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2020-03-28

◆鬼のお話  第9回  昔話の桃太郎

前回の続きです。長くなってしまいましたが、今回でとりあえず桃太郎と温羅のお話はおしまいです。


最後に家にあった桃太郎の絵のお話と、昔話と吉備の国について考えてみたい。


まずは変わった桃太郎の画がありましたのでご紹介します。


この絵、昔父が入院していた時、同部屋にいた手彫りの刺青師のAさんという方に頂いたもの。刺青のデザイン画です。画いたのはAさんですが、聞けば元の絵は古いものであったそう。


桃太郎-crop

注目して頂きたいのが、桃太郎が踏みつけているバラバラに折れた刀だ。


画像の折れた刀を踏みつける桃太郎の絵は、こんな昔話からデザインされた。


それは「桃太郎と鬼が刀を交換した。桃太郎は弱い刀を、鬼は強い刀を出した」というものだ。


これから一戦交えるもの同士がわざわざ武器を交換するとは思えない。この背景には、まず桃太郎を迎え入れた鬼と、巧妙な計略で鬼に近づいた桃太郎の図式が浮かんでくる。


桃太郎の昔話には様々なパターンがあるが、明治より前の桃太郎は鬼ノ城に攻め入る動悸が、ただ「宝を取りにいく」事で、「鬼が悪さをするので成敗に」という件が追加されたのは明治以後、学校教育に使われるようになってからだった。また、犬、猿、雉も古い昔話はそれぞれきちんとした名前があった。


こんな絵があるのも、昔から温羅は鬼ではないと考えていた人がいたのだろう。


吉備という国は現在でも謎の多い国らしい。


3世紀から4世紀にかけてヤマトには出雲や吉備、北陸、東海の勢力が集まり、更に北九州がやってきて王国が誕生した。その中で、最も強い影響を及ぼしたのが吉備であった。


前方後円墳(権力者の象徴)の原型が、すでに弥生時代後期の吉備で誕生していた可能性が高いことや、ヤマトに集まった土器の中で、吉備の土器だけが生活臭の無い、祭祀に用いる特殊なものだった。他の国よりも進んだ考え方があったのだ。


他よりも進んだ考え方、文化、技術があった故に攻撃されたのではと思う。


昔、吉備津神社へ参拝に行ったことがある。


大変立派な神社だ。


その売店で魔除けの土鈴を売っていたので購入した。


IMG_3348.jpg


この土鈴、今も受け継がれている釜鳴神事を行う建物、温羅の首が埋まっていると云う、鉄の窯の下にある灰を用いて焼成したものだ。


人を魔物から守る存在は、吉備津彦命ではなく討ち滅ぼされた鬼なのである。何とも地元の人達の叫びを感じる土鈴だ。


鬼というのは怖い存在で、実際そういう鬼も多いとは思うが、温羅のように地元の人達に愛されている鬼もいる。


温羅という鬼が非道な悪鬼だったのか、それとも偉大な英雄が鬼とされたのか。


真相は分かりませんが、個人的には温羅は本来なら偉大な神として祀られるべき英雄だったのでは?と思います。


桃太郎のお話はこれにて終わりです。




参考文献  神社仏閣に隠された古代史の謎   関 祐二 著   徳間書店


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2020-03-27

◆鬼のお話  第8回  温羅とは鬼だったのか?

吉備を平定した五十狭芹彦命は吉備津彦命と名前が変わり、現在は吉備津神社の御祀神となっている。


吉備津神社には有名な神事、「鳴釜神事」というものが残っている。


これは実は温羅に関係している神事である。


前回の桃太郎伝説の最後の個所、赤文字部分を考えてみる。





それから13年の月日が経ったが未だに唸り声は続いていた。ほとほと参った五十狭芹彦命だったが、ある日彼の夢に温羅が現れ、こう告げた。


「我が愛した阿曽女を連れてまいれ。阿曽女を持って我を祀るならば声も鎮まろう。そして釜で占うがよい。吉事の時、我の首は穏やかに鳴り、凶事の時は荒々しく鳴るであろう」


こうして、ともかく呼び出された阿曽女によって温羅が祀られるようになると、恐ろしい唸り声はパッタリと止んだ。永きに渡った戦いもようやく幕を降ろすことになった。仕事を終えた五十狭芹彦命は吉備津彦命と名を改め、吉備臣の祖先となった。吉備津彦は死後、吉備中山に埋葬されたと言う。





討たれ、さらし首となり、尚且つ犬に食われて釡の下に封じられた温羅。13年にも亘り祟り続けるも、最後には自ら祟る神になるのを止め、万人の為に神託を告げる存在になった。阿曽女というのが地域を差しているのか、あるいは温羅の最愛の女性が阿曽出身の女性だったのかは分からないが、祟る神を慰める、封じる役目が、霊力をもった女性であるということだろう。


温羅のケースの場合は、封じると言うより、祀ると言った方のが正しいか。


伝承を読んでいると、明らかに勝者の目線で書かれている。


敗者から見た桃太郎伝説を語る前に、少し事実と交えて伝承を整理する事にする。今から三十年程前のこと、鬼ノ城の伝説があった山が火事になった。


鎮火後、焼け跡から見慣れぬものが現れる。それは古い形態の石垣だった。

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その後の調査の結果、それは古代(有力なのは7世紀頃とされるが未だ年代は特定できていない)に建設された朝鮮様式の山城址だと判明。更に調査を進めると、東西南北に四つの門、6つの水門、全国的にも珍しい防衛の為の角楼や、のろし台、食料貯蔵庫跡や水汲み場まであり、敵の侵略に備えて住民をも匿えるようにもなっていたと考えられた。

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鬼ノ城とは標高400メートルの山に築かれた全周2.8kmにも及ぶ防衛施設だったのだ。また岡山県は古来より鋳物生産が盛んに行われていた。吉備津神社には古い鉄製の釜があるし、この地方には更に古い金属器も出土している。


片目を失ったり、川が赤く染まるという昔話は、蹈鞴の伝承でもある。温羅一族は製鉄集団だった。


ここで「温羅」という文字について考えたい。


「温」という漢字を辞書で引くと「あたためる、おだやか、なごやか」という意味がある。また、古代朝鮮では城壁の事を「羅城(ウル)」と呼ばれていた。


鬼ノ城という城壁(ウル)に囲まれた城に住み、鉄文化を広めた温(あたたかい)という文字を持つ王。死後、怨念を抱いてなお改心し、吉備の民に助言(鳴釜神事)する神となった事を考えると、温羅は万民を思い慕われていたのではないだろうか。


遠い百済から渡来し、吉備に辿り着いた温羅は、阿曽女という妻を娶り当時最先端の製鉄技術、建築技術等を伝え大きな国を造った。


しかし全国制覇を目論む大和朝廷にとって鉄を扱う温羅一族は面白くなかったのだろう。そこで武勇に秀でた五十狭芹彦命を差し向け戦わせた。大軍が迫れば国を守る為に温羅は鬼になって戦わざるを得なかった。


最後は目を射ぬかれ、雉や鯉に化けて逃げるも執拗に追われ、死してなお辱めを受け続けた。そんな温羅を想うと何ともいえない切ない気持ちになる。


温羅の部下達はどうなったのだろうか。調べてみた。


桃太郎に敗れた鬼達は四国に逃げ込み、またその地で成敗され、以来そこの地名は「鬼無」になったというのだ。鬼が滅ぼされていなくなったと現代では解釈されているが、最初から非道な鬼などいなかったので「鬼無」と呼ぶようになったのではないのだろうか。


吉備津彦命を祀った吉備津神社が岡山にはある。その境内にはなんと温羅も祀られている。


これは勝者の吉備津彦命も大軍を投入したにも関わらず、互角にわたりあった温羅に対して敬意を表していたのではと思う。


次回で桃太郎のお話は一度締めたいと思います。





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2020-03-26

◆鬼のお話  第7回  犬飼武

前回の続きです。

ついに討たれてしまった温羅。その首は斬り落とされてしまう。そして・・・


◎五十狭芹彦命vs温羅 続き

その後、温羅の首は串刺しにされ晒し首となったが、温羅の怨念は凄まじく何時までも不気味な唸り声を上げ続けた。


そこで五十狭芹彦命は部下の犬飼(養)武に命じ、首を犬に喰わせた。


しかし頭蓋骨になりはてても温羅の唸り声は止む事はなかった。たまりかねた五十狭芹彦命は、頭蓋骨を茅葺宮の釜殿の下に穴を掘り埋めてしまったが、一層唸り声は酷くなっていった。


それから13年の月日が経ったが未だに唸り声は続いていた。ほとほと参った五十狭芹彦命だったが、ある日彼の夢に温羅が現れ、こう告げた。


「我が愛した阿曽女を連れてまいれ。阿曽女を持って我を祀るならば声も鎮まろう。そして釜で占うがよい。吉事の時、我の首は穏やかに鳴り、凶事の時は荒々しく鳴るであろう」


こうして、ともかく呼び出された阿曽女によって温羅が祀られるようになると、恐ろしい唸り声はパッタリと止んだ。永きに渡った戦いもようやく幕を降ろすことになった。仕事を終えた五十狭芹彦命は吉備津彦命と名を改め、吉備臣の祖先となった。吉備津彦は死後、吉備中山に埋葬されたと言う。




・・・五十狭芹彦命と温羅の長い戦いは決着した。

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まず、気になった個所として青字のところを考えてみたい。桃太郎の昔話では家来に犬が出てくるが、このモデルと云われているのが、五十狭芹彦命の配下の一人、犬飼武(いぬかいのたける)だ。討たれた温羅の首はそれで終わりではなく、更に犬にのエサになるという、いくらなんでも酷過ぎる扱いを受ける。

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そんな扱いを受けたからか、当然討たれた温羅は祟る。頭蓋骨になっても唸り声をあげたという表現に恐ろしさを感じる。五十狭芹彦命はたまらず、釡殿の下に埋めた。


釡とは火で水を沸かすものだ。古代より火と水の力を制する者は国を制すという話がある。古事記にも火と水の力を手に入れ、兄の海幸彦を倒した山幸彦の話がある。


火と水の力を表す釡の底、地面の中に埋めたというのは温羅を封じたかったのだろう。しかし、封じは失敗し更に温羅の首は唸り続けた。祟りという表現はないがこれは祟りまくったと思う。


赤文字個所に話をうつす前に、温羅の配下、犬飼武についてもう少し考えてみたい。


刎ねられた温羅の首を犬飼武の犬に喰わす…。


怖い個所なので、ついつい聞き流してしまう箇所だが、これにも隠された意味があると思えてならない。


例えば「吉備津彦命」の名の場合、吉備を平定したので国の名が人名になったという意味があると判るが、犬飼武の場合、ただ犬を飼っているから苗字になっているという単純な理由だとすると、これは明らかに自らが名乗ったのではなく、蔑みを含んだ名前だと思える。


祟られる可能性がある首を喰わせるという行為も無理矢理やらされたのだろう。


犬飼一族は全国制覇を狙う大和朝廷に滅ぼされるより降伏を選んだ。だから敢えてこの名を受け入れた。元は別の名前があったのかもしれない。


こう考えて大和朝廷側から見ると、敵と決めた相手には、損害を最小限に抑える為、降伏した人々を差し向け、自らの手は汚さないという巧妙な手口が浮かんでくる。


鉄や稲を求めて全国制覇をしていたのであれば、最前線で戦わせる人々も産鉄民だった可能性が高い。同族同士の戦いもあったのかもしれない。


また犬飼武は犬飼部(犬養部)の一族とされている。猟犬を飼育していたという説と番犬と共に門を守っていたという説がある。同じように雉や猿も人間だった。


またこんな話もある。真相は定かではないが、犬飼いの一族の末裔に1931年に総理大臣となり5.15事件で暗殺された犬養毅がいたとされる。都市伝説の類かもしれないが、吉備津彦命を祀る吉備津神社には犬養毅の記念碑だったか何かがあったので、案外本当に子孫にあたるのかも。

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次回は赤文字個所を中心に鬼のお話を続けて参ります。



参考文献  鬼  新紀元
2020-03-25

◆鬼のお話  第6回  「温羅 討たれる」

それでは前回の続きから、古代岡山県で起こった桃太郎と鬼の戦い、その後を見てみよう。温羅はどこか悲しくも応援したくなる鬼です。このブログも力がついつい入ります。




◎五十狭芹彦命vs温羅 続き


何故鬼達が復活してくるのか。


疑問を抱いた五十狭芹彦命は密かに部下に鬼ノ城周辺を探らせた。


すると山奥に温泉があり負傷した鬼はそこで傷を癒していることが判明した。


そこで五十狭芹彦命は部下に温泉を埋めるよう指示し、自らも呪術で温泉を水に変えたところ、鬼達は復活しなくなったのである。


だがまだ問題はあった。


どれだけ矢を射っても温羅には当たらない。温羅を倒さねば戦には勝てぬ。彼が悩んでいるとどこからともなく童子が現れ「このままでは負けるであろう」と告げた。


この童子が只者ではないと直感した五十狭芹彦命は、どうすれば温羅を倒す事が出来るか教えを請うた。


「一度に二本の矢を放て、さすれば温羅を討ち取る事が出来よう」童子はそう言い残して姿を消した。


五十狭芹彦命は教えられた通り、二本の矢を同時に温羅に向けて放った!


一本の矢は空中で岩と激突したが、残った一本は温羅に届き彼の左目に突き刺さった。


五十狭芹彦命の呪力がこもった矢を受けた温羅はたまらず鬼ノ城から転げ落ち、それを見た鬼達も一斉に逃げ出し、温羅軍は総崩れとなった。


温羅は眼から血を噴出し、鬼ノ城から足守川へ流れる小川を真っ赤に染めた。


しかし戦いはこれで終わった訳ではない。ここからは、温羅と五十狭芹彦命の呪力の戦いとなった。


まず温羅はその身を童子に変え岩の下に隠れようとしたが、五十狭芹彦命は呪力でこれを防ぐ。次に温羅は雉に変化し空を舞うが五十狭芹彦命は鷹になり襲い掛かる。なおも逃げようとする温羅は、今度は鯉に化け川に飛び込むが、そうはさせじと鵜に化けた五十狭芹彦命が後を追う。


そうして終に温羅は捕らえられ、首を刎ねられたのだった。





・・・・と今回はここまでを紹介し、考えてみたい。


元は人間対人間の戦いの伝説であるとは思うが、温羅(鬼)も五十狭芹彦命(神)も呪術を使う同じような能力を持つ存在だ。気になった個所を色文字にしてみたがまずは赤い個所、温羅達が山に長けていたことや、片目を負傷したり、川の水が赤いという記述からは温羅が産鉄民、蹈鞴(たたら)を生業としている一族だったことが分かる。


王権側に組みしない豪族は、米や鉄を持っている場合攻撃対象になる。米は生活を安定させ、鉄は強力な武器になるからだ。ひれ伏さない限り、この二つは侵略して奪うほどの価値があるのである。


青色の部分について気になるのは、謎の童子が助っ人として現れることだ。


この童子、一説には住吉明神とも云われている。童子、即ち子供の姿の神は強い霊力を持つという。鬼の名前にも〇〇童子というものが多いのもこの為だろう。


住吉明神は軍神でもある。矢を二本放つという件を読んで思い出した話があった。地蔵寺釈厄外伝記(※注1)にて狐童女稲荷(きつねめいなり)が弁才天十六童子について一柱ずつ語る場面があるが、そこから引用してみよう。6番目の童子、愛敬童子(あいきょうどうじ)について紹介する場面だ。


「六つつ目其の前座しますは 右に二本矢 左に弓持つ 乙矢は封じ矢 その名手 本地は観世音菩薩 雨霰と降りかかる 悪災魔人を退治する 強いお味方 愛敬童子(施願童子)忘れてなるまい 人の心も射止めまするに」


二本目の矢の事を乙矢という。乙とは乙女、魔を封じるには女性でなければならない。日本の神社にはあまり公ではないが、一部に封じの神社というものが存在する。これは父から教えられ・・・あまりにも悲惨な例を見つけてしまうことも多いが・・・実際に足を運んで確認したが、その場合姫神が祀られることが多い。(もしくは封じる神が強力な武神の場合もある)


住吉明神が矢を二本で倒せ(封じろ)という神託を齎すというのは、仏教の弁才天の説話もこの昔話に取り込まれているのではと思う。住吉明神が弁才天の童子の姿で現れたとも解釈できる。


こうして、温羅は討たれてしまうが、この昔話はここで終わりではない。その後、一体どうなったかはまた次回のお話です。

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参考文献  鬼  新紀元社
        地蔵寺釈厄外伝記   瑠須庵著

特別顧問  白旗稲荷大明神と狐童女稲荷  ありがとうございました。




※注1「地蔵寺釈厄外伝記」とは?

私の父は特殊な才能があり、幼少時より稲荷神が憑き、頻繁に稲荷神と会話をしている。ある時、近所の地蔵寺のご住職に頼まれ、戦争で燃えた寺の縁起書の執筆を頼まれる。寺に残された資料は燃える前の縁起書を見た先代が手書きで残した原稿用紙2枚だけ。その2枚が今では原稿用紙40冊を超えまだ完成していない。

稲荷神の言葉をそのまま現代語訳したもので、西遊記のように面白い話。原稿執筆にあたり、父に縁のあった稲荷神が、地蔵寺守護神、白旗稲荷大明神の御分魂の狐童女稲荷であることが判明した。不思議な話です。





2020-03-24

◆鬼のお話  第5回  「桃太郎」 

次なる鬼のお話は、日本の昔話に登場する最も有名な鬼、と言っても題名は有名ながら倒される鬼のことについては、地元以外余り知られていない「温羅(うら)」につてのご紹介です。


出てくる物語の題名は「桃太郎」です。この桃太郎という昔話、元になった戦の昔話がある。そして桃太郎にもモデルがいた。


まずは古代の岡山県で勃発した大戦の概要を見てみよう。



◎五十狭芹彦命vs温羅


伝承では、温羅は百済の王子で、各国で悪事を働きながら日本に渡来し吉備(岡山県)の地に住み着いた。


身長は1丈4尺で髪は赤く縮れ、髭は長く、眼は獣のように輝き、頭には瘤のような形状の角があり、一般的によく知られる鬼の姿だったという。その能力は様々な呪術を行使し、空を飛んだり、火を吐いたり、子供や動物にも変身し、怪力の持ち主だった。


また飛んで来た矢に岩をぶつけるという技を使って体に矢が命中するのを防いだとも伝えられる。


温羅は吉備の新山に城(鬼ノ城)を構え手下を集め吉備国を荒らし始めた。朝廷への貢物を奪い、人を捕まえては釜で煮て食ったりした。吉備の人々は大和朝廷に助けを求めた。だが、朝廷から派遣された軍は、ことごとく温羅に打ち破られた。


温羅は自らを吉備冠者(吉備の王)と名乗り支配を続けた。時の天皇、崇神天皇(BC148~30第10代天皇、実在の初代天皇と言われる)は唯軍を送ったのでは温羅は倒せないと判断し、武勇誉れ高い五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと:後の吉備津彦命)に温羅討伐を命じた。


大軍を率いた五十狭芹彦命は吉備中山に陣を敷き、吉備中山西にある片岡山に部下を派遣し砦を築かせた。一方、朝廷軍の様子を見た温羅は部下と共に鬼ノ城に篭り戦いに備えた。戦いの火蓋が切って落とされたのである。

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五十狭芹彦命は岩の上に矢を置き鬼ノ城に攻撃を掛けた。これに対し温羅は大岩を投げ飛ばして対抗した。五十狭芹彦命が放った矢は、温羅の投げた大岩に悉く当たり吉備中山と鬼ノ城の中間に落ちた。


五十狭芹彦命の戦略は確かで、軍も精鋭揃いだったが、矢が届かぬので戦が長引いていた。夜になると鬼達は城から出て周囲の村を襲った。これに対して五十狭芹彦命は楽々森命(さきもりのみこと)を遣わし村を襲う鬼達を倒した。勿論他の部下達も鬼達を倒していった。


ところが不思議な事に倒したはずの鬼達は次々と元気を取り戻し戦列に復帰していく。倒しても倒しても数が減らないので、五十狭芹彦命の軍は次第に疲弊していった。戦況はだんだんと不利になっていった。



・・・と、まずはここまで。凄まじい激戦だったからか、あるいはこの物語だけは後世に残さねばという意思が働いたのか、古代の戦闘にも関わらず、かなり詳細に出来事が残っている。


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温羅は百済の王子であったいう箇所からは、ただ暴力的、山賊的な悪漢ではなく身分の高い人であったということが伝えたかったように思う。


それと、その能力の高さが伺える。日本各地に残る鬼伝説に登場する鬼の中でも、飛び抜けた能力を持っていた。火を吐く、空を舞う、変身する、岩を操るなどなど鬼が神であると伺えるほどの力だ。その身長もメートル換算で3m越えである。


鬼の王に相応しい力だ。あの大和朝廷の軍隊を以てしても太刀打ち出来ないという描写は、しょんぞそこらの鬼とは訳が違うよということか。


そんな無敵ともいえる力を持った温羅の軍団に、朝廷からこれまた猛将と云われる「五十狭芹彦命」が率いる軍隊が派遣される。五十狭芹彦命は孝霊天皇の第三王子で、後に温羅を倒し吉備を平定する。


しかし、五十狭芹彦命も最初から優勢だったわけではなく、開戦時は劣勢だったようだ。温羅の軍隊は倒しても倒しても減らないというのだ。果たしてその理由は・・・次回に続きます。



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2020-03-18

◆鬼のお話  第4回 そして天満大自在天へ

菅原家は名門の御家柄だった。古くから朝廷に仕えていた。そんな菅原家に関するお話も出て来たので紹介する。


先祖神は天穂日命(あまのほひのみこと)で、その子孫には相撲の神様とも呼ばれるあの野見宿祢(のみのすくね)へと繋がる。


天穂日命については、記紀神話ではこうある。


天照大御神と素戔嗚尊が誓約をした際、素戔嗚尊は天照大神から渡された八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を、天真名井の聖水を降りすすぎ、噛んで吐き捨てた。その息から五柱の神々が生まれた。その中の一柱が天穂日命だ。


菅原家の先祖神に、荒ぶる神素戔嗚尊に繋がる神様がいたというのはなるほどなと思う。


野見宿祢の有名な話は、日本最初の相撲の取り組み(?)、当麻蹴速との力比べが有名だ。この勝負では野見宿祢が勝っている。また野見宿祢は古墳に設置する埴輪を提案した人物だと云う。


その当時、身分の高い人が亡くなると、沢山の殉死者を生きたまま埋葬(!)していたというが、これを止めさせ、代わりに埴輪を埋葬することを考えたのだ。古墳に行く時はこれから注意しよう。


この功績により、野見宿祢の一族は土師(はじ)氏の名を賜り、以後天皇家の葬儀などに関わる様になった。それから時代は下って天応元年(781年)、野見宿祢の子孫、近江介(おうみすけ:近江の国の公務員の役職の一つ)だった土師宿祢古人(はじのすくねふるひと)ら一族15名は朝廷に奏上し、居住地である菅原の姓に変えることを許可された。


改姓したことで、葬儀屋という印象を払拭し、一族の進む道を学問のみとし心機一転することになる。


以後、菅原家は遣唐使や侍読(じどく:簡単に言えば天皇の家庭教師)などを務める優れた学者を多く輩出した。その血統は道真公にも受け継がれて行った。


子供の頃から才能豊かだった道真公、11歳で詩をつくり、13歳では父に劣らぬ和歌を詠むようになった。その後、猛勉強の末、菅原家では初の右大臣に任命された。学者出身で右大臣になったのは吉備真備以来だったと云う。


前回のおさらいだが、その後道真公は無実の罪、天皇家の転覆を画策したという理由で太宰府へと流される。後の資料から、太宰府のすまいは「屋根は雨漏りし、官舎の入り口は草に覆われ、井戸は土砂が詰まって使えず、家の周りの垣根は壊れている」という廃屋さながらだったようだ。


その後、ご存知の通り失意のまま亡くなり、鬼神として復活し祟りが起きる。恐れた人々は神として祀るようになった。


祀られるに至る際、こんな話があった。


まずは太宰府天満宮。こちらは延喜五年(905年)、太宰府の味酒安行(まさけやすゆき)が神託により神殿を建て道真公を祀ったと云う。祀る際に道真公の神名を「天満大自在天神」とした。


道真公を祀る今一つの有名神社、北野天満宮も天暦5年(947年)、近江国の神良種(かみよしたね)の息子、太郎丸なる人物や、北野にある朝日寺の僧もご神託をうけたことが切っ掛けだった。


北野の地は元々「天神」即ち天津神(天上の神々)を祀る神社だったが、こちらに道真公を一緒に祀ることになった。しかし、だんだんと道真公の人気の方が大きくなり、元々祀られていた天津神は、主祀神の座を入れ替えられてしまった。


それだけ祀る方も神経を使ったのだろう。今日では「天神」という言葉は、本来の天津神を差すのではなく、菅原道真公になってしまった。



祟る荒ぶる神になってしまうと、もうこれは祀って崇めるしかないというのが、古くからの被害を受けないようにする考え方の一つだ。しかし、いくら祀る方が神社を建立しても、それは一方的な考え方で、建ててお参りすれば治まるというものでもないだろう。


当の祀られる荒ぶる神が、納得しないで祀ろうと思ってもそれは無理だ。かえって火に油を注ぐ事態にもなりかねない。


道真公の場合は、結果を見るに祀ることに成功した。これはやはり、道真公が元々秀才であり、また観世音菩薩を個人的に信仰していこと、有名な天台宗の僧侶と親交があったことなどから、仏教も学んでいたことが大きかったのではと思う。祟る鬼神でい続けることを良しとしなかったのだろう。付け加えるなら、目的を果たしたことである程度溜飲が下がったこともあると思う。


道真公は天満自在天として生まれ変わった。自身が謂れのない罪を着せられ苦労したこともあり、自分のような仕打ちを受けた弱者に対しては(きちんとすがってお参りする者には)必ず耳を傾けてくれると思う。


天満大自在天の御利益は、学問の向上が有名だが、農業関係の願い、そして冤罪を晴らしたいという願いには大いに御力添えを頂けると思います。



天神様 掛軸

参考文献

日本の神様 読み解き事典  柏書房
鬼       新紀元社


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2020-03-16

◆鬼のお話  第3回  火雷火気毒王

鬼に纏わる話を拾って行こうということで、しばし何から紹介しようかと思案しました。


歴史上には様々な鬼が登場する。一つ一つ調べると正直気軽にブログにして大丈夫かという気持ちになる。


例えアクセス数の少ない私のつたないブログでも、間違ったことを紹介すると怒られるのではと内心ビクビクしております。


最初の鬼は何にしようか?これをお読みの皆さんが知っていて、意外に自分の住んでいる近くにも祀られている、そういう存在が最初は良いのでは?と考えた所、この神様に辿り着いた。


学問の神様、天神様こと菅原道真公だ.。無論、天神様は全国から信仰を集める立派な神様だが、そうなる前は鬼神として恐れられていたことがあった。


個人的には子供の頃から縁があり、手を合わせるようになってから随分経つ。好きな神様だ。そんなこともあり、天神様についてはそれなりに理解しいるつもりだったが、改めて調べると知らなかったことも幾つか出てきた。まずはざっとだが簡単に菅原道真公について昔話っぽく紹介致します。





◎天神様 菅原道真公について


北野天満宮や太宰府天満宮、各地に残る天神社、天満宮のご祭神である菅原道真公は、幼少の頃より学業に励み、情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作るなど優れた才能の持ち主でした。


学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、異例の出世を重ねられた道真公は、昌泰2年(899)右大臣の要職に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括されます。


ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰4年(901)大宰権帥に左遷され、そのわずか2年後、大宰府の配所にて波乱の生涯を閉じられました。


七日七晩、天拝山に上り天の神に祭文を唱え、無実を訴えたとの言い伝えが残っています。道真公の死後、しばらくして都では異変が相次ぎました。


左大臣、藤原時平が39歳で急病に倒れ、時平の妹、隠子皇后の子、皇太子保明親王が21歳で病死しました。世人は皆、菅原公の怨霊の仕業と噂しました。朝廷も放置出来ず、道真公を本管の右大臣に復し、正二位を贈り、太宰府配流の詔書を破棄させ怨霊を慰めよう努めました。


しかし、保明親王の没後、直ちに立太子した時平の外孫、慶頼(よしより)王も延長3年(925年)、わずか5歳で亡くなり、さらに延長8年6月、清涼殿落雷という衝撃的な事件が起こりました。


この時、天皇は清涼殿の東廂(ひさし)に出座しておりましたが、御前に居合わせた大納言、藤原清貫が雷に打たれて即死したのです。この出来事を目の当たりにした天皇は病床につき、その年の9月に譲位し間もなく世を去りました。


こうして道真公は「火雷神」と呼ばれ、もっとも恐ろしい怨霊とされ、それをなだめるために各地に神社が建てられました。


その一方、学者・文人の間では早くから学問の神として崇敬されており、やがて両者が合体して天神信仰を高め、さらに学問の神としての信仰が、御霊信仰を上回って一般庶民まで広まり現代に及び、人々の生活のなかで受け継がれています。


道真公の精神は「和魂漢才」の四文字に集約されるように、自国の歴史と文化にしっかりとした誇りを持ち、他国の文化も受けいれる寛容さが特徴です。道真公が生涯一貫された「誠の心」は、今も日本人の心に生きつづけています。


また天神様の御神徳としましては、学問の向上以外に、農耕(雷神・雨)、正直・至誠、冤罪を晴らす、文学・和歌、芸能、厄除けなどもございます。





・・・という感じだ。


政権争いに巻き込まれ、無実の罪で遠方に追いやられた道真公。その恨み、怒りの凄まじさは鬼神となって祟るようになる。鬼神にならざるをえなかったその心中は、さぞ無念であっただろう。誰もが好き好んで鬼になるのではない。望まない酷い仕打ち、被害を被ることで鬼になってしまうこともあるのだ。


道真公は怨霊神という呼ばれ方もする。当初、怨霊と鬼は違うのかな?と思っていたが、鬼の意味を調べればどちらも殆ど同じに思える。明確な区別があるのかもしれないが、現状では分からない。


今回改めて調べてみて新たな発見もあった。例えば鬼神となった道真公には16万8千もの眷属(けんぞく:部下みたいなもの)がいたというものや、天神縁起の挿絵の中に、清涼殿に雷を落とす黒雲に乗った赤い鬼神があるが、この赤鬼に名前があったことなどだ。

北野天神 図録  鬼神の図


鬼となった道真公(あるいはその眷属の名前かも)は「火雷火気毒王(からいかきどくおう)」と云う。これは知らなかった。


16万8千もの眷属がいるとか、強烈な印象を与える凄い鬼の名前など、後の人が脚色したものも多いであろうが、それは裏返せばそれだけ凄まじい力を持っている、貴方様には敵いませんという畏敬の念と、荒ぶる神の凄さを称えている表現だと思う。


また、文字や絵で残すことで、後のお参りする人達へ、道真公のことを忘れないようにしたかったという思惑もあるだろう。事実、それだけの災厄を齎し、人々を震え上がらせたのだから・・・。



次回はもう少し天神様のことについて考えてみたいと思います。




参考文献 太陽スペシャル 「天神伝説」 平凡社
参考資料 北野天満宮 HP http://kitanotenmangu.or.jp/about_michizane.php


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2020-03-15

◆鬼のお話   第2回  日本の鬼

中国の鬼が「何らかの理由で還ってきた魂」とすると、日本の鬼の場合は少々違う。


これは大陸から渡ってきた仏教や、道教由来の陰陽道、そして日本人の昔からの考え方が複雑に混じったことが影響している。


平安時代の辞書「和名類聚鈔鈔(わみょうるいじゅしょう)」に、鬼とは「於爾(おに)」であり、「隠(おん)」のなまったもので、隠れて姿を現さないもであると説明されている。


中国での鬼という言葉と「於爾」という日本の言葉(意味)が結びついて、所謂日本の「鬼」という言葉が出来たという。


この姿は見えぬ、隠れている霊的な存在が鬼とされ、それは様々な災厄を齎すと考えられてきた。大きな自然災害や流行り病などだ。今も昔も、この二つは人間の命をある日突然奪ってしまう。


科学や医学の未発達な時代は、より鬼の存在を恐れていた。


そういう人間に災いを齎すという面がある一方、現在でも青森県では鬼は恐怖の対象ではなく、鳥居に鬼面があったりして地域に溶け込んでいる例もある。


鬼という字は「モノ」とも読まれていた。これは「物の怪」のモノだと云う。そう言えば聖徳太子や蘇我氏と戦争をした物部氏も、死者を生き返らすという物部神道なるものがあるので、物部氏の物も、「鬼」のことなのかも。
 
 
そう考えると、鬼とは単に災厄を齎す怖い存在という意味だけではなく、「神」と同じように思えてきた。鬼神という言葉もあるので、人間から見れば得たいが知れないという意味では、神も鬼も良く似た存在と言える。表裏一体と言えば良いか。


日本語の「神」とはキリスト教で言うGODではない。天地を創造した唯一つの神ではなく、人ではない、目には見えぬが人知を超えた恐るべき力を持った存在というようなことが、日本の「神」という文字には含まれていると思う。無数に存在するのだ。また、ある神職の方の書いた本には、「○○君、○○さん、○○ちゃん」という敬称の最上級のものが「神」だとあった。畏れ多い存在なのである。


鬼にはどうしても怖いイメージが付きまとうが、日本人の身近に沢山ある、ありがたい神社の神様にも優しい部分と怖い部分がある。神道ではそれを和魂とか荒魂とか言う。荒魂というのは、簡単に言えば祟り神のことだ。


超有名で比較的人間に好意的と思われる神社の神様でも、参拝する者が不敬な態度を取ったり暴言を吐いたりすれば、神様も腹を立てることがある。そんな怒りを買ってしまった状態になると、参拝者に荒ぶる神として攻撃することもあるだろう。祀ってある神様の性質によっては、怒らせたことで致命的なことになってしまうこともある。


資料を読み込んだり、寺社参拝を通じて思った事は、鬼は元人間であったということだ。昔の人達は、度を超えた恨みや怒り、悲しみを抱えたまま死ぬと、その強い執着心や念が鬼となると考えていた。


日本の昔話には鬼に関する物語も多い。そんな本を読んでいると、災厄を齎す祟る鬼の話もあれば、「元々は立派な英雄だったのに、これは鬼にされてしまったのでは?」と思えるものもある。鬼は奥が深いのだ。


次回は鬼の昔話で気になったものを拾って行きたいと思います。


鬼の図録表紙-crop
参考文献 姿と伝承 鬼   福井県歴史博物館

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2020-03-13

◆鬼のお話   第1回  鬼とは

鬼のルーツを辿ると中国に行き着く。

調べてみると、「鬼」の意味は中国と日本では似ているようで少し違う。

中国で「鬼」とは、なんらかの理由や方法で還ってくる死者の魂というような意味だそう。日本でも人が亡くなると鬼籍に入るということから、鬼=死者の魂と解釈してもいいかもしれない。


鬼という字を分解すると「由」と「人」と「ム」になる。この中で由という字は鬼頭を示すと言われる。鬼頭とは死者の面のことだ。

日本の寺社でもお祀りで鬼の面を被るものがある。これは鬼を仮面に憑依させるという意味がある。お祭に限らず、能でも様々な面を被るが、役になりきるということ以外に、神霊の依り代が面ということも言えるだろう。


鬼の入った漢字で「魂」という字があるが、この魂の「云」の部分は雲のことで、天に上昇した鬼のことを示している。

魂と言う言葉も、古くは二文字で魂魄(こんぱく)と言った。これも諸説あるが、魄の意味は白骨であり魂が抜けた亡骸ということ。鬼が還ってきた魂であるなら、復活するには亡骸がいる。大昔の古墳や王墓のように、遺体をそのまま埋めるのは、埋葬した方からすればいつか復活して欲しいからという願望もあったのではと思う。


そう考えると、日本の戦国時代の武将を見るに、討たれた方の墓は、首塚とか胴塚とか遺体を分けて埋める例がある。これは討った方からすれば祟って出てきてほしくないので、復活の阻止という意味もあるのかもしれない。


魄には他にもこんな意味がある。恨みを抱いたり、あまりにも心配性の人が亡くなった場合、魂は天に昇っても死ぬ間際まで残っていた強い念は地上に残る。その残った強烈な念が魄であるというもの。


中国の場合と日本の場合は、漢字の意味も違ってくるので、どちらが正しいとは言い難い。日本の漢字は先に音の意味があり、漢字が伝わってから文字を当て嵌めたことも多いからだ。


鬼という文字は中国から入ったと思うので、先に中国の鬼について調べてみたが、これが日本の鬼となると少々勝手が違ってくる。次回は日本側の鬼について考えてみます。



鬼の本-crop


参考文献  新紀元社 「鬼」




2020-03-02

◆日本のしきたり・第5回 雛祭り

3月3日はお雛様、雛祭り。

雛祭りは上巳(じょうし)の節句、桃の花が咲く時期に女の子の成長を祝う儀式だ。

桃の節句とも言う。


雛人形を飾り、御祝をするのが一般的だが、起源を辿ると奈良時代~平安時代にはあったと云う儀式に辿り着く。


ひな流しと呼ばれるものだ。


土や紙で作られた形代と呼ばれる人形の一種を、生まれた赤子の枕元に置き厄除けとした。


そして一年の災いを春のひな流しで払う。川に流すのだ。


災厄、穢れを形代に移すという発想だ。


何年か前、滋賀県のMIHOミュージアムで土偶の展示会があった。土偶についてはそれほど知識が無かったので、これは面白いかもと観に行った。


興味深かったのは、発掘された人の形をした土偶はほぼ女性であったこと。そしてどうも壊してから埋めた形跡が多いという解説だった。病気についての恐れは、現代の人とは比べ物にならないほどのものがあったと思う。
 
 
特に出産や、子供が大人になることは大変に困難であった。奈良時代や平安時代も大変なら、縄文時代は尚更だったと思う。


縄文の人達は子孫の繁栄の為、安全に子供が生まれてくる為に、病気の原因たる何か厄神的な存在の障り、穢れを土偶に移し、それが再生しないよう破壊したのだと思った。


縄文の記憶がそのまま奈良時代や平安時代に受け継がれたとは言わないが、いつの時代も病は怖いもので、医学が発達した現代なら原因の特定も出来るが、大昔なら病の原因は神の怒り、厄神の障りと解釈したのだと思う。

厄を移す形代が、時代と共にに変化する。江戸期頃になると制作技術の発展により、様々な人形が作られるようになった。形代も雛人形に変わり、鑑賞を目的にするものに変化する。


現在では雛人形を飾るのは、だいたい立春から一週間位の中で準備するのが良い。雛祭り前日に慌てて出すのは「一夜飾り」と言ってあんまり縁起が良いことではないと言う。


また、雛祭りを過ぎても、雛飾りを出しっぱなしにするのは婚期が遅れると言うが、これもおそらく「流しびな」の風習の考え方が変化したものだろう。厄を移した形代をいつまでも流さずに置いておくと、その厄はまた当人に戻る、という解釈になる。つまり「厄が戻る」という言葉、考え方が婚期が遅れるになったのでは・・・。


最近の雛飾りは景気や住宅事情に比例してか、私が子供の時によく見た雛段飾りというのは、段々と簡略化して、御殿様と姫様だけになっているのが増えた。


雛段飾りは赤い毛氈を敷くが、赤色は不滅や魔除けという意味がある。古墳に埋葬された遺体にも朱が塗ってある例もある。これも魔除けという意味もあると思う。後は「火」の色、火の性質を加えるという意味もあるだろう。


お殿様とお姫様だけで飾るのを親王飾りという。殿様と姫様は天皇陛下と皇后さまでもある。


天皇陛下は祭祀王。国民の為に祈るのがお仕事だ。そう考えると内裏雛(天皇・皇后を形どって作られた人形)が雛人形として飾られるのも、ある意味納得である。以前こんな話を読んだ。


何かの本に載っていたが、現在の上皇陛下が、昔被災地に行かれた際、「災厄よ私を通ってくれ」というような意味の言葉で祈ったと・・・。


国民の為に自らがその災厄を引き受けると言う常人ではとても言えない凄い言葉だ。上皇陛下も天皇陛下も、日本にいてくれて良かったと思う。頭が下がる思いである。



雛祭りは大事な子供(女児)を災厄から守る、大切なお祭でした。


hinaline1.gif


参考文献  日本のしきたりが丸ごと分かる本  晋遊社
        本当は怖い日本のしきたり      彩図社
プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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