2018-06-12
◆桑實寺と安土城 後編
桑實寺の本殿を参拝後、境内を散策していたら何でもない山の斜面、岩がいくつか顔を覗かせている所が、お参り出来るようになっていた。どうもこの山自体が信仰の対象になっているようだった。
そう考えた時、山の麓に古墳があるのも納得だった。その古墳は瓢箪山古墳と言う。

(画像はネットより)
4世紀後半に造られたとされる県下最大かつ最古級の前方後円墳で、国の史跡に指定されている。1989年に雪野山古墳が発見されるまでは、滋賀県で最大の前方後円墳であったそうだ。
仏教が日本に伝来する前に多くつくられた前方後円墳。
そもそも何故古墳が作られたかというのは諸説あるようだが、梅原猛氏によれば「古代人が古墳を作った理由は山になろうとしたから」と言う。自然の山そのものが神であるので、その神である山になるのが古墳なのである。
山の麓に古墳があるという事は、その山自体が元々信仰の対象であったので、その山の神になる、あるいは同列になるという発想だったのだろう。
山を切り開いてまで寺院を作ったのは大変な労力であったと想像できるが、何故そうまでして桑實寺を建てたのかは、元々この山とその周辺が霊地だったからなのだ。
そんな古代からの霊地に、後からやって来て城を建てたのが織田信長である。
経営者やリーダー的な地位にいる人は、戦国期の三英傑(信長・秀吉・家康)の中では信長を好む人が多いらしいが、個人的には信長という人物は革新的な面もある一方、恐ろしさもある人物だと思う。
特に滋賀県の古い寺は、織田信長に燃やされ、後に再興したという歴史が残っていることが多い。滋賀県の寺参りをしていると「ここもか!えっ、ここも?」と火を放った寺の多さに驚く。
被害にあったお寺全てに確認したことがないので分からないが、当時の大きな寺院は僧兵がいたので燃やしたと聞いたことがあるが、それ以外にも気に入らない寺は燃やしていたのではと思う。
信長の後、天下人となった豊臣秀吉や徳川家康は、死後それぞれ神となった。秀吉は豊国大明神、家康は東照大権現だ。そんな二人と違い、織田信長は生きている間に自身は神であるという認識だったように思う。
桑實寺参拝の前に寄った安土城考古博物館には、1/1スケールの安土城が復元展示されていた。全部ではなく5階、6階部分だ。

これが最上階の6階部分。金と漆の黒が映える豪華なお城だ。

こちらが信長個人の部屋。

この赤い漆塗りの部屋が、5階部分。
この部屋には絢爛豪華な壁画があった。意外だったのが寺を攻撃していた信長らしくない、釈迦と諸菩薩の画があったこと。

それと古代中国の殷を打ち滅ぼした、周の王様が描かれていた。周の王様は伝説の名君とされている。
信長は釈迦や周の王様を尊敬していた訳ではなく、それよりも自分が上であると考えていたのだろう。だから自分の部屋を上の階に設けたのだ。
歴史上の城の中でも、特に豪華で珍しい造りの安土城。そんな安土城も築城して3年で焼失してしまう。
私はてっきり信長を討ち取った明智光秀がやったのかと思っていたが、調べてみたら諸説あるようで謎になっていた。
寺に火をつけまくっていた織田信長は、皮肉にも寺で炎に包まれて最後を迎える。
復元された安土城の壁画、古代からの霊地に古墳を見下ろすような場所に築城するということから考えても、自分が偉い、自分こそ神であるという信長の考え方が伺える。
しかし、そんな考え方は人だけではなく、神をも敵に回すことになってしまったのではと思いました。
おしまい
そう考えた時、山の麓に古墳があるのも納得だった。その古墳は瓢箪山古墳と言う。

(画像はネットより)
4世紀後半に造られたとされる県下最大かつ最古級の前方後円墳で、国の史跡に指定されている。1989年に雪野山古墳が発見されるまでは、滋賀県で最大の前方後円墳であったそうだ。
仏教が日本に伝来する前に多くつくられた前方後円墳。
そもそも何故古墳が作られたかというのは諸説あるようだが、梅原猛氏によれば「古代人が古墳を作った理由は山になろうとしたから」と言う。自然の山そのものが神であるので、その神である山になるのが古墳なのである。
山の麓に古墳があるという事は、その山自体が元々信仰の対象であったので、その山の神になる、あるいは同列になるという発想だったのだろう。
山を切り開いてまで寺院を作ったのは大変な労力であったと想像できるが、何故そうまでして桑實寺を建てたのかは、元々この山とその周辺が霊地だったからなのだ。
そんな古代からの霊地に、後からやって来て城を建てたのが織田信長である。
経営者やリーダー的な地位にいる人は、戦国期の三英傑(信長・秀吉・家康)の中では信長を好む人が多いらしいが、個人的には信長という人物は革新的な面もある一方、恐ろしさもある人物だと思う。
特に滋賀県の古い寺は、織田信長に燃やされ、後に再興したという歴史が残っていることが多い。滋賀県の寺参りをしていると「ここもか!えっ、ここも?」と火を放った寺の多さに驚く。
被害にあったお寺全てに確認したことがないので分からないが、当時の大きな寺院は僧兵がいたので燃やしたと聞いたことがあるが、それ以外にも気に入らない寺は燃やしていたのではと思う。
信長の後、天下人となった豊臣秀吉や徳川家康は、死後それぞれ神となった。秀吉は豊国大明神、家康は東照大権現だ。そんな二人と違い、織田信長は生きている間に自身は神であるという認識だったように思う。
桑實寺参拝の前に寄った安土城考古博物館には、1/1スケールの安土城が復元展示されていた。全部ではなく5階、6階部分だ。

これが最上階の6階部分。金と漆の黒が映える豪華なお城だ。

こちらが信長個人の部屋。

この赤い漆塗りの部屋が、5階部分。
この部屋には絢爛豪華な壁画があった。意外だったのが寺を攻撃していた信長らしくない、釈迦と諸菩薩の画があったこと。

それと古代中国の殷を打ち滅ぼした、周の王様が描かれていた。周の王様は伝説の名君とされている。
信長は釈迦や周の王様を尊敬していた訳ではなく、それよりも自分が上であると考えていたのだろう。だから自分の部屋を上の階に設けたのだ。
歴史上の城の中でも、特に豪華で珍しい造りの安土城。そんな安土城も築城して3年で焼失してしまう。
私はてっきり信長を討ち取った明智光秀がやったのかと思っていたが、調べてみたら諸説あるようで謎になっていた。
寺に火をつけまくっていた織田信長は、皮肉にも寺で炎に包まれて最後を迎える。
復元された安土城の壁画、古代からの霊地に古墳を見下ろすような場所に築城するということから考えても、自分が偉い、自分こそ神であるという信長の考え方が伺える。
しかし、そんな考え方は人だけではなく、神をも敵に回すことになってしまったのではと思いました。
おしまい
スポンサーサイト
2018-06-04
◆桑實寺と安土城 前編
休日を利用して滋賀県にある安土城考古博物館に出かけた。
こちらには近くに安土城の趾があり、博物館内にも安土城を一部復元した原寸大の建物がある。

「武将達は何故、神になるのか」
という展示会を観るのが目的だ。

内容は大変面白く判りやすいものであった。
観覧後、前から知ってはいたものの、中々行く機会に恵まれなかった、博物館裏手の山中にある「桑實寺(くわのみでら)」にお参りに行くことにした。

桑實寺へ向かうには車では行けない。山の麓から続く石の階段を登って行くしかない。
参道は長くて疲れると聞いていたが、想像よりも長い石段だった。

桑實寺は白鳳6年に創建された天台宗の古刹だ。

しかし本当に長い。
桑實寺は天智天皇の勅願寺院として創建された。縁起によればその昔、湖国に疫病が流行し、天皇の第四皇女、阿閇姫(あへいひめ)も病にかかった。
姫は病床で琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢を見た。この話を聞いた天皇が定恵和尚に法会を営せると湖中より生身の薬師如来が現れ大光明が差した。
この光明に当たった人々の病は治り、姫の病も治った。この薬師如来を本尊としたのが桑實寺で、定恵和尚により白鳳6年11月8日に開山した。

山門が見えたので着いたかな?と思ったが、ここが入り口で更に階段が続いていた。門の脇に置いてあった竹の杖を拝借。

真夏だったら水筒必須です。

桑實寺の寺名は、定恵和尚が中国より桑の木を持ち帰り、この地において日本で最初に養蚕技術を広められたことに由来する。私の職業にピッタリのお寺だ。

上の方にお堂が見えたが、こちらは地蔵堂だった。
更に階段は続く。

お地蔵さんをお参りしがてら小休止。そしてまた歩を進める。

参道を登っているのは私だけ。余計な物音は無く、ウグイスが鳴いていた。
天狗でもいそうな雰囲気だった。

ようやく本堂が見えた。立派な御堂だ。

こちらの本堂は南北朝時代の建物で、重要文化財に指定されている。山の一部を削った場所に建っているようだ。

滋賀県のお寺参りをしていると、織田信長が火をつけたという話が沢山残っているが、桑實寺は信長の居城、安土城があったすぐ近くのお寺なので、流石に火はつけなかったようだ。
長い階段を登り切って目に飛び込んできたお堂は、大変素晴らしく美しかった。
本尊の薬師如来は秘仏であったが、その他にも密教寺院らしく多くの仏像が残っていた。

こちらは頂いた案内に掲載されていた写真。
秘仏の薬師如来像だ。縁起によれば奈良時代の作と云われる。
御開帳は12年に1度。寅年に行われる。
寅年の春と秋に開帳するそう。具体的な日程はその年ごとに若干違うらしい。
帰り際、下山途中にある木の下を通りかかったら静かな風と共に、上から葉っぱがハラハラと結構な枚数が落ちてきた。光が反射して、何ともいえない美しさで見とれてしまいカメラを向けることも出来なかったのが悔やまれます。
自然と溶け込むような良いお寺です。ご興味のある方はぜひどうぞ。
※桑實寺はこちら
と終わる予定でしたが、今回はあまり興味は薄いですが、織田信長が築いたお城、安土城についても少し触れたいと思います。
こちらには近くに安土城の趾があり、博物館内にも安土城を一部復元した原寸大の建物がある。

「武将達は何故、神になるのか」
という展示会を観るのが目的だ。

内容は大変面白く判りやすいものであった。
観覧後、前から知ってはいたものの、中々行く機会に恵まれなかった、博物館裏手の山中にある「桑實寺(くわのみでら)」にお参りに行くことにした。

桑實寺へ向かうには車では行けない。山の麓から続く石の階段を登って行くしかない。
参道は長くて疲れると聞いていたが、想像よりも長い石段だった。

桑實寺は白鳳6年に創建された天台宗の古刹だ。

しかし本当に長い。
桑實寺は天智天皇の勅願寺院として創建された。縁起によればその昔、湖国に疫病が流行し、天皇の第四皇女、阿閇姫(あへいひめ)も病にかかった。
姫は病床で琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢を見た。この話を聞いた天皇が定恵和尚に法会を営せると湖中より生身の薬師如来が現れ大光明が差した。
この光明に当たった人々の病は治り、姫の病も治った。この薬師如来を本尊としたのが桑實寺で、定恵和尚により白鳳6年11月8日に開山した。

山門が見えたので着いたかな?と思ったが、ここが入り口で更に階段が続いていた。門の脇に置いてあった竹の杖を拝借。

真夏だったら水筒必須です。

桑實寺の寺名は、定恵和尚が中国より桑の木を持ち帰り、この地において日本で最初に養蚕技術を広められたことに由来する。私の職業にピッタリのお寺だ。

上の方にお堂が見えたが、こちらは地蔵堂だった。
更に階段は続く。

お地蔵さんをお参りしがてら小休止。そしてまた歩を進める。

参道を登っているのは私だけ。余計な物音は無く、ウグイスが鳴いていた。
天狗でもいそうな雰囲気だった。

ようやく本堂が見えた。立派な御堂だ。

こちらの本堂は南北朝時代の建物で、重要文化財に指定されている。山の一部を削った場所に建っているようだ。

滋賀県のお寺参りをしていると、織田信長が火をつけたという話が沢山残っているが、桑實寺は信長の居城、安土城があったすぐ近くのお寺なので、流石に火はつけなかったようだ。
長い階段を登り切って目に飛び込んできたお堂は、大変素晴らしく美しかった。
本尊の薬師如来は秘仏であったが、その他にも密教寺院らしく多くの仏像が残っていた。

こちらは頂いた案内に掲載されていた写真。
秘仏の薬師如来像だ。縁起によれば奈良時代の作と云われる。
御開帳は12年に1度。寅年に行われる。
寅年の春と秋に開帳するそう。具体的な日程はその年ごとに若干違うらしい。
帰り際、下山途中にある木の下を通りかかったら静かな風と共に、上から葉っぱがハラハラと結構な枚数が落ちてきた。光が反射して、何ともいえない美しさで見とれてしまいカメラを向けることも出来なかったのが悔やまれます。
自然と溶け込むような良いお寺です。ご興味のある方はぜひどうぞ。
※桑實寺はこちら
と終わる予定でしたが、今回はあまり興味は薄いですが、織田信長が築いたお城、安土城についても少し触れたいと思います。
Powered by FC2 Blog
Copyright © ◆ 『神仏御縁結』 紅葉屋呉服店の店主のブログ All Rights Reserved.