2019-05-07
◆温泉寺 後編
事前に頭に入っていた情報や、実際にお参りした際に得た情報を元に考えると、温泉寺の十一面観世音菩薩像は明らかに霊木像と言えるが、仏像自体に残っていた昔話からも、やはりこの仏像が、元々霊木であることが分かった。
しかもあの奈良県の長谷寺観音と同じ材だと云う。
奈良県の長谷寺に残る縁起は興味深い。
簡単に紹介すると、神亀4年(727年)、聖武天皇の勅命により、徳道上人が丘の上に祀ったという長谷寺の十一面観音像。
元々、この巨大な観音像を造る元になった大木は、近江の国高島より流出し、各地で祟りを起こしていた霊木だった。
現在、日本最大の木彫仏と言われるこの十一面観音像だ。

(画像は長谷寺のHPより)
私も3度ほどお参りに出かけたことがあるが、まさに巨木のような観音様だった。大木を見ると、その大きさにも驚くが人間などちっぽけな存在だと思わせる大きなエネルギーを感じることがある。木の中に神を見た理由も分かる。
奈良の長谷寺は今まで何度も火災があったようで、現在の観音像は室町時代に造像されたものだが、元々この霊木は相当大きかったらしく、長谷寺の観音像以外に別の十一面観音も造像したと云われている。
奈良県の長谷寺の観音像と同じ霊木で彫られたという逸話が残る仏像は、各地に残っている。鎌倉にある長谷寺や三重県多気町にある近長谷寺が有名だ。

(近長谷寺のHPより)
これらの仏像が本当に一本の霊木から彫ったかどうかは分からないが、それだけ祟る木で彫られた仏像が、強い力と御利益をもたらすということが実際にあったので、長谷寺の霊木観音は人気が出たのは間違いないと思う。
霊木仏とは神仏習合の思想から生まれた仏像だ。
中でも長谷寺の観音像は天照大神の本地とされていたこともあり、観音の中の観音として大変な人気があった。
その同木で彫られたという伝説が残る仏像が、温泉寺の十一面観音像だった。
温泉寺の観音像について調べている際に、より詳細な縁起が出てきたので、そちらから順を追って紹介する。(城崎温泉のHPから)
①天平の昔のお話。奈良県の長谷寺の観音像と同じ霊木で、2体の観音像が造られた。鎌倉の長谷寺観音と、後に温泉寺に祀られる十一面観音像である。
②小さな方の観音像(温泉寺の方)は、奈良県の長谷寺近くにある長楽寺に安置するため、稽文という仏師が一刀三礼にて彫刻していた。
③ところが完成を間近に稽文は中風の病にかかり、やむなく未完成のまま長楽寺にその観音像を祀ることに。
④時を同じくして、地蔵菩薩の化身といわれる道智上人により但馬の国に霊湯(後の城崎温泉)が湧出し、その効験あらたかさを聞いて、稽文は湯治のために当地を訪れる。温泉の効験により稽文の病はたちまちに回復する。
⑤稽文は、奈良の都に帰る前に近辺のあちらこちらを見て回ると、今の城崎温泉駅の少し上流の下谷浦というところに観音像が流れつくのを見つける。村人の助けを借りて救い上げてみると、なんと不思議なことに自身が彫刻し長楽寺に安置したはずの十一面観音像だった。(以来この下谷浦を観音浦と名付ける)
⑥実は未完のままの観音像を祀った長楽寺の近隣では、疫病が流行し、この観音さまのせいではと疑い、村人が川に観音像を流していたのだ。流された観音像は、下流のところどころで発見され、その都度観音像を救い上げてお祀りするが、その度に病や祟りがおこり再び川に流されて、ついには摂津の国 難波の津より海に投じられて、波を漂い流れてこの地まで流れ着いたのだった。
⑦稽文仏師はこの不思議を道智上人にお伝えし、草堂を建立して観音像を安置して道智上人に託し、奈良へ戻る。その後、観音のお告げあって道智上人は今の温泉寺の場所に伽藍を建立し、観音像をお祀りしたのが温泉寺のはじまりとなる。
⑧この温泉湧出の不思議と効験あらたかなることと、観音像の不思議の話が天聴にまで届き、天平10年(738)聖武天皇より末代山 温泉寺の勅号を賜り、爾来温泉寺は城崎温泉守護の寺となり、十一面観音さまは温泉寺の本尊であると同時に城崎温泉守護の観音さまとして広く知られ信仰を集めることに。
⑨この観音像は2メートルを超える大きな観音さまですが、大和、鎌倉の長谷寺の観音さまを含む三体のうちでは最も小柄なお姿であり、巨木の最も先の部分より造られた観音像であります。よってこの観音により守られるこの地を城崎(きのさき=木の先)と呼ぶ地名の謂れにもなったと伝えられる
こう言った昔話の類は全て信じることは「?」だが、あとで誰かが付け足したにしろ、この部分だけは強調したいという箇所は、やはり無視出来ない。真実に近い部分はあると思う。そう思って改めて温泉寺の観音に纏わる昔話を読むと、尋常ではない霊木仏であると分かる。気になる個所を青字にしてみた。

稽文という仏師が一刀三礼しながら彫ったにも関わらず、霊木の力により病気になること(②)や、稽文が不在の間、長楽寺で祀られた観音像だったが、その地域で疫病が流行り、疑われた観音像は川に捨てられ(⑥)、更に流れ着いた場所で祀られるも更に祟るというのは、如何にこの観音像の元の木材が、曰く付きの霊木であったかが良く分かる。(観音様が祟る訳ではない)
城崎温泉に辿り着くまで、各地で祀られるがことごとく祟っているようだ。ここまで強調するとお寺にとってマイナスイメージが残るのではと心配になるが、それは逆で、祟りが強い霊木ほど、それが仏様の力で供養され祀られると、比例するように御利益も強くなるのだ。
長谷寺観音の霊木とは計り知れない力をもった、荒ぶる神が宿っているのである。(⑨)にもあるように「城崎」の語源が「(霊木の)木の先」であるとい言うことからも、数ある霊木仏のなかでも、長谷寺の霊木は特別視されているようだ。
そしてやはり、この観音様は温泉ありきの観音様(④、⑤、⑧)であることも強調されている。現代人からすると、温泉というのは特に疑問もなく、あったかい、気持ちが良い、快適位の感覚しかないと思うが、当時としてはお湯が自然に際限なく湧き出るというのは驚くべことであったのだと思う。
生活に欠かせない水。しかもそれが暖かく、病にも効く。
古来から人々にとって火と水は特別なものであった。
日本各地に残る祭にも、火と水に関する祭(お水取りとか)はあるし、古事記を読むと、火と水の力を得たものは支配者になるという話もある。
そういう意味では、温泉とは火と水の象徴でもある。更に病に効くとなれば神聖視されたり、そこに霊威を感じたのだろう。「温泉」と「観音」と言うのも、ある意味神仏習合と言えるのではないだろうか。
温泉寺には宝物館があり、中には沢山の破損仏があった。

小さいながらも数が多く、かつてはもっと大きな寺院だったのかと偲ばせる。
これらの仏像が祀られていたお堂があったのだろう。
祀られることはなく、今は宝物館で展示されている仏像群だがどれにも何か力がまだ宿っているようにも感じる。
その一体一体に手を合わせながら、あの大きな十一面観音像を彫った残りの木で、これらの仏像も彫られたのか。あるいは今はもう無くなってしまったが別の大きな霊木像があり、それを彫った際の残りの木で彫ったのか・・・。
そんなことを考えながらお寺を後にしました。
温泉寺の秘仏十一面観音像は2020年のは4月まで御開帳しております。温泉街も楽しいので、ご興味のある方は出かけてみるのはどうでしょうか?
これをお読みの皆様に、良きご縁がありますように。
※参考文献 仏像の本 学研
しかもあの奈良県の長谷寺観音と同じ材だと云う。
奈良県の長谷寺に残る縁起は興味深い。
簡単に紹介すると、神亀4年(727年)、聖武天皇の勅命により、徳道上人が丘の上に祀ったという長谷寺の十一面観音像。
元々、この巨大な観音像を造る元になった大木は、近江の国高島より流出し、各地で祟りを起こしていた霊木だった。
現在、日本最大の木彫仏と言われるこの十一面観音像だ。

(画像は長谷寺のHPより)
私も3度ほどお参りに出かけたことがあるが、まさに巨木のような観音様だった。大木を見ると、その大きさにも驚くが人間などちっぽけな存在だと思わせる大きなエネルギーを感じることがある。木の中に神を見た理由も分かる。
奈良の長谷寺は今まで何度も火災があったようで、現在の観音像は室町時代に造像されたものだが、元々この霊木は相当大きかったらしく、長谷寺の観音像以外に別の十一面観音も造像したと云われている。
奈良県の長谷寺の観音像と同じ霊木で彫られたという逸話が残る仏像は、各地に残っている。鎌倉にある長谷寺や三重県多気町にある近長谷寺が有名だ。

(近長谷寺のHPより)
これらの仏像が本当に一本の霊木から彫ったかどうかは分からないが、それだけ祟る木で彫られた仏像が、強い力と御利益をもたらすということが実際にあったので、長谷寺の霊木観音は人気が出たのは間違いないと思う。
霊木仏とは神仏習合の思想から生まれた仏像だ。
中でも長谷寺の観音像は天照大神の本地とされていたこともあり、観音の中の観音として大変な人気があった。
その同木で彫られたという伝説が残る仏像が、温泉寺の十一面観音像だった。
温泉寺の観音像について調べている際に、より詳細な縁起が出てきたので、そちらから順を追って紹介する。(城崎温泉のHPから)
①天平の昔のお話。奈良県の長谷寺の観音像と同じ霊木で、2体の観音像が造られた。鎌倉の長谷寺観音と、後に温泉寺に祀られる十一面観音像である。
②小さな方の観音像(温泉寺の方)は、奈良県の長谷寺近くにある長楽寺に安置するため、稽文という仏師が一刀三礼にて彫刻していた。
③ところが完成を間近に稽文は中風の病にかかり、やむなく未完成のまま長楽寺にその観音像を祀ることに。
④時を同じくして、地蔵菩薩の化身といわれる道智上人により但馬の国に霊湯(後の城崎温泉)が湧出し、その効験あらたかさを聞いて、稽文は湯治のために当地を訪れる。温泉の効験により稽文の病はたちまちに回復する。
⑤稽文は、奈良の都に帰る前に近辺のあちらこちらを見て回ると、今の城崎温泉駅の少し上流の下谷浦というところに観音像が流れつくのを見つける。村人の助けを借りて救い上げてみると、なんと不思議なことに自身が彫刻し長楽寺に安置したはずの十一面観音像だった。(以来この下谷浦を観音浦と名付ける)
⑥実は未完のままの観音像を祀った長楽寺の近隣では、疫病が流行し、この観音さまのせいではと疑い、村人が川に観音像を流していたのだ。流された観音像は、下流のところどころで発見され、その都度観音像を救い上げてお祀りするが、その度に病や祟りがおこり再び川に流されて、ついには摂津の国 難波の津より海に投じられて、波を漂い流れてこの地まで流れ着いたのだった。
⑦稽文仏師はこの不思議を道智上人にお伝えし、草堂を建立して観音像を安置して道智上人に託し、奈良へ戻る。その後、観音のお告げあって道智上人は今の温泉寺の場所に伽藍を建立し、観音像をお祀りしたのが温泉寺のはじまりとなる。
⑧この温泉湧出の不思議と効験あらたかなることと、観音像の不思議の話が天聴にまで届き、天平10年(738)聖武天皇より末代山 温泉寺の勅号を賜り、爾来温泉寺は城崎温泉守護の寺となり、十一面観音さまは温泉寺の本尊であると同時に城崎温泉守護の観音さまとして広く知られ信仰を集めることに。
⑨この観音像は2メートルを超える大きな観音さまですが、大和、鎌倉の長谷寺の観音さまを含む三体のうちでは最も小柄なお姿であり、巨木の最も先の部分より造られた観音像であります。よってこの観音により守られるこの地を城崎(きのさき=木の先)と呼ぶ地名の謂れにもなったと伝えられる
こう言った昔話の類は全て信じることは「?」だが、あとで誰かが付け足したにしろ、この部分だけは強調したいという箇所は、やはり無視出来ない。真実に近い部分はあると思う。そう思って改めて温泉寺の観音に纏わる昔話を読むと、尋常ではない霊木仏であると分かる。気になる個所を青字にしてみた。

稽文という仏師が一刀三礼しながら彫ったにも関わらず、霊木の力により病気になること(②)や、稽文が不在の間、長楽寺で祀られた観音像だったが、その地域で疫病が流行り、疑われた観音像は川に捨てられ(⑥)、更に流れ着いた場所で祀られるも更に祟るというのは、如何にこの観音像の元の木材が、曰く付きの霊木であったかが良く分かる。(観音様が祟る訳ではない)
城崎温泉に辿り着くまで、各地で祀られるがことごとく祟っているようだ。ここまで強調するとお寺にとってマイナスイメージが残るのではと心配になるが、それは逆で、祟りが強い霊木ほど、それが仏様の力で供養され祀られると、比例するように御利益も強くなるのだ。
長谷寺観音の霊木とは計り知れない力をもった、荒ぶる神が宿っているのである。(⑨)にもあるように「城崎」の語源が「(霊木の)木の先」であるとい言うことからも、数ある霊木仏のなかでも、長谷寺の霊木は特別視されているようだ。
そしてやはり、この観音様は温泉ありきの観音様(④、⑤、⑧)であることも強調されている。現代人からすると、温泉というのは特に疑問もなく、あったかい、気持ちが良い、快適位の感覚しかないと思うが、当時としてはお湯が自然に際限なく湧き出るというのは驚くべことであったのだと思う。
生活に欠かせない水。しかもそれが暖かく、病にも効く。
古来から人々にとって火と水は特別なものであった。
日本各地に残る祭にも、火と水に関する祭(お水取りとか)はあるし、古事記を読むと、火と水の力を得たものは支配者になるという話もある。
そういう意味では、温泉とは火と水の象徴でもある。更に病に効くとなれば神聖視されたり、そこに霊威を感じたのだろう。「温泉」と「観音」と言うのも、ある意味神仏習合と言えるのではないだろうか。
温泉寺には宝物館があり、中には沢山の破損仏があった。

小さいながらも数が多く、かつてはもっと大きな寺院だったのかと偲ばせる。
これらの仏像が祀られていたお堂があったのだろう。
祀られることはなく、今は宝物館で展示されている仏像群だがどれにも何か力がまだ宿っているようにも感じる。
その一体一体に手を合わせながら、あの大きな十一面観音像を彫った残りの木で、これらの仏像も彫られたのか。あるいは今はもう無くなってしまったが別の大きな霊木像があり、それを彫った際の残りの木で彫ったのか・・・。
そんなことを考えながらお寺を後にしました。
温泉寺の秘仏十一面観音像は2020年のは4月まで御開帳しております。温泉街も楽しいので、ご興味のある方は出かけてみるのはどうでしょうか?
これをお読みの皆様に、良きご縁がありますように。
※参考文献 仏像の本 学研
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2019-05-07
◆温泉寺 中編
千手観音像への参拝を終え、お寺の方の案内で本堂へ進む。室町時代に再建された本堂は国の重要文化財に指定されている。

温泉寺の本尊、秘仏十一面観世音菩薩像は毎年の4月23・24日の二日間に御開帳となるが、この時は上半身しか拝むことが出来ない。
33年に一度の本開帳では、3年間の長きに亘り、厨子から引き出されて拝観出来るという変わった御開帳である。
本開帳の期間だけ、全身を目の当たりに出来るのだ。
薄暗い本堂の案内された場所は、観音像のすぐ隣だった。

(画像は温泉寺で購入した図録より)
像高213、5センチの大きな十一面観音だ。桧の一木造のどっしりとした尊像だった。お寺の方の話によれば天平時代の作とのことであった。
お顔が大きく、腕は太くて長い。そして全身に鑿(ノミ)の跡が見える。
井上正氏の著書によれば、全身のバランスを崩したり、誇張したり、歪めたり、あるいはわざと未完成のような鑿の跡を残して完成させる像は、霊木化現の古像に見受けられる特徴だという。
誇張したアンバランスさからは尋常ではない力を、鑿跡を残すのは、木がだんだんと変化し、やがて仏の姿になって現れる様子を表現しているという。
神道的な考え方だと神は木に宿るとする。神社には、ある意味「社」よりも重要な「御神木」があるし、神を数える単位は「柱」である。
柱という字を分解すると、「木」の「主」と書く。木の主とは誰かと言えば、神のことだ。その神が宿る霊木で彫られた仏像が霊木像である。(神像もある)その木で彫ること自体が重要なので、造像に向かない木で彫る場合も多い。
例えば、節だらけの木や半ば朽ちていたり、洞がある木でもお構いなしで造ることもある。
古いお寺で祀られる霊木像には、造像に至る昔話が残っていることがあるが、その場合パターンがある。
まず、祟りまくる霊木がある。御神木とは気づかずに傷つけたり、切り倒したりしてしまい、神の怒りを買いそれが祟りとなる。疫病や災害が起きたりして人が死にまくる。祟りと言う字は分解すると「出」と「示」となる。
文字通り、神を怒らせる行為を人がやってしまった場合、この世に「出」て、その力を「示」すのだ。そうなってくるともうどうしようも無くなるが、唯一の解決策は然るべき力をもった僧侶が供養し、仏を彫り祀ることでやがて祟りは収まり、今度は御利益に変わると云うものだ。
全国の霊木像には、調べるとこのような昔話が残っていることは多い。
個人的には平安以前の仏像は、そのほとんどが霊木像ではと思う。そういう木で彫られた仏像には強い力があるので、あえて求められて造られたのではないのか。
温泉寺の十一面観音像を間近でお参りし、その雰囲気にすっかり飲まれてしまった。前回のブログで紹介した千手観音も凄かったが、こちらはまた凄い仏像だった。同席した家族も、その霊威と言うか神秘性というか、何かしらの力を感じていたようだった。仏像に関心の薄い人でも、この距離まで近付けば何かを感じると思う。
帰宅後、ブログを書くにあたり調べ物をしていたら、こんな情報を見つけて驚いた。前回冒頭で紹介した寺の縁起にもあったが、この十一面観音像は、奈良県の長谷寺にある巨大な十一面観音像と同じ霊木で彫られているというものだったのだ。
長くなって来たので今回はここまで。
前後編の二回で終了予定でしたが出来ず、中編となりました。次回は後編です。
※参考文献 「続」古仏 井上正著 法蔵館

温泉寺の本尊、秘仏十一面観世音菩薩像は毎年の4月23・24日の二日間に御開帳となるが、この時は上半身しか拝むことが出来ない。
33年に一度の本開帳では、3年間の長きに亘り、厨子から引き出されて拝観出来るという変わった御開帳である。
本開帳の期間だけ、全身を目の当たりに出来るのだ。
薄暗い本堂の案内された場所は、観音像のすぐ隣だった。

(画像は温泉寺で購入した図録より)
像高213、5センチの大きな十一面観音だ。桧の一木造のどっしりとした尊像だった。お寺の方の話によれば天平時代の作とのことであった。
お顔が大きく、腕は太くて長い。そして全身に鑿(ノミ)の跡が見える。
井上正氏の著書によれば、全身のバランスを崩したり、誇張したり、歪めたり、あるいはわざと未完成のような鑿の跡を残して完成させる像は、霊木化現の古像に見受けられる特徴だという。
誇張したアンバランスさからは尋常ではない力を、鑿跡を残すのは、木がだんだんと変化し、やがて仏の姿になって現れる様子を表現しているという。
神道的な考え方だと神は木に宿るとする。神社には、ある意味「社」よりも重要な「御神木」があるし、神を数える単位は「柱」である。
柱という字を分解すると、「木」の「主」と書く。木の主とは誰かと言えば、神のことだ。その神が宿る霊木で彫られた仏像が霊木像である。(神像もある)その木で彫ること自体が重要なので、造像に向かない木で彫る場合も多い。
例えば、節だらけの木や半ば朽ちていたり、洞がある木でもお構いなしで造ることもある。
古いお寺で祀られる霊木像には、造像に至る昔話が残っていることがあるが、その場合パターンがある。
まず、祟りまくる霊木がある。御神木とは気づかずに傷つけたり、切り倒したりしてしまい、神の怒りを買いそれが祟りとなる。疫病や災害が起きたりして人が死にまくる。祟りと言う字は分解すると「出」と「示」となる。
文字通り、神を怒らせる行為を人がやってしまった場合、この世に「出」て、その力を「示」すのだ。そうなってくるともうどうしようも無くなるが、唯一の解決策は然るべき力をもった僧侶が供養し、仏を彫り祀ることでやがて祟りは収まり、今度は御利益に変わると云うものだ。
全国の霊木像には、調べるとこのような昔話が残っていることは多い。
個人的には平安以前の仏像は、そのほとんどが霊木像ではと思う。そういう木で彫られた仏像には強い力があるので、あえて求められて造られたのではないのか。
温泉寺の十一面観音像を間近でお参りし、その雰囲気にすっかり飲まれてしまった。前回のブログで紹介した千手観音も凄かったが、こちらはまた凄い仏像だった。同席した家族も、その霊威と言うか神秘性というか、何かしらの力を感じていたようだった。仏像に関心の薄い人でも、この距離まで近付けば何かを感じると思う。
帰宅後、ブログを書くにあたり調べ物をしていたら、こんな情報を見つけて驚いた。前回冒頭で紹介した寺の縁起にもあったが、この十一面観音像は、奈良県の長谷寺にある巨大な十一面観音像と同じ霊木で彫られているというものだったのだ。
長くなって来たので今回はここまで。
前後編の二回で終了予定でしたが出来ず、中編となりました。次回は後編です。
※参考文献 「続」古仏 井上正著 法蔵館
2019-05-05
◆温泉寺 前編
兵庫県、城崎温泉にある古刹、温泉寺へ参拝に出かけた。
高野山真言宗、別格本山のお寺だ。城崎温泉の歴史は古く1400年も遡る。温泉寺のHPには以下のような解説文があった
一羽のコウノトリが傷を癒していたのを発見したことが発端であり、その後、養老4年(720)に城崎温泉を開いた道智上人により天平10年(738)に開創された古刹である。
道智上人は衆生済度の大願を発して、諸国をめぐり、養老元年に城崎の地に来て、当所鎮守・四所明神の神託(夢告げ)により、一千日間ご修行をされその功徳あって温泉が湧出し(現在のまんだら湯)、城崎温泉が開かれる。
その後、大和(奈良)の長谷寺の観音さまと同木同作の由緒正しき観音像を得て寺を開創したと伝わる。
温泉街には複数の外湯があり、温泉を堪能した次の日に参拝となった。
山の麓からロープウェイで3分ほど行くと本堂に辿り着く。

向かって左側の建物より、拝観料を払って入堂。
最初に出迎えてくれたのは千手観音像であった。

ほぼ等身大の千手観音像だ。平安時代の重要文化財指定になっている仏像だ。伝弘法大師作である。(画像はお寺で購入した図録より抜粋)壇像だろうか。
千手観音像は、千本腕がある仏様だが、仏像になると手の数は省略される場合も多い。こちらの像は全て確認は出来ないが、かなりの数の手を表現していた。ホントに千本あるかも。
画像で見るより実物はもっと厳しいお顔をされていた。また正面に立つと強い力を感じる仏様だった。
仮にお寺のお坊さんから、仏像の写真を撮っても良いよと言われても、畏れ多くてとても撮れない雰囲気だった。
唇にうっすらと紅がさしてある。この時代の仏像は目と唇だけ着色してあることが多いように思う。目は力を感じる部分であるし、口は言葉(言霊)を発するから、この二つは意識して塗られたのではと思う。
ずっと手を合わせて観ていられる千手観音像だ。視線を全体から部分部分に移動していて「おやっ?」と思える個所があった。
六本ある太い腕の一番下の二本、通常千手観音像はこの下二本の腕の両手は重なっている例が殆どだが、この像の場合、手を重ねていなかった。
例えば下の画像。昔お参りに出かけた和歌山県の道成寺にある、国宝の千手観音像。

(画像は道成寺で購入した図録の表紙より抜粋)
正面に組まれた手に着目すると、一番下の両手は重なっている。

重ねた両手の上には壺だろうか?持物がある。
温泉寺の千手観音像に戻ってみよう。

両の手は重なるどころか、大きく空間が開けられている。さながら気を練っているようにも見える。
今まで多くの千手観音像をお参りしたが、このパターンは記憶にない。1000年以上前の古仏であるので、修理した時に取り付ける角度を間違えたのかと腕の継ぎ目を確認したが、寄木造ではないようだった。
後で図録で確認したが一木造りであった。一本の木から彫られた継ぎ目のない仏像なのだ。最初からこのように彫られているのである。
下の手の上に持物が見られるが、大きく傾いているので当初のものではなく、後世に持たされたものだろう。仏像の完成時には持ってなかったのではと思う。
観音様は大慈悲の仏様なので、人間はおろか動物や天部の神々も救おうと様々な姿をとるという。その中でも千手観音は千本の慈悲の手、千個の知恵の眼(手のひらに一つずつ眼がある)であらゆる機会を逃さず、衆生をもらさず救う。その広大無辺の救済力は、とどまることのない無限の霊験を顕すという。
お寺の解説文にはなかったが、この温泉寺の千手観音像も、本尊の十一面観音と同じく霊木像だと思う。木そのものに神が宿るのが霊木で、その強い霊力のある木でこれまた強い慈悲の力を持つ千手観音像を彫ったのだ。
他の千手観音像では見られない、あの気を練るような手の形は、それを観る者に空間、あるいはそこに珠(魂)を瞑想させるように考えて、あえて造像したように思う。神道的な要素も入っているのかもしれない。
真面目にお参りする一般人には強い御利益を、観音に祈念出来る密教僧にはより強い力をもたらすのでは?と思いました。
次回は本尊の十一面観音像像です。
後編へ続く・・・
※参考文献 仏尊の御利益功徳事典 大森儀成著 学研
高野山真言宗、別格本山のお寺だ。城崎温泉の歴史は古く1400年も遡る。温泉寺のHPには以下のような解説文があった
一羽のコウノトリが傷を癒していたのを発見したことが発端であり、その後、養老4年(720)に城崎温泉を開いた道智上人により天平10年(738)に開創された古刹である。
道智上人は衆生済度の大願を発して、諸国をめぐり、養老元年に城崎の地に来て、当所鎮守・四所明神の神託(夢告げ)により、一千日間ご修行をされその功徳あって温泉が湧出し(現在のまんだら湯)、城崎温泉が開かれる。
その後、大和(奈良)の長谷寺の観音さまと同木同作の由緒正しき観音像を得て寺を開創したと伝わる。
温泉街には複数の外湯があり、温泉を堪能した次の日に参拝となった。
山の麓からロープウェイで3分ほど行くと本堂に辿り着く。

向かって左側の建物より、拝観料を払って入堂。
最初に出迎えてくれたのは千手観音像であった。

ほぼ等身大の千手観音像だ。平安時代の重要文化財指定になっている仏像だ。伝弘法大師作である。(画像はお寺で購入した図録より抜粋)壇像だろうか。
千手観音像は、千本腕がある仏様だが、仏像になると手の数は省略される場合も多い。こちらの像は全て確認は出来ないが、かなりの数の手を表現していた。ホントに千本あるかも。
画像で見るより実物はもっと厳しいお顔をされていた。また正面に立つと強い力を感じる仏様だった。
仮にお寺のお坊さんから、仏像の写真を撮っても良いよと言われても、畏れ多くてとても撮れない雰囲気だった。
唇にうっすらと紅がさしてある。この時代の仏像は目と唇だけ着色してあることが多いように思う。目は力を感じる部分であるし、口は言葉(言霊)を発するから、この二つは意識して塗られたのではと思う。
ずっと手を合わせて観ていられる千手観音像だ。視線を全体から部分部分に移動していて「おやっ?」と思える個所があった。
六本ある太い腕の一番下の二本、通常千手観音像はこの下二本の腕の両手は重なっている例が殆どだが、この像の場合、手を重ねていなかった。
例えば下の画像。昔お参りに出かけた和歌山県の道成寺にある、国宝の千手観音像。

(画像は道成寺で購入した図録の表紙より抜粋)
正面に組まれた手に着目すると、一番下の両手は重なっている。

重ねた両手の上には壺だろうか?持物がある。
温泉寺の千手観音像に戻ってみよう。

両の手は重なるどころか、大きく空間が開けられている。さながら気を練っているようにも見える。
今まで多くの千手観音像をお参りしたが、このパターンは記憶にない。1000年以上前の古仏であるので、修理した時に取り付ける角度を間違えたのかと腕の継ぎ目を確認したが、寄木造ではないようだった。
後で図録で確認したが一木造りであった。一本の木から彫られた継ぎ目のない仏像なのだ。最初からこのように彫られているのである。
下の手の上に持物が見られるが、大きく傾いているので当初のものではなく、後世に持たされたものだろう。仏像の完成時には持ってなかったのではと思う。
観音様は大慈悲の仏様なので、人間はおろか動物や天部の神々も救おうと様々な姿をとるという。その中でも千手観音は千本の慈悲の手、千個の知恵の眼(手のひらに一つずつ眼がある)であらゆる機会を逃さず、衆生をもらさず救う。その広大無辺の救済力は、とどまることのない無限の霊験を顕すという。
お寺の解説文にはなかったが、この温泉寺の千手観音像も、本尊の十一面観音と同じく霊木像だと思う。木そのものに神が宿るのが霊木で、その強い霊力のある木でこれまた強い慈悲の力を持つ千手観音像を彫ったのだ。
他の千手観音像では見られない、あの気を練るような手の形は、それを観る者に空間、あるいはそこに珠(魂)を瞑想させるように考えて、あえて造像したように思う。神道的な要素も入っているのかもしれない。
真面目にお参りする一般人には強い御利益を、観音に祈念出来る密教僧にはより強い力をもたらすのでは?と思いました。
次回は本尊の十一面観音像像です。
後編へ続く・・・
※参考文献 仏尊の御利益功徳事典 大森儀成著 学研
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