2020-07-31
◆注意すべき神社 その④
前回の続きです。
③祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(全国版)
④祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(地域限定)
次に③と④、祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社です。
どちらも死後、異変が起こり祟っているとされて祀られましたが、規模の違いがある為、全国版と地域限定とさせて頂きました。
全国版で有名なのはやはり天神様こと菅原道真公でしょう。天神とは元来「天津神」、即ち天上の神々のことでしたが、あまりにも有名になり、現在では天神=菅原道真公を表す言葉になってしまいました。(詳しくは過去ブログ参照)
権力者に祟ったことで、国を挙げて祀ることになったこと、道真公自体が天才だったため、後に学問の神として崇められたことが大きく作用し、全国的に有名になり沢山のお社で祀られました。
次に地域限定の祟った神様、あるいはその場所のみで祀られる祟り神の神社です。関東方面には佐倉惣五郎という義民が死後、祟ったとされ神に祀り上げられました。舞台化もされた有名な話でもありますが、もうほとんど知られていない、地元の人も忘れかけている個人が祀られているものも、結構あります。
最近、仏像や御開帳参拝が好きな方から教えて頂きましたが、四国に凄い神社がありました。薫的大神(くんてきおおかみ)という神様を祀る「薫的神社」です。これが調べてみたら今回のテーマど真ん中の神社でした。
まず、この薫的大神の概要を紹介したいと思います。生きていたときは薫的和尚と言うお坊様でした。
〇薫的和尚の概要
薫的和尚は、伝説によれば寛永二年(一六二五)に生まれた。十五才で出家得度し、二十二才まで御修行、香美郡土佐山田町楠目の豫岳寺(よがくじ)の住職となった。詩歌、俳句、絵画、彫刻にすぐれ、武術の稽古もしていたと伝えられ、身長は六尺の偉丈夫であった。後に洞ヶ島の曹洞宗瑞應寺(ずいおうじ)に移り、瑞應寺第十七世住職となった。
当時、この地域の有力な寺は二つありました。滅びた長曾我部氏の菩提寺であった「瑞巌寺」と、長曾我部氏滅亡後にこの地にやって来て統治することになった山内氏が設けた、その菩提寺である「真如寺」です。真如寺も曹洞宗のお寺でした。
薫的和尚は瑞巌寺の住職で、真如時の住職、良谷和尚と何かにつけて衝突していました。そんな時、薫的和尚が激怒する事件が起こります。二代目藩主が亡くなり、その戒名を真如寺の良谷和尚がつけましたが、その戒名は「竹巖院殿龍山雲公大居士」でした。
薫的和尚は、
「巌上の竹は枯死するが松はよく成育する故に松巌院でなければならない。 雲公の雲は、風によって乱れる意味を持つので不吉。 公は三公九郷の高官でなければ使用すべきでない。忠義は従四位侍従であるから公は僭上の嫌いがある」
と指摘。要するに戒名が良くないと言ったのです。また、法事の際、瑞應寺の座列が真如寺の下座に置かれていることを抗議し、対立するようになりました。
薫的和尚はこの問題を宗門支配の周防の国、長源寺に直訴しようと訴状を書き、瑞應寺の脇寺の芳心院(僧侶)に長源寺に行く様託しましたが、芳心院は真如寺に内通してしまいました。
真如寺から内通を受けた奉行「孕石頼母」ら藩の重役は関所違反という無実の罪をきせ、薫和尚を投獄しました。そして7年後、獄中にて経文を血で書き、49日間自ら食を絶ち抗議。
寛文11年(西暦1671年)旧正月10日高知城を睨み付け、自ら舌を噛み切り憤死。享年47才でした。
何とも凄まじい最後です。血書をしたため、食を断って舌を噛みきり自決。しかもお城を睨みながら・・・・・
獄中死した薫的和尚の遺体は、高知市小高坂山の住人、郷士西内半次正義が密に貰い受け、現高知市三の丸の私有地の畑に埋葬。光善芝と名付け、松を植え牛馬を繋ぐことを禁じた。 墓はいつしか忘れ去られていました。
そして異変が起きます。神社のHPより抜粋です。
薫的和尚の判決をした奉行の孕石頼母は、正徳4年(1714年)乱心し庭先を指して、「あの石の上に、緋の衣を着けた坊主が物凄い形相で睨み付ける。」と言って狂死。子・孫も次々に変死をして、血脈が絶えました。
また、直訴の手紙を託されたにもかかわらず、ライバル関係の真如寺側へ寝返った芳心院は、元禄8年(1695年)薫的和尚の命日より喉を痛め発病、不眠に悩み、発病後21日で発狂し死亡。長男、次男も変死。
ある時、山内家の重臣、山内主馬様のご母堂、光善院様の夢に薫的様が御出現され、「今を去る55年前、無実の罪に陥れられ、無念の死を遂げた。その恨みを7世まで晴らさんものとする。」というお告げをうけた。光善院様は、薫的様の祟りを大変恐れました。
光善院様は家臣に命じ、薫的様のお墓を探し享保12年(1725年)に小高坂山から洞ケ島に御改葬。現在の薫的神社裏の霊光塔にお祀りされている。瑞應寺は明治3年廃仏棄釈により、廃寺となり、洞ケ島神社と称す。昭和24年に薫的神社に改称した。
後半、少々分かり辛いので整理すると、
・1671年に薫的和尚、獄中にて自決
・薫的和尚を売った芳心院は1695年に狂死。長男、次男も変死
・薫的和尚を裁いた奉行、孕石頼母は1714年に狂死。その子供、孫も変死
・1725年、光善院の夢枕に薫的和尚が出現。祟りを恐れて忘れられていた薫的和尚の墓地を改め、祀り直す。
・薫的和尚が住職をしていた瑞應寺に祀られたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となる。
・そして神社として復活。洞ケ島神社になる。
・昭和24年に薫的神社に改名し、現在に至る。
死後、祟り神となり、自身を嵌めた関係者の命を奪い、恐れられて寺を守る神(?)として祀られるも、寺は廃仏毀釈により廃寺になる。しかし、祟り神となった薫的和尚を祀る御堂(社?)だけは無くならず、逆にそれを主祀神として祀る神社となる。廃仏毀釈の嵐の中でも、薫的和尚を祀る場所だけは、寺が無くなっても残る・・・。残さなければならなかったのでしょう。
昭和になって、その神社の名前も変わる。地域の意味を込めた社名から、その御祀神様の名を表す社名に・・・。
神社のHPがあったので覗いてみましたが、興味深い情報が載っていました。
それは薫的和尚が最後を迎えた当時の牢屋が移築(!)されていること。
孕石頼母の家にあった庭石もあります。この庭石の上に薫的和尚の幽霊が出たとか・・・。
古い牢屋などは取り壊されそうなものですが、それすら当時の人にとったら、あの薫的和尚が最後を迎えた牢屋を壊すのは恐ろしいという感情があったのでしょう。
薫的大神様の目線で考えて、果たして薫的和尚が最後を迎えた牢屋を境内に持ってくるというのは大丈夫か?とは思いますが・・・。これは凄いことです。庭石をこの地に持ってきたのも、恐れ故に粗末に出来なかったのでしょう。
また薫的神社とは違う場所ですが、薫的和尚のお母さんも神として祀られているようです。
こちらの薫的神社は薫的和尚の神像が遺されています。神像は原則御開帳と言うのはありません。しかし、こちらの神社では50年毎に御開帳があるようです。これはお寺だった時代の名残でしょう。

死して祟った個人の姿の像をつくると言うのは、凄いことです。ぱっと思い浮かぶのは菅原道真公や平将門公でしょうか。どちらも恐ろしい怨霊伝説が残る神様ですが、薫的和尚もそれぐらい畏れられたので和尚の神像が造られたのでしょう。
来年が50年毎の節目になるので御開帳をやるそうですが、行かれる方は「一体自分はどんな神様をお参りするのか?」ということを良くご理解して、お参りに行った方が良いかと思います。
続く・・・
薫的神社はこちらまで
③祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(全国版)
④祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(地域限定)
次に③と④、祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社です。
どちらも死後、異変が起こり祟っているとされて祀られましたが、規模の違いがある為、全国版と地域限定とさせて頂きました。
全国版で有名なのはやはり天神様こと菅原道真公でしょう。天神とは元来「天津神」、即ち天上の神々のことでしたが、あまりにも有名になり、現在では天神=菅原道真公を表す言葉になってしまいました。(詳しくは過去ブログ参照)
権力者に祟ったことで、国を挙げて祀ることになったこと、道真公自体が天才だったため、後に学問の神として崇められたことが大きく作用し、全国的に有名になり沢山のお社で祀られました。
次に地域限定の祟った神様、あるいはその場所のみで祀られる祟り神の神社です。関東方面には佐倉惣五郎という義民が死後、祟ったとされ神に祀り上げられました。舞台化もされた有名な話でもありますが、もうほとんど知られていない、地元の人も忘れかけている個人が祀られているものも、結構あります。
最近、仏像や御開帳参拝が好きな方から教えて頂きましたが、四国に凄い神社がありました。薫的大神(くんてきおおかみ)という神様を祀る「薫的神社」です。これが調べてみたら今回のテーマど真ん中の神社でした。
まず、この薫的大神の概要を紹介したいと思います。生きていたときは薫的和尚と言うお坊様でした。
〇薫的和尚の概要
薫的和尚は、伝説によれば寛永二年(一六二五)に生まれた。十五才で出家得度し、二十二才まで御修行、香美郡土佐山田町楠目の豫岳寺(よがくじ)の住職となった。詩歌、俳句、絵画、彫刻にすぐれ、武術の稽古もしていたと伝えられ、身長は六尺の偉丈夫であった。後に洞ヶ島の曹洞宗瑞應寺(ずいおうじ)に移り、瑞應寺第十七世住職となった。
当時、この地域の有力な寺は二つありました。滅びた長曾我部氏の菩提寺であった「瑞巌寺」と、長曾我部氏滅亡後にこの地にやって来て統治することになった山内氏が設けた、その菩提寺である「真如寺」です。真如寺も曹洞宗のお寺でした。
薫的和尚は瑞巌寺の住職で、真如時の住職、良谷和尚と何かにつけて衝突していました。そんな時、薫的和尚が激怒する事件が起こります。二代目藩主が亡くなり、その戒名を真如寺の良谷和尚がつけましたが、その戒名は「竹巖院殿龍山雲公大居士」でした。
薫的和尚は、
「巌上の竹は枯死するが松はよく成育する故に松巌院でなければならない。 雲公の雲は、風によって乱れる意味を持つので不吉。 公は三公九郷の高官でなければ使用すべきでない。忠義は従四位侍従であるから公は僭上の嫌いがある」
と指摘。要するに戒名が良くないと言ったのです。また、法事の際、瑞應寺の座列が真如寺の下座に置かれていることを抗議し、対立するようになりました。
薫的和尚はこの問題を宗門支配の周防の国、長源寺に直訴しようと訴状を書き、瑞應寺の脇寺の芳心院(僧侶)に長源寺に行く様託しましたが、芳心院は真如寺に内通してしまいました。
真如寺から内通を受けた奉行「孕石頼母」ら藩の重役は関所違反という無実の罪をきせ、薫和尚を投獄しました。そして7年後、獄中にて経文を血で書き、49日間自ら食を絶ち抗議。
寛文11年(西暦1671年)旧正月10日高知城を睨み付け、自ら舌を噛み切り憤死。享年47才でした。
何とも凄まじい最後です。血書をしたため、食を断って舌を噛みきり自決。しかもお城を睨みながら・・・・・
獄中死した薫的和尚の遺体は、高知市小高坂山の住人、郷士西内半次正義が密に貰い受け、現高知市三の丸の私有地の畑に埋葬。光善芝と名付け、松を植え牛馬を繋ぐことを禁じた。 墓はいつしか忘れ去られていました。
そして異変が起きます。神社のHPより抜粋です。
薫的和尚の判決をした奉行の孕石頼母は、正徳4年(1714年)乱心し庭先を指して、「あの石の上に、緋の衣を着けた坊主が物凄い形相で睨み付ける。」と言って狂死。子・孫も次々に変死をして、血脈が絶えました。
また、直訴の手紙を託されたにもかかわらず、ライバル関係の真如寺側へ寝返った芳心院は、元禄8年(1695年)薫的和尚の命日より喉を痛め発病、不眠に悩み、発病後21日で発狂し死亡。長男、次男も変死。
ある時、山内家の重臣、山内主馬様のご母堂、光善院様の夢に薫的様が御出現され、「今を去る55年前、無実の罪に陥れられ、無念の死を遂げた。その恨みを7世まで晴らさんものとする。」というお告げをうけた。光善院様は、薫的様の祟りを大変恐れました。
光善院様は家臣に命じ、薫的様のお墓を探し享保12年(1725年)に小高坂山から洞ケ島に御改葬。現在の薫的神社裏の霊光塔にお祀りされている。瑞應寺は明治3年廃仏棄釈により、廃寺となり、洞ケ島神社と称す。昭和24年に薫的神社に改称した。
後半、少々分かり辛いので整理すると、
・1671年に薫的和尚、獄中にて自決
・薫的和尚を売った芳心院は1695年に狂死。長男、次男も変死
・薫的和尚を裁いた奉行、孕石頼母は1714年に狂死。その子供、孫も変死
・1725年、光善院の夢枕に薫的和尚が出現。祟りを恐れて忘れられていた薫的和尚の墓地を改め、祀り直す。
・薫的和尚が住職をしていた瑞應寺に祀られたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となる。
・そして神社として復活。洞ケ島神社になる。
・昭和24年に薫的神社に改名し、現在に至る。
死後、祟り神となり、自身を嵌めた関係者の命を奪い、恐れられて寺を守る神(?)として祀られるも、寺は廃仏毀釈により廃寺になる。しかし、祟り神となった薫的和尚を祀る御堂(社?)だけは無くならず、逆にそれを主祀神として祀る神社となる。廃仏毀釈の嵐の中でも、薫的和尚を祀る場所だけは、寺が無くなっても残る・・・。残さなければならなかったのでしょう。
昭和になって、その神社の名前も変わる。地域の意味を込めた社名から、その御祀神様の名を表す社名に・・・。
神社のHPがあったので覗いてみましたが、興味深い情報が載っていました。
それは薫的和尚が最後を迎えた当時の牢屋が移築(!)されていること。
孕石頼母の家にあった庭石もあります。この庭石の上に薫的和尚の幽霊が出たとか・・・。
古い牢屋などは取り壊されそうなものですが、それすら当時の人にとったら、あの薫的和尚が最後を迎えた牢屋を壊すのは恐ろしいという感情があったのでしょう。
薫的大神様の目線で考えて、果たして薫的和尚が最後を迎えた牢屋を境内に持ってくるというのは大丈夫か?とは思いますが・・・。これは凄いことです。庭石をこの地に持ってきたのも、恐れ故に粗末に出来なかったのでしょう。
また薫的神社とは違う場所ですが、薫的和尚のお母さんも神として祀られているようです。
こちらの薫的神社は薫的和尚の神像が遺されています。神像は原則御開帳と言うのはありません。しかし、こちらの神社では50年毎に御開帳があるようです。これはお寺だった時代の名残でしょう。

死して祟った個人の姿の像をつくると言うのは、凄いことです。ぱっと思い浮かぶのは菅原道真公や平将門公でしょうか。どちらも恐ろしい怨霊伝説が残る神様ですが、薫的和尚もそれぐらい畏れられたので和尚の神像が造られたのでしょう。
来年が50年毎の節目になるので御開帳をやるそうですが、行かれる方は「一体自分はどんな神様をお参りするのか?」ということを良くご理解して、お参りに行った方が良いかと思います。
続く・・・
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2020-07-27
◆注意すべき神社 その③
注意すべき神社で項目から外れていた、大事な神社がありました。
それは「もと人間を神として祀っている神社」です。歴史上に実在した人物を祀る神社です。
有名どころだと菅原道真公、平将門公、徳川家康公や豊臣秀吉公、加藤清正や吉田松陰などなどです。ある意味このような方々を祀る神社はお墓とも言えます。
天皇陛下のご先祖神にあたる神様の中だと、最も多いと思われるのが八幡神社の応神天皇やそのお母さんの神宮皇后もそれに該当しそうです。八幡社は全国で二番目に多い神社というので、元人間を神として祀る神社というのは、全国の神社の中でもかなりの割合をしめるかも。
この元人間の神様と一括りにすると、ちょっと無理が生じます。なので、「祟ったから・あるいは祟りそうだから祀られた」場合と、そうではない場合と大きく分けます。さらにそれを出来る限り細分化すると・・・
①歴史において有名な人物で、勝った方の神様の神社
②歴史において有名な人物で、負けてしまった方の神様の神社
③祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(全国版)
④祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(地域限定)
⑤当事者が生きていた時代には無く100年単位の時間が経過して祀られた神様の神社
⑥戦没者を祀る神社
まだあるかもしれませんが、考えれるだけ考えてみました。①で有名なのはやはり古代の戦争に勝利した戦神、応神天皇を祀る八幡社が該当すると思います。徳川家康公を祀る東照宮もそうですね。
②だと平将門公や、京都にある御霊神社が有名です。御霊とは不遇な死に方をした人の霊を神としたものです。
例で挙げた京都の上御霊神社・下御霊神社、奈良県の秋篠寺付近の八所御霊神社は同じ神様を祀っています。私はこの中で八所御霊神社のみ参拝に行ったことがありました。(調べてて思い出しました)
この三か所の神社でお祭されている神様は崇道天皇(すどうてんのう)です。気になったので調べてみました。
崇道天皇は平安時代の人物で、その当時は早良親王と呼ばれていました。以下、かいつまんで紹介致します。
延暦三年、桓武天皇は長岡へ遷都。この時、藤原種継の暗殺事件が起こる。長岡京の造宮司の藤原種継は早良親王と敵対関係であったため、早良親王が暗殺事件の首謀者とみなされる。(早良親王は桓武天皇と異母兄弟)
その後親王は、淡路島の乙訓寺にて監禁されることになった。早良親王は無実を訴え、食を断った。10日余り過ぎ、宮内卿の石川恒守らが淡路島へ移送する途中、高瀬橋頭で絶命した。
恒守はそのまま遺体を淡路島へ運び葬った。その後、異変が起こる。
桓武天皇の妻、藤原旅子が他界。続いて母親の高野新笠(たかのにいがさ)、皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が他界。天変地異もおきた。さらに皇太子の病気が長引くので占った所、皇位を廃された早良親王の祟りであると出た。
朝廷は淡路国に使者を送り、奉謝を行った。
しかし、これでも祟りは治まらず、早良親王の死後、78年経過した貞観5年(863年)、神泉苑で御霊会を行い、早良親王らを御霊として祀る様になった。
崇道天皇というお名前は、死後早良親王に送られた名前のようです。しかし、皇統譜上では今も正規の天皇としては認められていないようです。

昔、奈良の方の八所神社はたまたま通りかかった時に参拝しました。御霊神社というのは祟り神を祀っていると聞いていたので、緊張してお参りしたのを思い出しました。

当時撮影した看板。
火雷大神は荒ぶる神様で雷神です。天神様こと菅原道真公という意味もありそうですが、やはり超自然的な怖い神と考えてよさそうです。崇道天皇以下七柱の神様は人の名前です。御霊とあるので、やはり非業な死を遂げた神様達なのでしょう。
この看板の注意すべき点は、境内に於いて「①不敬・不浄な行為」、「②鳥獣をとるなどの殺生行為」「③尊厳を疵つける一切の行為」を禁ずるとあることです。どこの神社にも当てはまることです。②のような生き物をとるなというのはたまに見かけますが、①とか③のような強い口調の言葉はあんまりみないかも・・・。
それを大々的に入り口に表記するというのは、やはり参拝するのに要注意せよ、怒らせる行為は絶対するな!という恐怖の裏返しかと思います。
確かにものすごく掃除が行き渡っている神社です。異様に綺麗さに拘っていると思いました。
と同時に、大変緊張する神社でもありました。よく写真撮ってきたなと思います。参拝当時の自分に会えるとしたら、「写真は撮るな!」と言ってたでしょう。
こういう神社は謙虚な気持ちでお参りすることが必須です。
長くなって来たので次回に続きます。
※参考文献 天皇の本 学研
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それは「もと人間を神として祀っている神社」です。歴史上に実在した人物を祀る神社です。
有名どころだと菅原道真公、平将門公、徳川家康公や豊臣秀吉公、加藤清正や吉田松陰などなどです。ある意味このような方々を祀る神社はお墓とも言えます。
天皇陛下のご先祖神にあたる神様の中だと、最も多いと思われるのが八幡神社の応神天皇やそのお母さんの神宮皇后もそれに該当しそうです。八幡社は全国で二番目に多い神社というので、元人間を神として祀る神社というのは、全国の神社の中でもかなりの割合をしめるかも。
この元人間の神様と一括りにすると、ちょっと無理が生じます。なので、「祟ったから・あるいは祟りそうだから祀られた」場合と、そうではない場合と大きく分けます。さらにそれを出来る限り細分化すると・・・
①歴史において有名な人物で、勝った方の神様の神社
②歴史において有名な人物で、負けてしまった方の神様の神社
③祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(全国版)
④祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(地域限定)
⑤当事者が生きていた時代には無く100年単位の時間が経過して祀られた神様の神社
⑥戦没者を祀る神社
まだあるかもしれませんが、考えれるだけ考えてみました。①で有名なのはやはり古代の戦争に勝利した戦神、応神天皇を祀る八幡社が該当すると思います。徳川家康公を祀る東照宮もそうですね。
②だと平将門公や、京都にある御霊神社が有名です。御霊とは不遇な死に方をした人の霊を神としたものです。
例で挙げた京都の上御霊神社・下御霊神社、奈良県の秋篠寺付近の八所御霊神社は同じ神様を祀っています。私はこの中で八所御霊神社のみ参拝に行ったことがありました。(調べてて思い出しました)
この三か所の神社でお祭されている神様は崇道天皇(すどうてんのう)です。気になったので調べてみました。
崇道天皇は平安時代の人物で、その当時は早良親王と呼ばれていました。以下、かいつまんで紹介致します。
延暦三年、桓武天皇は長岡へ遷都。この時、藤原種継の暗殺事件が起こる。長岡京の造宮司の藤原種継は早良親王と敵対関係であったため、早良親王が暗殺事件の首謀者とみなされる。(早良親王は桓武天皇と異母兄弟)
その後親王は、淡路島の乙訓寺にて監禁されることになった。早良親王は無実を訴え、食を断った。10日余り過ぎ、宮内卿の石川恒守らが淡路島へ移送する途中、高瀬橋頭で絶命した。
恒守はそのまま遺体を淡路島へ運び葬った。その後、異変が起こる。
桓武天皇の妻、藤原旅子が他界。続いて母親の高野新笠(たかのにいがさ)、皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が他界。天変地異もおきた。さらに皇太子の病気が長引くので占った所、皇位を廃された早良親王の祟りであると出た。
朝廷は淡路国に使者を送り、奉謝を行った。
しかし、これでも祟りは治まらず、早良親王の死後、78年経過した貞観5年(863年)、神泉苑で御霊会を行い、早良親王らを御霊として祀る様になった。
崇道天皇というお名前は、死後早良親王に送られた名前のようです。しかし、皇統譜上では今も正規の天皇としては認められていないようです。

昔、奈良の方の八所神社はたまたま通りかかった時に参拝しました。御霊神社というのは祟り神を祀っていると聞いていたので、緊張してお参りしたのを思い出しました。

当時撮影した看板。
火雷大神は荒ぶる神様で雷神です。天神様こと菅原道真公という意味もありそうですが、やはり超自然的な怖い神と考えてよさそうです。崇道天皇以下七柱の神様は人の名前です。御霊とあるので、やはり非業な死を遂げた神様達なのでしょう。
この看板の注意すべき点は、境内に於いて「①不敬・不浄な行為」、「②鳥獣をとるなどの殺生行為」「③尊厳を疵つける一切の行為」を禁ずるとあることです。どこの神社にも当てはまることです。②のような生き物をとるなというのはたまに見かけますが、①とか③のような強い口調の言葉はあんまりみないかも・・・。
それを大々的に入り口に表記するというのは、やはり参拝するのに要注意せよ、怒らせる行為は絶対するな!という恐怖の裏返しかと思います。
確かにものすごく掃除が行き渡っている神社です。異様に綺麗さに拘っていると思いました。
と同時に、大変緊張する神社でもありました。よく写真撮ってきたなと思います。参拝当時の自分に会えるとしたら、「写真は撮るな!」と言ってたでしょう。
こういう神社は謙虚な気持ちでお参りすることが必須です。
長くなって来たので次回に続きます。
※参考文献 天皇の本 学研
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2020-07-22
◆注意すべき神社 その②
前回の続きです。
③六所神社(七所神社とか八所神社とか〇〇所神社)
④境内に古墳、塚と思われるものが残っている神社。
⑤神明社と呼ばれる神社
今回は上記三つについて考えてみたいと思います。
③と⑤は関連している箇所がありますので、まずは④から。
境内に古墳があるような超古い神社。あるいは史跡認定はされていませんが塚のようなものがある神社です。古墳の上に建っている神社も含みます。

(画像は名古屋市にある大石神社:塚っぽい神社です)
古墳も塚も昔の人の墓です。まずその部分だけを取っても、参拝時には敬意を払わねばならないでしょう。
神社境内に古墳がある場合、何故この地に神社(寺)が建立されたのか?を考えるのも大事です。
もともと古墳のある地は霊地なので信仰の対象になっていた。だから後に神社が出来た。

(こちらも名古屋市内にある猪子石神社の看板。同じく塚っぽい。大石神社と対)
あるいは、古墳や古墳に生えていた木などを不用意に傷つけた。傷つけた途端、祟りがおきまくり、慌てて神を祭った。つまり荒ぶる神の封じの為により強い神を持ってきたということがありえると思います。
前者と後者の割合で言えば、後者の方が多いと思います。
名古屋城の街づくりを見ても、徳川家が古墳に気を使っていたことが良く分かります。
例えば、清州越しで寺を沢山引っ越しさせ、名古屋城から見た南側に寺町をつくりました。現在の大須観音界隈です。商店街を歩くと古墳が残っていますが、その古墳の周りには寺が集中しています。また古墳の上に神社がある所もあります。この辺りは熱田系の豪族の埋葬地だったと思うので、仏教や強い神様の力で封じをしたのでしょう。
名古屋城築城には石垣が足りず、名古屋市内の古墳を徳川家が壊した形跡があります。しかし、どうも気を使っていたようで、古墳を壊す役目は加藤清正など元豊臣家の武将にやらせています。特に名古屋市北区は古墳を壊した形跡が多く、それを恐れたのか江戸時代には残った古墳の上に徳川家が神社が建てたりしています。御祭神は白山菊理姫命、御利益は仲裁です。
このように、神社に古墳や塚がある所は、過去に何かあったことが多いと思いますので、やはり参拝時にはより厳粛な気持ちでお参りした方が良いでしょう。
次に③です。⑤とも少し似ています。
六所神社(ろくしょじんじゃ)とは、六柱の神々を祀っている神社ということです。私が知っている例ですと、七所神社、八所神社などがあります。多い例ですと二十七所社と言うのも見つけたことがあります。
何故注意した方が良い神社でこの「〇所神社」を上げたかと言うと、一体何を祀っているのか分からないことが多いからです。
〇所神社の中には御祭神が特定されている神社もあります。例えば愛知県岡崎市にある六所神社です。
こういう来歴のはっきりした神社は安心できますが、この〇所神社と言うのは元々の神様が変わらない神社もあれば、道路が広くなった、人がその地域に住まなくなったなどの理由で一か所に集められて出来ることもあります。
また神様のお名前が遡っても不明の場合、祟り神を集めた神社の可能性もあったりします。
仏教の仏様と違い、神社の神様は神様同士の相性というのもあるので、例えば滅ぼした側の神様と滅ぼされた側の神様を一緒に知らずに祀ってしまったり、古代神話に於いて敵対関係の間柄の神々を、人の都合で知らずに一緒に祀ってしまうと、それだけで場が悪くなりそうです。
〇所神社、特に祀られている御祀神が多いにも関わらず、何を祀っているか分からない場合は、やはり注意して敬意を持ってお参りした方が良いでしょう。分からない故の怖さのある神社です。
最後に⑤についてです。
神明社と言うと、御祀神は天照大神です。社名を見れば「あっ天照大神だ」と分かるぐらい有名ですが、この神明社、特に地方にある神明社は要注意です。
なぜなら、明治時代以降に御祀神が入れ替えられているケースがあるからです。
明治の政策で国家宗教が神道に決まった際、一番大切な神社が伊勢神宮となりました。その際、特に地方に多かったと思いますが、その地域にしかいない特殊な神様、地元の豪族や有力者を祀っているような神社などは、天照大神に入れ替わったことがあるからです。
こうなると、本当の御祀神は忘れられている可能性があるので、神様からすれば機嫌が良くないと言えます。そんな神社であれば、やはり礼節を守ってお参りすべきです。(まぁ、神社自体、どこへいってもそういう気持ちは大事ですが)
神明社に限らず、記紀神話に登場する有名な神様へ御祀神が変わった他の神社もあります。関東圏で言えば明神社です。関東圏の明神社と呼ばれる社は、明治以前は殆ど平将門公を祀っていたそうです。しかし、天皇陛下が東京に住むようになると、天皇陛下の御先祖に逆らったのが平将門公になるので、「逆賊を祀るとは何事か!」という理由で全部他の神様へ入れ替わってしまいました。将門公がちょっと気の毒です。
神明社に話を戻しますが、これも一概に全部が該当する訳ではありません。当然最初から記紀神話の神々を祀っているケースもあります。こればかりはその神社の歴史を調べたり、境内の末社をくまなく見て、聞いたことが無い神様がいるかいないかを観る必要があります。
以上、私が考えるお参りする際に注意すべき神社をお話しましたが、もう一つ忘れていたパターンの神社がありました。それは、
⑥かつて人間だったけど、何らかの理由で神として祀られるようになった神社
です。次回は⑥について考えてみます。
③六所神社(七所神社とか八所神社とか〇〇所神社)
④境内に古墳、塚と思われるものが残っている神社。
⑤神明社と呼ばれる神社
今回は上記三つについて考えてみたいと思います。
③と⑤は関連している箇所がありますので、まずは④から。
境内に古墳があるような超古い神社。あるいは史跡認定はされていませんが塚のようなものがある神社です。古墳の上に建っている神社も含みます。

(画像は名古屋市にある大石神社:塚っぽい神社です)
古墳も塚も昔の人の墓です。まずその部分だけを取っても、参拝時には敬意を払わねばならないでしょう。
神社境内に古墳がある場合、何故この地に神社(寺)が建立されたのか?を考えるのも大事です。
もともと古墳のある地は霊地なので信仰の対象になっていた。だから後に神社が出来た。

(こちらも名古屋市内にある猪子石神社の看板。同じく塚っぽい。大石神社と対)
あるいは、古墳や古墳に生えていた木などを不用意に傷つけた。傷つけた途端、祟りがおきまくり、慌てて神を祭った。つまり荒ぶる神の封じの為により強い神を持ってきたということがありえると思います。
前者と後者の割合で言えば、後者の方が多いと思います。
名古屋城の街づくりを見ても、徳川家が古墳に気を使っていたことが良く分かります。
例えば、清州越しで寺を沢山引っ越しさせ、名古屋城から見た南側に寺町をつくりました。現在の大須観音界隈です。商店街を歩くと古墳が残っていますが、その古墳の周りには寺が集中しています。また古墳の上に神社がある所もあります。この辺りは熱田系の豪族の埋葬地だったと思うので、仏教や強い神様の力で封じをしたのでしょう。
名古屋城築城には石垣が足りず、名古屋市内の古墳を徳川家が壊した形跡があります。しかし、どうも気を使っていたようで、古墳を壊す役目は加藤清正など元豊臣家の武将にやらせています。特に名古屋市北区は古墳を壊した形跡が多く、それを恐れたのか江戸時代には残った古墳の上に徳川家が神社が建てたりしています。御祭神は白山菊理姫命、御利益は仲裁です。
このように、神社に古墳や塚がある所は、過去に何かあったことが多いと思いますので、やはり参拝時にはより厳粛な気持ちでお参りした方が良いでしょう。
次に③です。⑤とも少し似ています。
六所神社(ろくしょじんじゃ)とは、六柱の神々を祀っている神社ということです。私が知っている例ですと、七所神社、八所神社などがあります。多い例ですと二十七所社と言うのも見つけたことがあります。
何故注意した方が良い神社でこの「〇所神社」を上げたかと言うと、一体何を祀っているのか分からないことが多いからです。
〇所神社の中には御祭神が特定されている神社もあります。例えば愛知県岡崎市にある六所神社です。
こういう来歴のはっきりした神社は安心できますが、この〇所神社と言うのは元々の神様が変わらない神社もあれば、道路が広くなった、人がその地域に住まなくなったなどの理由で一か所に集められて出来ることもあります。
また神様のお名前が遡っても不明の場合、祟り神を集めた神社の可能性もあったりします。
仏教の仏様と違い、神社の神様は神様同士の相性というのもあるので、例えば滅ぼした側の神様と滅ぼされた側の神様を一緒に知らずに祀ってしまったり、古代神話に於いて敵対関係の間柄の神々を、人の都合で知らずに一緒に祀ってしまうと、それだけで場が悪くなりそうです。
〇所神社、特に祀られている御祀神が多いにも関わらず、何を祀っているか分からない場合は、やはり注意して敬意を持ってお参りした方が良いでしょう。分からない故の怖さのある神社です。
最後に⑤についてです。
神明社と言うと、御祀神は天照大神です。社名を見れば「あっ天照大神だ」と分かるぐらい有名ですが、この神明社、特に地方にある神明社は要注意です。
なぜなら、明治時代以降に御祀神が入れ替えられているケースがあるからです。
明治の政策で国家宗教が神道に決まった際、一番大切な神社が伊勢神宮となりました。その際、特に地方に多かったと思いますが、その地域にしかいない特殊な神様、地元の豪族や有力者を祀っているような神社などは、天照大神に入れ替わったことがあるからです。
こうなると、本当の御祀神は忘れられている可能性があるので、神様からすれば機嫌が良くないと言えます。そんな神社であれば、やはり礼節を守ってお参りすべきです。(まぁ、神社自体、どこへいってもそういう気持ちは大事ですが)
神明社に限らず、記紀神話に登場する有名な神様へ御祀神が変わった他の神社もあります。関東圏で言えば明神社です。関東圏の明神社と呼ばれる社は、明治以前は殆ど平将門公を祀っていたそうです。しかし、天皇陛下が東京に住むようになると、天皇陛下の御先祖に逆らったのが平将門公になるので、「逆賊を祀るとは何事か!」という理由で全部他の神様へ入れ替わってしまいました。将門公がちょっと気の毒です。
神明社に話を戻しますが、これも一概に全部が該当する訳ではありません。当然最初から記紀神話の神々を祀っているケースもあります。こればかりはその神社の歴史を調べたり、境内の末社をくまなく見て、聞いたことが無い神様がいるかいないかを観る必要があります。
以上、私が考えるお参りする際に注意すべき神社をお話しましたが、もう一つ忘れていたパターンの神社がありました。それは、
⑥かつて人間だったけど、何らかの理由で神として祀られるようになった神社
です。次回は⑥について考えてみます。
2020-07-21
◆注意すべき神社 その①
詳しい数はきちんと把握できていないと思いますが、全国には8万社以上の神社があるそうです。
基本、神社参拝は本人が行きたいところへ行けば良いと思います。
それなりに今まであちこち参拝に行きましたが、当然ながら行ってない有名神社も山ほどあります。
全体から見れば全然行けてない、めちゃくちゃ少ない参拝神社数ですが、その中で「この神社は特に参拝時に気をつけた方が良い」という神社を私なりにお話ししたいと思います。行っても全然構わないですが、より衿を正して参拝した方が好ましい神社です。
雰囲気が暗い神社、荒れてる神社、肌で感じるような緊張する神社などは当然要注意ですが、社名や具体的な特徴で考えてみます。
①津島神社・八坂神社・須賀神社など。共通しているのは嘗て「牛頭天王様」を祀っていた神社。
②八王子神社
③六所神社(七所神社とか八所神社とか〇〇所神社)
④境内に古墳、塚と思われるものが残っている神社。
⑤神明社と呼ばれる神社
順を追ってみます。まず①ですがこのブログでも度々出てきますが、例で出てきた三つの神社は、現在「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を祀っています。しかし、嘗ては仏教由来でも神道由来でもない、陰陽道由来の荒ぶる厄神の王、牛頭天王様を祀っていました。(詳しくは過去ブログ参照)

(画像は津島神社)
明治の神仏分離政策で分けられてしまいましたが、果たして人間の都合で外して抹消できる神様なのか甚だ疑問です。八坂神社、津島神社は(愛知県の場合)あちこちにあります。庶民の神様へ願う最大の関心事は、今も昔も病気です。病気の元締め的な牛頭天王様を祀るのは至極当然と言えます。
今年、数年ぶりに津島神社の大本へ参拝に行きましたが、非常にきっつい、気を遣う神社でした(あくまで私見)。神仏分離、廃仏毀釈は誠に馬鹿げた政策ですが、最大の失敗は津島神社、八坂神社の牛頭天王様を外し、抹消したことだと思います。大分怒っているというか、機嫌がよくないというか、どこかちぐはぐな感じがしました。
牛頭天王様を祀っていた神社は津島神社、八坂神社、須賀神社が有名ですが、この社名に合致しない牛頭天王様を祀る神社もあります。岐阜県で言えば古井神社、長屋神社、溝旗神社などがそうです。(情報提供:岐阜県在住のK氏)なので、御祀神が分からなければ一度調べるのをお勧めします。
名古屋市内で言えば、各町内にある素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る氏神様も、嘗ては牛頭天王様を祀っていたと思われます。
次に②の八王子神社ですが、この方々も陰陽道由来の神様達で、牛頭天王様のお子さん達です。
簡単に言えば、長女を除き、長男以下七男までは超がつくほどの荒ぶる神様です。祟り神です。ある意味牛頭天王様よりも気をつけねばならない神様達かもしれません。
詳しく説明したいのですが、正直怖いので止めておきます。検索することもしない方が良いかもしれません。

(〇〇〇〇神社)
京都には〇〇〇〇神社という古社があります。この神社、境内に宝物館があり、年に2回、期間を設けてこの神社に残る神像(数十体の神像群。かなり多い)を公開しますが、正直に言いますと無信仰の人、興味本位で行く人は、この宝物館にはあんまり行かない方が良いと思います。八王子神の中に大将軍神という荒ぶる神様がいますが、この大将軍神像で立体曼荼羅が構築されていました。
重要文化財に指定されている素晴らしい神像群ですが、あまりにも強烈過ぎます。神像というのが見てはいけないということがよく分かります。一体でも十分神社の御神体になりそう神像ですが、なぜこれほど多くの大将軍神像ばかり集められたのか?
それは平安時代の人たちにとって、最も恐れられていた神様の一柱だったからだと思います。次から次へと権力者たちはこの神像を彫らせ、「あなた様には敵いません」という意味で祭り上げたのでしょう。恐怖の裏返しがこの奉納された大将軍神像群ではと思います。
〇〇〇〇神社への参拝は気をつければ特に問題ないと思いますが、宝物館へ行かれる方は言動には本当にご注意下さい。もし行くという方は、同じ日に東寺の立体曼荼羅へ参拝に行くと違いが良く分かります。
八王子神は牛頭天王様を祀っていた神社と比べれば少ないですが、そもそも津島神社や八坂神社には八王子神が一緒に祀られていたはずです。牛頭天王様が密教に取り入れられたということは、お子さんたちの八王子神も一緒に取り込まれましたが、現在の八王子神を祀る神社は、明治以後に素戔嗚尊の八柱のお子さんたちに変えられてしまいました。
しかし昔から八王子神だけを牛頭天王様と分けて祀るということは、やはりちょっと別格として考えられていたのでは?と思います。
次回は③~⑤について考えてみたいと思います。
基本、神社参拝は本人が行きたいところへ行けば良いと思います。
それなりに今まであちこち参拝に行きましたが、当然ながら行ってない有名神社も山ほどあります。
全体から見れば全然行けてない、めちゃくちゃ少ない参拝神社数ですが、その中で「この神社は特に参拝時に気をつけた方が良い」という神社を私なりにお話ししたいと思います。行っても全然構わないですが、より衿を正して参拝した方が好ましい神社です。
雰囲気が暗い神社、荒れてる神社、肌で感じるような緊張する神社などは当然要注意ですが、社名や具体的な特徴で考えてみます。
①津島神社・八坂神社・須賀神社など。共通しているのは嘗て「牛頭天王様」を祀っていた神社。
②八王子神社
③六所神社(七所神社とか八所神社とか〇〇所神社)
④境内に古墳、塚と思われるものが残っている神社。
⑤神明社と呼ばれる神社
順を追ってみます。まず①ですがこのブログでも度々出てきますが、例で出てきた三つの神社は、現在「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を祀っています。しかし、嘗ては仏教由来でも神道由来でもない、陰陽道由来の荒ぶる厄神の王、牛頭天王様を祀っていました。(詳しくは過去ブログ参照)

(画像は津島神社)
明治の神仏分離政策で分けられてしまいましたが、果たして人間の都合で外して抹消できる神様なのか甚だ疑問です。八坂神社、津島神社は(愛知県の場合)あちこちにあります。庶民の神様へ願う最大の関心事は、今も昔も病気です。病気の元締め的な牛頭天王様を祀るのは至極当然と言えます。
今年、数年ぶりに津島神社の大本へ参拝に行きましたが、非常にきっつい、気を遣う神社でした(あくまで私見)。神仏分離、廃仏毀釈は誠に馬鹿げた政策ですが、最大の失敗は津島神社、八坂神社の牛頭天王様を外し、抹消したことだと思います。大分怒っているというか、機嫌がよくないというか、どこかちぐはぐな感じがしました。
牛頭天王様を祀っていた神社は津島神社、八坂神社、須賀神社が有名ですが、この社名に合致しない牛頭天王様を祀る神社もあります。岐阜県で言えば古井神社、長屋神社、溝旗神社などがそうです。(情報提供:岐阜県在住のK氏)なので、御祀神が分からなければ一度調べるのをお勧めします。
名古屋市内で言えば、各町内にある素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る氏神様も、嘗ては牛頭天王様を祀っていたと思われます。
次に②の八王子神社ですが、この方々も陰陽道由来の神様達で、牛頭天王様のお子さん達です。
簡単に言えば、長女を除き、長男以下七男までは超がつくほどの荒ぶる神様です。祟り神です。ある意味牛頭天王様よりも気をつけねばならない神様達かもしれません。
詳しく説明したいのですが、正直怖いので止めておきます。検索することもしない方が良いかもしれません。

(〇〇〇〇神社)
京都には〇〇〇〇神社という古社があります。この神社、境内に宝物館があり、年に2回、期間を設けてこの神社に残る神像(数十体の神像群。かなり多い)を公開しますが、正直に言いますと無信仰の人、興味本位で行く人は、この宝物館にはあんまり行かない方が良いと思います。八王子神の中に大将軍神という荒ぶる神様がいますが、この大将軍神像で立体曼荼羅が構築されていました。
重要文化財に指定されている素晴らしい神像群ですが、あまりにも強烈過ぎます。神像というのが見てはいけないということがよく分かります。一体でも十分神社の御神体になりそう神像ですが、なぜこれほど多くの大将軍神像ばかり集められたのか?
それは平安時代の人たちにとって、最も恐れられていた神様の一柱だったからだと思います。次から次へと権力者たちはこの神像を彫らせ、「あなた様には敵いません」という意味で祭り上げたのでしょう。恐怖の裏返しがこの奉納された大将軍神像群ではと思います。
〇〇〇〇神社への参拝は気をつければ特に問題ないと思いますが、宝物館へ行かれる方は言動には本当にご注意下さい。もし行くという方は、同じ日に東寺の立体曼荼羅へ参拝に行くと違いが良く分かります。
八王子神は牛頭天王様を祀っていた神社と比べれば少ないですが、そもそも津島神社や八坂神社には八王子神が一緒に祀られていたはずです。牛頭天王様が密教に取り入れられたということは、お子さんたちの八王子神も一緒に取り込まれましたが、現在の八王子神を祀る神社は、明治以後に素戔嗚尊の八柱のお子さんたちに変えられてしまいました。
しかし昔から八王子神だけを牛頭天王様と分けて祀るということは、やはりちょっと別格として考えられていたのでは?と思います。
次回は③~⑤について考えてみたいと思います。
2020-07-12
◆神社参拝において 入口のお話
どこの神社にも入り口があります。正面鳥居があるところです。
しかし、古い神社ほど神社の周りの環境が変わる(神社の土地が狭くなるとか)ことで入り口が変わったり、増えたりします。
後から出来た出入り口は人の都合で増えたと思われます。
車社会になって境内に駐車場が出来たりすると、車用の出入り口も出来ます。
しかし、きちんと正式に参拝しようと思うのなら、やはり正面鳥居から入ることをお勧めします。
「神社は正面の鳥居を潜ってはいらなければ駄目だな」と思った出来事が昔ありました。正確に言えばそれだけではないですが、今回もマナーのお話です。
名古屋市中区にある「闇森神社(くらがりのもりじんじゃ)」へ参拝に行った時の話です。


応神天皇、神功皇后、仁徳天皇を祀るかなり古い神社です。

(闇森神社の正面鳥居。鳥居の真ん中にあるのは建物ではなく「不浄除け」と云われる壁)
こちらの神社、入り口が三か所あります。正面立派な鳥居のある正式な入り口。(以下入り口A)
そして正面から見て、神社の敷地右側にある小さな入り口(鳥居は無い。入り口B)、そして駐車場へ入る為の神社敷地後方の入り口(入り口C)です。
ここはかなり、きつい感じがする立派な神社です。
始めて参拝に来た時は父と一緒でした。「闇森」というおよそ社名では使わないような、尋常ではない神社だと思いました。
車を止める場所が境内にあると分かりましたが、「これは、車を乗り入れて良い神社ではない」と判断し、入り口Cへの車乗り入れを避け、父だけ神社の横、入り口Bで降ろし、車は近隣のコインパーキングを探して止めました。
駐車場を探してそこに止め、そこから神社へ歩いて到着するのに時間で言えば10分、15分くらいだったと記憶しています。
父を下ろした入り口B付近に辿り着くと、何やら大慌てで、手にしたカメラがお手玉みたいに手の中で踊っていました。
様子が面白かったので、笑いながら「何してんの?」と尋ねると「カメラのフィルムが飛び出た!」とのこと。本人は軽いパニック状態です。
もう全くと言って良いほど見かけなくなりましたが、昔はコンビニで「写ルンです」という商品名のフィルムカメラを売っていました。
デジカメやスマホが当たり前となった世代には、昔のカメラにはフィルムが入っていたと言っても通じないかもしれませんが、スマホが登場する前位には、まだコンビニにフィルムカメラが売っていました。今でもあるのかな?と思って調べたら、まだ売ってはいますね。それにも驚きました。
話を戻しますが、神社の入り口Bにいたので、
「ひょっとして正面から入らずにここから入った?・・・で、お参り済ませてから写真頂いた?」
と聞けば、
「横から入った。お参りせずに写真を撮ってたら、それがいけなかったみたいでフィルムが・・・」
とのことでした。
・神社は正面鳥居を潜って入る。
・写真を頂く時は、きちんとお参りしてから。
・神社へ入ったら手と口を清める。
というのを神社巡りを通じて分かってはいたのですが、父は神社が好きなのでついつい忘れてしまったようです。向うからすれば、「分かっているのに何事か!」ということだったのでしょう。
フィルムは巻き取る前に陽の光を浴びると駄目になります。帰宅後、現像に出しましたが、やはり光が入ったことで見えなくなっていました。
しかし、奇妙なことがありました。

闇森神社へ参拝に来る前、同日に名古屋市中区にある「泥江縣神社(ひじえがたじんじゃ)」へ参拝に行きました。
ここも謎というか奇妙なものが遺っている神社でした。そこで参拝後に頂いた写真は大丈夫でしたが、闇森神社境内の写真(黄色の四角からEまで)だけ全滅だったのです。
闇森神社で撮影出来た唯一の写真は、境内の外から撮った石柱(画像:赤色の四角)だけでした。
後で父に聞けば、入り口Bから入ると、直ぐに赤い鳥居が続く稲荷神があったそうです。どうも手も洗わず、正面入り口も通らず、本殿へ参拝もせずに写真を撮りまくっていたので、闇森神社のお稲荷さんからお叱りを頂いたと言ってました。
後日、お詫びも兼ねて私一人で参拝に行きました。
その際、懲りもせず(?)お写真を頂きましたが、その時は何もなく撮れました。

やはり、神社内で撮影する際は、マナーを守るのは必要ですね。
しかし、古い神社ほど神社の周りの環境が変わる(神社の土地が狭くなるとか)ことで入り口が変わったり、増えたりします。
後から出来た出入り口は人の都合で増えたと思われます。
車社会になって境内に駐車場が出来たりすると、車用の出入り口も出来ます。
しかし、きちんと正式に参拝しようと思うのなら、やはり正面鳥居から入ることをお勧めします。
「神社は正面の鳥居を潜ってはいらなければ駄目だな」と思った出来事が昔ありました。正確に言えばそれだけではないですが、今回もマナーのお話です。
名古屋市中区にある「闇森神社(くらがりのもりじんじゃ)」へ参拝に行った時の話です。


応神天皇、神功皇后、仁徳天皇を祀るかなり古い神社です。

(闇森神社の正面鳥居。鳥居の真ん中にあるのは建物ではなく「不浄除け」と云われる壁)
こちらの神社、入り口が三か所あります。正面立派な鳥居のある正式な入り口。(以下入り口A)
そして正面から見て、神社の敷地右側にある小さな入り口(鳥居は無い。入り口B)、そして駐車場へ入る為の神社敷地後方の入り口(入り口C)です。
ここはかなり、きつい感じがする立派な神社です。
始めて参拝に来た時は父と一緒でした。「闇森」というおよそ社名では使わないような、尋常ではない神社だと思いました。
車を止める場所が境内にあると分かりましたが、「これは、車を乗り入れて良い神社ではない」と判断し、入り口Cへの車乗り入れを避け、父だけ神社の横、入り口Bで降ろし、車は近隣のコインパーキングを探して止めました。
駐車場を探してそこに止め、そこから神社へ歩いて到着するのに時間で言えば10分、15分くらいだったと記憶しています。
父を下ろした入り口B付近に辿り着くと、何やら大慌てで、手にしたカメラがお手玉みたいに手の中で踊っていました。
様子が面白かったので、笑いながら「何してんの?」と尋ねると「カメラのフィルムが飛び出た!」とのこと。本人は軽いパニック状態です。
もう全くと言って良いほど見かけなくなりましたが、昔はコンビニで「写ルンです」という商品名のフィルムカメラを売っていました。
デジカメやスマホが当たり前となった世代には、昔のカメラにはフィルムが入っていたと言っても通じないかもしれませんが、スマホが登場する前位には、まだコンビニにフィルムカメラが売っていました。今でもあるのかな?と思って調べたら、まだ売ってはいますね。それにも驚きました。
話を戻しますが、神社の入り口Bにいたので、
「ひょっとして正面から入らずにここから入った?・・・で、お参り済ませてから写真頂いた?」
と聞けば、
「横から入った。お参りせずに写真を撮ってたら、それがいけなかったみたいでフィルムが・・・」
とのことでした。
・神社は正面鳥居を潜って入る。
・写真を頂く時は、きちんとお参りしてから。
・神社へ入ったら手と口を清める。
というのを神社巡りを通じて分かってはいたのですが、父は神社が好きなのでついつい忘れてしまったようです。向うからすれば、「分かっているのに何事か!」ということだったのでしょう。
フィルムは巻き取る前に陽の光を浴びると駄目になります。帰宅後、現像に出しましたが、やはり光が入ったことで見えなくなっていました。
しかし、奇妙なことがありました。

闇森神社へ参拝に来る前、同日に名古屋市中区にある「泥江縣神社(ひじえがたじんじゃ)」へ参拝に行きました。
ここも謎というか奇妙なものが遺っている神社でした。そこで参拝後に頂いた写真は大丈夫でしたが、闇森神社境内の写真(黄色の四角からEまで)だけ全滅だったのです。
闇森神社で撮影出来た唯一の写真は、境内の外から撮った石柱(画像:赤色の四角)だけでした。
後で父に聞けば、入り口Bから入ると、直ぐに赤い鳥居が続く稲荷神があったそうです。どうも手も洗わず、正面入り口も通らず、本殿へ参拝もせずに写真を撮りまくっていたので、闇森神社のお稲荷さんからお叱りを頂いたと言ってました。
後日、お詫びも兼ねて私一人で参拝に行きました。
その際、懲りもせず(?)お写真を頂きましたが、その時は何もなく撮れました。

やはり、神社内で撮影する際は、マナーを守るのは必要ですね。
2020-07-10
◆神社で写真を撮るということ 最後に・・・
神社で写真を撮ることは注意しましょうというテーマで初めましたが、ひとまず今回で区切りたいと思います。
前回上げた⑪と⑫の項目について少々捕捉します。
まず⑪の「写真にもよるが、SNSなどには上げない方が良いと思う。興味本位で取り扱わない」です。
写ったモノが、気味の悪い印象を与えるものは、むやみにネットに上げると見た人に影響を与える場合があります。またそれを見た人が面白半分に保存し、拡散すると、怖いモノがどんどん拡がって行くことになります。
逆に神々しいモノ、敵意をこちらに持っていないモノが写っている場合、写真を撮った本人の為に出てきた可能性が高いです。ある意味、神様とその人の御縁、約束事という意味があるように思えます。人に見せたくなる気持ちも分かりますが、御縁を大事にするという意味でも、どこにどう拡散するか分からないネットには上げない方が良いと思います。
神霊の力と言うのは誠に不思議で、電子機器にも作用するようです。昔、縁あったお稲荷さん、岡山県の最上稲荷について自分の考えをまとめてブログにしようとしたところ、文章は完成しても何度アップしようと試みても、絶対に出来ないと言うことがありました。やたら時間が掛かり、何度挑戦してもエラーが出るのです。

(最上稲荷の狛狐)
あまりの不可解さに、これはお稲荷さん後ろで見てるなと思い、よーく自分のしたためた文章を読み返していたら、一か所見当違いの部分がありました。「これか!」と気付いて直した(最上稲荷が何故、最上位経王大菩薩と云われたのかという箇所)ところ、「正解!」とばかり、あれほど上がらなかったデータが、一発で上がりました。ホント神様の事を文字にするということは、心底気を使うのです。
次に⑫「相当強い場合、ただの光ではなく顔とか姿として現れることもある。雰囲気にもよるがこれも要注意。」ですが、不思議な光、不可解なモヤのようなものと違い、こちらから見て明らかに「これは〇〇の形だ!とか「〇〇の姿だ!」と分かる形で出てくる場合は、かなり強い存在かと思います。
分かり易い形で出てくる場合は全て危険かというとそうでもありません。このような写真が撮れてしまった場合、危険かどうかは総合で判断するべきです。例えば、色はどうか、写真から感じるものはあるかなどです。
昔、父と二人で名古屋市内にある針名神社へ参拝に行きました。
参拝を終え、辺りを散策していると、神社のすぐ近くに薬師如来だったかお不動さんだったか忘れましたが、仏様を祀るお堂がありました。森の中です。
父がそのお堂でやたら写真を撮っているので、なんだろうと思いましたが、帰宅して印刷したら誰が見てもこれはあれだと分かるものが写っていました。
天狗です。赤い鳥居の所に天狗の形で影が出来ているのです。三柱ほど確認出来ました。
写真は控えますが、天狗以外にも謎の大きな赤い球体が写っていました。
天狗の写真は特別怖いと言うものではなかったです。赤い球体は一体何なのか?さっぱり分かりません。ちょっと不気味な感じもしますが、怖いなという写真でもないです。
何年か後、名古屋市の博物館で「幽霊・妖怪画大全集」という面白い企画展がありました。その中で、興味深い作品が出ていました。江戸時代に描かれた百鬼夜行絵巻です。

妖怪の行進絵巻です。様々な、どこかコミカルな妖怪が画面狭しと練り歩く愉快な作品です。

物が何百年も経つと妖怪になると言いますが、そんな姿ですね。
そんな絵巻の最後、ラストシーンに研究者でも意見が分かれる謎の物体が描かれていました。

赤い球です。この絵巻を見た時、針名神社の近くの森で撮った、あの謎の赤い球を思い出しました。そっくりです。
妖怪の親玉的な何かでしょうか。
神社で撮影した写真には、不思議なものが写ることがあります。ただ、中には恐ろしいモノもありますので、そういう意味でもむやみにカメラを向けるのは・・・・・・・と思います。
追記
不思議な写真はネットには上げれませんが、見たいとおっしゃる方は、ご来店頂ければお見せ出来ます。
※紅葉屋呉服店はこちらまで
前回上げた⑪と⑫の項目について少々捕捉します。
まず⑪の「写真にもよるが、SNSなどには上げない方が良いと思う。興味本位で取り扱わない」です。
写ったモノが、気味の悪い印象を与えるものは、むやみにネットに上げると見た人に影響を与える場合があります。またそれを見た人が面白半分に保存し、拡散すると、怖いモノがどんどん拡がって行くことになります。
逆に神々しいモノ、敵意をこちらに持っていないモノが写っている場合、写真を撮った本人の為に出てきた可能性が高いです。ある意味、神様とその人の御縁、約束事という意味があるように思えます。人に見せたくなる気持ちも分かりますが、御縁を大事にするという意味でも、どこにどう拡散するか分からないネットには上げない方が良いと思います。
神霊の力と言うのは誠に不思議で、電子機器にも作用するようです。昔、縁あったお稲荷さん、岡山県の最上稲荷について自分の考えをまとめてブログにしようとしたところ、文章は完成しても何度アップしようと試みても、絶対に出来ないと言うことがありました。やたら時間が掛かり、何度挑戦してもエラーが出るのです。

(最上稲荷の狛狐)
あまりの不可解さに、これはお稲荷さん後ろで見てるなと思い、よーく自分のしたためた文章を読み返していたら、一か所見当違いの部分がありました。「これか!」と気付いて直した(最上稲荷が何故、最上位経王大菩薩と云われたのかという箇所)ところ、「正解!」とばかり、あれほど上がらなかったデータが、一発で上がりました。ホント神様の事を文字にするということは、心底気を使うのです。
次に⑫「相当強い場合、ただの光ではなく顔とか姿として現れることもある。雰囲気にもよるがこれも要注意。」ですが、不思議な光、不可解なモヤのようなものと違い、こちらから見て明らかに「これは〇〇の形だ!とか「〇〇の姿だ!」と分かる形で出てくる場合は、かなり強い存在かと思います。
分かり易い形で出てくる場合は全て危険かというとそうでもありません。このような写真が撮れてしまった場合、危険かどうかは総合で判断するべきです。例えば、色はどうか、写真から感じるものはあるかなどです。
昔、父と二人で名古屋市内にある針名神社へ参拝に行きました。
参拝を終え、辺りを散策していると、神社のすぐ近くに薬師如来だったかお不動さんだったか忘れましたが、仏様を祀るお堂がありました。森の中です。
父がそのお堂でやたら写真を撮っているので、なんだろうと思いましたが、帰宅して印刷したら誰が見てもこれはあれだと分かるものが写っていました。
天狗です。赤い鳥居の所に天狗の形で影が出来ているのです。三柱ほど確認出来ました。
写真は控えますが、天狗以外にも謎の大きな赤い球体が写っていました。
天狗の写真は特別怖いと言うものではなかったです。赤い球体は一体何なのか?さっぱり分かりません。ちょっと不気味な感じもしますが、怖いなという写真でもないです。
何年か後、名古屋市の博物館で「幽霊・妖怪画大全集」という面白い企画展がありました。その中で、興味深い作品が出ていました。江戸時代に描かれた百鬼夜行絵巻です。

妖怪の行進絵巻です。様々な、どこかコミカルな妖怪が画面狭しと練り歩く愉快な作品です。

物が何百年も経つと妖怪になると言いますが、そんな姿ですね。
そんな絵巻の最後、ラストシーンに研究者でも意見が分かれる謎の物体が描かれていました。

赤い球です。この絵巻を見た時、針名神社の近くの森で撮った、あの謎の赤い球を思い出しました。そっくりです。
妖怪の親玉的な何かでしょうか。
神社で撮影した写真には、不思議なものが写ることがあります。ただ、中には恐ろしいモノもありますので、そういう意味でもむやみにカメラを向けるのは・・・・・・・と思います。
追記
不思議な写真はネットには上げれませんが、見たいとおっしゃる方は、ご来店頂ければお見せ出来ます。
※紅葉屋呉服店はこちらまで
2020-07-08
◆神社で写真を撮るということ その4
続きです。(前回の内容はこちらまで)
寺社、特に神社で写真を撮る行為について、気になることを述べてみた。12の項目で言えば、①~⑥については終わったので、⑦~⑫について考えてみたいと思います。
具体的には・・・
⑦写ったということは良きにしろ、そうでないにしろ、縁を持ったということ。
⑧白い光、温かみのある光は比較的好意的な場合と考えてよい。
⑨グレー色や黒色、血のような赤い色は不快と思っているか、敵意を持っている。要注意。
⑩見ていて気味の悪いのも要注意。
⑪写真にもよるが、SNSなどには上げない方が良いと思う。興味本位で取り扱わない。
⑫相当強い場合、ただの光ではなく顔とか姿として現れることもある。雰囲気にもよるがこれも要注意。
不思議な写真が撮れてしまった場合についてです。
写ったモノに関しては、様々なパターンがありますが、一番多いのが白い玉のような光でしょうか。温かみのある光、金色の光など神々しい感じのものは特に問題はないように思えますが、黒とかグレー、血のような赤い光、要注意です。
グレー色や黒色の影のようなモノを捉えた写真、赤い血のような光の写真、両方とも見たことがありますが、どちらも見ていて気味が悪いです。
過去に神社でグレー色のモヤのような写真を撮ったことがありました、愛知県三河地方、〇〇市の古い神社を取材兼参拝に行った時のことです。
その神社の社名は忘れましたが、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る古社で、神社自体の創建年代は不明ですが、確か奈良時代ごろの廃寺の跡地に建てられた神社でした。その寺所縁の神社かもしれません。

(画像は世界遺産登録の厳島神社)
市杵島姫命は広島の厳島神社で祀られる、宗像三神(むなかたさんしん:三姉妹の姫神様)の内の一柱で、仏教の弁才天と習合した神様です。美しい姫神と云われます。
この古社は、おそらく当初は弁才天を祀っていたと思いますが、明治頃に弁才天は外され、市杵島姫命に変わったと思われます。
さてこの神社、規模で言えば町内のこじんまりとした雰囲気のよくあるような氏神様ですが、入り口に柵や垣根もないので、車で乗り入れることが出来ます。木も少なく特に何か特徴的なものがある神社ではなかったです。
境内に車を乗り入れる際も注意した方が良いポイントです。予め、神社側が指定した駐車場があるならそこに止めれば良いとは思いますが、駐車場が無い場合はあまり車を乗り入れない方が良いでしょう。神社の外に止めた方が良いと思います。
さて、市杵島姫命の神社に話を戻しますが、神社の前の道が狭かったので、悪いとは思いつつ、境内に乗り入れました。なるべく神様の前にならないように車を境内の端の方へ乗り入れました。
この時、おそらくこの神社の近隣の若い女の子たちが二人か三人集まっていました。どうもお参りに来た訳ではなく、この神社で待ち合わせをしているようで、一人の女の子は電話をずっとしていました。
車を降りてすぐでしたが、大変驚きました。彼女たちは車でこの神社に来ていましたが、あろうことか本殿の真ん前に車を二台止め、排気ガスが出るマフラーを本殿の方へ向けていました。
季節は暑い時期だったので、そうしたのでしょうが、エンジンはつけっぱなしです。排気ガスが思いっきり神様の方へかかっていました。しばらくして彼女たちは神社を後にしました。
あまりの衝撃で呆気に取られている間に出て行ってしまったので、注意することも出来ませんでしたが、あれは明らかに神様に対する不敬であり喧嘩を売っている行為でもあります。
彼女たちがいなくなってから撮った写真には、不機嫌さを感じるようなグレー色のかなり大きく長いモヤのようなものがありました。
市杵島姫命や弁才天はどちらも美しい姫神様です。その姫神様に女の子達が何も考えることなく(考える頭があるなら出来ないだろう)、排気ガスを浴びせまくるというのは、どう考えても怒られる行為です。気付いてお詫びに来ない限り、大変な目に合うと思います。
特に現在は神道の姫神様です。神道の神様は怒らせると相当怖いです。彼女たちがその後どうなったか知りませんが、もし不幸が続いてたとしても、この件と結びつけて考えることも無いかもしれません。もしそうなら気付くことも出来ない大変憐れなことですが、こればっかりは何とも・・・です。
問題の写真は気味が悪いので、アップすることは控えたいと思います。因みに撮影した私には特に何も無かったです。
寺社、特に神社で写真を撮る行為について、気になることを述べてみた。12の項目で言えば、①~⑥については終わったので、⑦~⑫について考えてみたいと思います。
具体的には・・・
⑦写ったということは良きにしろ、そうでないにしろ、縁を持ったということ。
⑧白い光、温かみのある光は比較的好意的な場合と考えてよい。
⑨グレー色や黒色、血のような赤い色は不快と思っているか、敵意を持っている。要注意。
⑩見ていて気味の悪いのも要注意。
⑪写真にもよるが、SNSなどには上げない方が良いと思う。興味本位で取り扱わない。
⑫相当強い場合、ただの光ではなく顔とか姿として現れることもある。雰囲気にもよるがこれも要注意。
不思議な写真が撮れてしまった場合についてです。
写ったモノに関しては、様々なパターンがありますが、一番多いのが白い玉のような光でしょうか。温かみのある光、金色の光など神々しい感じのものは特に問題はないように思えますが、黒とかグレー、血のような赤い光、要注意です。
グレー色や黒色の影のようなモノを捉えた写真、赤い血のような光の写真、両方とも見たことがありますが、どちらも見ていて気味が悪いです。
過去に神社でグレー色のモヤのような写真を撮ったことがありました、愛知県三河地方、〇〇市の古い神社を取材兼参拝に行った時のことです。
その神社の社名は忘れましたが、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る古社で、神社自体の創建年代は不明ですが、確か奈良時代ごろの廃寺の跡地に建てられた神社でした。その寺所縁の神社かもしれません。

(画像は世界遺産登録の厳島神社)
市杵島姫命は広島の厳島神社で祀られる、宗像三神(むなかたさんしん:三姉妹の姫神様)の内の一柱で、仏教の弁才天と習合した神様です。美しい姫神と云われます。
この古社は、おそらく当初は弁才天を祀っていたと思いますが、明治頃に弁才天は外され、市杵島姫命に変わったと思われます。
さてこの神社、規模で言えば町内のこじんまりとした雰囲気のよくあるような氏神様ですが、入り口に柵や垣根もないので、車で乗り入れることが出来ます。木も少なく特に何か特徴的なものがある神社ではなかったです。
境内に車を乗り入れる際も注意した方が良いポイントです。予め、神社側が指定した駐車場があるならそこに止めれば良いとは思いますが、駐車場が無い場合はあまり車を乗り入れない方が良いでしょう。神社の外に止めた方が良いと思います。
さて、市杵島姫命の神社に話を戻しますが、神社の前の道が狭かったので、悪いとは思いつつ、境内に乗り入れました。なるべく神様の前にならないように車を境内の端の方へ乗り入れました。
この時、おそらくこの神社の近隣の若い女の子たちが二人か三人集まっていました。どうもお参りに来た訳ではなく、この神社で待ち合わせをしているようで、一人の女の子は電話をずっとしていました。
車を降りてすぐでしたが、大変驚きました。彼女たちは車でこの神社に来ていましたが、あろうことか本殿の真ん前に車を二台止め、排気ガスが出るマフラーを本殿の方へ向けていました。
季節は暑い時期だったので、そうしたのでしょうが、エンジンはつけっぱなしです。排気ガスが思いっきり神様の方へかかっていました。しばらくして彼女たちは神社を後にしました。
あまりの衝撃で呆気に取られている間に出て行ってしまったので、注意することも出来ませんでしたが、あれは明らかに神様に対する不敬であり喧嘩を売っている行為でもあります。
彼女たちがいなくなってから撮った写真には、不機嫌さを感じるようなグレー色のかなり大きく長いモヤのようなものがありました。
市杵島姫命や弁才天はどちらも美しい姫神様です。その姫神様に女の子達が何も考えることなく(考える頭があるなら出来ないだろう)、排気ガスを浴びせまくるというのは、どう考えても怒られる行為です。気付いてお詫びに来ない限り、大変な目に合うと思います。
特に現在は神道の姫神様です。神道の神様は怒らせると相当怖いです。彼女たちがその後どうなったか知りませんが、もし不幸が続いてたとしても、この件と結びつけて考えることも無いかもしれません。もしそうなら気付くことも出来ない大変憐れなことですが、こればっかりは何とも・・・です。
問題の写真は気味が悪いので、アップすることは控えたいと思います。因みに撮影した私には特に何も無かったです。
2020-07-04
◆神社で写真を撮るということ・・・ その3
今回は⑥の御神木を撮る際の注意点について述べたいと思います。
そもそも巨木と言うのは、それ自体が大きな生命体とも言えますし、古木ともなれば人間よりも長生きしている大先輩です。魂もあるでしょうし、神様も宿る場合もあります。
なので結論を先に言えば、御神木を撮る際も、先に一礼したり、お写真頂きますと述べた方が良いでしょう。御神木は見た目が立派だったり、根元に祠が合ったり、注連縄がしてあったりしていると直ぐに分かりますが、神社の中には注連縄も無ければ祠も無い御神木もあります。
その場合、参拝者が見分けるのは困難なので、やはり気になる木があり、写真を撮りたい場合は、木に注連縄や祠が無くと、一礼して写真を撮ることをお勧めします。
木に某かの霊的な力が籠るものを御神木とするならば、大きく分けて御神木にも2パターンあると言えます。
一つは寺社に生えている御神木。もう一つは塚に植えられた御神木です。
昔の大きな街道沿いに、一定の距離ごとに設けられた一里塚というものもありますが、あれは違います。ああいう土盛と言う意味の塚もありますが、ここで取り上げる塚とは墓の意味です。
これは非業な死を遂げた人が埋葬された場合、その上に木を一本植えることがあります。昔、愛知県刈谷市の富士松駅付近には富士松塚という塚がありました。今はなくなってしまいましたが、その松は枯れても新たに植えられているようです。
この今は現存していない富士松塚。戦国の頃、旅人がこの付近を歩いていたら、桶狭間に向かう今川勢の侍達に難癖をつけられ、旅人は暴行を受けて亡くなったそうです。その亡骸を村人達が弔い、埋めたのが富士松塚です。
その塚にはやがて松が植えられました。
テレビで見ましたが、織田信長の首塚というのがありました。それはこんもりした塚にやはり木が一本植えられていました。この墓に木を植えると言う発想はどういうものなのでしょうか?
後世に伝える為に、あの場所は気を付けて管理せよと言う目印的に木を植えるということか、あるいは無念の内に亡くなった人の怒りの矛先を木に吸わせるという意味もあったように思います。
実際、テレビで放映していた信長公の首塚ですが、木のこぶが明らかに細長い人の顔になって見えました。見間違いかもしれないので、一度お寺に行って確認したいですが、ちょっと気が重くなりますね。他所の神社で社名は言えませんが、その社の後ろに御神木がありますが、どう見ても木の様相が断末魔の人間のようにしか見えない木もありました。
神社巡りをしていると様々な発見がありますが、地元名古屋市西区に「伊奴神社」という古い神社があります。その境内にはさすると病が治るという言い伝えがある御神木があります。

もう朽ちている(朽ちかけ?)の御神木ですが、皆がさするので様々な念を受けて弱ったのだと思います。気の毒です。木と言うのは念を吸うという一面もあるのかもしれません。
少々怖い話をしましたが、非業な死を遂げた場所に植えられて御神木になった木と、からっとした神社、環境の良い神社の御神木はやはり一味違います。

個人的に「凄い!」と思えた御神木のお写真です。愛知県蒲郡市にある清田の大楠です。
近隣でも信仰の対象になっている御神木のようで、小さな祠が根元にあり、管理も行き届いている大楠でした。お供え物もあります。
二度ほどお参りに行きましたが、物凄い存在感です。楠が霊木であると言うのが良く分かります。祀ってある神様は名前が書いてある訳でもないので、はっきりとは分かりませんが、前回の「三井寺その2」のブログにもありましたが、木の根元には龍神が祀られていることが多いので、この木もおそらく龍神様が宿っていると思います。
もう何年も前にお参りに行きましたが、当時、何となく弁天様の真言かなと思い、唱えてお参りしておりました。後で撮った写真を見たら、木の窪みやコブが、どう見ても大きな龍神様の頭みたいです。

どうでしょうか?
今回のブログに合わせて、この時の写真を整理、再確認しましたが、別角度で撮った写真に不思議なものもありました。(アップは控えます)
木には人の想いや念、そして神様が宿るという性質があるように思います。人間よりも長生きしている大先輩な木もあります。気になる木があり、お写真が撮りたい場合は先にお参りしてからというマナーも必要でしょう。
また、御神木には首塚のように、非業な死を遂げた人の念を吸うという場合もあるので、その御神木がどういう御神木が分からない場合は、写真を控えると言うのもまた必要かと思います。
最後に、特に観光地化してる神社で、大きな木があるとやたらと触っている人をたまに見かけますが、あれも止めた方が安全かと思います。どんな神様が宿っているのか誰も分かりませんので。
※紅葉屋呉服店はこちらまで
そもそも巨木と言うのは、それ自体が大きな生命体とも言えますし、古木ともなれば人間よりも長生きしている大先輩です。魂もあるでしょうし、神様も宿る場合もあります。
なので結論を先に言えば、御神木を撮る際も、先に一礼したり、お写真頂きますと述べた方が良いでしょう。御神木は見た目が立派だったり、根元に祠が合ったり、注連縄がしてあったりしていると直ぐに分かりますが、神社の中には注連縄も無ければ祠も無い御神木もあります。
その場合、参拝者が見分けるのは困難なので、やはり気になる木があり、写真を撮りたい場合は、木に注連縄や祠が無くと、一礼して写真を撮ることをお勧めします。
木に某かの霊的な力が籠るものを御神木とするならば、大きく分けて御神木にも2パターンあると言えます。
一つは寺社に生えている御神木。もう一つは塚に植えられた御神木です。
昔の大きな街道沿いに、一定の距離ごとに設けられた一里塚というものもありますが、あれは違います。ああいう土盛と言う意味の塚もありますが、ここで取り上げる塚とは墓の意味です。
これは非業な死を遂げた人が埋葬された場合、その上に木を一本植えることがあります。昔、愛知県刈谷市の富士松駅付近には富士松塚という塚がありました。今はなくなってしまいましたが、その松は枯れても新たに植えられているようです。
この今は現存していない富士松塚。戦国の頃、旅人がこの付近を歩いていたら、桶狭間に向かう今川勢の侍達に難癖をつけられ、旅人は暴行を受けて亡くなったそうです。その亡骸を村人達が弔い、埋めたのが富士松塚です。
その塚にはやがて松が植えられました。
テレビで見ましたが、織田信長の首塚というのがありました。それはこんもりした塚にやはり木が一本植えられていました。この墓に木を植えると言う発想はどういうものなのでしょうか?
後世に伝える為に、あの場所は気を付けて管理せよと言う目印的に木を植えるということか、あるいは無念の内に亡くなった人の怒りの矛先を木に吸わせるという意味もあったように思います。
実際、テレビで放映していた信長公の首塚ですが、木のこぶが明らかに細長い人の顔になって見えました。見間違いかもしれないので、一度お寺に行って確認したいですが、ちょっと気が重くなりますね。他所の神社で社名は言えませんが、その社の後ろに御神木がありますが、どう見ても木の様相が断末魔の人間のようにしか見えない木もありました。
神社巡りをしていると様々な発見がありますが、地元名古屋市西区に「伊奴神社」という古い神社があります。その境内にはさすると病が治るという言い伝えがある御神木があります。

もう朽ちている(朽ちかけ?)の御神木ですが、皆がさするので様々な念を受けて弱ったのだと思います。気の毒です。木と言うのは念を吸うという一面もあるのかもしれません。
少々怖い話をしましたが、非業な死を遂げた場所に植えられて御神木になった木と、からっとした神社、環境の良い神社の御神木はやはり一味違います。

個人的に「凄い!」と思えた御神木のお写真です。愛知県蒲郡市にある清田の大楠です。
近隣でも信仰の対象になっている御神木のようで、小さな祠が根元にあり、管理も行き届いている大楠でした。お供え物もあります。
二度ほどお参りに行きましたが、物凄い存在感です。楠が霊木であると言うのが良く分かります。祀ってある神様は名前が書いてある訳でもないので、はっきりとは分かりませんが、前回の「三井寺その2」のブログにもありましたが、木の根元には龍神が祀られていることが多いので、この木もおそらく龍神様が宿っていると思います。
もう何年も前にお参りに行きましたが、当時、何となく弁天様の真言かなと思い、唱えてお参りしておりました。後で撮った写真を見たら、木の窪みやコブが、どう見ても大きな龍神様の頭みたいです。

どうでしょうか?
今回のブログに合わせて、この時の写真を整理、再確認しましたが、別角度で撮った写真に不思議なものもありました。(アップは控えます)
木には人の想いや念、そして神様が宿るという性質があるように思います。人間よりも長生きしている大先輩な木もあります。気になる木があり、お写真が撮りたい場合は先にお参りしてからというマナーも必要でしょう。
また、御神木には首塚のように、非業な死を遂げた人の念を吸うという場合もあるので、その御神木がどういう御神木が分からない場合は、写真を控えると言うのもまた必要かと思います。
最後に、特に観光地化してる神社で、大きな木があるとやたらと触っている人をたまに見かけますが、あれも止めた方が安全かと思います。どんな神様が宿っているのか誰も分かりませんので。
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2020-07-03
◆紀三井寺 その2
紀三井寺は素晴らしい霊験あらたかな古仏像も多々ありますが、もしこのブログを読まれたらぜひこちらもお参りして欲しいという場所もありますので、御紹介します。

まずはこの大きな御神木、楠です。

和歌山県の天然記念物に指定されている立派な巨木です。
木の下には「大樟龍王」という龍神様が祀られていました。楠と言うのは御神木になりやすいのか、霊木で彫る仏像も、楠が多いように思います。もちろん、他の霊木で楠以外もありますが。
こちらの楠をお参りして思いましたが、樟の古木に社がある場合、高確率で龍神が祀られている場合が多いです。白蛇系の神様もいますが、蛇も龍神と捉えて良いでしょう。
木の成長には水が欠かせないから龍神なのか、それとも巨木には龍神が入ることが多いのか。
人間の何十倍も長生きする巨木は、エネルギーの塊ですね。命もあるし魂もあるのでしょう。木には神様も宿るので、そんな神の宿った木で仏像を彫るから、より強い仏像になるのだと思います。

もう一つはこちらの春子稲荷。
間違いなく紀三井寺の歴史を語るには外せない、お寺の代表的な守護神の一角のお稲荷さんです。看板によれば・・・
天正14年、織田信長と羽柴秀吉の軍勢による、紀州征伐の6万の大軍は、粉河寺、根来寺を焼き討ちし、紀三井寺に迫っていた。
丁度その頃、紀三井寺の観音堂に仕えていた美女、春子が突然須弥壇の中から白狐の姿となり、身を翻して敵の軍営に赴き、霊力をもって武将を威服させ、先鋒の武将、羽柴秀長から「焼討禁制」の書状を得て紀三井寺を戦火から救ったという。
後に人は危難除けとしてこの地に春子稲荷として祀った。
何とも凄い話だ。気になるのは、春子という女性が、稲荷神を呼び出したのか? あるいは稲荷が人間の女性に変化して寺で働いていたのか?ということだ。
少々分かり辛い個所のある伝説なので、調べてみたらこんな話もあった。和歌山県の観光情報サイトからの抜粋です。
そちらに掲載されていた話によるとこんな感じです。
◆春子稲荷(はるこいなり)
天正13年(1585)、豊臣秀吉紀州攻めの時、紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫は寺を守る僧兵の大将として出陣しました。しかし僧兵軍は散々な目にあい、自身も瀕死の状態で逃げ帰ったのです。
その時、平大夫にすがりついて泣いたのが観音堂に仕える巫女の春子姫。恋仲にあった平大夫が息をひきとると、春子は観音堂へこもってお経を唱え始め、やがて声が激しくなると、一匹の白狐となって石段を駆け下りました。
白狐は、迫っていた攻撃軍の総大将・秀吉に話しあいを求め、秀吉から「寺に無礼があってはならぬ。寺への軍勢の出入りも禁止する」という証文をとりつけ、それを持ち帰り、観音堂で絶命しました。そのお陰で紀三井寺だけは焼き討ちをまぬがれたと言われています。
信長軍によって焼討された粉河寺や根来寺も大きな寺院だ。僧兵がいたのだろう。紀三井寺も僧兵がいたと分かった。そして紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫と春子が恋仲であったと分かった。また春子自身も巫女でもあった。霊能力があったのだろう。
観光情報サイトには、お寺の看板よりも、詳細が載っていた。
読んでいて思ったが、巫女であるのならば、春子にはもともと稲荷神が憑いていたのかもしれない。仏教に出てくる仏様には性別がある場合とない場合がある。お釈迦さんは人間としては男であったが、如来になってからは性別は関係ないように思う。
菩薩や明王も性別はなさそうだが、その下の天部(諸天善神)の中には性別がハッキリと分かる神様もいる。女神では吉祥天や弁才天、荼枳尼天などなど。男神では毘沙門天とか。
仏教の稲荷と神道の稲荷は違うそうだが、仏教稲荷の場合、本地は荼枳尼天になる。荼枳尼天から分かれたか、その御眷属が稲荷神だ。当然、沢山いる稲荷の中にもいろいろな個性の稲荷神がいらっしゃるのだろう。
稲荷神にも性別があるようで、単純に霊力が強いのは男稲荷より、女稲荷の方だと聞いたことがある。これはつまり、本地の荼枳尼天が女神であるので、より荼枳尼天の性質に近いのが男稲荷より女稲荷なのだそうです。
春子は巫女、強い霊力があったのでしょう。6万の大軍を止めるというのは、相当強い稲荷神、女稲荷が憑いていたと思います。大難を克服するため、まさに命がけの願掛けになったのでしょう。(あるいは稲荷が春子と習合して女稲荷になったかも)
紀三井寺の参拝で、数枚写真を頂きましたが、この春子稲荷の社のお写真も頂きました。しかし、色々調べてみて、こちらの春子さんも、おそらく春子さんに憑いていた強いお稲荷さんも、大変苦労されたのではと思うようになりました。そう思うと気軽にブログに上げることは出来ませんでした。やはり写真を撮るという事は、本当に気をつけねばならないですね。
お寺が1200年以上も残るというのは、ある意味奇跡です。そうなるのも繋げてきた大勢の人達の気持ちと努力、寺を守ろうとした神仏の力があったればこそだなと思いました。
紀三井寺の御開帳は秋にも行われるようです。これをお読みの皆様に良きご縁がありますように。
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まずはこの大きな御神木、楠です。

和歌山県の天然記念物に指定されている立派な巨木です。
木の下には「大樟龍王」という龍神様が祀られていました。楠と言うのは御神木になりやすいのか、霊木で彫る仏像も、楠が多いように思います。もちろん、他の霊木で楠以外もありますが。
こちらの楠をお参りして思いましたが、樟の古木に社がある場合、高確率で龍神が祀られている場合が多いです。白蛇系の神様もいますが、蛇も龍神と捉えて良いでしょう。
木の成長には水が欠かせないから龍神なのか、それとも巨木には龍神が入ることが多いのか。
人間の何十倍も長生きする巨木は、エネルギーの塊ですね。命もあるし魂もあるのでしょう。木には神様も宿るので、そんな神の宿った木で仏像を彫るから、より強い仏像になるのだと思います。

もう一つはこちらの春子稲荷。
間違いなく紀三井寺の歴史を語るには外せない、お寺の代表的な守護神の一角のお稲荷さんです。看板によれば・・・
天正14年、織田信長と羽柴秀吉の軍勢による、紀州征伐の6万の大軍は、粉河寺、根来寺を焼き討ちし、紀三井寺に迫っていた。
丁度その頃、紀三井寺の観音堂に仕えていた美女、春子が突然須弥壇の中から白狐の姿となり、身を翻して敵の軍営に赴き、霊力をもって武将を威服させ、先鋒の武将、羽柴秀長から「焼討禁制」の書状を得て紀三井寺を戦火から救ったという。
後に人は危難除けとしてこの地に春子稲荷として祀った。
何とも凄い話だ。気になるのは、春子という女性が、稲荷神を呼び出したのか? あるいは稲荷が人間の女性に変化して寺で働いていたのか?ということだ。
少々分かり辛い個所のある伝説なので、調べてみたらこんな話もあった。和歌山県の観光情報サイトからの抜粋です。
そちらに掲載されていた話によるとこんな感じです。
◆春子稲荷(はるこいなり)
天正13年(1585)、豊臣秀吉紀州攻めの時、紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫は寺を守る僧兵の大将として出陣しました。しかし僧兵軍は散々な目にあい、自身も瀕死の状態で逃げ帰ったのです。
その時、平大夫にすがりついて泣いたのが観音堂に仕える巫女の春子姫。恋仲にあった平大夫が息をひきとると、春子は観音堂へこもってお経を唱え始め、やがて声が激しくなると、一匹の白狐となって石段を駆け下りました。
白狐は、迫っていた攻撃軍の総大将・秀吉に話しあいを求め、秀吉から「寺に無礼があってはならぬ。寺への軍勢の出入りも禁止する」という証文をとりつけ、それを持ち帰り、観音堂で絶命しました。そのお陰で紀三井寺だけは焼き討ちをまぬがれたと言われています。
信長軍によって焼討された粉河寺や根来寺も大きな寺院だ。僧兵がいたのだろう。紀三井寺も僧兵がいたと分かった。そして紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫と春子が恋仲であったと分かった。また春子自身も巫女でもあった。霊能力があったのだろう。
観光情報サイトには、お寺の看板よりも、詳細が載っていた。
読んでいて思ったが、巫女であるのならば、春子にはもともと稲荷神が憑いていたのかもしれない。仏教に出てくる仏様には性別がある場合とない場合がある。お釈迦さんは人間としては男であったが、如来になってからは性別は関係ないように思う。
菩薩や明王も性別はなさそうだが、その下の天部(諸天善神)の中には性別がハッキリと分かる神様もいる。女神では吉祥天や弁才天、荼枳尼天などなど。男神では毘沙門天とか。
仏教の稲荷と神道の稲荷は違うそうだが、仏教稲荷の場合、本地は荼枳尼天になる。荼枳尼天から分かれたか、その御眷属が稲荷神だ。当然、沢山いる稲荷の中にもいろいろな個性の稲荷神がいらっしゃるのだろう。
稲荷神にも性別があるようで、単純に霊力が強いのは男稲荷より、女稲荷の方だと聞いたことがある。これはつまり、本地の荼枳尼天が女神であるので、より荼枳尼天の性質に近いのが男稲荷より女稲荷なのだそうです。
春子は巫女、強い霊力があったのでしょう。6万の大軍を止めるというのは、相当強い稲荷神、女稲荷が憑いていたと思います。大難を克服するため、まさに命がけの願掛けになったのでしょう。(あるいは稲荷が春子と習合して女稲荷になったかも)
紀三井寺の参拝で、数枚写真を頂きましたが、この春子稲荷の社のお写真も頂きました。しかし、色々調べてみて、こちらの春子さんも、おそらく春子さんに憑いていた強いお稲荷さんも、大変苦労されたのではと思うようになりました。そう思うと気軽にブログに上げることは出来ませんでした。やはり写真を撮るという事は、本当に気をつけねばならないですね。
お寺が1200年以上も残るというのは、ある意味奇跡です。そうなるのも繋げてきた大勢の人達の気持ちと努力、寺を守ろうとした神仏の力があったればこそだなと思いました。
紀三井寺の御開帳は秋にも行われるようです。これをお読みの皆様に良きご縁がありますように。
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2020-07-02
◆紀三井寺
開創1250年記念の特別開帳が行われた、和歌山県の古刹「紀三井寺」にお参りに行った。

西国三十三観音の二番目のお寺。昨年参拝に来ましたが、あの時にはなく、今回あったのは仁王門向かって左側の閻魔像。熊野は死者の国とも云われるので、入り口に閻魔像があるというのは何ともそんな感じです。

前回来た時は、確かなかのお厨子は閉まっていたと思いますが、今回は本尊の御開帳だからか、こちらの観音堂のお厨子も開いていました。暗かったですが、平安時代位はありそうな観音様でした。
紀三井寺の歴史は、お寺のHPによるとこんな感じです。(抜粋)
◆紀三井寺略縁起
奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。
そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。
上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三礼のもとに刻み、一宇を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされています。
大陸から渡来した高僧、為光上人によって建てられたのが紀三井寺ですが、古い時代の密教寺院は山の中が多いですね。山そのものが神様であったり、山はあの世、異界というのが古い日本人の考え方であるので、やはり奈良時代には日本古来の神と、大陸から来た仏を習合させていたのかなと思います。
紀三井寺は正式名は「紀三井山金剛宝寺護国院」と言い、名前の由来は寺領の中に三か所の井戸(名水)が湧き出ていることからのようです。

231段ある階段です。この坂は「結縁坂」とも呼ばれています。この坂に関する昔話も残ってました。江戸時代の豪商「紀ノ国屋文左衛門」のお話ですね。それによると・・・
◆紀ノ国屋文左衛門とおかよの昔話
江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。
ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。
困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。
これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。
紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになりました。」 と。
商売繁盛、良縁成就、その他何事もまずは、信心からと申せましょう。
若い頃、父から聞かされた話の中には、この豪商の話もありました。その紀ノ国屋文左衛門所縁の地がこの紀三井寺だったとは。思わぬ発見でした。
しかし、あの坂道を親を背負って上るとは・・・。花緒が切れることも観音様の御利益か。商売繁盛や良縁成就、むしろ後者の方のが御利益が強そうですが、御縁を頂きたいと言う方はお参りに行くと良さそうです。この日はお寺だけのお参りでしたが、この玉津神社も気になりますね。

こちらが秘仏「十一面観音」と「千手観音像」を祀る本堂。1759年建立、総欅造りの建物です。迫力がありました。
こちらのお寺、秘仏の本尊は十一面観音像と千手観音像です。珍しいことに一つの厨子の中に二体の仏像が祀られていました。撮影禁止なので御姿はありませんが、購入した記念図録によれば、十一面観音像は10世紀前半で、楠の一木造。背面に穴を開け、像内を削り出し後で板で覆うと言う内刳りという技法で造像されているとのこと。
もう一体の千手観音像も同様で、おそらく同じ時期に造像された仏像だそうです。千手観音は手がきちんと千本造られています。
どちらの御像も素晴らしい観音様でした。十一面観音は特に迫力がありました。
そして強い仏様だなと思いました。日本の仏像の特徴は彫られた「木」にありますね。木ありきの仏像のようです。他にも紀三井寺には観音像や薬師如来と言った古像が多数残っています。
紀三井寺のブログは、二部構成でアップしたいと思います。次回はお寺の中で、気になったものに着目します。
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西国三十三観音の二番目のお寺。昨年参拝に来ましたが、あの時にはなく、今回あったのは仁王門向かって左側の閻魔像。熊野は死者の国とも云われるので、入り口に閻魔像があるというのは何ともそんな感じです。

前回来た時は、確かなかのお厨子は閉まっていたと思いますが、今回は本尊の御開帳だからか、こちらの観音堂のお厨子も開いていました。暗かったですが、平安時代位はありそうな観音様でした。
紀三井寺の歴史は、お寺のHPによるとこんな感じです。(抜粋)
◆紀三井寺略縁起
奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。
そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。
上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三礼のもとに刻み、一宇を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされています。
大陸から渡来した高僧、為光上人によって建てられたのが紀三井寺ですが、古い時代の密教寺院は山の中が多いですね。山そのものが神様であったり、山はあの世、異界というのが古い日本人の考え方であるので、やはり奈良時代には日本古来の神と、大陸から来た仏を習合させていたのかなと思います。
紀三井寺は正式名は「紀三井山金剛宝寺護国院」と言い、名前の由来は寺領の中に三か所の井戸(名水)が湧き出ていることからのようです。

231段ある階段です。この坂は「結縁坂」とも呼ばれています。この坂に関する昔話も残ってました。江戸時代の豪商「紀ノ国屋文左衛門」のお話ですね。それによると・・・
◆紀ノ国屋文左衛門とおかよの昔話
江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。
ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。
困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。
これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。
紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになりました。」 と。
商売繁盛、良縁成就、その他何事もまずは、信心からと申せましょう。
若い頃、父から聞かされた話の中には、この豪商の話もありました。その紀ノ国屋文左衛門所縁の地がこの紀三井寺だったとは。思わぬ発見でした。
しかし、あの坂道を親を背負って上るとは・・・。花緒が切れることも観音様の御利益か。商売繁盛や良縁成就、むしろ後者の方のが御利益が強そうですが、御縁を頂きたいと言う方はお参りに行くと良さそうです。この日はお寺だけのお参りでしたが、この玉津神社も気になりますね。

こちらが秘仏「十一面観音」と「千手観音像」を祀る本堂。1759年建立、総欅造りの建物です。迫力がありました。
こちらのお寺、秘仏の本尊は十一面観音像と千手観音像です。珍しいことに一つの厨子の中に二体の仏像が祀られていました。撮影禁止なので御姿はありませんが、購入した記念図録によれば、十一面観音像は10世紀前半で、楠の一木造。背面に穴を開け、像内を削り出し後で板で覆うと言う内刳りという技法で造像されているとのこと。
もう一体の千手観音像も同様で、おそらく同じ時期に造像された仏像だそうです。千手観音は手がきちんと千本造られています。
どちらの御像も素晴らしい観音様でした。十一面観音は特に迫力がありました。
そして強い仏様だなと思いました。日本の仏像の特徴は彫られた「木」にありますね。木ありきの仏像のようです。他にも紀三井寺には観音像や薬師如来と言った古像が多数残っています。
紀三井寺のブログは、二部構成でアップしたいと思います。次回はお寺の中で、気になったものに着目します。
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