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2020-06-30

◆寺社で写真を撮るということ・・・。 その2

前回、神社で写真を撮ることについて挙げた、六つの項目について捕捉しますが、もしこの六つを守らなくて写真を撮った場合でも、神社によっては比較的安全と言えるケースも勿論いくつかあります。愛知や三重で言えば、熱田神宮や伊勢神宮と言った大きな神社です。
 
 
大きな神社は管理が行き届き、清掃もしっかりされ、神職の方も沢山いて、参拝客も多い。こういった神社は気持ちが良いです。神様の機嫌も良さそうです。しかし、全国に沢山ある神社は、このような神社ばかりではありません。
 
 
私が父と行った神社は、いわく付きの伝説が残る古社や、地元の人も殆ど参拝に行かない神社が多かったです。そういった所は厳しいなと思える神社ばかりで、だからこそお参りに行く際は、衿を正して行かねばならないような霊地でした。
 
 
私も寺社で撮影することは好きなので、ついつい撮ってしまう方です。ついつい撮ってしまうと言う事は、そういう厳しい神社の場合、実際に怖い目にもあったりすることもありました。そんな経験から、写真を撮るにも筋道があると学んだ次第です。前回挙げた項目は以下。
 
 
①基本は撮らない方が良い。

②どうしても撮りたい場合は、きちんとお参りしてから。

③その際、撮る目的を参拝時に言葉で述べると良い。

④雰囲気の良くない所、これは撮らない方が良いかもという所は撮ってはいけない。(暗い所、水回りなど)

⑤拝殿内の写真は撮らない。

⑥御神木を撮る場合は一礼して言葉を添えてから。



まず、①、②、③は関連しているので、こちらから解説致します。これ、まずこう考えてみて下さい。


「神社で祀られている神様が、もし自分だとしたら、こんな人間はどう思うだろうか?」 です。


あるいは、もし自分の家に見ず知らずの人が来て、いきなりあちこち写真を撮られたらどう思うか?と考えると分かり易いでしょうか?
 
 
こんなことは芸能人以外ないかもしれませんが、誰もがそのような状況に出くわしたら、立腹すると思います。「何を勝手に撮ってるんだ!」と。
 
 
神社とはあくまで祈りの場です。そこに存在する神様に敬意を表する場でもあります。写真をバシバシ撮りに行く場でもないですし、やたらと願い事をする場でもありません。
 
 
しょっちゅう参拝に行っている神社で、神様も自分を覚えてくれている神社ならまだしも、始めて来て写真を撮りたいなら、やはりお参りを先にするのが筋です。
 
 
そしてどうしても撮りたい場合は、やはり目には見えぬ神様と言えど、そこにはいますので、撮る前に一言でもその旨を伝えることはマナーかと思います。
 
 
自分の家の前を掃除していたとします。そこにカメラを持った知らない人が通りかかり、いきなり写真を撮ったら不愉快ですが、撮る前にその人が、


「良い壁の色ですね。今度自宅を建てる時の参考にしたいので、一枚壁の写真を撮っても良いですか?ネットには上げませんから。」


と言えば、随分印象が違うのではないでしょうか? こういう風に言われれば、「あっ どうぞ」と言う人もいるかと思います。


神社で写真を撮る場合も、お参りする際に言葉で述べれば、まず撮っても異変は起きないと思います。(向うがこちらへ何か伝えたい時は出てくる場合もある。過去にこんな出来事もありました)。私の場合ですと、「お参りに来た記念にお写真頂きたいです。どうかお許し下さいませ」とか言います。これを言挙げと言います。

言挙げをして写真を撮る場合ですが、付け加えるなら、そんなに沢山は撮らない方が良いかと思います。
 
 
④や⑤も当たり前と言えば当たり前ですが、境内に気味の悪いような場所、怖さを感じる場所などがある場合もあります。そんな所は、もう撮らない方が良いです。

美濃清水寺


昔、美濃の観音霊場の一つ「清水寺」の御開帳に行った際、重要文化財の素晴らしい十一面観音の座像をお参りしました。私より先に参拝に来ていた人が写真を撮っていたので、お寺の関係者の方に「お写真頂いても良いですか?」と聞いたことがあります。その方は「良いですよ」とおっしゃって頂きましたが、続けてこう言いました。


「・・・ただし、仏の写真を撮るという事は(写真に)生が入りますので、管理はきちんとしてくださいね」
 
 
言われてなるほどと思いました。私は神社の神様も、お寺の仏様も存在していると認識していますが、有難い神や仏がいるということは、その反対のモノもいるということです。写真を撮る際に某かのモノが写るということは縁を持つという意味もあります。
 
 
私や父が参拝に出かけた神社は、荒れている神社も多かったです。当然、その場合神様の機嫌も良くはないでしょう。そんな神社の境内に不気味なものがあったり、怖い場所があったらそこにカメラを向けるのはマズイことです。


それと本殿の真後ろなども、撮らない方が良いです。本殿には神様がいるからです。
 

⑤も神社の建物の中ですから、撮らない方が良いでしょう。どなたでも家の中を撮られると言うのは、外観を撮られるより嫌かと思います。


⑥の御神木も、写真を撮る際は気を付けた方が良いと思います。これだけでブログ一本いけそうなので、今回はここまでとします。


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2020-06-29

◆寺社で写真を撮るということ・・・。 その1

幼少時より仏像に興味をもち、割と若い年代で仏様を信じるようになっていた私ですが、当初はお寺が大好きで神社には殆ど関心がありませんでした。お寺に行く=仏像を拝観するのが好きな私にとって、神社には仏像はないと思っていたからです。


それは大人になるまで変わりませんでしたが、26歳になった時、父に連れられ各地の観光地でもなんでもない神社に行くことがありました。


移動中の車内で神社のイロハを聞き、実際に現地に行くと父の話通りになっていたこと、そして父と参拝に行くと異変が起きまくる(数々の不思議な写真、身を以て知る出来事などなど)ことで、すっかり神社の魅力に嵌り、以降は気になる神社ばかり10年位参拝に出かけていました。


今思えば、結構怖い神社ばかり探して行っていたなと思います。
 
 
ずっと神社へ行き続けることで分かってきましたが、神社参りを通して今度はお寺の凄さ、仏教の有難味が身に染みて分かる様になりました。
 
 
神と仏の違いというのが確かにあったのです。
 
 
今回は神社をお参りする際の注意事項について述べます。全部は無理なので、今回はその中から「写真を撮るとはどういうことか」について考えてみたいと思います。
 
 
神社で写真を撮るということは、お寺で写真を撮ることと比べると、リスクが高いと思います。
 
 
それは、お寺で祀られてる仏と、神社で祀られている神との違いです。

真禅院14

 
 
仏教の仏様は「慈悲」という概念があります。このブログでも何度か出てきましたが、仏様は、神仏を信じていない人、それどころか神仏に対して暴言を吐く人まで何とか救いたいと思います。それは草木や動物、昆虫まで全部です。
 
 
しかし、神社の神様は大変感情的と言うか、慈悲という概念もないと思います。素直な人とは繋がりやすかったり、特に何もないですが、神仏に対して喧嘩を売るような人、神社で不敬な行為をする人には怒ることがあります。神様には穏やかな部分と、恐るべき荒ぶる部分(祟り神)があるのです。


どちらかと言えば、人の考え方に似ている所があるのが、神社の神様かなと思います。
 
 
神仏をお参りするには、敬意の気持は大事ですが、神様の場合は特にその気持ちが必要です。無礼な行為は絶対にしてはいけないと思います。
 
 
これを踏まえ、よりリスクが高い方、「神社で写真を撮る」と言う行為に当て嵌めてみますと以下のことが言えると思います。


①基本は撮らない方が良い。

②どうしても撮りたい場合は、きちんとお参りしてから。

③その際、撮る目的を参拝時に言葉で述べると良い。

④雰囲気の良くない所、これは撮らない方が良いかもという所は撮ってはいけない。(暗い所、水回りなど)

⑤拝殿内の写真は撮らない。

⑥御神木を撮る場合は一礼して言葉を添えてから。


寺社で写真を撮る場合、不思議な写真が撮れることがあります。経験上、神社のが多いですが、この撮れてしまった写真についても要注意です。カメラは肉眼では捉えきれないものを写すことがあります。撮れてしまった写真については以下のことを気を付けた方が良いと思います。


⑦写ったということは良きにしろ、そうでないにしろ、縁を持ったということ。

⑧白い光、温かみのある光は比較的好意的な場合と考えてよい。

⑨グレー色や黒色、血のような赤い色は不快と思っているか、敵意を持っている。要注意。

⑩見ていて気味の悪いのも要注意。

⑪写真にもよるが、SNSなどには上げない方が良いと思う。興味本位で取り扱わない。

⑫相当強い場合、ただの光ではなく顔とか姿として現れることもある。雰囲気にもよるがこれも要注意。



現状、考えながらですがざっと出てきた項目がこのような感じです。

前半の6項目と、後半の6項目は分けて考えた方が良いです。それぞれ解説しますと長くなりそうなので、今回はここまでとし、次回は前半の6項目について考えてみます。





2020-06-24

◆信仰について調べてみた。

親の話によれば、2歳の頃には既にお寺や仏像が大好きだったそうなので、関心を持つようになって、40年以上経つことになります。


また、父親の影響(神仏を信じている人)や、育った環境(先祖からお稲荷さんとか祀る家)が、今思えばかなり特殊であったので、様々な学びをさせてもらっています。有難いことです。私は神社の神様やお寺の仏様を、目には見えずとも存在していると信じています。


そんな私の背景をご理解頂いて、今回はふと思ったことを綴っていきたいと思います。


それは、人がお寺や神社へ行く際、何の目的で行くだろうか?という事についてです。


およそ思いつく限り考えてみますと・・・


①その寺社で祀られる神や仏に信仰心を持っている。お参りのため。

②仏像や建物、文化財を見るのが好き。

③信仰心までとは言えないが、お参りするのが好き。

④季節の節目や、イベント的な感じでお参りに行く。

⑤困ったことがあるので、お願いに行く。願掛けとか。現世利益を求めて。

⑥何となく雰囲気が好きなので行く。

⑦月参りとして毎月決めた寺社へ行く。

⑧そこにいるお坊さんなり、神職の方へ相談に行く。(御祈祷とか人生相談をしている寺社)

⑨先祖からの墓地があるので寺へ年に一度くらいは行く。

⑩御朱印が目的。

⑪寺社にはたまに行くけどお参りはしない。(蚤の市やマルシェ、買い物目的)

⑫葬式や法事、結婚式などで行く。

 
 
思いつく限り12項目挙げてみましたが、まだこれ以外にあるかな?
 
 
ざっと出した項目について見てみると、「神仏の存在を信じているか?いないか?」で大きく分かれると思います。
 
 
ふと、知りたくなったので、日本人の何割位が神仏を信じているのかいないのかというデータとかないのかな?と調べたら、NHKが調査したものが出てきました。(便利な世の中だ。)


これによりますと、「普段信仰している宗教(仏教、神道、キリスト教など)がありますか?」という問いに対して「ある」と答えた人が全体の36%(仏教31% 神道3% キリスト教1% 他 )で、「ない」と答えた人は62%だったそう。
 
 
日本人全体としたら、およそ少なくて3割、多くて4割位がなにかしらの信仰を持っているらしい。


ただ、「これだ!」といった特定の神仏の信仰心は無くとも、「なんとなくだけど、いるかいないかと言えばいるかもしれない」と思っている層は結構あるかも?とは個人的に思います。
 

私は着物屋で、一商人です。お坊さんでも神職でもありませんが、今まで様々な経験、出来事を通して「どうも神様や仏様はいるな」という立場です。
 
 
お寺や神社、そこで祀られる神様や仏様、そういった話はとても面白く、興味深いと思えますが、人によっては興味が無い、信じない、はては嫌う人などもいます。こういう世界は強制してはいけないことなので、信じる人、信じない人に分かれて当然ですし、それで良いと思います。
 
 
信じることは自由ですし、信じないことも自由です。どちらかが正解でも不正解でもありません。人によって解釈がまちまちなことなので、(基本はあるのでしょうが)簡単に割り切れることではないと思います。 
 
 
そんな私ですが、このブログを通して「神仏を信じています」あるいは「そういう世界に関心がある」という方にとっては、「ひょっとしたら何かの役に立てるかもしれない」という話が出来たらな・・・と思います。難しい試みかなとは思いますが・・・はてさてどうなることやら。




法隆寺
奈良県 法隆寺


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2020-06-20

◆天神様のお参りについて

子供の頃からの環境ですが、家で神仏を祀っています。


その中に天神様があります。お寺の仏様を彫ったものを仏像と言いますが、神社の神様の姿を彫ったものは「神像」といいます。

天神様 掛軸

聞いた話ですが、神像は仏像とは違い、その姿を見ることはまずないそうです。と言うのも、神道の考え方だと、神の姿は見てはならないというのがあるからです。
 
 
お寺でも、特に密教寺院が多いですが、お寺の本尊の姿が厨子に阻まれて見えないということもありますが、それでも年に数回、あるいは数十年に一回行われる御開帳という儀式では、そのお姿を拝観することは出来ます。
 
 
しかし、神社の場合はその御開帳すらありません。神像が残っているかどうかは、実はその神社で働いているという人にとっても、あるかどうか分からないということもあるようです。神社に存在していても、神職でも見てはならないのが神像です。


何故見てはいけないのか? 推測ですが、仏教の仏様は慈悲という概念があります。これは神仏を信じていない人、他の生き物に至るまで何とか助けたいというものです。しかし、神社には慈悲という概念はありません。神道流に言えば、神様には穏やかな部分(和魂:にぎみたま)と荒ぶる怖い部分(荒魂:あらみたま)があるからでしょう。


年を重ねると、いろいろなことを学びますが、神像の理屈が分かると、自宅でお姿が拝めるというケースは滅多にないようです。

 
そんな天神様ですが、毎朝お参りしておりますが、ここのところ
 
 
「お参りの仕方はこれで良いのか?神道式のお参りでも間違いはないと思うけど、どこか腑に落ちない」


と思うことが多くなりました。
 
 
そんな中、最近たまたま購入した本の中に、天神様の真言がありました。


真言とは、真言宗や天台宗などの密教で唱える、仏様の言葉です。密教では如来や菩薩、明王や天部など様々な仏様を拝みますが、その仏様ごとに全て真言があります。
 
 
真言とは、密教に出てくる仏様にしかないという認識でしたが、神社の神様でもある天神様にもあったのです。これは驚きました。
 
 
本によれば、天神様の真言は「オン トウドウ シンジン ソワカ」とありました。
 
 
以来、天神様のお参りは、この御真言と般若心経を唱えるようになりました。
 
 
そう言えば天神様は天満大自在天と云います。この長い方のお名前は、密教ぽい名前です。真言があるということはかなり古い時代(?)に神として密教に取り込まれたということです。
 
 
そこで、蔵書の中から密教関係の書物をあさっていたら、興味深い話が出てきました。
 
 
それは「菅原道真公(天神様)は、聖天を熱心に信仰していた」という記述です。聖天とは象頭人身の神が抱き合っている姿の天部です。別名「歓喜天」とも呼ばれています。
 
 
それによれば、聖天は天神と同体であるとあった。聖天様は二つの神が抱き合った姿であるが、その片方は十一面観音が変化した姿であるという。故に聖天様の本地は十一面観音であるそう。
 
 
そのことから、天神様も十一面観音が本地ということになる。奈良時代に始まった神仏習合の思想は、非常に複雑に変化し習合していった。天神様が密教に習合していたというのは驚きだったが、日本の歴史を考えれば十分あり得ることだった。
 
 
そう言えば、日本でも有名な神社の一つ、八幡神社の御神体、応神天皇や神宮皇后も、弘法大師に建てられた東寺にあった。こちらが知らないだけで、神道のその他の神様も、密教に習合したケースが沢山あるのかもしれない。
 
 
明治時代の神仏を分けてしまう流れの中で、廃仏毀釈という運動が起きた。寺を壊したり仏像を捨てたりする行為が全国で起きたのだ。明治政府の出した法令であったが、想像以上に壊されたのは神社側の人たちが率先してやったという話を聞いたことがあった。
 
 
そういうことをした神職関係の人達は、今まで神社を寺の下とみなされていたから、より過剰な反応をしたらしい。
 
 
実際、当時を生きて見た訳ではないが、神仏習合が行われていた背景は、神を仏の下として見ていた訳ではなく、日本の神の凄さを十分理解し、双方の良いところを取り入れようとしていたのでは?と思います。


参考文献 最強の守護神 聖天さま  羽田守快著  大法輪閣  

 
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2020-06-18

◆信仰と宗教

私は着物屋をしています。仕事を通じて、色々な人と話をします。
 
 
そんな会話の中で、まず聞かれることはない、いや一度も聞かれたことも無いですが、もし「あなたは何か信仰を持っていますか?何か信じている神様はいますか?」と聞かれたとしたら、多分こう答えると思います。


「えっと、観世音菩薩と不動明王、お稲荷さんと弁天様、それと天神様ですかね」
 
 
付け加えるなら、家の仏教宗派の本尊、阿弥陀如来もそれに入ります。

 
国によっては日常会話で普通に聞かれることもあるようですが、あくまで私が思う日本人の感覚だと、相手の宗教について聞くことはしないように思います。


聞くこと自体がタブーなのか、あるいはもともとそういうものに関心がない人が多いのかのどちらかでしょうか。


信仰=宗教、宗教=怪しいと思っている人が多いと思いますが、私的にこの二つ、「信仰」と「宗教」は分けて考えた方が良いのでは?と思います。

 
我が家の場合、先祖からの仏教宗派は、浄土真宗です。真宗大谷派と呼ばれています。お東さんとも言います。
 
 
私は生まれ育った環境のため、人生のかなり早い段階で神仏を信じることが出来ました。疑うことなくすんなり心に入ったことは、今となっては有難いことだったなと思います。

 
さて、タイトルにもなっている「信仰」と「宗教」ですが、厳密に言えば信仰と宗教は切っても切れない間柄かと思いますが、私が思うに信仰とは組織に属さずとも個人で持てるもの、宗教とは何かしらの組織に属しているものと考えています。
 
 
我が家の仏教宗派、浄土真宗も宗教団体なのでこういうことを言って良いのかと思ったりもしますが、私も「宗教団体」と聞くと「危ない集団かも」と思ってしまいます。
 
 
それは入信したことで家族がバラバラになったとか、お布施と称して金品を巻き上げられたとか、先祖からの仏壇を打ち捨てたとか「マジか!」と言いたくなるような話を聞くこともあるからです。
 
 
なので、信仰とはそう言った団体とは違い、個人が気付いてやるもので、別に組織に属さずとも心一つでやれることだと思っています。


ただ、神社の神様やお寺の仏様、自分のこれだと思える神仏を信じようと思った時、そしてそれが自分にとって凄く良かったと思えても、それを信じない人、全く興味のない人に押し付けるのは止めた方が良いと思います。仲の良い友達だろうが親族だろうが、信じない人は信じないし、信じる人は信じる。
 
 
どっちも自由で、どっちでも良いことかと思います。



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プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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