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2019-10-20

◆金勝寺と狛坂磨崖仏   「狛坂磨崖仏」について

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金勝寺の駐車場に車を止め、林道を暫く歩く。

狛坂寺古地図

目指すは、金勝寺の更に山奥にある狛坂寺(こまさかでら)。室町時代の古地図には諸堂確認出来るが、現在は廃寺になっている。ここに今回の目的でもある狛坂磨崖仏がある。


20分ほどすると登山口に到着した。


登山口付近には、馬頭観音堂がある。

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お参りを済ませて登山口から入山した。

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分かり難くて申し訳ないが、画像赤丸が馬頭観音堂のある登山口(P)、赤矢印が狛坂磨崖仏である。


それほど大きな山ではない。竜王山から金勝山(こんぜさん)にかけて歩いて行く。


金勝寺は「こんしょうじ」、金勝山は「こんぜさん」と読む。


金勝寺の名の由来は、


天長10年(833年)仁明天皇により、鎮護国家の僧侶を育成する官寺である「定額寺」に列せられ、その折の勅願の題字が、金光明最勝王経の金勝陀羅尼品の「金勝」であり、金勝山金勝寺と改称した。


とあった。また別資料によれば、お寺の開基の良弁僧正の別称が金鷲(こんしゅう)菩薩と呼ばれていたそうなので、「こんしゅう」という読み方にはこっちの意味も入っているのかも。


金勝山の名の由来は、昔、大陸から渡ってきた金勝族が、この付近に住みついたという話があるようだ。漢字が同じだが、元は違う漢字が充てられていたのか。鉄とか銅を作る技術を持っていたからこの字なのか。それは分からない。


この日の天気は晴れで、風も通って涼しく気持ちの良い御登拝だった。


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入山してしばらく進むと、竜王山の頂上に着く。頂上付近には龍神様が祀られていた。

この辺りの場所から名神高速が見えた。そういえば、名神を走っていると竜王ICがあった。ここのことかもなと思った。

前回の金勝寺の歴史を調べていて、途中再興に尽力した僧侶の名前が、竜王院清賢法院といったので、やはりこの辺りの山の信仰ありきのお寺なのかも。
 
 
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こちらが竜王山の頂上。龍神様の祠から徒歩1分以内。
 
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こんな感じの山道を歩いて行くと、反対側の山(別のハイキングコース)が見えた。

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積年の風雨によって浸食したのか、山の表面が崩れ落ちた姿は、大きな岩がゴロゴロしている山肌だった。

大木もそううだが、巨大な岩を見るとそこになにか力を感じることがある。もう畏れ多いという感覚だ。

こういう岩がゴロゴロしている山だからこそ、お寺が出来たり、仏像を彫ったのか。

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途中、小さな磨崖仏があった。茶沸観音と云う。何故こんな名前なのか調べても分からなかった。疲れた人をお茶でもてなしてくれたのかな? 
 
時代は不明だが、相当古いのかもしれない。この観音様、実は行きには気づかず、帰り道で気づきました。


山道といっても初心者でも歩きやすい道を1時間30分ほど歩いだろうか。目的地の狛坂摩崖仏は突然現れた。


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高さ6.3メートル、幅4.5メートルの大きな花崗岩に刻まれた」如来三尊像だ。


木々の間からいきなり現れたその姿は圧巻だった。


時代は諸説あるようだが、奈良時代という説に賛同する。


しばし呆然となったが、やはり気になるのは如来像の手の形だ。一体これはどうなってるの?というほど手の向きがひん曲がっている。

狛坂磨崖仏の手2


手元の資料では「転法輪印ではないか」とあった。この三尊像は阿弥陀三尊なのか、釈迦三尊なのか、あるいは弥勒如来なのか。識者の間でも諸説あるようである。


現在は廃寺になっている狛坂寺。弘仁7年(816)頃、金勝寺の奥の院として、金勝寺を建立した願安によって創建されたが、この摩崖仏はそれよりも前にすでに存在していたらしい。そしてこの彫刻は渡来人の手により彫られたのでは?と考えられているようだ。


確かに、異国的な雰囲気も感じられる。


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菩薩像の足先がそれぞれ真横に向いている。こういう表現は古代の朝鮮の石仏にも見られるという。

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古仏像としても大変素晴らしいものであるが、それよりも本当に尊い、有難いと思える仏様だった。時間が許すのであればずっとこの場で手を合わせていたいと思う仏像だった。
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山の中に先にこの石仏があったので、後に金勝寺や狛坂寺が出来たのか。よく観察すれば、苔のようなものが付着し、石の割れ目には草が生えている。自然に溶け込むような仏像だった。


古代人にとって、仏教が伝来する前には自然そのものが信仰の対象だった。山は異界であり、山そのものが神であった。金勝山のような巨石が乱立する山は、岩そのものも神になったり、祭壇的な意味があったのだろう。


そういえば、過去、山の中や山に近い古い寺社に訪れた時、境内の一角には岩座があるがある所があった。


例えば同じ滋賀県の日吉神社。比叡山の麓にある神社にも巨石が祭られていた。

山王社の巨岩

山王社の巨岩2

我が家には、今思えば不思議なご縁のおかげで、岡山県の最上稲荷神を祭っている。昔お礼のお参りに本山のある」岡山県に行ったが、こちらのお寺にも岩座があった。

最上稲荷の巨岩

最上稲荷のお寺、妙教寺は山に隣接しており、境内に残る最上稲荷出現の霊地とされているのが画像の岩座だ。八畳岩という。この場所でお寺の開祖となった報恩大師が、孝謙天皇の病気平癒の祈願の折、出現したのが最上稲荷(最上位教大菩薩)だという。


今、改めて画像を見ても、尋常ではない感じを受ける。子供の頃から慣れ浸しんだお稲荷さんなので、いつも家族のように感じていたが、初めて実際にお稲荷さんの故郷のこの場所に立った時は、とてつもない稲荷神を家で祭っているのだと思い知った。
 
 
因みにこの場所で嫁にプロポーズしたが、あの時は猛烈に「言ってしまえ、言え!」と後押しされた気がする。この後おみくじ引いたらほとんど引いた事がない大吉がでたので、お稲荷さんがご祝儀くれたと思いました。お稲荷さん、いつもありがとうございます。


話を戻すが、お寺や神社ある場所は、やはりその場所に建てねばならない何かがあるのだろう。日吉神社も最上稲荷も、あの岩座は元々神が降りる場所なのだ。だから信仰の場になり寺社が建立されたのだと思う。


狛坂摩崖仏が彫られた岩も、然るべくして彫られた岩なのだ。明治以前はこの場所にもお堂があったそうだ。


現在はその建物もなくなり、跡地だけがある。


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明治頃に無くなったとあったが、廃仏毀釈と関係があるのだろうか。ただ朽ちてしまったのか?調べてみたが良くわからなかった。


山に溶け込むような狛坂摩崖仏。今すぐということもないのだろうが、昔の写真を見ると大分違って見えた。

狛坂磨崖仏絵葉書

日本の気候もだんだんと厳しくなるので、こういった野ざらしの仏像は徐々に朽ちていくのだろう。お堂の跡地を眺めながらどこか寂しい気持ちがした。


狛坂摩崖仏は初心者でも優しい登山ルートにあります。ご興味のある方はぜひどうぞ。



参考文献  渡来仏の旅  久野健 著  日本経済新聞社
        近江観音の道   近江文化を育てる会 編
        
参考サイト  滋賀・びわ湖 観光情報  


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2019-10-10

◆金勝寺と狛坂摩崖仏   「金勝寺について」

滋賀県、栗東市の狛坂摩崖仏へお参りに行った。金勝山(こんぜやま)ハイキングコースの中にある摩崖仏である。

山の初心者なので、登山が趣味の友人に御同行を願いついてきてもらった。

ありがとうございます。

コースは金勝寺(こんしょうじ)の駐車場から林道を通り、馬頭観音堂がある登山口から入山するルートをとった。片道2時間弱の山道だ。

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今回のスタート地点の金勝寺駐車場にあった看板に、室町時代に画かれた境内の地図があった。

金勝寺古地図


上の画像が地図の上半分に当たる、金勝寺周辺の地図。


金勝寺の歴史は古く、聖武天皇の勅願により奈良の都の鬼門(丑寅:東北)を守る国家守護の祈願寺として、天平七年(733年)、良弁僧正が開基し、後に山の中に額安が山の中に伽藍を建立。八世紀の中頃までに、近江の二十五別院を総括する、金勝山大菩提寺として、法相宗興福寺の山岳仏教道場であった。


奈良時代には既に「鬼門」という発想があったのか。ということは陰陽道もその時代にあったのかもしれない。


聖武天皇は思うに、大変気の弱い方だったように思う。何よりも障りや祟りを恐れていたのではないか。歴代の天皇の中でも、最も寺院を建立した方だと思う。国分寺や国分尼寺、他寺院多数、そして巨大な大仏殿・・・。寺巡りをしていると本当に多い。その裏返しは恐れだったのではないのかと思う。
 
 
金勝寺は文治元年(1185年)11月15日、失火する。


時の住職、正心上人が再興し、大講堂、常行堂、法華堂、二月堂が建立された。平安後期には天台宗へ転宗。
 
 
その後、歴代の天皇、武家将軍から保護されるも、天文18年(1549年)大火により諸堂悉く焼失。


後奈良天皇は再建の論旨を下され、慶長14年(1599)、住職竜王院清賢法院は徳川家康に誓願したが、再建までには至らなかった。現在の本堂は400年前の仮堂である。


本尊は丈六仏の釈迦如来。

金勝寺 釈迦如来
※画像はお寺で購入した絵葉書より

重要文化財指定の大きなお釈迦様。12世紀の仏像です。

古いお寺だけあり、古仏が多く残っているが、金勝寺と言えばやはりこちらの仏像が一番印象に残ると思う。

軍荼利明王像だ。

金勝寺 軍荼利明王
※こちらも同絵葉書より

10世紀(9世紀とも)の仏像で、こちらも重要文化財指定。


像高360.5センチ、桧の一材で彫られている。足元でお参り出来るが大きな尊像である。通常軍荼利明王は、手足に赤色の蛇を巻くが、こちらの像は修理の際に外されたらしい。かなり傷んでいたようだ。
 

軍荼利明王は五大明王(不動明王、金剛夜叉明王、愛染明王、降三世明王)の一角で、南方に配される。宝生如来が変化して現れた仏様である。
 
 
阿修羅、悪鬼などすべての外敵から人間を守護し、種々の生涯を取り省くという。恐ろしいほどの霊験をもたらすとされる歓喜天に対して特別な影響力があり、支配すると云う。


その姿は画像のように1つの顔に8本の腕のものもあれば、4つの顔で4本の腕、1つの顔に4本の腕のものもある。


改めて画像で拝見しても凄い仏像だが、間近で見た迫力は相当なもので、この仏様は強いと素直に思える。識者の間では当初から単独で祀られていたのでは?という見解のようだ。

 
個人的にはこのサイズで五大明王像があったという説の方が、ロマンがあって良いなと思うが。


山の中の寺なので、雰囲気は静かで大変落ち着く。境内の中には塔の跡や御香水館という井戸が残っている。


歴史的にも天皇家と所縁の深いお寺であるので、かつては毎年正月15日、九重御祝小豆粥の水として京都御所で献上してそうだが、明治3年(1870年)まででこの習慣は途絶えてしまった。
 

神仏分離令と共に無くなってしまったのだろう。 1200年の歴史の中で、災害や人の考え方で金勝寺は右往左往させられ、現在に至っている。今残っている仏像は奇跡的だと思う。
 

しかし古い寺院に行くと、廃仏毀釈や神仏分離令という言葉がいつも頭を巡る。人の都合で祀られたり、人の都合で捨てられる。当の神仏はどう見ているのかなと考えてしまった。

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金勝寺は電話予約は無くとも参拝できるので、山の雰囲気を楽しみながらお参りしたいという方には、特にお勧めしたいお寺です。


次回は狛坂磨崖仏についてのご紹介です。お読み頂きありがとうございました。



参考文献  金勝寺で頂いたしおり
        密教の本          学研



プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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