と懇情嘆願して来た。尼は
「玉圓あっての大明神ゆえ」
と静かに申された。しかし長老は、一歩も引き下がらなかった。長老は、
「皆の衆、玉圓尼さまにお願いするのじゃ。稲荷明神を此の地に残してもらうよう、お願いするのじゃ」と。
村人も、玉圓尼さま。どうかどうかと、必死で懇願して来た。しかし玉圓尼は微動だにせず、こう申された。
「我が玉圓なる法名は、稲荷宝珠の丸き玉圓に由来せしもの。故に玉圓あっての稲荷大明神、これまた大明神ありての玉圓なり」
とその迫力に、もはや異論を唱える者はいなかった。更に玉圓尼は、今朝明け方夢見た、霊夢をお話しなされた。白旗稲荷大明神は、白鳥に変化して、ハタハタと舞い飛びて「玉圓、我も供に」と申されたと。
この時の玉圓尼の詠みし、白旗稲荷の歌(其の一)が残されている。
しら鳥の ハタ、旗、秦と 飛び舞ひて 霊夢の稲荷 白旗とぞ言ふ
更に玉圓尼の霊夢に言うに、
「この尼庵の御宝前、砂利石の下に白い玉石あり。これぞ白旗稲荷の眷属なり。慎みて勧請せよ」
と申された。村人や在の衆は大いに納得したと云う。
◎玉圓尼、白旗稲荷の歌(其の二)
バタバタと 走り来たりし 在の衆 帰り藁は ハタハタと聞く
玉圓尼と、白旗稲荷大明神の出発の日が来た。しかしそれは、村人や在郷の人々にとっては、別れの日となった。涙を浮かべた者もあった。それぞれの思いが行き交い見送った。しかし奇特もあった。尼庵の御宝前、玉砂利の下より、耀くような白い玉石が出土した。その上、長老の夢枕に白鳥が舞い込んだことも重なって、見送る在郷の衆は、大和の国の国境まで続いたと伝えられる。
◎玉圓尼、白旗稲荷の歌(其の三)
白旗の 奇特の縁ぞ たのもしや 送る人波 国境まで
いよいよ峠を越える玉圓尼であった。時は新緑の五月、再び大和を訪れる事はあるまいと、峠から見下ろす大和の国は、目に滲みる程、美しかった。
◎玉圓尼、白旗稲荷の歌(其の四)(其の五)
この時ぞ ばかりは神妙 稲荷なる 大和の峠 今越え行かん
玉圓の 肩に寄り添う 白旗の 揺れるに任せる 神妙稲荷
やがて玉圓尼は、大明神を荷うて、矢田郡半田の港に到着致しました。そこで暫時の草庵を結び、ややあって、五世寿教尼の請いに応えられ、尾張名古屋の地蔵寺に到着なされました。白旗稲荷大明神は、奇なる縁を持って地蔵寺の鎮守神として併祭されました。
尚、白旗稲荷大明神の鳥居前に鎮座する石像、不動明王立像は、「嘉永五年壬子八月 海老屋町 施主 山本□和吉」の刻名を持ち、もと白山神社(榎権現)にあった物が、明治の廃仏毀釈の折、当地に移されると聞く。稲荷と不動尊は、ことのほか相性良く、摩訶不思議なる稲荷の神域の理を知る。
◎玉圓尼、白旗稲荷の歌(其の六)
不動あり 白旗稲荷の 神域に 流転の時ぞ 思いは廻る
続く・・・
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2021-05-07
◆疱瘡神
過去のブログを振り返ると、昨年の夏ころに六回に分けてアップしたブログ記事に「注意すべき神社」というのがあります。
個人的にお参りに行く時は、より背筋を正し、緊張感と敬意をもって行かねばと思える神社について考察したブログです。
最近になって、このコロナ禍にあったのに思い出せなかったのですが、「注意すべき神社」に入れ忘れていた神社がありました。
それは疱瘡神(ほうそうしん)を祀る神社です。
疱瘡(天然痘)は病名です。病気そのものが神様になったパターンです。疱瘡は現代では完全に予防できるようになりましたが、調べてみると、これがまぁ恐ろしい病気でした。
昨年NHKの「知恵泉」という歴史番組で幕末に流行った疱瘡のことをやっていましたが、当時の日本の全人口の3分の1が亡くなったそうです。感染後の致死率は50%とか。まさにパンデミックですね。
あまりにもすごい勢いで人が死ぬので、当時の人はこれは凶悪な厄神、鬼神が祟っていると解釈し祀ることになったようです。悪いものは戦って追い出すのではなく、祭り上げて服従する、許しを請うという意味なのでしょう。
私が知っている疱瘡神は、愛知県の津島神社の中に祀られていました。写真は怖かったので撮れなかったです。

明治以前に祀られていた津島神社の御祀神、牛頭天王様はあらゆる病気を司る神という一面があるので、そこに疱瘡神が祀られるというのも至極当然です。
古事記や日本書記に出てくる神々、地方の豪族、陰陽道由来の神、自然神、実在した人物、そのどれとも当てはまらないのが疱瘡神。疱瘡神を祀る社には一体どんな神が鎮座しているのか。
そこには当時の人々の恐怖が居るのか。亡くなった人達の魂か。人達が作り上げた厄神か。
今までの人生を振り返るに、どうも神仏というものはちゃんと存在するというのが私の解釈です。またそれと対を成す厄神、祟り神というのもどうも在るようです。見える現実世界と見えない神仏、厄神や祟り神、鬼神の世界は繋がっていると思います。疱瘡の原因は天然痘ウィルスですが、そういうものが流行る背後には厄神は関与していたのでは?と思います。
それを踏まえて今回の、世界中を巻きこんんだコロナ騒動。アメリカでは死者50万人を突破し、このブログを上げた頃はインドが大変なことになっています。一日の感染者が30万とか40万とかになり、死者も一日2000人とか。現代の医学をもってしてもパンデミック状態です。
日本はと言えば、緊急事態宣言が一部地域で出されました。しかしながら、世界の大変な状況になっている国と比べると、日本は奇跡的に低い数字で推移しています。

(クリックで拡大)
これは中日新聞に出ていた国別のコロナ感染者数の折れ線グラフです。2020年3月から2021年4月までのグラフです。日本は白色のそれですが、多少の上下はありますが、ほぼほぼ横一線で来ています。パンデミックにはなっていません。
政府のデータで見ても、感染した人の重症化率は1.6%。変異種が出てきた今は5.5%です。94.5%は感染しても重症化しないということです。パンデミックになっている国と比べると、これは不思議と言うか奇跡的なことです。
ラジオで聞きましたが、日本では仕事などで来日した人は指定のホテルなどで2週間待機して、異常が無ければ出れるという対策を取っていますが、今年の3月から多い日で一日300人はこれを経ずに出ていたそう。随分前から変異種はあったのでしょう。
それを踏まえてこの数字です。
日本人に知らずに備わっていたもののお陰か、衛生観念か。これだというのは今のところ不明ですが、猛威を振るうコロナウィルスが日本ではそれほど(パンデミックの国と比べて)脅威ではないというのもまた事実です。
私のブログ的にはこう考えます。日本に世界程新型コロナが流行らない理由。
疫病の陰に厄神がいるのであれば、恐るべき厄神をも祀り上げるという日本人の考え方、もしくは厄神や鬼神、魔神ですら仏として取り込んでしまう仏教が、まだ生きているからということも、少なからずあるからではないのか?と思えます。
個人的にお参りに行く時は、より背筋を正し、緊張感と敬意をもって行かねばと思える神社について考察したブログです。
最近になって、このコロナ禍にあったのに思い出せなかったのですが、「注意すべき神社」に入れ忘れていた神社がありました。
それは疱瘡神(ほうそうしん)を祀る神社です。
疱瘡(天然痘)は病名です。病気そのものが神様になったパターンです。疱瘡は現代では完全に予防できるようになりましたが、調べてみると、これがまぁ恐ろしい病気でした。
昨年NHKの「知恵泉」という歴史番組で幕末に流行った疱瘡のことをやっていましたが、当時の日本の全人口の3分の1が亡くなったそうです。感染後の致死率は50%とか。まさにパンデミックですね。
あまりにもすごい勢いで人が死ぬので、当時の人はこれは凶悪な厄神、鬼神が祟っていると解釈し祀ることになったようです。悪いものは戦って追い出すのではなく、祭り上げて服従する、許しを請うという意味なのでしょう。
私が知っている疱瘡神は、愛知県の津島神社の中に祀られていました。写真は怖かったので撮れなかったです。

明治以前に祀られていた津島神社の御祀神、牛頭天王様はあらゆる病気を司る神という一面があるので、そこに疱瘡神が祀られるというのも至極当然です。
古事記や日本書記に出てくる神々、地方の豪族、陰陽道由来の神、自然神、実在した人物、そのどれとも当てはまらないのが疱瘡神。疱瘡神を祀る社には一体どんな神が鎮座しているのか。
そこには当時の人々の恐怖が居るのか。亡くなった人達の魂か。人達が作り上げた厄神か。
今までの人生を振り返るに、どうも神仏というものはちゃんと存在するというのが私の解釈です。またそれと対を成す厄神、祟り神というのもどうも在るようです。見える現実世界と見えない神仏、厄神や祟り神、鬼神の世界は繋がっていると思います。疱瘡の原因は天然痘ウィルスですが、そういうものが流行る背後には厄神は関与していたのでは?と思います。
それを踏まえて今回の、世界中を巻きこんんだコロナ騒動。アメリカでは死者50万人を突破し、このブログを上げた頃はインドが大変なことになっています。一日の感染者が30万とか40万とかになり、死者も一日2000人とか。現代の医学をもってしてもパンデミック状態です。
日本はと言えば、緊急事態宣言が一部地域で出されました。しかしながら、世界の大変な状況になっている国と比べると、日本は奇跡的に低い数字で推移しています。

(クリックで拡大)
これは中日新聞に出ていた国別のコロナ感染者数の折れ線グラフです。2020年3月から2021年4月までのグラフです。日本は白色のそれですが、多少の上下はありますが、ほぼほぼ横一線で来ています。パンデミックにはなっていません。
政府のデータで見ても、感染した人の重症化率は1.6%。変異種が出てきた今は5.5%です。94.5%は感染しても重症化しないということです。パンデミックになっている国と比べると、これは不思議と言うか奇跡的なことです。
ラジオで聞きましたが、日本では仕事などで来日した人は指定のホテルなどで2週間待機して、異常が無ければ出れるという対策を取っていますが、今年の3月から多い日で一日300人はこれを経ずに出ていたそう。随分前から変異種はあったのでしょう。
それを踏まえてこの数字です。
日本人に知らずに備わっていたもののお陰か、衛生観念か。これだというのは今のところ不明ですが、猛威を振るうコロナウィルスが日本ではそれほど(パンデミックの国と比べて)脅威ではないというのもまた事実です。
私のブログ的にはこう考えます。日本に世界程新型コロナが流行らない理由。
疫病の陰に厄神がいるのであれば、恐るべき厄神をも祀り上げるという日本人の考え方、もしくは厄神や鬼神、魔神ですら仏として取り込んでしまう仏教が、まだ生きているからということも、少なからずあるからではないのか?と思えます。
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