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2020-11-30

◆熊野本宮大社 その2

気になったところをいくつか挙げてみます。

熊野本宮大社15

こちらは拝殿の画像。位置的に言いますと、この後ろが伊邪那岐大神と伊邪那美大神を祀っている大きな社があります。まず「やはりちょっと違うな」と思った最初がここでした。

 
画像を拡大しますと・・・

熊野本宮大社14

本殿が全く見えません。白い布が全面を覆って隠しています。


お伊勢さんでもにたようなものは見ましたが、ここまで全部隠す例はちょっと思い出せません。


拝殿を通り越して本殿の前まで行けるので、お社は見えますが、本来は拝殿からしかお参り出来なかったのでしょう。神様は見てはいけないという考えがありますが、神像ではなく建物そのものも見てはいけないという時代があったのかも。
 
 
やはり、きっつい神様なのだと連想させます。


熊野と言えば、古事記にも出てくる八咫烏です。しかし、こちらの神社には八咫烏はお祭されていませんでした。オブジェクトはありましたが。


熊野総本宮08


あと二つの岩が拝殿の左右にありました。結界的な意味でしょうか。

熊野総本宮07

一つは亀石、もう一つは大黒石とありました。

同行した妻が、御朱印をもらいに社務所で並んでいたので、私も社務所へ向かいました。そこではお札を売っていました。

熊野総本宮09

蘇民将来の札と、八咫烏のお札です。「あっ、やはり牛頭天王様だ」と思いました。
蘇民将来の話はこちらまで

素戔嗚尊を祀っているということは、嘗ては高確率で牛頭天王様を合祀していたということです。その証拠の一つが蘇民将来の注連縄とかお札です。


もう一つの札は八咫烏のお札です。沢山のカラスで文字が表現されているよでした。最初の文字は熊野の「熊」でしょう。

熊野総本宮11

そしてこの八咫烏のお札、正式名称が牛王神符(ごおうしんふ)と言います。八咫烏のヤの字も出てこない符です。ここにも牛頭天王様を連想する「牛王」の二文字がありました。この符、厄除けの札で病にも効くとあります。


一節には牛王とは、漢方薬の牛黄ではないかという話もありますが、私は牛頭天王様かと思います。


牛頭天王様とはどんな神か。簡単に言えば、あらゆる病気の元締め的な最強の祟り神の一柱です。大陸から渡って来た神様で、仏教でも神道でもない、陰陽道由来の神様ですが、奈良から平安時代頃にかけておそらく弘法大師が薬師如来と習合させ、仏として祀った神様です。
 


全ての病を治す薬師如来と、あらゆる病気を巻き散らす恐るべき祟り神を同体として祀ったのです。牛頭天王様の札が病に効くとはそういうことかと思います。


しかし、おそらくこの神社にも嘗てはいた牛頭天王様は、熊野においては阿弥陀如来と習合したようです。これは平安末期に大流行した阿弥陀信仰に由来します。その影響か、熊野が極楽浄土としての霊地になっていた時代もありました。


神仏習合もその土地や時代背景により、どの神とどの仏が集合したと言うのは、一つのパターンだけではないようです。


熊野の牛王神符の解説文が社務所にありました。


熊野総本宮10

長いので気になった個所を拾ってみます。


①カラス文字で書かれた熊野独特の符である。カラスの数は八十八羽。

②牛王府は宝印符とも呼ばれ、古くは白鳳十一年の記録に登場する。

③時代が降るにこの府はいろいろな方面で用いられ、鎌倉時代には誓約書に、江戸時代には起誓文の代わりとして用いられた。

④熊野権現との誓約を破ると、熊野の大神の使いであるカラスが2、3羽死に、(願掛けし、誓約を破った)本人も血反吐を吐いて死に、地獄へ落ちると信じられた。



なんという恐るべき話でしょうか。まさに願掛けする方も命懸け。ここに仏様と神様の違いを見たような気がします。そして祀ってある素戔嗚尊(牛頭天王様)の性質のきつさが良く分かるエピソードでもあります。


神様に願掛けし、承認されるとその神様の御眷属が神様に派遣されて、願を立てた本人に尽力しますが、熊野権現の場合、誓約を破るのは人間にも関わらず、仲介役をした神の使いのカラスもろとも死ぬのです。連帯責任と言うことでしょうか。しかも殺された人間は、その後も極楽には行けず地獄に直行するという凄まじさ・・・。
 
 
牛頭天王様がかつてこの地に祀られていたとすると、まさに神様の性質を考えるとありえるような話だと思いました。
 
 
そこまできつい神様であるので、拝殿からも社が全く見えないように白い布が張り巡らされていたのではと思いました。
 

⑤熊野神社では神前結婚式を行っており、結婚式で用いる誓詞の紙の裏に、この宝院符が貼ってある。


結婚式自体が覚悟を決めてやるものでしょうが、熊野権現で式を挙げた夫婦は他の神社とはちょっと違いますね。


どっちかの我がまま、相手を傷つけた身勝手な離婚と神様が解釈したら最後、とんでもないことになりそうです。

 
妻はカラスの符を買っていましたが、知れば知る程、今まで私が手にした符で、最も扱いに注意せねばならない符であり、この二柱の神々は、より気を引き締めてお参りしないとならない神様であるというのが良く分かりました。やはり素戔嗚尊や牛頭天王様は厳しい神様です。
 
 
でも、そういう恐るべき神様がいるお陰で、人間は謙虚さを学べるのでしょう。ある意味、とても有難いことです。






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2020-11-29

◆熊野本宮大社

和歌山県の熊野本宮大社へお参りに行きました。初参拝です。

熊野総本宮12

いつもは寺社参拝に行く時は事前にどういう場所かというのを調べてから行きますが、今回は事前情報なしで出かけました。一体どんな神様を祀っているかもこの時点では分かりませんでした。

熊野総本宮06

歴史ある神社ですね。びっしり書かれています。神社を知る上で、この社歴と言うのは侮れません。神社に行っても読まないという人にこそ、一度足を止めて読んで頂きたいなと思います。この時も大勢の参拝客がいましたが、誰も読んで無かったです。

熊野本宮大社13

後で調べて分かりましたが、この熊野本宮神社は熊野権現と嘗ては呼ばれていました。権現とは簡単に言えば、仏教の仏様が神の姿を借りて現れるということです。熊野本宮大社は12柱の神々を祀っているので、「熊野十二権現」と呼ばれていたとありました。

 
この参拝旅行では、12柱の神々全てをお参りすることは出来ませんでした。訪れたこの地には4柱の神々がいました。残りの8柱は別の所に祀られているのかも。


今回お参り出来たのは、家津御子大神(けつみこのおおかみ)と速玉大神(はやたまのおおかみ)、夫須美大神(ふすみのみこと)と天照大神です。


熊野の信仰は、かなり古い時代から神仏習合があったようで、大変複雑です。現地に足を運んだり、実際に調べたりすると、かなり頭が混乱します。


まず、この神社で初めて知った神名「家津御子大神」とは「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」でした。そして速玉大神は「伊邪那岐大神(いざなぎのみこと)」で、夫須美大神は「伊邪那美大神(いざなみのみこと)」です。

 
大神という漢字の読み方も、「おおかみ」と「みこと」と二種類あります。最初に言葉ありきで漢字が充てられたと思いますが、こういう一つ一つを取り上げても混乱します。
 
 
若宮とは、通常子供の神の事を指しますが、熊野の場合は天照大神を祀る社が若宮と云う訳です。


この四柱の神々の中で、主祀神が素戔嗚尊になります。この熊野本宮大社は素戔嗚尊が中心に祀られる神社という事です。まず御祀神が素戔嗚尊というのを知って驚きました。
 
 
庶民の近くにも祀られている熊野神社。全国に3000社以上あるそうですが、その全ては素戔嗚尊だと云う事です。これは知らなかったです。


鳥居を潜り、階段を上る途中に穢れを払う為に参拝する神社があったことを付け加えておきます。写真はちょっとやめました。


熊野総本宮01


こちらが本殿の画像。社が横一列に並ぶ珍しい造りでした。権現造りというそう。


これも後で知って混乱しましたが、画像の手前の社、人が大勢並んでいる社ですが、この社が主祀神の素戔嗚尊を祀っています。その奥の大きな社が、伊邪那岐大神と伊邪那岐大神になります。(一つの社に扉が二つある)
 
 
この事実も驚きました。何処の神社に行っても、主祀神が入っている社は、必ず一番大きい、立派なのが当たり前なのに熊野本宮大社は例外でした。主祀神の社の方が小さいのです。


worship05.png

この画像は神社のHPより拝借しましたが、お参りする順番を示したものです。


①は素戔嗚尊

②は伊邪那岐大神

③は伊邪那美大神

④は天照大神

⑤の神社は見つけれませんでしたが、どうも大鳥居(第一鳥居)の方に歩いて行くとある神社のようです。



一度行っただけでは、謎が多すぎて理解に苦しむ熊野本宮大社。現在は仏様の要素は外されている感じですが、神社のHPによればこうありました。


・素戔嗚尊は阿弥陀如来と同体。

・伊邪那岐大神は薬師如来と同体。

・伊邪那美大神は千手観音と同体。

・天照大神は十一面観音と同体。


という考え方だそうです。熊野十二権現、残り8柱の神々も、様々な仏様と習合しています。


記録、歴史としてはしっかりと神仏習合の話は残っておりますが、実際に神社の境内に入ると完全に神社の様相です。でもどこか神社のようなキリっとした雰囲気ではなく、暖かな感じでした。


コロナ禍の影響か、宝物館が閉館していたのが残念でしたが、仏像が残っているのかもしれません。


素晴らしい神社でしたが、謎が多い神社でした。次回は気になったことを中心にまとめてみます。



続く~

※熊野本宮大社はこちらまで

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2020-11-10

◆藤の木の昔話 後編

牧野村五社の一つ、厳島神社へお参りに行きました。

太閤厳島神社6


五社のうち、工事前の椿神明社、こちらの厳島神社、この神社の天王社、そして稲荷社は今回と過去に訪れたことになります。


四社の印象は、どちらかと言えばちょっときつい感じのする神社でした。こちらの厳島社はまだお参りはしやすかったです。境内の入り口が変わってしまったと思いますが。
 

こちらの厳島神社は、江戸期では弁才天として祀られていたようです。おそらく明治期の法令で同体とされた市杵島姫命に変わったと思われます。

太閤厳島神社5


神社の来歴によれば、延享4年(1747年)にこの地に遷座されたとあります。調べると、1600年頃には既に牧野村に存在していた弁才天社のようです。


一体どこから来たのかはよく分かっていないそうですが、牧野村の別の場所にあったのは間違いなさそうです。今でこそ牧野五社と言われていますが、古くは椿神明社と神明社の二社を併せて牧野三社と呼ばれていたようです。
 

私はこの弁天様は、椿神明社の近くの笈瀬川にあったと思います。椿神明社のほぼほぼ境内です。具体的には川近くにあった山伏塚と椿(伝承では切り倒された藤の大木)に建立されていたと考えています。

 
もし山伏塚があったとすると、川の近くというのは水の神の力で封じようとしたという発想があったのかもしれません。川の近くに弁才天があるのも不思議ではないです。弁才天は水の神様でもあるからです。そして怨敵退散のご利益、強力な封じの力があるのも弁才天です。


大昔、旅の途中でこの辺りで亡くなった人か、あるいは人柱とか、何らかの理由で亡くなった人がおり、山伏塚として埋められていた場所に椿の木を植えた。

 
時は過ぎ、それを忘れていた人達が自分たちの都合で木を切った。木を塚に植えるというパターンは各地にありますが、これは木が神様の依り代になる為、自分達の信仰する神を塚の木に宿らせ、抑えるという意味があるのでしょう。


それを切り倒したものですから、中に抑えられていたモノが出る、疫病が流行ったので強力な封じの力を持つ仏教由来の弁才天を祀ったのでは?と思います。


あるいは、現在の厳島神社の位置に藤の霊木(山伏塚)があり、それを切ったら祟ったので、椿神明社にあった弁才天社を、現在の地に移した可能性もあります。

 
今年はコロナ禍でしたので、甘酒祭が行われたかどうか分かりませんが、昔話では椿神明社や神明社に供えた甘酒ですが、これはそうではなく、弁才天に供えたのではと思えます。

 
実際に現在の甘酒祭はこちらの弁才天社でも何故か行われていますし、この弁才天が頭上に蛇体の神、宇賀神を乗せている姿の宇賀弁才天であるならなおのことです。宇賀神とは宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)ですので、稲の神です。宇賀弁才天とは弁才天と稲荷神が習合した仏様なので、やはり米や酒とは切っても切れない深い関係です。

太閤厳島神社4

牧野五社のうち四社を巡りましたが、随分区画整理や再開発で神社の敷地や形も変化しているのが良く分かりました。天王社に至っては元々境内だった所が道路になっているので、歩道に注連縄がしてある楠の御神木が、ブロックに囲まれて残っていたりします。
 
 
笈瀬川も無くなっているので、推測した山伏塚も調べようがありません。この辺りは空襲があったので神社も燃えているでしょうから神社に伝わっていた資料の類も無いのでしょう。


散らばった点と点を結んでいったら、私はこのような結論になりました。
 
 


紅葉屋はこちらまで





参考サイト 名古屋神社ガイド 中村区厳島社のページ

https://jinja.nagoya/top/nakamuraku/taikou-itukusima-sya
2020-11-08

◆藤の木の昔話 考察  前編

前々回、前回と取り上げてきた名古屋駅裏にある「椿神明社」に残る、甘酒祭の由来(昔話)ですが、どこか引っかかるので今一度考察してみたいと思います。
 
 
◎甘酒祀の云われ(年代不詳)

椿神社境内近くの笈瀬川の川辺に大きな藤の木があり、たいそう評判で毎年大勢の人たちが訪れた。しかし、あまりにも見物人が増えて、近くの畑などを踏み荒らされてしまったため、人がもう来ないようにということで村人がこの木を切り倒したところ、疫病が流行り、村人の殆どが患った。

 困った村人の一人が智者に頼み占ったところ、それは藤の木を切り倒したことによる祟りだから、家ごとに酒を作り、その酒を神様に献上するようにと言われた。

ただ、村で酒を作るのは難しいということで甘酒で勘弁してもらって、椿神明社ともう一つの神明社に供え、そのお下がりの甘酒を飲んだたところ、疫病は治まったと云う。



甘酒祭の昔話で、最初に気になったのが「藤の木」です。現在では椿神明社の近くに笈瀬川という川はない。埋め立てられたのでしょう。そこにあったのが藤の木です。切って祟った(疫病の流行)ということは霊木であったということです。

 
最初の疑問が何故藤の木なのか?です。椿神明社の名にある様に、この辺りには椿の大木が数多くあったそうです。現在の椿神明社のすぐ横の道路は笈瀬川筋と言います。

 
この位置に川があったとすると、ほんとに境内近くです。神社の境内に椿が群生していたとするならば、それは藤の木ではなく椿の木であった方が自然な感じがします。
 
 
年代不詳ということは、話の背景が古い話であり、口伝なのでハッキリしていないように思えます。江戸時代には、既にかなり昔の話になっており、「そんなような言い伝えがある」となっていたのでは・・・。
 
 
口伝で何世代も伝わる話は、当初の頃から変化していることはありえます。

上条弁才天1

例えば、愛知県安城市にある上条弁才天社には、神社の歴史が記された石碑がありますが、弁才天の御利益の一つに「おでき」や「いぼ」「眼病」に効くとあります。


眼病というのは、この上条弁才天とセットで祀られている薬師如来に関係します。弁天様のご利益に眼病を治すというのは聞いたことが無いです。


おできもいぼも弁才天の御利益で聞いたことはありません。これはおそらく、弁才天が七福神になるもっともっと前、財運の神になるもっと前の姿を追うと分かりますが、最初の頃は戦闘神という一面がありました。故に真のご利益は「怨敵退散」です。


「おんてきたいさん」がどんどん伝わって行くうち、「おできたいさん」となったのでしょう。「おでき」が定着すると、おできなら「いぼ」でも同じだろうということで、それもご利益に加わったと思われます。

上条弁才天3


大きな寺院の一角の弁才天ならまだしも、民間で単独で祀られる弁天様なので、伝え聞く内に意味が変化してしまったのです。


旧牧野村に伝わる甘酒祭りの話も、伝え聞くうち、音で判断するうち変わっていったのだと思います。漢字で書けば意味が分かりますが音だけだと聞く人によっては意味が変わる訳です。


私は藤の木は「山塚に植えられていた椿の木」と思いました。


山伏塚とは、文字通りだと修行中の山伏がその地で亡くなり、村人達が弔った墓という意味と、誰か分からないけどその場で野垂れ死んだり、殺されたり、人柱で埋められたなど、非業の死を遂げた人を埋めた墓という意味があります。

 
古墳のように土を盛った場合なら、塚を山に見立てると、山に伏して亡くなったという意味の塚ということです。

 
名古屋町名の伏見町も識者によれば「伏見から富士山が見えたから」という話もありますが、現実に伏見町から富士山は見えません。これはもう無くなってしまいましたが、伏見町から山伏塚が見えたからでしょう。名古屋市東区の高岳の交差点付近に浅間社がありますが、私はあそこに前方後円墳があったと睨んでいます。それが山伏塚でしょう。山伏塚が見えたから「伏見町」です。


塚というのはその場所に木を植えることがあります。これは目印(子孫に注意を促すため)と、神の依り代にするためという意味があります。神は木に宿るからです。怖い存在と認識している場合、木に神を宿らせ封じるという意味です。その場所に神仏を祀る祠を建てる場合もあります。


旧牧野村に古くより祀られている、弁才天社(現在は厳島神社)にお参りに行ってきました。


長くなってきたので、後編へ続きます。



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2020-11-06

◆「田」の字の意味

墨書土器と言う物がある。墨で文字が書かれた土器のことです。

墨書土器-crop

画像の例で言えば、愛知県安城市の彼岸田遺跡から出土したものです。川岸にあった遺跡です。


時代は奈良時代~平安時代(8世紀~9世紀)にかけてのもので、形はたまに神社などで見る「かわらけ」に似ています。文字は1文字のものもあれば、複数の文字が書かれていることもあります。書いてある文字も様々ですが、どうも多いのは田んぼの田の字です。


研究者の間でも、一体何を意味しているのかは分からないそうです。この遺跡の場合ですと、出土数は90数点にものぼり、判読できる文字は田が多いので、何らかの呪術の儀式ではないかと言われています。


研究が進まないのは、このお呪いに関する資料が無く、神道や仏教の中にも見当たらないからなのでしょう。8世紀~9世紀というのは、一般大衆にとっては仏教とはなんじゃらほいという時代でしたから、あんまり民衆には仏教的な考えは広まっていなかったと推測します。


つまりこれは、民間に残っていた仏教以前の原始的なお呪いだったのでしょう。田が特に重宝がられていたようなので、田を書く理由もあったはずです。

墨書土器-crop2


個人的に、これはある種の封じか厄払いのお呪いでは?と思います。封じ、つまり出てきてもらっては困るもの、地鎮という意味があったのでは?と思います。


前回のブログにて椿神明社を調べていたら気になる昔話が出てきました。今一度載せますとこんな話です。


◎甘酒祀の云われ(年代不詳)

椿神社境内近くの笈瀬川の川辺に大きな藤の木があり、たいそう評判で毎年大勢の人たちが訪れた。しかし、あまりにも見物人が増えて、近くの畑などを踏み荒らされてしまったため、人がもう来ないようにということで村人がこの木を切り倒したところ、疫病が流行り、村人の殆どが患った。

 困った村人の一人が智者に頼み占ったところ、それは藤の木を切り倒したことによる祟りだから、家ごとに酒を作り、その酒を神様に献上するようにと言われた。

ただ、村で酒を作るのは難しいということで甘酒で勘弁してもらって、椿神明社ともう一つの神明社に供え、そのお下がりの甘酒を飲んだたところ、疫病は治まったと云う。



前回同様、気になったのは赤字部分です。今回は赤字部分の中から最後の個所、「家ごとに酒を作り、その酒を神様に献上する」に着目しました。


藤の木の怒りを抑えたのは話から見ると、神明社の天照大神と、椿神明社の豊受大神の力と思いますが、その二柱の神様と「酒の力」があったればこそだという事です。


以前、奈良県の西大寺に参拝の折、たまたま知った「石落神社」に関する昔話も、実は祟る石を清める(?)為に酒を用いていました。
 
 
石楽神社の話にある、御神石に酒をかけるようアドバイスした人も、年代不詳の椿神明社に残る話にある、酒を備えるようアドバイスした人も、どうも僧侶ではないようです。お坊様ならお坊様と残る筈ですから。どちらかと言うとシャーマン的な人のように思えます。
 
 
祟るケースに酒を用いる・・・。

 
酒は米から作ります。米とは稲玉、稲の精霊が宿っていると云われます。稲玉は神道では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)をさします。仏教ではお稲荷さんですね。前回ブログの椿明神社付近にも宇迦之御魂神を祀る神社があります。
 
 
田んぼの稲は昔の人達にとって生命線であります、またお米は人間も食べますが、神様が宿る鏡餅にもなります。古代の人は神の恵み、神の力が宿る尊い食べ物が米と考えていたと思います。田んぼとは、神が降りる神聖な場なのでしょう。

 
加えて、田と言う文字を見ていると囲われています。中にあるモノが出てこないようにという意味もあるような気がします。


西大寺の場合、石落神社の御祀神は少名彦命でした。様々な顔を持つ神様ですが農耕神という一面もあります。石落神社が祟る御神石の破片を封じ込めているとすると、そこは稲、田に関する力を持つ少名彦命を持ってきたのも頷けます。


田とは恵みをもたらす強い神が降りる場所、そこで育つ稲は神の力を宿す神聖な食べ物。その神聖な食べ物から作る酒は厄払いや清め、封じに用いられると考えれば、石楽神社の昔話や、椿神明社の昔話に酒が出てくるのも納得出来ました。


墨書土器に田の字が多いのも、同様の理由なのでは?と思います。仏教的な考え方ではなく、神道的、もっと言えば民間に残るシャーマン的な発想なのでしょう。


田という文字、田に降りる神は強いということです。


山の神は春になると村に降りて田んぼの神となり、やがて収穫が終わると今度は山に帰ります。田んぼそれそのものが、神が宿る依り代と言う意味がありそうです。


であれば、墨書土器に書く田の字は、それを埋めた人たちが信じる神の力が宿るようにという意味が出てきます。やはり、田の字は封じという意味がありそうですね。


※参考文献 安城市歴史博物館企画展 「畏きものたち」の図録


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2020-11-04

◆名駅 椿神明社について

名古屋駅に用事があり、いつも車で通る道にある椿神明社が、何の工事か、かつての雰囲気が様変わりしておりました。

DSC_0007-crop.jpg


もう何年も昔のことですが、車でふと通りかかったら、なかなか強い感じのする神社だなと思い、お参りに訪れたことがありました。


ちょっとショックでしたね。


神社そのものを潰すのか、それとも引っ越しするのか・・・。


境内正面入り口の壁に工事の内容が記されたものがありました。


DSC_0005 (1)



それによれば、以前の本殿の位置をずらすようです。縮小ですね。


社の後ろ側の土地と、社が建っていた土地の一部を手放したみたいです。


土地の買い手(?)はJRのようです。


嘗ての雰囲気を知っていたので、あまりの変わりように言葉もありませんでした。



「一体、あの神社はどういう神社だったのか・・・」


興味が湧いたので調べてみました。


まずは御祀神です。


豊受大神を祀っていました。この辺りは江戸時代には牧野村と呼ばれており、その当時からあった村の五つの神社の一つです。この五つの神社は現在も残っています。


椿神明社と天王社(牛頭天王様)、厳島社(弁才天)、神明社、稲穂社(稲荷神)で牧野五社となっていました。


この辺りの歴史は古く、鎌倉時代には伊勢の荘園として神様へお供えをする作物を作っていたようです。故にいつの頃か椿神明社を伊勢の外宮として、もう一つの神明社を伊勢の内宮として村人たちは崇めていたとありました。


かなり古い時代からあった神社と分かりました。


DSC_0006-crop.jpg


あと2年位は工事をしているようなので、この賽銭箱も当分こんな感じなのでしょうか。


おそらく綺麗な境内になるのでしょうが、沢山あった木々が壊滅しているのが痛々しいです。


何故木々を切ったのか。重機が入るのに邪魔だったのか。耐震とかで地面から手を入れるから仕方がなかったのか。


神社の工事を請けおった会社のサイトに、解体工事の詳細が載っていました。


リンク先の昔の神社の写真と見比べると、随分違います。JRが買ったのかと思いましたが、譲り渡したとあるのでお金は発生していない?そんなことはないか。


神社への参拝を続けているうちに気付きましたが、写真を撮ってもよさそうな所や、ここは撮ってはいけないという場所があります。


祀っている神様にもよりますが、写真を撮ったり足を踏み入れたりしてはいけないのは社殿の後側の土地です。それは神社にとって最も神聖な場所だということです。


神職の方がきちんとした所作を行い、工事をしているとは思いますが、こういう元々神社の社の後ろだった土地を知らずに買って、家でも建てて住むとなると、その後はなかなか大変かと思われます。


土地を買ったのがJRなので、誰かが住むようなものは出来ないとは思いますが・・・。


DSC_0008.jpg



椿神明社について調べていると、牧野村とこの地域に残る「甘酒祭」という神事に纏わる昔話で、興味深いものが出てきました。

◎甘酒祀の云われ(年代不詳)

椿神社境内近くの笈瀬川の川辺に大きな藤の木があり、たいそう評判で毎年大勢の人たちが訪れた。しかし、あまりにも見物人が増えて、近くの畑などを踏み荒らされてしまったため、人がもう来ないようにということで村人がこの木を切り倒したところ、疫病が流行り、村人の殆どが患った。

 困った村人の一人が智者に頼み占ったところ、それは藤の木を切り倒したことによる祟りだから、家ごとに酒を作り、その酒を神様に献上するようにと言われた。

ただ、村で酒を作るのは難しいということで甘酒で勘弁してもらって、椿神明社ともう一つの神明社に供え、そのお下がりの甘酒を飲んだたところ、疫病は治まったと云う。



というものです。気になる個所を赤字にしました。



前回のブログで奈良県の西大寺境内にあった「石落神社」を思い出させるような話が、まさかここで出て来るとは・・・。


最近、田んぼの田の字の意味について、思考を巡らせていましたが、この話の中にもヒントがありそうです。


長くなりそうなので、椿神明社についてはここで終わります。


次回は牧野五社の一つ、弁才天様について考えてみたいと思います。


これは一度お参りに行かねばならないかも・・・。



※参考サイト
名古屋神社ガイド
https://jinja.nagoya/top/nakamuraku/tubaki-sinmeisya

よくこれだけ調べたなと思います。名古屋の神社はまずこれを見ると良いかも。



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プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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