2020-10-23
◆菅原天満宮
西大寺参拝のあと、近くに喜光寺という寺院があったので、そちらへ向かった。その途中にあった神社が菅原天満宮。
この辺りの町名が菅原東というので、この神社がある故に名付けられたと思います。

神社の前についてみて知ったが、この地域が菅原道真公の誕生した所だった。
これは驚いた。全くの想定外の出会いでした。

菅原天満宮の御祀神は道真公と、その先祖神である野見宿祢(のみのすくね)と天穂日命(あめのほひのみこと)です。天穂日命は菅原家の始祖とされています。
菅原道真公の誕生日が6月25日と分かりました。こちらの神社でも誕生祭をやっているようです。うちでもやろうかな。
今回の旅は、何となく西大寺にお参りに行きたくなり来た訳ですが、まさか道真公が生まれた地の神社を見つけるとは思いませんでした。
子供の頃よりお参りするようにしておりますが、昨年あたりから、ふとお参りの仕方が違うのではないのか?どのようにお参りすればいいのか?と考えるようになりました。
神道式の二礼二拍手一礼か、それとも仏教式の合唱か・・・。
どちらが正しいとかはないのとは思います。神道式でも問題ないのでしょうが、それだとどうも違うような・・・。
かといってただ合唱するのも、どこか物足りないです。
そんな疑問が出たことに天神様が応えてくれたのか、とある本を読んでいたら天神様の真言があると知りました。その昔、神仏習合の流れの中で十一面観音と習合されたのが天満大自在天(天神様)です。真言があってしかるべきでした。以来、お参りは般若心経と真言を唱えることにしました。個人的にしっくりきます。肚に落ちました。

全くお参りに来るとは思いもしなかった、菅原道真公生誕の地に建てられた神社です。知ったからには言葉を頂こうということで参拝の後、お御籤を引かせて頂きました。
詳しくは控えさせて頂きますが、「もしこの御籤を引くものが商人であるなら・・・」という件が非常に有難いというか、なるほどというお言葉でした。
道真公という方は、寸暇を惜しんで勉強された努力の人です。菅原家初の右大臣になられた方です。そのことも良く踏まえて、自分も言葉を頂いた以上は「やらねば!」という気持ちが強くなりました。

大変気持ちの良い、立派な神社でした。今度は京都の北野天満宮に参拝に行きたくリました。
また、いつかはまだ一度も言ったことがない、太宰府に行ってみたいですね。
※紅葉屋はこちらまで
この辺りの町名が菅原東というので、この神社がある故に名付けられたと思います。

神社の前についてみて知ったが、この地域が菅原道真公の誕生した所だった。
これは驚いた。全くの想定外の出会いでした。

菅原天満宮の御祀神は道真公と、その先祖神である野見宿祢(のみのすくね)と天穂日命(あめのほひのみこと)です。天穂日命は菅原家の始祖とされています。
菅原道真公の誕生日が6月25日と分かりました。こちらの神社でも誕生祭をやっているようです。うちでもやろうかな。
今回の旅は、何となく西大寺にお参りに行きたくなり来た訳ですが、まさか道真公が生まれた地の神社を見つけるとは思いませんでした。
子供の頃よりお参りするようにしておりますが、昨年あたりから、ふとお参りの仕方が違うのではないのか?どのようにお参りすればいいのか?と考えるようになりました。
神道式の二礼二拍手一礼か、それとも仏教式の合唱か・・・。
どちらが正しいとかはないのとは思います。神道式でも問題ないのでしょうが、それだとどうも違うような・・・。
かといってただ合唱するのも、どこか物足りないです。
そんな疑問が出たことに天神様が応えてくれたのか、とある本を読んでいたら天神様の真言があると知りました。その昔、神仏習合の流れの中で十一面観音と習合されたのが天満大自在天(天神様)です。真言があってしかるべきでした。以来、お参りは般若心経と真言を唱えることにしました。個人的にしっくりきます。肚に落ちました。

全くお参りに来るとは思いもしなかった、菅原道真公生誕の地に建てられた神社です。知ったからには言葉を頂こうということで参拝の後、お御籤を引かせて頂きました。
詳しくは控えさせて頂きますが、「もしこの御籤を引くものが商人であるなら・・・」という件が非常に有難いというか、なるほどというお言葉でした。
道真公という方は、寸暇を惜しんで勉強された努力の人です。菅原家初の右大臣になられた方です。そのことも良く踏まえて、自分も言葉を頂いた以上は「やらねば!」という気持ちが強くなりました。

大変気持ちの良い、立派な神社でした。今度は京都の北野天満宮に参拝に行きたくリました。
また、いつかはまだ一度も言ったことがない、太宰府に行ってみたいですね。
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2020-10-16
◆石落神社 その2
西大寺に纏わる興味深い昔話が出て来たので紹介します。
それは「続日本紀」にあった昔話です。続日本紀は日本書紀に続く第二の日本紀という意味合いで、文武天皇から桓武天皇までの95年間の歴史を全40巻に収めた勅選史書です。
各時代の天皇陛下が在位中に起こった出来事が記されています。
その中で、称徳天皇の代、宝亀元年(770年)2月23日に起こった出来事に、石落神社に関すると思われる、とある出来事がありましたので紹介したいと思います。
~西大寺の東塔の心礎を壊し捨てた。その石の大きさは1丈四方余り、厚さ9尺で、東大寺の東、飯森山にあった石である。初め数千人で引き動かしたが、一日で数歩分しか進まず、時に唸り声がした。そこで人夫を増やして9日かかってやっと運んだ。それから削り刻んで据え付けの基礎を築くことが完了した。
その時、男女の巫女の中に、ともすれば石の祟りがあるかもしれないという者があった。そこで芝を積んで石を焼き、三十石あまりの酒を注いで、細かく砕いて道路に捨てた。その後、一ヵ月余りして天皇が病気になった。これを占ったところ、砕いた石の祟りであるというので、すぐにまた拾って清らかな土地に置き、人馬が踏まないようにした。今、寺内の東南隅にある数十片の砕石がそれである~
なるほどというような記録が出てきました。祟る石の話です。西大寺は称徳天皇(東大寺を建立した聖武天皇の娘)勅願により建立された大寺院ですが、その発起人になった天皇が障りをうけて病気になるのです。そしてこの年の8月4日、称徳天皇は53歳で崩御しました。
大勢の人工をもってしても殆ど動かない、うなりを上げる石と言うのは、山の御神体とか古代の磐座かなにかだと思います。石そのものが神です。
その石を無理やり動かし、削って五重塔の礎石に用いるも、祟るかもしれないという理由で燃やして酒をかけ地面にばら撒きました。当時の厄除けの仕方なのでしょう。しかし、石の祟りは衰えず、称徳天皇は病気になります。
巨大寺院を建立する時には、資材を集めるのも大変だと思うので、当時この石に目をつけた人たちも、ひょっとしたら神として崇めている石だと分かっていたのかもしれませんが、やむを得なかったのでしょうか。
そういえば、京都の東寺にも似たような話が伝わっています。五重塔の建立にあたり、聖域とされた伏見稲荷の森から木を伐採したら時の天皇陛下が病気となったという話です。これも同じパターンだと思います。
西大寺は最盛期には110以上の堂舎があった巨大寺院ですが、平安中期には最盛期の姿は見る影もないほど衰退していたようです。衰退した切っ掛けは、平安遷都があり、援助が受け難くなったことだと言われています。
その後、衰退した西大寺を再興させたのが、興正菩薩叡尊上人(1201~1290)です。鎌倉時代の人です。
ここからは推測ですが、叡尊上人が西大寺を再興していく中で、これは絶対に何とかしなくてはと考えたのが、あの祟る石の残骸だったと思います。
御神石を山から取り出し、破壊し、それを祀りもせずその辺にばら撒いていた。挙句、寺の建立に携わった称徳天皇すら命を落としている。御神体の神が怒り、祟り神になっていることが西大寺が衰退した直接の原因であると考えていたのかもしれません。
そこで、おそらくその石の破片を搔き集め、三輪山から超強力な呪力を持つ神、少名彦命を勧請し祀った。
これは二通り考えられると思いますが、一つは病を齎す名も無き古代の祟り神を、病を治す薬の神である少名彦命と同体であるとして習合させ、一緒に祀った。
あるいは封じの力をもつ少名彦命をもってきて、祟り神を封じ込めたのどちらかでしょう。

どっちの可能性もあるかと思いますが、真実は分かりません。
今でも石落神と呼ばれるのは、やはり祟る神への敬意、忘れてはなるまいという先人の想いを感じます。
石落神社の結界がどういう意味であるのか。
ただ単に文化財になっている社に、イタズラされないようにあるのかもしれませんが、色々と調べるとこの小さな神社が西大寺にとっては、とても大事な神社であるということが良く分かりました。
石楽神は豊心丹という薬を授与したり、初午の厄除けの御祭では大きな力を発揮しているようです。西大寺参拝の折はぜひこちらの石楽神社へもお参り下さい。ただし、境内の中には入らない方が良いかと思います。
おしまい
※あくまで個人の感想です。
紅葉屋はこちらまで
参考文献 続日本紀全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫
それは「続日本紀」にあった昔話です。続日本紀は日本書紀に続く第二の日本紀という意味合いで、文武天皇から桓武天皇までの95年間の歴史を全40巻に収めた勅選史書です。
各時代の天皇陛下が在位中に起こった出来事が記されています。
その中で、称徳天皇の代、宝亀元年(770年)2月23日に起こった出来事に、石落神社に関すると思われる、とある出来事がありましたので紹介したいと思います。
~西大寺の東塔の心礎を壊し捨てた。その石の大きさは1丈四方余り、厚さ9尺で、東大寺の東、飯森山にあった石である。初め数千人で引き動かしたが、一日で数歩分しか進まず、時に唸り声がした。そこで人夫を増やして9日かかってやっと運んだ。それから削り刻んで据え付けの基礎を築くことが完了した。
その時、男女の巫女の中に、ともすれば石の祟りがあるかもしれないという者があった。そこで芝を積んで石を焼き、三十石あまりの酒を注いで、細かく砕いて道路に捨てた。その後、一ヵ月余りして天皇が病気になった。これを占ったところ、砕いた石の祟りであるというので、すぐにまた拾って清らかな土地に置き、人馬が踏まないようにした。今、寺内の東南隅にある数十片の砕石がそれである~
なるほどというような記録が出てきました。祟る石の話です。西大寺は称徳天皇(東大寺を建立した聖武天皇の娘)勅願により建立された大寺院ですが、その発起人になった天皇が障りをうけて病気になるのです。そしてこの年の8月4日、称徳天皇は53歳で崩御しました。
大勢の人工をもってしても殆ど動かない、うなりを上げる石と言うのは、山の御神体とか古代の磐座かなにかだと思います。石そのものが神です。
その石を無理やり動かし、削って五重塔の礎石に用いるも、祟るかもしれないという理由で燃やして酒をかけ地面にばら撒きました。当時の厄除けの仕方なのでしょう。しかし、石の祟りは衰えず、称徳天皇は病気になります。
巨大寺院を建立する時には、資材を集めるのも大変だと思うので、当時この石に目をつけた人たちも、ひょっとしたら神として崇めている石だと分かっていたのかもしれませんが、やむを得なかったのでしょうか。
そういえば、京都の東寺にも似たような話が伝わっています。五重塔の建立にあたり、聖域とされた伏見稲荷の森から木を伐採したら時の天皇陛下が病気となったという話です。これも同じパターンだと思います。
西大寺は最盛期には110以上の堂舎があった巨大寺院ですが、平安中期には最盛期の姿は見る影もないほど衰退していたようです。衰退した切っ掛けは、平安遷都があり、援助が受け難くなったことだと言われています。
その後、衰退した西大寺を再興させたのが、興正菩薩叡尊上人(1201~1290)です。鎌倉時代の人です。
ここからは推測ですが、叡尊上人が西大寺を再興していく中で、これは絶対に何とかしなくてはと考えたのが、あの祟る石の残骸だったと思います。
御神石を山から取り出し、破壊し、それを祀りもせずその辺にばら撒いていた。挙句、寺の建立に携わった称徳天皇すら命を落としている。御神体の神が怒り、祟り神になっていることが西大寺が衰退した直接の原因であると考えていたのかもしれません。
そこで、おそらくその石の破片を搔き集め、三輪山から超強力な呪力を持つ神、少名彦命を勧請し祀った。
これは二通り考えられると思いますが、一つは病を齎す名も無き古代の祟り神を、病を治す薬の神である少名彦命と同体であるとして習合させ、一緒に祀った。
あるいは封じの力をもつ少名彦命をもってきて、祟り神を封じ込めたのどちらかでしょう。

どっちの可能性もあるかと思いますが、真実は分かりません。
今でも石落神と呼ばれるのは、やはり祟る神への敬意、忘れてはなるまいという先人の想いを感じます。
石落神社の結界がどういう意味であるのか。
ただ単に文化財になっている社に、イタズラされないようにあるのかもしれませんが、色々と調べるとこの小さな神社が西大寺にとっては、とても大事な神社であるということが良く分かりました。
石楽神は豊心丹という薬を授与したり、初午の厄除けの御祭では大きな力を発揮しているようです。西大寺参拝の折はぜひこちらの石楽神社へもお参り下さい。ただし、境内の中には入らない方が良いかと思います。
おしまい
※あくまで個人の感想です。
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参考文献 続日本紀全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫
2020-10-15
◆石落神社
奈良県の西大寺にお参りに行って来ました。ふと行ってみたいと思ったのが切っ掛けです。
小学生の頃、父に連れられてお参りに行った記憶がありますが、かれこれ40年近く経ってからの再訪です。

随分時間が経過してからの再訪です。当時のうっすらとした記憶では、六角形だったか八角形の建物があり、その中に大きな塑像の文殊菩薩があったような・・・。
しかし、実際に訪れた西大寺は記憶と随分違いました。文殊菩薩はありましたが木彫で、それほど大きくありません。
そして見上げるほどの大きな仏像は長谷寺様式の十一面観音像でした。西大寺は大きなお寺ですが、見所はやはり画像の四王金堂の十一面観世音菩薩と同じお堂にある四天王でしょう。
鋳造の四天王(一体は木造)というのも珍しいかと思います。
西大寺でもらった境内図を見ていたら、変わった名前の神社がありました。「石落神社」です。読み方は「いしおち」かと思いましたが、正しくは「しゃくらくじんじゃ」です。

一目見て尋常ではない神社だと思いました。鳥居の前に結界(竹製の棒)があるのです。ようするに入ってはならない神社です。入り口の鳥居に結界がいきなりある神社は初めてかもしれません。
社名も独特です。石が落ちる神社です。

近くの看板によれば、西大寺の鎮守の神様であること、西大寺を再興させた叡尊上人が仁治三年(1242年)に祀られたとありました。
何を祀っているのかはさっぱり分かりません。
気になったので調べてみました。西大寺のHPによればこうありました。
「東門前の道を隔てた東北にある小祠。仁治3年(1242)叡尊が三輪から少彦名命を勧請したと伝えられ、呪薬法会などに奉祀されてきた。わが国最古の売薬として著名な豊心丹はこの石落神が授与した秘薬という由来によって製作された漢方薬である。現在は春日造の檜皮葺一間社である。3月の初午厄除祈願は石落神を勧請して祈願を行う。」
気になった個所を赤字にしてみました。
まず、御祀神が分かりました。少名彦命(すくなびこのみこと)です。
私もそんなに詳しくない神様だったので調べてみました。簡単ですが少名彦命について特徴を纏めてみます。
①神道における、創造に携わった神々の一柱、神産巣日神の御子神。
②一寸法師のモデルとも言われるように、非常に小さな神様。しかしやっていることはスケールがデカい。
③大国主命と共に全国を巡り国造りをした神様。国土を開発した。
④常世からやってきた神様。
⑤農業技術や酒造りの技術、薬の技術などを齎した神様。
⑥温泉神としての一面もある。
⑦穀物の神でもあるので、鳥獣や昆虫の害から穀物を守る禁厭(まじない)を大国主命と共に定めた。
ざっとですが、このような特徴がありました。少名彦命は、ガガイモの皮で出来た船(実が長さ10センチくらい)に乗ってやってきたとあるように、とても小さな神様ですがそれに反して凄まじい力を持っている神様でもあると分かりました。有能過ぎます。
国土経営の神、医薬神、酒神、農耕の神、温泉の神・・・一体どれほどの力を持つ神様なのでしょうか。
そんな経歴のはっきりした石楽神社の御祀神でもある少名彦命ですが、一点だけ不可解なのは、西大寺のHPでは厄除けの祈願祭では、寺の守護神でもある少名彦命を、その神名では呼ばず、「石楽神」と呼ぶことです。
そもそもなんでこの社名なのか?
少名彦命の来歴を調べてみても、石が落っこちてくるような話は出てきません。
実はこの石落という社名、西大寺に纏わる昔話にこれだなと思うようなものがありました。
次回はもう少し石落神社について考えてみたいと思います。
続く~
紅葉屋はこちらまで
※参考文献 八百万の神々 戸部民夫著 新紀元社
小学生の頃、父に連れられてお参りに行った記憶がありますが、かれこれ40年近く経ってからの再訪です。

随分時間が経過してからの再訪です。当時のうっすらとした記憶では、六角形だったか八角形の建物があり、その中に大きな塑像の文殊菩薩があったような・・・。
しかし、実際に訪れた西大寺は記憶と随分違いました。文殊菩薩はありましたが木彫で、それほど大きくありません。
そして見上げるほどの大きな仏像は長谷寺様式の十一面観音像でした。西大寺は大きなお寺ですが、見所はやはり画像の四王金堂の十一面観世音菩薩と同じお堂にある四天王でしょう。
鋳造の四天王(一体は木造)というのも珍しいかと思います。
西大寺でもらった境内図を見ていたら、変わった名前の神社がありました。「石落神社」です。読み方は「いしおち」かと思いましたが、正しくは「しゃくらくじんじゃ」です。

一目見て尋常ではない神社だと思いました。鳥居の前に結界(竹製の棒)があるのです。ようするに入ってはならない神社です。入り口の鳥居に結界がいきなりある神社は初めてかもしれません。
社名も独特です。石が落ちる神社です。

近くの看板によれば、西大寺の鎮守の神様であること、西大寺を再興させた叡尊上人が仁治三年(1242年)に祀られたとありました。
何を祀っているのかはさっぱり分かりません。
気になったので調べてみました。西大寺のHPによればこうありました。
「東門前の道を隔てた東北にある小祠。仁治3年(1242)叡尊が三輪から少彦名命を勧請したと伝えられ、呪薬法会などに奉祀されてきた。わが国最古の売薬として著名な豊心丹はこの石落神が授与した秘薬という由来によって製作された漢方薬である。現在は春日造の檜皮葺一間社である。3月の初午厄除祈願は石落神を勧請して祈願を行う。」
気になった個所を赤字にしてみました。
まず、御祀神が分かりました。少名彦命(すくなびこのみこと)です。
私もそんなに詳しくない神様だったので調べてみました。簡単ですが少名彦命について特徴を纏めてみます。
①神道における、創造に携わった神々の一柱、神産巣日神の御子神。
②一寸法師のモデルとも言われるように、非常に小さな神様。しかしやっていることはスケールがデカい。
③大国主命と共に全国を巡り国造りをした神様。国土を開発した。
④常世からやってきた神様。
⑤農業技術や酒造りの技術、薬の技術などを齎した神様。
⑥温泉神としての一面もある。
⑦穀物の神でもあるので、鳥獣や昆虫の害から穀物を守る禁厭(まじない)を大国主命と共に定めた。
ざっとですが、このような特徴がありました。少名彦命は、ガガイモの皮で出来た船(実が長さ10センチくらい)に乗ってやってきたとあるように、とても小さな神様ですがそれに反して凄まじい力を持っている神様でもあると分かりました。有能過ぎます。
国土経営の神、医薬神、酒神、農耕の神、温泉の神・・・一体どれほどの力を持つ神様なのでしょうか。
そんな経歴のはっきりした石楽神社の御祀神でもある少名彦命ですが、一点だけ不可解なのは、西大寺のHPでは厄除けの祈願祭では、寺の守護神でもある少名彦命を、その神名では呼ばず、「石楽神」と呼ぶことです。
そもそもなんでこの社名なのか?
少名彦命の来歴を調べてみても、石が落っこちてくるような話は出てきません。
実はこの石落という社名、西大寺に纏わる昔話にこれだなと思うようなものがありました。
次回はもう少し石落神社について考えてみたいと思います。
続く~
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※参考文献 八百万の神々 戸部民夫著 新紀元社
2020-10-06
◆天神飾り(床の間の話)
天神様の掛軸を見たくなったので飾ってみました。

子供の頃より縁があり、今でもよくお参りしています。学問の神様ですね。(詳しくはこちらまで)
我が家では天神様をお祀りしているので、たまにはこういう感じで床を飾って楽しみます。当初、紺色の毛氈(もうせん)を敷いていましたが、赤色の方が良いということで赤色の毛氈に変えました。

天神様を偲び、学問に関する飾り、文房具を並べます。

筆とか

硯とか。これは「風」の字の硯です。

風神雷神の画かれた棗(なつめ)。お茶を入れる茶道具ですが、天神様は火雷神というイメージもあります。

水晶の飾り。太陽のイメージです。

水晶の飾り。こちらは月のイメージです。

掛軸の下には手製の鳥居を設置しました。
当初、畳一面に赤毛氈を敷いていましたが、神仏を祀る飾りつけをする場合、全面に毛氈を敷くのは好ましくないそうです。畳の部分が見えるように置かないと、神様が足を踏む場も無いのだそう。
天神様は、当時日本随一の漢詩の達人でした。時の有名僧侶から代筆も頼まれるほどだったとか。
私に漢詩の才能がないのでなんですが、歌の一つでも床の前で詠むのもいいかもしれません。
このように我が家では家族でこじんまりとした祭を行います。祭りとは神仏と遊ぶということです。
私も理屈が分かるまで思いもしませんでしたが、自宅に床の間があるという方は、実は途轍もなく恵まれています。何故なら神仏と遊べる部屋があるからです。
古くより床の間とは、本来仏壇を祀ったり、自分の信仰する神仏を祀る部屋です。昔の人は家の守りや、子孫や家の繁栄には神仏の力、先祖神の力は欠かせないと考えていました。床の間とは神仏、先祖神との接触の場と言えるでしょう。
今後、新築を考えている方が、たまたまこのブログを読んでいるとしたら、ぜひ床の間を作ることを推奨します。日本の家にとって、家の中に床の間が無いというのは、例えるなら龍の絵を上手に画いたのに、目玉を入れ忘れたことと同じです。
つまり、的外れの見当違いということです。
私もこの年になって、ようやく祭の重要性に気付けました。その祭を家で行えることは、とても楽しいですし有難いことだと理解できるようになれました。
家に床の間が無いという方は、置き床を置けば、同じように神仏と遊ぶことも出来ます。
このブログを読んだ方で、ちょっとでも祭、遊びに興味が出てきたのなという方がみえたら、まずは自分が現在住んでいる地域の氏神さまのお祭に、率先して一緒になって楽しんで参加することをお勧めします。
氏神様は何も文句を言わず、氏子を厄神から守ってくれているのですから。
※紅葉屋呉服店はこちらまで

子供の頃より縁があり、今でもよくお参りしています。学問の神様ですね。(詳しくはこちらまで)
我が家では天神様をお祀りしているので、たまにはこういう感じで床を飾って楽しみます。当初、紺色の毛氈(もうせん)を敷いていましたが、赤色の方が良いということで赤色の毛氈に変えました。

天神様を偲び、学問に関する飾り、文房具を並べます。

筆とか

硯とか。これは「風」の字の硯です。

風神雷神の画かれた棗(なつめ)。お茶を入れる茶道具ですが、天神様は火雷神というイメージもあります。

水晶の飾り。太陽のイメージです。

水晶の飾り。こちらは月のイメージです。

掛軸の下には手製の鳥居を設置しました。
当初、畳一面に赤毛氈を敷いていましたが、神仏を祀る飾りつけをする場合、全面に毛氈を敷くのは好ましくないそうです。畳の部分が見えるように置かないと、神様が足を踏む場も無いのだそう。
天神様は、当時日本随一の漢詩の達人でした。時の有名僧侶から代筆も頼まれるほどだったとか。
私に漢詩の才能がないのでなんですが、歌の一つでも床の前で詠むのもいいかもしれません。
このように我が家では家族でこじんまりとした祭を行います。祭りとは神仏と遊ぶということです。
私も理屈が分かるまで思いもしませんでしたが、自宅に床の間があるという方は、実は途轍もなく恵まれています。何故なら神仏と遊べる部屋があるからです。
古くより床の間とは、本来仏壇を祀ったり、自分の信仰する神仏を祀る部屋です。昔の人は家の守りや、子孫や家の繁栄には神仏の力、先祖神の力は欠かせないと考えていました。床の間とは神仏、先祖神との接触の場と言えるでしょう。
今後、新築を考えている方が、たまたまこのブログを読んでいるとしたら、ぜひ床の間を作ることを推奨します。日本の家にとって、家の中に床の間が無いというのは、例えるなら龍の絵を上手に画いたのに、目玉を入れ忘れたことと同じです。
つまり、的外れの見当違いということです。
私もこの年になって、ようやく祭の重要性に気付けました。その祭を家で行えることは、とても楽しいですし有難いことだと理解できるようになれました。
家に床の間が無いという方は、置き床を置けば、同じように神仏と遊ぶことも出来ます。
このブログを読んだ方で、ちょっとでも祭、遊びに興味が出てきたのなという方がみえたら、まずは自分が現在住んでいる地域の氏神さまのお祭に、率先して一緒になって楽しんで参加することをお勧めします。
氏神様は何も文句を言わず、氏子を厄神から守ってくれているのですから。
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2020-10-03
◆仏像と光背
本年2020年は特別企画としまして、「山王社伝来観世音菩薩像と仏教文化の御紹介」として店内催事を行っております。
詳細はこちらまで。
その中で昔から我が家でお祭している、一体の仏像を初開帳しておりますが、この仏像に関する不思議な話を御紹介致します。
仏様の御姿を載せるのは気が引けますので、後ろ姿です。

光背の後ろ側ですね。
光背とは仏像の後ろにあるものです。

イラストで言うと赤矢印部分の宝珠型のものです。
光背の種類もイラストのような宝珠型や、円状のもの、仏像の身体全体を覆うものまで形は様々です。
仏様の内より出る力とか、オーラであるとか言われています。仏像には光背はつきものなのです。
今回初開帳中の写真画像の仏像。昔から家で祀っているものですが、当初光背は亡失しておりました。仏像本体だけだったのです。今から60年以上前に祖父の縁で家にやってきた仏様です。時代は不明。
それから10年程経ち、当時愛知県豊橋市内の〇〇呉服店で、住み込みで働いていた父は、たまたまふらっと立ち寄った同市内の骨董店にて、小さな仏像の光背を入手しました。
やがて父は〇〇呉服店を退社し、家業を継ぐべく家へ帰りました。それからしばらく経ったある日、毎日手を合わせてお参りしていた小さな仏像を見た時、ふと自分が昔買った光背を思い出しました。
「ひょっとしたら、あの時の光背が、この仏像に丁度合うかも・・・」
試しに仮合わせをしたところ、寸法的にはどんぴしゃりでした。仏像の背中には四角い突起物があります。光背の中央には、同じく四角い穴が開いています。
あまりにしっくりきそうなので、まさかと思いつつ、父は光背と仏像をあわせ、軽く力を入れてみました。すると「パチン!」と音がして取れなくなってしまいました。
光背と仏像、色も大きさもピッタリでした。
こんなことがあるのか?とルーペで観察しました。光背の後ろに目線を移しじっくり見た所、仰天するような発見がありました。

仏像本体にある突起物表面についていた線傷と、光背の後ろについていた線傷が一本の線として繋がったのです。
また、よく見れば浮き出た錆びも一つに繋がりました。そうです。元々光背はこの仏像についていたものだったのです。
一体どういう御縁か。偶然か、はたまた必然か・・・。
この仏像は今日でも、我が家で家族皆が手を合わせお参りしております。
今回、こちらの仏像も初開帳しました。一般公開は紅葉屋創業以来初の出来事です。
このブログをご覧になった方で、ぜひ一度お参りしたいとおっしゃる方は、どうぞ当店までお越しくださいませ。
コロナ騒動を受けて、どうも先行きが見えにくい世の中となっております。そんな中で皆様に何か元気になって頂ければという思いで、今回の企画展を思いつきました。
御縁のあった皆様に、仏様の御利益、仏縁が沢山あればと思う次第です。
※紅葉屋呉服店はこちらまで
詳細はこちらまで。
その中で昔から我が家でお祭している、一体の仏像を初開帳しておりますが、この仏像に関する不思議な話を御紹介致します。
仏様の御姿を載せるのは気が引けますので、後ろ姿です。

光背の後ろ側ですね。
光背とは仏像の後ろにあるものです。

イラストで言うと赤矢印部分の宝珠型のものです。
光背の種類もイラストのような宝珠型や、円状のもの、仏像の身体全体を覆うものまで形は様々です。
仏様の内より出る力とか、オーラであるとか言われています。仏像には光背はつきものなのです。
今回初開帳中の写真画像の仏像。昔から家で祀っているものですが、当初光背は亡失しておりました。仏像本体だけだったのです。今から60年以上前に祖父の縁で家にやってきた仏様です。時代は不明。
それから10年程経ち、当時愛知県豊橋市内の〇〇呉服店で、住み込みで働いていた父は、たまたまふらっと立ち寄った同市内の骨董店にて、小さな仏像の光背を入手しました。
やがて父は〇〇呉服店を退社し、家業を継ぐべく家へ帰りました。それからしばらく経ったある日、毎日手を合わせてお参りしていた小さな仏像を見た時、ふと自分が昔買った光背を思い出しました。
「ひょっとしたら、あの時の光背が、この仏像に丁度合うかも・・・」
試しに仮合わせをしたところ、寸法的にはどんぴしゃりでした。仏像の背中には四角い突起物があります。光背の中央には、同じく四角い穴が開いています。
あまりにしっくりきそうなので、まさかと思いつつ、父は光背と仏像をあわせ、軽く力を入れてみました。すると「パチン!」と音がして取れなくなってしまいました。
光背と仏像、色も大きさもピッタリでした。
こんなことがあるのか?とルーペで観察しました。光背の後ろに目線を移しじっくり見た所、仰天するような発見がありました。

仏像本体にある突起物表面についていた線傷と、光背の後ろについていた線傷が一本の線として繋がったのです。
また、よく見れば浮き出た錆びも一つに繋がりました。そうです。元々光背はこの仏像についていたものだったのです。
一体どういう御縁か。偶然か、はたまた必然か・・・。
この仏像は今日でも、我が家で家族皆が手を合わせお参りしております。
今回、こちらの仏像も初開帳しました。一般公開は紅葉屋創業以来初の出来事です。
このブログをご覧になった方で、ぜひ一度お参りしたいとおっしゃる方は、どうぞ当店までお越しくださいませ。
コロナ騒動を受けて、どうも先行きが見えにくい世の中となっております。そんな中で皆様に何か元気になって頂ければという思いで、今回の企画展を思いつきました。
御縁のあった皆様に、仏様の御利益、仏縁が沢山あればと思う次第です。
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