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2021-04-19

◆地蔵寺釈厄外伝記について その4

◎父と地蔵寺釈厄外伝記について

これも長くなるので簡単に解説します。よろしければご一読下さいませ。


父は幼少の頃、母、祖母と三人で豊川市にある三明寺という千手観音と弁才天を祀るお寺へ参拝に行きました。


その時、境内にあった稲荷神を祀る祠の所で、二柱の稲荷がじっとこちらを見ているのに気づきました。同行していた母親と祖母には見えません。


その時、首元に巻いていた狐のショール目がけて稲荷が二柱すっと入ったそうです。狐のショールの尻尾が一瞬動いたそうです。


元々父は体が弱く、小学校も2年間は休んだそう。部屋に閉じこもっていることが多かった子供でした。その頃からです。父が稲荷の言葉を文字にし始めたのは。稲荷が言うにはそう言った才能を「お筆先」というそうです。


内容は様々でしたが、古代の神々の話なども出ていたそうです。お筆先の能力は稲荷が憑いた幼少期から高校生頃まで続き、部屋にびっしり書き込まれた紙(原稿用紙や広告の裏)が入った段ボール箱が何箱もありましたが、高校卒業後、仕事を覚える為に豊橋市のとある呉服店に住み込みで働きに行った時期がありましたが、その間に祖父が捨ててしまいました。あれば凄いお宝になったと思うので、大変残念です。


それから時は流れ、地蔵寺の縁起書を書くことになった訳ですが、縁起書を書き始めた頃に、強烈に脳裏に浮かんだ映像がありました。尼僧が稲荷を背負い、幟を杖代わりにして歩いている映像です。


玉圓尼と白旗稲荷-crop

そのイメージを父が絵にしたのがこちらの画像です。


先代のご住職から依頼を受けて数日後のことです。次から次へと言葉が紡がれます。聞いたことのない言葉も沢山出て参ります。父が言うには稲荷の言葉は人間の言葉とは全然違うので、それを訳して(という表現が合ってるのかは疑問)出てきます。今までの父のお筆先により紡がれる言葉は、幼少の頃から縁のあった稲荷神と、我が家で祀るお稲荷さんの言葉が出て参りましたが、地蔵寺縁起書の場合は、どうも地蔵寺の守護神、白旗稲荷のようでした。


正確に言えば、白旗稲荷は寺の守護神がお仕事なので、その場から動くことはありません。白旗稲荷が父に縁のあった稲荷に伝言しているようでした。


そして物語を書き進むうち判明しましたが、父が幼少時に憑いた稲荷二柱は、白旗稲荷から分かれた稲荷でありました。名前は狐童女稲荷(きつねめいなり)と財賀稲荷です。


縁起書は割とすんなり終わるだろうというのが、書き始めた父の腹積もりでしたが、本人の予想を裏切る膨大な量が出てきました。


「このまま書き進んでいいものか?」


と当時のご就職に相談に行きました。


実は相談がとご住職に話を切り出し、まず最初に玉圓と白旗稲荷の絵を見せました(上の画像)。


それを見たご住職、腰を抜かさんばかりに驚き、こう言いました。


「!?どうしてこの絵を知っているのですか? 空襲で燃えてしまいましたが、戦前はこの絵と全く同じ構図の掛軸がありました。寺宝として大切にし檀家にも見せたことが無い掛軸でした・・・。」


その場に居た私も、ご住職の話を聞いて驚きました。


「ではこれはどう思われますか?」


父は自分の書いた縁起書の中から、すらすら出てきた和歌を数首見せました。玉圓と白旗に因んだ歌です。


それをじっと見たご住職、


「それも覚えがあります。玉圓尼は大変歌の才能のある方で、戦前は玉圓尼が遺した和歌が沢山記された本が何冊もありました。今ではそれも焼失しましたが・・・。紅葉屋さん、これはもう書かされている文章ですから、くれぐれもお体に気を付けて書いて下さい。」


と言われたのを記憶しています。



次回は地蔵寺縁起書から和歌の部分を抜粋して御紹介致します。


続く~






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2021-04-16

◆地蔵寺釈厄外伝記について  その3

◎笈厨子について


玉圓尼が修行中に背負っていた笈厨子。

中には秘仏扱いの仏像が納入されています。

亡き祖父や、この辺りの歴史・昔話に詳しかった祖父の友達、先代のご住職の話それらを纏めると仏像の由来はこのような話です。




奈良時代の話。坂東に行基菩薩(東大寺の勧進僧)が霊木を彫った仏像があった。

時は流れて平安の始め、この霊木の仏像を祀っている寺が火災になった。

その頃、慈覚大師円仁がこの寺の噂を聞き赴いた折、焼け残り炭と化した霊木仏の胎内から一体の小さな金銅仏を見つけた。

その金銅仏は釈迦如来像であり、これが尋常ではない仏像と気付いた円仁は、すぐさま裂に包み完全秘仏とした。



と云うものです。


それから数百年の時が流れ、慈覚大師により封印された金銅仏は、後に地蔵寺六代目を継ぐ玉圓尼和尚の念持仏となっていました。(経緯は不明)

地蔵寺5代目住職、寿教尼和尚とのご縁で6代目住職となった玉圓尼、そして人から人へ憑き、共に修行をしていた白旗稲荷も初めて寺の守護神となりました。


そして前回の続きですが、いざ寺の門を潜ろうとしたその時、異変が起こりました。


玉圓尼が笈厨子を担いだまま寺の門を潜ろうとすると、辺り一面唸り出し、どうしても寺に入ることが出来ないのです。原因は笈厨子の中の秘仏でした。


長い玉圓尼との修行生活によって途轍もない力を秘めた仏像になり、寺に納まらなかったのです。それもまた仏像の意思なのでしょうか。


玉圓尼は白旗稲荷の神意を得て、この厨子と仏像を地蔵寺から見て辰巳(南西)の方角にある、名古屋最古の弁才天を祀ると云う宝周寺周辺の数件の家で、管理することとしました。


各家で一年毎巡回させることになったのです。



玉圓尼の笈厨子①

この風習は嘉永年間から昭和の初め頃まで続きましたが、名古屋大空襲で大勢の人々が亡くなり、人が入れ替わったことで途絶えてしまいました。


そして現在、巡り巡って玉圓尼の笈厨子は我が家で祀ることになり、毎日お参りしておりますが、昨年、夜に何やら父が厨子の前でごそごそやっていいるのを目撃しました。近付いて覗いたら驚きました。厨子の中の秘仏を出していたからです。

 
何にしろ、かなり強い仏像なので絶対に開けるなと祖父から言われていたものですから、思わず「開けて大丈夫!?」と叫んでしまいました。


厨子から出て来たのは伝承通り、釈迦如来の金銅仏でした。大きさは15センチ程金色の仏像です。画像はアップ出来ませんが、釈迦如来の衣の形は、法隆寺の救世観音のように左右に広がっている様式です。


何故今出したのかと父に尋ねれば、


「兆しがあったから。もう開けて良しと言うことを聴いたから」


とのことでした。


初めて目にした玉圓尼の念持仏は、何と言うか神々しく、聞いていたそれより遥に強い力の仏像でした。また玉圓尼が考案したのでしょうが、祀り方も変わっていました。厨子の中には木彫の地蔵菩薩と伝三宝荒神像が入っていました。釈迦如来を中心とした、あまり聞いたことのない三尊形式です。

 
地蔵菩薩像はおそらく玉圓尼が彫ったもので、伝三宝荒神像は顔だけです。


厨子を開けた理由の一つに、今の世の中の様子が挙げられます。コロナ禍です。


伝え聞くことによれば、この釈迦如来像は祟り神や厄神の封じに強力な御利益があるとのこと。


前回のブログにも触れましたが、玉圓尼が神仏に働きかける法力は凄まじく、御祈祷やお加持の力で祟りや障りで苦しむ人を助ける、結果的に病を回復させる等々、数多くの奇跡を齎した尼僧でした。(神仏の御力が奇跡を起こすということです)


その玉圓尼が念じ続けた仏像ですので、それは力を感じて当たり前と言えば、当たり前なのかもしれません。


今回、7月4日から行う店内イベントでは、この玉圓尼の念じ、崇めた釈迦如来像を特別開帳致します。玉圓尼が遷化されてから137年経ちますが、その間一度も開けなかった仏様です。


御縁のあった皆様が、元気と活力、そして御縁を頂ければと思います。


次回は父とその書いた物語、「地蔵寺釈厄外伝記」についてお話します。



続く~


2021-04-14

◆地蔵寺釈厄外伝記について その2

◎玉圓尼和尚と白旗稲荷について


地蔵寺釈厄外伝記に登場する主役が戒心玉圓尼和尚と、白旗稲荷大明神です。


現在、地蔵寺の守護神をしていらっしゃる白旗稲荷大明神。


元々、地蔵寺が創建されてからしばらくはこのお稲荷さんはいませんでした。玉圓尼和尚が地蔵寺の6代目を継いだ時に、白旗稲荷も祀られるようになりました。


白旗稲荷は伏見稲荷から分かれた稲荷大明神です。明神とは神を仏教側から呼ぶ尊称です。伏見稲荷は、古代豪族の秦(はた)氏が信仰していた神様です。現在の伏見稲荷は完全に神道稲荷になってしまいましたが、明治の神仏分離、廃仏毀釈運動があった前は、密教系の寺院が中にあったのではと思います。


京都には秦氏が建てた寺院、広隆寺という京都最古の仏像などを多数祀る寺院があることから、奈良時代には秦氏は仏教に傾倒していたと思われます。


白旗稲荷大明神は、幕末~明治に生きた玉圓尼和尚を守護していた稲荷神なので、何時頃分魂したのかは定かではないですが、まだ伏見稲荷が仏教系の稲荷神、荼枳尼天(だきにてん)だった頃に分かれた稲荷でしょう。


因みに、元々仏教系の稲荷神を本尊で祀っていた寺が、ある時人間の勝手な事情で仏教を止めて神道に変わった場合、祀り方もガラッと変わる訳ですが、この場合仏教系の稲荷神は追い出され、神道系の稲荷神に変わるようです。


話を戻しますが、玉圓尼の名の一文字、「玉」は稲荷が持っている「宝珠」からとったと記述があるので、玉圓尼が僧侶になって間もなく、あるいはなる前か、人生のかなり早い段階で玉圓尼は白旗稲荷とご縁があったのではと推測します。そして白旗稲荷と会話ができる、意思の疎通が出来ていたようです。玉圓ありきの白旗稲荷であり、白旗稲荷ありきの玉圓尼という間柄でした。


玉圓尼がどこの出身かは分かりません。ただ分かっているのは、大和の国のとある村で尼庵の住職をしていました。ちゃんとした寺ではなく粗末な家だったようです。玉圓尼は白旗稲荷大明神の加護を受け、種々の奇特(特別にすぐれていること。また、行いが感心なこと。)あり、沢山の人々から信仰を受けていました。


ある時霊夢のお告げがあり、その村を後にして二度と帰らなかったようです。旅立ちの日は引きとめる村人を説得し、尼庵の床下に白い石があること、それには白旗稲荷大明神の眷属が宿っているので、それを御神体にして祀る様に告げ旅に出ました。


その後は全国を修行で歩いていた遊行僧となりました。布教をしたり、寺の無い村では村人に頼まれて供養をしたり、善光寺への代参を頼まれればそのようにしたり、四国や知多の霊場をまわっていたようです。


地蔵寺2

玉圓尼は大変優れた才能を持っていた女性の僧侶です。江戸時代にあった全ての仏教宗派の経典に通じておりました。修行の旅の途中立ち寄る村によっては、先祖供養を頼まれることもありましたが、どんな宗派でも対応出来たそうです。


また加持祈祷に長け、病や災難の原因を突き止め解決したり、易学にも精通しておりました。その人柄、驚異的な能力を持っていたことから、何時の頃からか「地蔵菩薩の生まれ変わり」と呼ばれていたそうです。私が思うに、修験者のようなお坊様だったのでしょう。


玉圓尼は全国を修行や布教で歩いていた訳ですが、ある時、玉圓尼と白旗稲荷が現愛知県の半田市のとある村に立ち寄った際、たまたま親類の法事の為に半田に来ていた地蔵寺5代目住職、「寿教尼和尚」と出会いました。


寿教尼和尚は、今目の前にしている玉圓尼和尚がただものではないと見抜き、ぜひ自分の後を継いで欲しいと願い出ました。それを聞いた玉圓尼はその願いを聞きとげ、地蔵寺の6代目の住職となった訳です。


ただ、その時、玉圓尼が初めて地蔵寺の門を潜ろうとした際に、想定外の事態が起こりました。玉圓尼と白旗稲荷が思ってもみないことが起こったのです。


続く~



2021-04-07

◆地蔵寺釈厄外伝記について その1

令和3年、2021年度の店内企画展が決まりました。毎年、紅葉屋呉服店では企画展を開催しております。毎回テーマを決めて展示物を紹介したり、珍しい商品を販売しております。

 
今回のテーマは「地蔵寺釈厄外伝記の世界 玉圓尼笈厨子137振りの御開帳」と題して行います。


紅葉屋呉服店

このブログの管理人がやっているのがこのお店。紅葉屋呉服店です。

この紅葉屋から徒歩数分の所にある、江戸時代からあるお寺が地蔵寺さんです。

地蔵寺1

地蔵菩薩を本尊として祀る曹洞宗のお寺で、寺の守護神が白旗稲荷大明神(しらはたいなりだいみょうじん)というお稲荷さんです。

 
こちらのお寺、祖父の代からご縁があるお寺で、毎年一回ご住職に我が家の仏様にお経をあげてもらっています。

 
さて、ブログタイトルにもなっている「地蔵寺釈厄外伝記(じぞうじしゃくやくがいでんき)」。このお寺に関する物語で私の父が執筆したものです。
 
 
ことの初めは平成17年(2005年)の6月に遡ります。


当時のご住職、宗賢尼(そうけんに)和尚が我が家へ仏様へのお経を上げに来て頂いた際に、こんな話を父に持ちかけました。

 
それは寺の縁起所の作成に協力してほしいとの内容でした。


自分も年をとった(この時で90歳くらいだった)こと、握力も弱り長い文章が書けなくなってきたこと、後継者が決まっていないので(当時は)、自分がいなくなると寺の歴史が分からなくなるからとのことでした。
 
 
私の父は兎に角本が好きで、かなりの蔵書が家にあります。民俗学や美術品の知識に長けており、良く知ってるなぁと思うことは頻繁にありました。
 
 
今となっては、どうして父に寺の縁起書の執筆を頼んだのか?も分かりますが、この時は変わった依頼だなと思いました。寺の縁起書の執筆を頼まれるという人は、全国的にも殆どいないのではと思います。


しばし考えていたような感じでしたが、父は引き受けることにしました。もともと観音様やお稲荷さんを強く信仰していた人なので、お寺の縁起書の作成の手伝いが出来ることは、滅多にない名誉なことだと思ったのでしょう。


父は宗賢尼和尚に、執筆にあたりお寺に何か古文書の類は無いですかと聞きました。

 
すると和尚さん、昔は古文書の類は結構あったそうですが、近隣の火災に巻き込まれたり、先の戦争の空襲で仏像以外の寺宝の殆どは、寺ごと焼失してしまったの事。古文書も然り。


しかし、宗賢尼和尚の先代、辨英尼和尚が燃える前の古文書を見て、現代語訳にしたものが原稿用紙に少し残っているとのこと・・・。
 

「それでは、その原稿用紙を元に書きましょう。私で良ければお手伝いさせてください。」と引き受けることになりました。


翌日、「ご住職に頼まれましたのでお持ちしました」と年配の女性がご来店されました。


風呂敷包みを受け取り、ありがとうございますと告げると女性は帰って行きました。多分ボランティアの方だったと思います。

 
帰られた後、どんなものだろうと風呂敷を開けて驚きました。原稿用紙は予想より遥かに少ない2枚だったのです。しかも2枚目は半分くらいで終わっており、途中書きの完結していない状態です。
 

これには流石に焦りました。引き受けたのは良いけど、完結していないこの少ない資料から、父は一体どうやって寺の縁起書を纏めるのだろうか?
 
 
「原稿用紙が2枚しかないけど、これどうすんの?流石にこの量では書こうにも書けないのでは?」

 
もう素朴な疑問が言葉になった訳ですが、父が応えた言葉は私の予想を裏切る意外なものでした。
 

「それはコピーか? 手書きか?」


「?鉛筆みたいだから、手書きだよ。」


「そうか。それならやれるから。まぁ見とけ。」


意味が分かりませんでした。コピーはダメで手書きなら出来るという事?何が違う?どういう事?

 
「こうするんだよ。」


と手招きされ様子を観察することに・・・。


椅子に座って書き写し始めた父ですが、すぐにどういうことか分かりました。最初は預かった原稿用紙を一字一句間違えないように写します。一枚半なのでそれほど時間は掛かりません。じきに写し終わってしまいましたが、そこから驚くべきことが目の前で起こりました。先代の辨英尼和尚が書いた文章の続きがスラスラと出始めたのです。全く躊躇することなく・・・。

 
本人が言うには、言葉を転がすことで途切れなく出てくる「御玉転がし(みたまころがし)」という方法だそう。手書きの文章でないと出来ないらしい。
 
 
「そんなに難しくないからお前にも出来るぞ。」
  
 
と言うことでした。
 
 
地蔵寺縁起書


二枚目途中からの続きは、大変な量になりました。現在、原稿用紙40冊を超えまだ完結していません。上の画像は父が書いた縁起書をワードを用いて印刷したものの一部です。


原稿の執筆は起きている時に手を使って自然に出てくる感じですが、寝ている時でも映画のように物語が流れるように観えたり(驚くのは朝起きても克明に覚えている)して、それらを後で書き留めたりすることで増えていきました。
 
 
一体どういうことだと話を聞けば、子供の頃は、寝てる時にお腹の上に板と紙を置いて鉛筆を握って寝ると、朝お腹の上の紙が真っ黒になっていたそう。それでは何が書いてあるかサッパリですが、本人が言うには稲荷の真言とか名号を唱えると、最初に書いた文字から観えてくるとのことでした。今ではそれは出来ないとも・・・。因みにそれは「真暗の御文(まくらのおふみ)」と言うそうです。
 
 
地蔵寺の縁起書は大きく分けて二つになりました。寺の主な歴史を纏めた「地蔵寺縁起書」と、地蔵寺の六代目の住職、玉圓尼(ぎょくえんに)和尚が修行時代に経験したことが中心のお話「地蔵寺釈厄外伝記」です。現在、宗賢尼和尚は遷化されてしまいましたが、寺の歴史の方の縁起書は納める事が出来ましたが、外伝記の方は未だ未完成なので納めておりません。何とか形にして納めたいところです。


次回はこの地蔵寺釈厄外伝記の主人公、玉圓尼と玉圓尼を守護していた白幡稲荷大明神についてお話しします。


続く・・・




プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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