2018-09-27
◆真禅院 前編

南宮大社の正面から見て右側の坂道を車でしばらく進むと、旧南宮大社神宮寺が見えてくる。

神宮寺というのは神社の中に建てられたお寺のこと。

昔は神と仏が同じくして祀られていた。このお寺はその時代の名残がある。
お寺だけど入り口に注連縄がある。

歴史を紹介してある看板。長いので搔い摘んで紹介すると・・・
①天平11年(739年)創建。開基は行基菩薩。自らが阿弥陀如来を彫刻された。秘仏。
②天平12年11月に聖武天皇がこちらのお寺と、曳常泉を訪れている(続日本紀より)。曳常泉とは現在の垂井の泉のこと。
③延歴の年(782-806)、伝教大師(最澄:日本の天台宗の祖)により南宮神社とこのお寺が習合され「神宮寺」となる。
④天慶2年(939)、平将門公調伏祈願、四天王の秘法を修し、結願の時に討ち取ったという報が。寺社領を下賜される。
⑤康平2年(1059)正月、安倍貞任追討の御祈願があり、その霊験により法性大菩薩の勅額と寺領を下賜される。
⑥文亀元年(1501)、火災により諸堂が灰塵と化す。10年後、土岐政房により諸堂復旧。
⑦秀吉により供田として160石、寺社堪忍として200石の朱印を下されるが、後に関ケ原の戦いで焼失。
⑧寛永19年(1642年)、三代将軍家光により再興。当時の地図を見るに沢山お堂があるのでほぼ元通りか。
⑨明治政府の神仏習合廃止により、22堂塔坊舎を統廃合。神宮寺から朝倉山「真禅院」へ寺名が変わり現在に至る。
1300年近い歴史の中で、大規模な火災が二度、明治の廃仏毀釈により縮小、統合、移転という大変な歴史を歩んだお寺だと分かる。南宮大社の方の記録にも平将門公調伏というものがあったが、てっきり金山彦大神で御祈祷をしたのかと思ったが、こっちの記録では仏教の四天王で行ったとあった。どっちかが正しいのか、あるいは両方正しいのか。

江戸時代の南宮大社の境内の図を見ると、金山彦大神を祀る建物(赤色矢印)の直ぐ隣に、本尊の阿弥陀如来を祀るお堂(本地堂:赤丸)があるのが分かる。
これが明治になると、地図で言えば□で囲ってある薬師堂と十一面観音堂などと統廃合されたようだ。現在の真禅院の場所がこの辺りなのか、あるいはもっと奥の方なのかは昔の地図では分からない。

現在地には阿弥陀如来を祀る本地堂や、古地図にある薬師堂、観音堂もあった。

こちらが薬師堂。江戸期に再興された状態で今なお残っている。

元々は奈良時代のお寺。古そうな鐘もある。


看板を読むに、奈良時代の鐘のようだ。重要文化財指定になっている。全国的にもこんな古い鐘はそうそう残っていないだろう。寺院の鐘は太平洋戦争中に没収されたことが多いので、古い鐘、しかも奈良時代の鐘が残っていると言うのはもう奇跡的と言える。

三重の塔も立派だ。こちらも重要文化財になっている。こんなでかい建物も明治期に移築したのか。
色々調べてみたら、「神宮寺」という名前は明治政府により使うことを禁じられたようだ。お寺の統廃合、移転に尽力した僧侶、秀覚法印の自坊名が真禅院だったので、この名前に統一したらしい。
村の人達の奉仕よって現在の寺の姿になったようだ。政府の命令で壊される可能性もあったと思うが、当時のお坊さんや村人達の努力のお陰で残ったのだ。そう考えると先人たちの想いの凄さを感じる。
次回は境内にある重要文化財の建物の一つ、本地堂について考えてみます。
スポンサーサイト
2018-09-26
◆南宮大社
先月の話ですが、岐阜県にある南宮大社へ参拝に出かけた。
名前は聞いたことがあったが一度も行ったことがなく、夏の休みに何となく思い立ちお参りに。

道中、神社の手前で巨大な鳥居が現れたので驚く。こんな大きな神社だったとは。


鳥居を潜ってしばらく行くと大きな建物が見えた。
立派な楼門だ。

正面の石橋は柵が施してある。本殿の正面を真正面からとらえているので、これは神様が通る石橋。人が通ってはいけない。
神社でこういう石橋はよく見かけるが、お寺でもたまにあることがある。弁才天を祀る寺で見たか。
現在の建物は寛永19年(1642年)、春日の局の願いにより 三代将軍徳川家光公が再建したもの。1600年におきた関ケ原の戦いで全焼したらしい。どうもこの辺りに陣地を構えていた大名がいたようだ。

御祭神は「金山彦大神」。鉄の神様だ。知り合いに金属関係の会社の社長さんがいるが、そこの会社の敷地内に立派な御社があった。どんな神さまかと聞いたらこちらの神社だった。思えばその時に初めて知ったのが南宮大社だった。
当店のお客様にも金属関係の会社をしている方がいらっしゃるが、やはりそこの会社の事務所の神棚にも、こちらの神様のお札があるらしい。全国的に見ても、製鉄関係のお仕事をしている人達の信仰が多いようだ。寺社参りをしていると神様や仏さまにも得意分野があると分かる。やたらめったら御利益目的で回るよりも、自分の職種にあった神仏を信仰すると言うのもアリだろう。

こちらが拝殿。どの建物も立派だ。主だったどの建物も重要文化財に指定されている。素晴らしい。

こちらが本殿。一部修理中だったようで、全容は分からなかった。誰かが常駐し、建物や境内が手入れ掃除され、また参拝客も多い神社は気持ちが良い。神様の力も強いし機嫌も良いからだと思う。社伝にはこうあった
~御祭神金山彦命は、神話に古く、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおかみ)の兄神に当らせられる大神様であります。
社伝によれば、神武天皇東征の砌、金鵄(きんし:トビ)を輔(たす)けて大いに霊験を顕わされた故を以って、当郡府中に祀られたらせられ、 後に人皇十代崇神天皇の御代に、美濃仲山麓の現在地に奉還され、古くは仲山金山彦神社として申し上げたが、国府から南方に位する 故に南宮大社と云われる様になったと伝えます~
とある。十代崇神天皇の頃と言うのは諸説あるが3~4世紀頃らしい。続けて社伝に戻ると・・・
~御神位は古く既に貞観15年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美濃国39座の内、当社のみ名神大社として 名神祭にも預る大社に列せられています。
天慶3年(940)、平将門の乱の誅伏の勅願や、康平年中(1058~65)安部貞任(さだとう)追討の神験によって、 正一位勲一等の神位勲等を極められ、以来、鎌倉、室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の有力な武将の崇敬をうけ、 美濃国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります ~
平将門公を誅伏したという話はここ以外でも聞いたことがある。確か奈良県の秋篠寺の太元帥明王(たいげんすいみょうおう)にもそんな逸話があったと記憶している。太元帥明王は明王の総帥とも呼ばれ、御利益と言うか得意分野は相手を調伏すること。昔、一度秋篠寺へお参りに行ったが、太元帥明王のそのお姿の凄さには恐れ入った覚えがある。
金山彦大神も、平将門公を倒すために祈りを捧げられたということは、相当に強い、厳しい神様なのだろう。実際、武将たちの信心も厚かったようだ。

参拝を終え、楼門の裏側を一枚写真を頂いてから神社を後にした。この後、神社から少し行った所のお寺へ行った。元々、明治以前の南宮大社は、仏と神を一緒に祀っていた場所だった。境内に神宮寺があったのだ。次回は旧神宮寺のお話です。
名前は聞いたことがあったが一度も行ったことがなく、夏の休みに何となく思い立ちお参りに。

道中、神社の手前で巨大な鳥居が現れたので驚く。こんな大きな神社だったとは。


鳥居を潜ってしばらく行くと大きな建物が見えた。
立派な楼門だ。

正面の石橋は柵が施してある。本殿の正面を真正面からとらえているので、これは神様が通る石橋。人が通ってはいけない。
神社でこういう石橋はよく見かけるが、お寺でもたまにあることがある。弁才天を祀る寺で見たか。
現在の建物は寛永19年(1642年)、春日の局の願いにより 三代将軍徳川家光公が再建したもの。1600年におきた関ケ原の戦いで全焼したらしい。どうもこの辺りに陣地を構えていた大名がいたようだ。

御祭神は「金山彦大神」。鉄の神様だ。知り合いに金属関係の会社の社長さんがいるが、そこの会社の敷地内に立派な御社があった。どんな神さまかと聞いたらこちらの神社だった。思えばその時に初めて知ったのが南宮大社だった。
当店のお客様にも金属関係の会社をしている方がいらっしゃるが、やはりそこの会社の事務所の神棚にも、こちらの神様のお札があるらしい。全国的に見ても、製鉄関係のお仕事をしている人達の信仰が多いようだ。寺社参りをしていると神様や仏さまにも得意分野があると分かる。やたらめったら御利益目的で回るよりも、自分の職種にあった神仏を信仰すると言うのもアリだろう。

こちらが拝殿。どの建物も立派だ。主だったどの建物も重要文化財に指定されている。素晴らしい。

こちらが本殿。一部修理中だったようで、全容は分からなかった。誰かが常駐し、建物や境内が手入れ掃除され、また参拝客も多い神社は気持ちが良い。神様の力も強いし機嫌も良いからだと思う。社伝にはこうあった
~御祭神金山彦命は、神話に古く、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおかみ)の兄神に当らせられる大神様であります。
社伝によれば、神武天皇東征の砌、金鵄(きんし:トビ)を輔(たす)けて大いに霊験を顕わされた故を以って、当郡府中に祀られたらせられ、 後に人皇十代崇神天皇の御代に、美濃仲山麓の現在地に奉還され、古くは仲山金山彦神社として申し上げたが、国府から南方に位する 故に南宮大社と云われる様になったと伝えます~
とある。十代崇神天皇の頃と言うのは諸説あるが3~4世紀頃らしい。続けて社伝に戻ると・・・
~御神位は古く既に貞観15年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美濃国39座の内、当社のみ名神大社として 名神祭にも預る大社に列せられています。
天慶3年(940)、平将門の乱の誅伏の勅願や、康平年中(1058~65)安部貞任(さだとう)追討の神験によって、 正一位勲一等の神位勲等を極められ、以来、鎌倉、室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の有力な武将の崇敬をうけ、 美濃国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります ~
平将門公を誅伏したという話はここ以外でも聞いたことがある。確か奈良県の秋篠寺の太元帥明王(たいげんすいみょうおう)にもそんな逸話があったと記憶している。太元帥明王は明王の総帥とも呼ばれ、御利益と言うか得意分野は相手を調伏すること。昔、一度秋篠寺へお参りに行ったが、太元帥明王のそのお姿の凄さには恐れ入った覚えがある。
金山彦大神も、平将門公を倒すために祈りを捧げられたということは、相当に強い、厳しい神様なのだろう。実際、武将たちの信心も厚かったようだ。

参拝を終え、楼門の裏側を一枚写真を頂いてから神社を後にした。この後、神社から少し行った所のお寺へ行った。元々、明治以前の南宮大社は、仏と神を一緒に祀っていた場所だった。境内に神宮寺があったのだ。次回は旧神宮寺のお話です。
Powered by FC2 Blog
Copyright © ◆ 『神仏御縁結』 紅葉屋呉服店の店主のブログ All Rights Reserved.