2018-02-12
◆犬神様を考える 最終回 ~庶民にとっての氏神とは~
神社の神様の御利益というのは神様の性質に沿ったものだ。しかし、神社によっては、
「本来のこの神様は、恋愛成就が得意分野だと思うけど、商売繁盛や交通安全とかあるなぁ。後付けじゃねぇか、これ?」
と思う事がある。
伊奴神社の御祀神の一柱、伊奴姫神の御利益は子孫繁栄とあったが、手持ちの資料には伊奴姫神と子孫繁栄の接点は分からなかった。

昔から犬が多産で仔犬の育ちもいいことから、犬にはお産、子育てに関する霊力があると考えられていた(過去ブログ参照)。
なので、伊奴神社の言う伊奴姫神の御利益については、むしろ昔話の方の犬の王から連想されたものではと思う。
今回のブログを纏めるに辺り、終わり掛けになってそう言えばこんな話もあったなと思い出したことがあった。
伊奴神社から南へ1キロほど行った所に、一体のお地蔵さんがある。街角のどこにでもある小さな石仏だ。

名前は細池地蔵。このお地蔵さんには、それを祀った経緯が残されていた。

大正の中頃に建立されたお地蔵様。元々この近辺には池や湿地が多く、疫病の流行や、水死などで子供が育たなかった。
それを憂いた古老が地蔵尊を祀った所、事故死や病死が無くなったと云う。
始めてこの看板を見つけた時は「へぇ・・・。」と思っただけだった。
この地域が伊奴神社の管轄内だったと知ったのは実は最近なのだが、そうなると無視出来ない情報となった。

子宝、子育てを御利益とする伊奴神社の管轄内で、子供が育たないという真逆のことが起きていたのだ。
このことから、私は二つのことを考えた。一つはやはり伊奴姫神の御利益は子育てとは関係がないこと。
もう一つは、犬とされた神のメッセージではないのか?と言うことだ。
犬ではなく、本来はこの地域の人々にとって祀られるべき氏神なのだと・・・。
人は死ぬと、魂となり山へ帰る。そして魂が何世代も集まると先祖神となり氏神となる。大昔の日本人が考えた神の考え方の一つだ。
神道の入門書的なものには、神道の神は元々は自然から発生したという記述があったが、私たちの身の回りにある神社には自然そのものが神になった神社は殆どない。
記紀神話に登場する神様が圧倒的に多いのだ。しかし、神社の見方が分かり、地域に遺る民話を調べていくと、忘れられた氏神、その地域の先祖神の面影が観えることがある。
自然という圧倒的だが、どこかふわっとした神よりも、もっと生々しい一時代を生き抜いた先祖神達の方が、日本の神社の結構な部分を占めるのではと思う。
様々な理由により、犬や羊など動物となってしまった神々、まだ祀られるだけでもましかもしれないが、中には「大蛇と犬の昔話」の大蛇のように完全に忘れられることもある。妖怪・鬼などの中にも零落した私たちの先祖神もいるかもしれない。
神社に興味をもって20年ほど経ったか。調べれば調べるほど神社は興味が尽きない。そして神社によっては私達の、その地域の遠い先祖達の姿を垣間観ることがある。
歴史は長い。そして勝った者が歴史を作る。勝った者がいれば負けた者もいる。
神社の中には負けた方の壮絶な痕跡を観ることもある。そういう歴史の積み重ねの上に今の自分が繋がっていると考えてしまう。心情的に負けた方に同情し、時には怒りを覚えることもある。しかし、勝った方のお陰で今の日本があるのもまた事実なのだ。
神社とは勝った神、負けた神、そのどちらにもただ感謝して、どうぞ安らかにとお参りすることなのだと思う。
※追記
まだまだ知らないことも多いですが、神社のことが一つずつ分かると、神への敬意と仏の有難さが身に沁みますね。お地蔵さんの慈悲の力は凄い・・・。最後になりますが本ブログの内容は個人的な意見です。
「本来のこの神様は、恋愛成就が得意分野だと思うけど、商売繁盛や交通安全とかあるなぁ。後付けじゃねぇか、これ?」
と思う事がある。
伊奴神社の御祀神の一柱、伊奴姫神の御利益は子孫繁栄とあったが、手持ちの資料には伊奴姫神と子孫繁栄の接点は分からなかった。

昔から犬が多産で仔犬の育ちもいいことから、犬にはお産、子育てに関する霊力があると考えられていた(過去ブログ参照)。
なので、伊奴神社の言う伊奴姫神の御利益については、むしろ昔話の方の犬の王から連想されたものではと思う。
今回のブログを纏めるに辺り、終わり掛けになってそう言えばこんな話もあったなと思い出したことがあった。
伊奴神社から南へ1キロほど行った所に、一体のお地蔵さんがある。街角のどこにでもある小さな石仏だ。

名前は細池地蔵。このお地蔵さんには、それを祀った経緯が残されていた。

大正の中頃に建立されたお地蔵様。元々この近辺には池や湿地が多く、疫病の流行や、水死などで子供が育たなかった。
それを憂いた古老が地蔵尊を祀った所、事故死や病死が無くなったと云う。
始めてこの看板を見つけた時は「へぇ・・・。」と思っただけだった。
この地域が伊奴神社の管轄内だったと知ったのは実は最近なのだが、そうなると無視出来ない情報となった。

子宝、子育てを御利益とする伊奴神社の管轄内で、子供が育たないという真逆のことが起きていたのだ。
このことから、私は二つのことを考えた。一つはやはり伊奴姫神の御利益は子育てとは関係がないこと。
もう一つは、犬とされた神のメッセージではないのか?と言うことだ。
犬ではなく、本来はこの地域の人々にとって祀られるべき氏神なのだと・・・。
人は死ぬと、魂となり山へ帰る。そして魂が何世代も集まると先祖神となり氏神となる。大昔の日本人が考えた神の考え方の一つだ。
神道の入門書的なものには、神道の神は元々は自然から発生したという記述があったが、私たちの身の回りにある神社には自然そのものが神になった神社は殆どない。
記紀神話に登場する神様が圧倒的に多いのだ。しかし、神社の見方が分かり、地域に遺る民話を調べていくと、忘れられた氏神、その地域の先祖神の面影が観えることがある。
自然という圧倒的だが、どこかふわっとした神よりも、もっと生々しい一時代を生き抜いた先祖神達の方が、日本の神社の結構な部分を占めるのではと思う。
様々な理由により、犬や羊など動物となってしまった神々、まだ祀られるだけでもましかもしれないが、中には「大蛇と犬の昔話」の大蛇のように完全に忘れられることもある。妖怪・鬼などの中にも零落した私たちの先祖神もいるかもしれない。
神社に興味をもって20年ほど経ったか。調べれば調べるほど神社は興味が尽きない。そして神社によっては私達の、その地域の遠い先祖達の姿を垣間観ることがある。
歴史は長い。そして勝った者が歴史を作る。勝った者がいれば負けた者もいる。
神社の中には負けた方の壮絶な痕跡を観ることもある。そういう歴史の積み重ねの上に今の自分が繋がっていると考えてしまう。心情的に負けた方に同情し、時には怒りを覚えることもある。しかし、勝った方のお陰で今の日本があるのもまた事実なのだ。
神社とは勝った神、負けた神、そのどちらにもただ感謝して、どうぞ安らかにとお参りすることなのだと思う。
※追記
まだまだ知らないことも多いですが、神社のことが一つずつ分かると、神への敬意と仏の有難さが身に沁みますね。お地蔵さんの慈悲の力は凄い・・・。最後になりますが本ブログの内容は個人的な意見です。
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2018-02-10
◆犬神様を考える 第12回 ~犬の王 その3~
過去回で犬頭糸の昔話を取り上げた。(こちらを参照)
この話では男女の夫婦が登場する。二人でいた状態から、夫が家を出てしまい、しばらくしてまた妻のもとへ帰り円満となる。
私はこの夫婦が人ではなく後で祀られた夫婦の神ではないかと考えた。
前回で、祟る神への対応方法とは、どのようなものがあるかを述べた。
①仏様の力を借りて供養する。
②別の強い神を持ってきて封じ込める。
③祟る神自体を祭り上げて神として祀る。
この三つの方法の内、犬頭糸の話での唯一の疑問、男女の存在とは上記の対応方法の②に当たる、即ち祟る神を別の夫婦の神で封じることがあるのでは?と考えたのだ。
個人的に神社を参拝していて②では?と思える神社があるが、この場合姫神が多いように思う。何故かは分からないがそうなのだ。そして姫神だけではなく夫婦神を祀ることで封じを行うこともあるように思えてきた。
犬頭糸の昔話において、二つの話が合わさっているのではと思った。犬と蚕と女性(嫁)の話で物語は完結しているのに、男(夫)が家を出てしまい、後で帰ってくるという件はこの話の本筋に必要がないように思う。
犬頭糸の昔話において、夫の出入りは何を意味するかを考えてみた。
この男女を犬とされた神を封じる(祟りを抑える)為に、後から祀った強い夫婦神だとする。しかし、一旦祀られたが、後に何らかの理由で、男神の方を移転したところ祟りが起きてまた戻したともとれる。
封じとは一種の呪(まじな)いだ。呪いは人には喋れない。喋ったら効力が無くなると信じられていた。
故に良く分からない昔話の中にだけ、そのヒントが残ることもあるのではないか。
前回では、伊奴姫神が祀られる前に謎の「犬の王」を祀っていて、やがて時が流れることで何者か分からなくなり、「イヌ」という言葉(発音)から記紀神話に出てくる伊奴姫神になったのではと考えた。
しかし、夫婦神で元の荒ぶる神を封じることがあるとした場合、伊奴姫神とその夫の大年神の二柱の夫婦神が祀られる必然があったと解釈も出来るのではないか。
併せて記紀神話の中に登場する神々の中で、あの強い荒ぶる神様、素戔嗚尊も祭っている。
あくまで個人的な意見で何も確証はないが、「犬の王」の昔話を読み解いていくと、伊奴神社は封じの神社では?と思えるのである。

この話では男女の夫婦が登場する。二人でいた状態から、夫が家を出てしまい、しばらくしてまた妻のもとへ帰り円満となる。
私はこの夫婦が人ではなく後で祀られた夫婦の神ではないかと考えた。
前回で、祟る神への対応方法とは、どのようなものがあるかを述べた。
①仏様の力を借りて供養する。
②別の強い神を持ってきて封じ込める。
③祟る神自体を祭り上げて神として祀る。
この三つの方法の内、犬頭糸の話での唯一の疑問、男女の存在とは上記の対応方法の②に当たる、即ち祟る神を別の夫婦の神で封じることがあるのでは?と考えたのだ。
個人的に神社を参拝していて②では?と思える神社があるが、この場合姫神が多いように思う。何故かは分からないがそうなのだ。そして姫神だけではなく夫婦神を祀ることで封じを行うこともあるように思えてきた。
犬頭糸の昔話において、二つの話が合わさっているのではと思った。犬と蚕と女性(嫁)の話で物語は完結しているのに、男(夫)が家を出てしまい、後で帰ってくるという件はこの話の本筋に必要がないように思う。
犬頭糸の昔話において、夫の出入りは何を意味するかを考えてみた。
この男女を犬とされた神を封じる(祟りを抑える)為に、後から祀った強い夫婦神だとする。しかし、一旦祀られたが、後に何らかの理由で、男神の方を移転したところ祟りが起きてまた戻したともとれる。
封じとは一種の呪(まじな)いだ。呪いは人には喋れない。喋ったら効力が無くなると信じられていた。
故に良く分からない昔話の中にだけ、そのヒントが残ることもあるのではないか。
前回では、伊奴姫神が祀られる前に謎の「犬の王」を祀っていて、やがて時が流れることで何者か分からなくなり、「イヌ」という言葉(発音)から記紀神話に出てくる伊奴姫神になったのではと考えた。
しかし、夫婦神で元の荒ぶる神を封じることがあるとした場合、伊奴姫神とその夫の大年神の二柱の夫婦神が祀られる必然があったと解釈も出来るのではないか。
併せて記紀神話の中に登場する神々の中で、あの強い荒ぶる神様、素戔嗚尊も祭っている。
あくまで個人的な意見で何も確証はないが、「犬の王」の昔話を読み解いていくと、伊奴神社は封じの神社では?と思えるのである。

2018-02-09
◆犬神様を考える 第11回 ~犬の王 その2~
犬の王の昔話から着目した点を挙げてみた。
まずは神社の社歴からも、昔話からも読み取れる「稲」について考えてみる。稲、米というのは当時の日本人にとって大変貴重な命の糧である。神様にも供えるものだし、米から出来る酒も神に供えるものだ。京都の伏見稲荷の昔話には、伏見稲荷を祀った古代豪族「秦(はた)氏」が増長、慢心したある日、鏡餅を的にして弓矢を射たところ、罰が当たって酷い目にあったというものがあった。
古代の豪族にとって大切だったものが鉄と稲なのである。敵と戦う強力な武器と、命を繋げる食料だからだ。
今日の「国」と言うのは北から南までを日本国と言うが、当時の国は今で言う県みたいな感じであった。それぞれの国に王がいたのである。社歴には天武天皇の時に稲を献上したとあるが、これ、自主的に献上したとは思えない。犬尾・犬頭神社の話でも述べたが、やはりある時期に軍隊と共に朝廷側の使者が来たのだろう。
そしてこの地域の豊富な稲作を見て、それが税金という話になったのではと思える。

岡崎市の犬頭神社よりももっと情報が少ないので不明な部分が多いが、この神社の当初の氏神こそ「犬の王」ではないのか。
侵略をうけ、降伏したのか戦って殺されたのかは分からない。
ただ、「犬の王」の昔話から察するに、犬の王とされた人物の塚のようなものがあり、ある時近隣の誰かが氏神様を怒らせることをした。結果、水害が起こり稲(犬の王とされた氏神を象徴するもの)に壊滅的な被害が度々起こる。
そこへ山伏(能力のある人物)が供養ではなく神を封じる何かを施す。
しかし、約束を破ったことでまた被害が多発。今度は神として祀るしかないということで神社を建てた・・・。
昔話を拾っていくと、祟る神を鎮める方法は3種類あるように思う。
①仏様の力を借りて供養する。
②別の強い神を持ってきて封じ込める。
③祟る神自体を祭り上げて神として祀る。
というものだ。
伊奴神社の地域に残る昔話は、上記で言うと③と②の可能性があると思う。
昔話が7世紀頃だとすると、この時の御祭神は伊奴姫神ではなかったかもしれない。蔑まれ名前も残すことが出来なかった、本来のこの地域の氏神、犬の王とされた人物を祀っていたのでは・・・。
時が流れ本来の氏神が忘れられた頃(平安期)、御祭神の「イヌ」という言葉から、記紀神話の神々の中から呼び名が同じ発音の「伊奴姫神」ではと解釈されたのではと思う。
私は先に犬の王ありきで後から伊奴姫神になったのではと結論を出したが、もう一つの結論として「こういう考え方もできるのでは?」と思えることが出てきた。
過去回で三河に残る「大蛇と犬」と「犬頭糸」の昔話を紹介したが、犬頭糸に出てくる「男女の存在」だけが分からなかった。
でも今回の考察を経て、この男女の存在が分かりかけてきたのだ。
次回はその辺りと、伊奴神社の御祭神、伊奴姫神がなぜ祀られたか?を別の角度で考えたいと思います。
まずは神社の社歴からも、昔話からも読み取れる「稲」について考えてみる。稲、米というのは当時の日本人にとって大変貴重な命の糧である。神様にも供えるものだし、米から出来る酒も神に供えるものだ。京都の伏見稲荷の昔話には、伏見稲荷を祀った古代豪族「秦(はた)氏」が増長、慢心したある日、鏡餅を的にして弓矢を射たところ、罰が当たって酷い目にあったというものがあった。
古代の豪族にとって大切だったものが鉄と稲なのである。敵と戦う強力な武器と、命を繋げる食料だからだ。
今日の「国」と言うのは北から南までを日本国と言うが、当時の国は今で言う県みたいな感じであった。それぞれの国に王がいたのである。社歴には天武天皇の時に稲を献上したとあるが、これ、自主的に献上したとは思えない。犬尾・犬頭神社の話でも述べたが、やはりある時期に軍隊と共に朝廷側の使者が来たのだろう。
そしてこの地域の豊富な稲作を見て、それが税金という話になったのではと思える。

岡崎市の犬頭神社よりももっと情報が少ないので不明な部分が多いが、この神社の当初の氏神こそ「犬の王」ではないのか。
侵略をうけ、降伏したのか戦って殺されたのかは分からない。
ただ、「犬の王」の昔話から察するに、犬の王とされた人物の塚のようなものがあり、ある時近隣の誰かが氏神様を怒らせることをした。結果、水害が起こり稲(犬の王とされた氏神を象徴するもの)に壊滅的な被害が度々起こる。
そこへ山伏(能力のある人物)が供養ではなく神を封じる何かを施す。
しかし、約束を破ったことでまた被害が多発。今度は神として祀るしかないということで神社を建てた・・・。
昔話を拾っていくと、祟る神を鎮める方法は3種類あるように思う。
①仏様の力を借りて供養する。
②別の強い神を持ってきて封じ込める。
③祟る神自体を祭り上げて神として祀る。
というものだ。
伊奴神社の地域に残る昔話は、上記で言うと③と②の可能性があると思う。
昔話が7世紀頃だとすると、この時の御祭神は伊奴姫神ではなかったかもしれない。蔑まれ名前も残すことが出来なかった、本来のこの地域の氏神、犬の王とされた人物を祀っていたのでは・・・。
時が流れ本来の氏神が忘れられた頃(平安期)、御祭神の「イヌ」という言葉から、記紀神話の神々の中から呼び名が同じ発音の「伊奴姫神」ではと解釈されたのではと思う。
私は先に犬の王ありきで後から伊奴姫神になったのではと結論を出したが、もう一つの結論として「こういう考え方もできるのでは?」と思えることが出てきた。
過去回で三河に残る「大蛇と犬」と「犬頭糸」の昔話を紹介したが、犬頭糸に出てくる「男女の存在」だけが分からなかった。
でも今回の考察を経て、この男女の存在が分かりかけてきたのだ。
次回はその辺りと、伊奴神社の御祭神、伊奴姫神がなぜ祀られたか?を別の角度で考えたいと思います。
2018-02-08
◆犬神様を考える 第10回 ~犬の王~
伊奴神社において、御祀神の一柱、伊奴姫神と犬は関係がない。それは間違いない。
しかし、伊奴神社とこの地域に残る不思議な民話、「犬の王」は何かしらの関係があると思う。

◎犬の王
昔々、今から1300年ほども前のこと。
現在の西区稲生(いのう)町の辺りは一面田んぼであったが、まだ庄内川の治水前のことで、堤防がなく川の方が田んぼより高かったので、毎年雨季には川が氾濫して稲が流され、百姓達の難儀は大変なものであった。
ある夜、この辺りへ一人の年取った山伏が訪れた。
山伏は宿を乞うた。ひどく疲れていた様子だったので、ある優しい百姓が山伏を家に招き、親切にもてなした。大変喜んだ山伏は、翌朝、発ち際に何度も礼を言い、
「もし何か困っていることがあったら遠慮なく言いなさい。望みを叶えてあげよう」
と言った。百姓は
「毎年この辺では川が氾濫し、その都度稲が被害を被るので何とかしてほしい、稲が実るようにしてほしい。」
と述べた。
すると山伏は懐から白い紙を出し、それに向かって何やらブツブツと口の中で呪文を唱えた。それから紙の真ん中に字のようなものを書き、幾重にも折り畳み封じ込むと(白い紙を)百姓に手渡した。
「これを板に挟んで川の岸に立てておきなさい。しかし、どんなことがあっても中を見てはいけませんよ。」
と言って、どこへやら立ち去った。百姓は山伏に言われた通りにしたところ、不思議にその年は水害が起きず、稲がよく実った。
皆は喜んだが、なんとも不思議で不思議でならない。
あまりに不思議なので、百姓は板から紙を外し、こっそり中を開いてみた。紙の中には立派な犬の絵が一匹描いてあり「犬の王」という文字もあった。
次の年、また川が氾濫した。しかもこれまでのどの年よりも酷い被害が出た。百姓たちは困り果て、どうやらこうやら暮らしていた。
その年の暮れのこと。
以前の山伏がどこからともなくやってきて、百姓たちに宿を乞うた。
「その後、大水の方はどうかな?稲の実り具合はどうじゃ?」
と穏やかに百姓に尋ねるのだった。百姓は山伏との約束を破って紙の中を見てしまったことを大いに恥ていたが、ありのままに答えた。すると山伏は、
「それは私の戒めを破ったから効き目が無くなったのだ。仕方がない、今度はあの紙を地面の下に埋めて、その上に社を建てて神として祀りなさい。そうすれば必ず大水は出なくなる。」
と言うことだった。
この秋の大水に心底懲りていた百姓は、言われた通りにした。すると翌年からすっかり大水は出なくなり、どんな豪雨であっても、川の水が増え向う側の堤が切れても、こちらの堤は切れるということが一度もなくなり、毎年豊作が続き百姓達は大いに喜んだと云う。
その時に祀ったのが、今の「伊奴神社」だそうである。

土地の者は、通称「稲生神社」と言っているが、その土地を稲生と言うのも、「犬の王」を祀ったからだと云う。言い伝えによればその山伏とは天狗であり、今も伊奴神社の境内に枯れ掛けて残った3~4メートルの杉の木と樹齢800年余の椎の木がある。
というのが「犬の王」の昔話だ。
冒頭の画像は境内にあった犬の王に関する昔話の看板だが、これの情報も含めて気になった点を挙げてみた。
①この神社は「稲」が一つのキーワードになる。
②「犬の王」と書かれた紙と、その上に建ったのが伊奴神社である(昔話より)。
③洪水を止めたのが犬の王ともとれる。
④稲生の名の由来が「犬の王」であるという話もある。
⑤山伏と天狗
⑥伊奴姫神の御利益が安産・子育てであること
私にはこの話も、今まで取り上げてきた犬頭・犬尾神社の話と同様のパターンのように思える。
次回は「犬の王」の気になった個所を中心に考察したいと思います。
しかし、伊奴神社とこの地域に残る不思議な民話、「犬の王」は何かしらの関係があると思う。

◎犬の王
昔々、今から1300年ほども前のこと。
現在の西区稲生(いのう)町の辺りは一面田んぼであったが、まだ庄内川の治水前のことで、堤防がなく川の方が田んぼより高かったので、毎年雨季には川が氾濫して稲が流され、百姓達の難儀は大変なものであった。
ある夜、この辺りへ一人の年取った山伏が訪れた。
山伏は宿を乞うた。ひどく疲れていた様子だったので、ある優しい百姓が山伏を家に招き、親切にもてなした。大変喜んだ山伏は、翌朝、発ち際に何度も礼を言い、
「もし何か困っていることがあったら遠慮なく言いなさい。望みを叶えてあげよう」
と言った。百姓は
「毎年この辺では川が氾濫し、その都度稲が被害を被るので何とかしてほしい、稲が実るようにしてほしい。」
と述べた。
すると山伏は懐から白い紙を出し、それに向かって何やらブツブツと口の中で呪文を唱えた。それから紙の真ん中に字のようなものを書き、幾重にも折り畳み封じ込むと(白い紙を)百姓に手渡した。
「これを板に挟んで川の岸に立てておきなさい。しかし、どんなことがあっても中を見てはいけませんよ。」
と言って、どこへやら立ち去った。百姓は山伏に言われた通りにしたところ、不思議にその年は水害が起きず、稲がよく実った。
皆は喜んだが、なんとも不思議で不思議でならない。
あまりに不思議なので、百姓は板から紙を外し、こっそり中を開いてみた。紙の中には立派な犬の絵が一匹描いてあり「犬の王」という文字もあった。
次の年、また川が氾濫した。しかもこれまでのどの年よりも酷い被害が出た。百姓たちは困り果て、どうやらこうやら暮らしていた。
その年の暮れのこと。
以前の山伏がどこからともなくやってきて、百姓たちに宿を乞うた。
「その後、大水の方はどうかな?稲の実り具合はどうじゃ?」
と穏やかに百姓に尋ねるのだった。百姓は山伏との約束を破って紙の中を見てしまったことを大いに恥ていたが、ありのままに答えた。すると山伏は、
「それは私の戒めを破ったから効き目が無くなったのだ。仕方がない、今度はあの紙を地面の下に埋めて、その上に社を建てて神として祀りなさい。そうすれば必ず大水は出なくなる。」
と言うことだった。
この秋の大水に心底懲りていた百姓は、言われた通りにした。すると翌年からすっかり大水は出なくなり、どんな豪雨であっても、川の水が増え向う側の堤が切れても、こちらの堤は切れるということが一度もなくなり、毎年豊作が続き百姓達は大いに喜んだと云う。
その時に祀ったのが、今の「伊奴神社」だそうである。

土地の者は、通称「稲生神社」と言っているが、その土地を稲生と言うのも、「犬の王」を祀ったからだと云う。言い伝えによればその山伏とは天狗であり、今も伊奴神社の境内に枯れ掛けて残った3~4メートルの杉の木と樹齢800年余の椎の木がある。
というのが「犬の王」の昔話だ。
冒頭の画像は境内にあった犬の王に関する昔話の看板だが、これの情報も含めて気になった点を挙げてみた。
①この神社は「稲」が一つのキーワードになる。
②「犬の王」と書かれた紙と、その上に建ったのが伊奴神社である(昔話より)。
③洪水を止めたのが犬の王ともとれる。
④稲生の名の由来が「犬の王」であるという話もある。
⑤山伏と天狗
⑥伊奴姫神の御利益が安産・子育てであること
私にはこの話も、今まで取り上げてきた犬頭・犬尾神社の話と同様のパターンのように思える。
次回は「犬の王」の気になった個所を中心に考察したいと思います。
2018-02-07
◆犬神様を考える 第9回 ~伊奴神社(名古屋市)について~
今回からは場所を変わって、名古屋市西区にある伊奴(いぬ)神社についてです。

まずは御祭神。境内の看板によれば、

「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」とその息子「大年神(おおとしのかみ)」、そして大年神の妻である「伊奴姫神(いぬひめのかみ)」の三柱の神々が主祀神として祀られている。境内には他にも御祀神について記された看板があった。

判りにくいが、こちらの看板には先ほどの三柱の神々の名がない。境内にある他の社の神々だろうか?
伊奴神社という名前は古く、平安時代の資料にはすでに「伊奴」の名前が確認出来ると云う。
このことから、平安時代には伊奴姫神が既に主祀神であった可能性は高いと思う。

社歴によれば、天武天皇の時(7世紀)、この辺りから稲を献上し、それに併せて神を祀ったのが創始とのこと。社名にもなっている伊奴姫神が当初の御祭神だろうか?
調べてみたが、伊奴姫神は古事記や日本書紀に登場する神様だが、この伊奴姫神を祀る神社は全国的に見ても極めて少ない。いや、ひょっとするとここだけかもしれない。
姫神を主祀神とする神社だと、浅間神社や白山神社が有名で、どちらも沢山存在する。なので姫神が主役級でも特に問題はないが、解せないのは超有名な素戔嗚尊やその息子の大年神がいるにもかかわらず、大年神の嫁が主になっていることだ。しかも全国でここだけ・・・。これは興味深い。
結論は後回しにするとして、この神社の社名が「いぬ」と呼ぶことからか、境内には犬の石像もあった。

この神社の氏子の方から聞いた情報では、この石像は10数年前に建てられたもので、神社とは何の関係もなくただ「いぬ」という名前にかけてあるだけだと言う。実際、この犬の像については無関係なんだろうなと思っている人も少なくない。他でもこんな意見は聞いたことがある。集客目的で建てられたとか・・・。
この犬の石像と宣伝のおかげで特に戌年の参拝者は増えたようだ。集客も大事なことなのでそれはそれでよいと思うが、私はこの犬の石像は神社とは関係があると思っている。
何故なら不思議な昔話が残っているからだ。次回は昭和50年に発行された名古屋の民話集からその話を紹介します。
タイトルは「犬の王」です。

まずは御祭神。境内の看板によれば、

「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」とその息子「大年神(おおとしのかみ)」、そして大年神の妻である「伊奴姫神(いぬひめのかみ)」の三柱の神々が主祀神として祀られている。境内には他にも御祀神について記された看板があった。

判りにくいが、こちらの看板には先ほどの三柱の神々の名がない。境内にある他の社の神々だろうか?
伊奴神社という名前は古く、平安時代の資料にはすでに「伊奴」の名前が確認出来ると云う。
このことから、平安時代には伊奴姫神が既に主祀神であった可能性は高いと思う。

社歴によれば、天武天皇の時(7世紀)、この辺りから稲を献上し、それに併せて神を祀ったのが創始とのこと。社名にもなっている伊奴姫神が当初の御祭神だろうか?
調べてみたが、伊奴姫神は古事記や日本書紀に登場する神様だが、この伊奴姫神を祀る神社は全国的に見ても極めて少ない。いや、ひょっとするとここだけかもしれない。
姫神を主祀神とする神社だと、浅間神社や白山神社が有名で、どちらも沢山存在する。なので姫神が主役級でも特に問題はないが、解せないのは超有名な素戔嗚尊やその息子の大年神がいるにもかかわらず、大年神の嫁が主になっていることだ。しかも全国でここだけ・・・。これは興味深い。
結論は後回しにするとして、この神社の社名が「いぬ」と呼ぶことからか、境内には犬の石像もあった。

この神社の氏子の方から聞いた情報では、この石像は10数年前に建てられたもので、神社とは何の関係もなくただ「いぬ」という名前にかけてあるだけだと言う。実際、この犬の像については無関係なんだろうなと思っている人も少なくない。他でもこんな意見は聞いたことがある。集客目的で建てられたとか・・・。
この犬の石像と宣伝のおかげで特に戌年の参拝者は増えたようだ。集客も大事なことなのでそれはそれでよいと思うが、私はこの犬の石像は神社とは関係があると思っている。
何故なら不思議な昔話が残っているからだ。次回は昭和50年に発行された名古屋の民話集からその話を紹介します。
タイトルは「犬の王」です。
2018-02-03
◆犬神様を考える 第8回 ~三河の犬神様 まとめ~
糟目犬頭神社・犬尾神社・犬頭神社(豊川市)の三つの神社に祀られる「犬頭大明神」についての纏め回です。
◎三河に残る犬神様の考察
7世紀頃に創建された犬の神社。祀られていた本来の神はもっと古い、古代のこの地域の豪族(以下A族)であった。
A族は鉄や銅の鋳造技術や絹糸の技術を持っていた。(絹糸の技術は後の時代か?)
ある日、大和朝廷からヤマトタケル率いる屈強な軍勢がやってくる。
降伏か?一戦交えるか?配下になることは搾取されることを意味する。
A族は戦いを避け、降伏の道を選んだ。(矢作神社の一族も降伏を選んだと思う)
しかし、中には降伏を良しとせず国を守るために戦うという選択をした豪族(以下B族)もいた。
ヤマトタケルの軍勢に加わったA族は先頭に立ち、B族と戦った。(AとBは同族で二つに割れたかも?)
やがてB族の王は討たれ、A族の王も死んだ(戦いの後、用が無くなり朝廷側に殺された?)。
A族の王は蔑まれ「我々に従った犬だ」とされたが、非業な死を遂げたので祟られるのを恐れ、遺体を複数に分けて埋められた。復活を恐れたのである。後に神社が出来るが、この時は塚のようなものだったのかもしれない。やがて犬頭大明神となった。
朝廷側に戦いを挑んだB族の王は「大蛇(あるいは犬頭糸の昔話に登場する、犬に食べられた蚕)」となり、その痕跡は完全に無くなった。犬頭大明神のように祀られることもない。
それから数百年の時が流れる。
天正年間、宇津左衛門五郎忠茂(以下殿様)が領主をしていた時代。
すでに神社となっていた犬頭神社であったが、何かしらのトラブルがあった。領民の不敬があったか、御神木を傷つけたか、神を怒らせる行為があり、地域に祟りが起こった。(祟りは実際にあると思うが、天災・疫病と結びつけたかも)
殿様は神の怒りだと思い、糟目犬頭神社、犬尾神社に新たな神を祀り封じ込めた。もしくはこの時に忘れられていた地元の古代神を犬頭大明神として復活させたかもしれない
祟りは治まり、そして現在に至る。
蛇と言うと、昔話では悪者とされることが多い。大蛇と言うことは強大な力を持っていたと連想した。
犬とされた王も、大蛇とされた王もどちらも国を守る為の苦渋の決断であったように思う。それぞれの国や領民を守ろうと思っただけだったのだ。
現在ではそんなことは全くないが、大昔は犬頭大明神を祀るものも犬とされた節がある。
犬頭明神を調べていて、とある書籍(日本の神々 多彩な民族神たち )で見つけたが、糟目犬頭神社で、願いを叶える為のお参り方法というのが紹介されていたが、それは衝撃的な内容であった。
その方法は、
「夜中に鳥居から社殿まで四つん這いで進み祈願する」
というものだった。こんなお参りの仕方は自主的に考えられたとは思えない。
「やらされた」と思うのが普通だ。
私には「大蛇と犬の昔話」も、「犬頭糸の昔話」も形は変わってしまったが、古代の戦の記録なのではと思えます。
次回は名古屋に話を移します。

南無観世音菩薩、南無観世音菩薩、南無観世音菩薩・・・
◎三河に残る犬神様の考察
7世紀頃に創建された犬の神社。祀られていた本来の神はもっと古い、古代のこの地域の豪族(以下A族)であった。
A族は鉄や銅の鋳造技術や絹糸の技術を持っていた。(絹糸の技術は後の時代か?)
ある日、大和朝廷からヤマトタケル率いる屈強な軍勢がやってくる。
降伏か?一戦交えるか?配下になることは搾取されることを意味する。
A族は戦いを避け、降伏の道を選んだ。(矢作神社の一族も降伏を選んだと思う)
しかし、中には降伏を良しとせず国を守るために戦うという選択をした豪族(以下B族)もいた。
ヤマトタケルの軍勢に加わったA族は先頭に立ち、B族と戦った。(AとBは同族で二つに割れたかも?)
やがてB族の王は討たれ、A族の王も死んだ(戦いの後、用が無くなり朝廷側に殺された?)。
A族の王は蔑まれ「我々に従った犬だ」とされたが、非業な死を遂げたので祟られるのを恐れ、遺体を複数に分けて埋められた。復活を恐れたのである。後に神社が出来るが、この時は塚のようなものだったのかもしれない。やがて犬頭大明神となった。
朝廷側に戦いを挑んだB族の王は「大蛇(あるいは犬頭糸の昔話に登場する、犬に食べられた蚕)」となり、その痕跡は完全に無くなった。犬頭大明神のように祀られることもない。
それから数百年の時が流れる。
天正年間、宇津左衛門五郎忠茂(以下殿様)が領主をしていた時代。
すでに神社となっていた犬頭神社であったが、何かしらのトラブルがあった。領民の不敬があったか、御神木を傷つけたか、神を怒らせる行為があり、地域に祟りが起こった。(祟りは実際にあると思うが、天災・疫病と結びつけたかも)
殿様は神の怒りだと思い、糟目犬頭神社、犬尾神社に新たな神を祀り封じ込めた。もしくはこの時に忘れられていた地元の古代神を犬頭大明神として復活させたかもしれない
祟りは治まり、そして現在に至る。
蛇と言うと、昔話では悪者とされることが多い。大蛇と言うことは強大な力を持っていたと連想した。
犬とされた王も、大蛇とされた王もどちらも国を守る為の苦渋の決断であったように思う。それぞれの国や領民を守ろうと思っただけだったのだ。
現在ではそんなことは全くないが、大昔は犬頭大明神を祀るものも犬とされた節がある。
犬頭明神を調べていて、とある書籍(日本の神々 多彩な民族神たち )で見つけたが、糟目犬頭神社で、願いを叶える為のお参り方法というのが紹介されていたが、それは衝撃的な内容であった。
その方法は、
「夜中に鳥居から社殿まで四つん這いで進み祈願する」
というものだった。こんなお参りの仕方は自主的に考えられたとは思えない。
「やらされた」と思うのが普通だ。
私には「大蛇と犬の昔話」も、「犬頭糸の昔話」も形は変わってしまったが、古代の戦の記録なのではと思えます。
次回は名古屋に話を移します。

南無観世音菩薩、南無観世音菩薩、南無観世音菩薩・・・
2018-02-02
◆犬神様を考える 第7回 ~攻めて来たもの~
今回は三河に遺る、社名に犬の字がついた神社のまとめ回の予定でしたが、大切なことを一つ忘れていた。
それは古代において、この地域に戦争があったと推測したが、一体誰が攻めて来たのだろうか?
愛知県の岡崎市、そして隣接する安城市や西尾市にある古い神社や、民話を拾っていくと共通するものが出て来るのに気付いた。
熱田神宮系の神々を祀る神社と、古代の英雄神「ヤマトタケル」に纏わる民話だ。(関連ブログはこちら)

例えば西尾市の西尾の由来は「ヤマトタケルが馬に乗り、東国遠征に向かった際、馬の尾が西に向いたので西尾と云う」と言った昔話があったり、熊味町(これも意味ありげな名前)には確か熱田系の神様を祀る神社があった。
また安城市にも榎前町にある熱田系の神を祀る神社には、ヤマトタケルがこの辺りに立ち寄った時、榎の前で腰かけて休息をとったので「榎前町」という名前になったと云うものもあった。
岡崎市にも、ヤマトタケルの伝説が残る神社が、確認しただけでも二つあった。その内の一つ、矢作(やはぎ)神社では、ヤマトタケルの軍隊が立ち寄り、地元の矢作部と云う一族が矢を沢山作って渡したというものもあった(なので矢作神社)。


また家康公所縁のお城、岡崎城の東北にある山、「甲山」には「ヤマトタケルが3人の賊を討ち、その首を山に埋めた」という生々しい昔話も残っている。
更に岡崎の山の方に行けば、熱田神社や大日尊神社(ヤマトタケルが御祀神)などがあった。この二つに関しては近隣の人でも知らないという人もいた。
このブログで紹介するかどうかは悩むところであるが、岡崎を抜けた豊橋市の方には、恐ろしい名前の神社が遺っている。
山の中のかなり古い神社だ。
昔、「これは古代の激戦に因んだ神社だ」と気づき、参拝に出かけたが山の斜面に設けられた参道の階段に、足を一歩掛けたら、風が吹いて山が唸ったので、「すいません!」と言って退散したことがあった。
今まで行った神社で最も恐ろしく、また参拝に行ったのに参拝せずに一目散に逃げ帰った唯一の神社だった。私はここもヤマトタケルに関係しているのではと思う。
話を戻すが、岡崎市や豊川市に遺る犬の名がつく神社がある理由、それは犬とされた豪族がいたのだと考えた。
そこへ全国制覇を目指す大和朝廷の軍隊、ヤマトタケルが率いる強力な軍隊が、ある日突然制圧にやって来たのだ。
予定にない1回分になりましたが、次回に犬に纏わる神社と民話について私なりに結論を出したいと思います。
※画像はすべて岡崎市の矢作神社
それは古代において、この地域に戦争があったと推測したが、一体誰が攻めて来たのだろうか?
愛知県の岡崎市、そして隣接する安城市や西尾市にある古い神社や、民話を拾っていくと共通するものが出て来るのに気付いた。
熱田神宮系の神々を祀る神社と、古代の英雄神「ヤマトタケル」に纏わる民話だ。(関連ブログはこちら)

例えば西尾市の西尾の由来は「ヤマトタケルが馬に乗り、東国遠征に向かった際、馬の尾が西に向いたので西尾と云う」と言った昔話があったり、熊味町(これも意味ありげな名前)には確か熱田系の神様を祀る神社があった。
また安城市にも榎前町にある熱田系の神を祀る神社には、ヤマトタケルがこの辺りに立ち寄った時、榎の前で腰かけて休息をとったので「榎前町」という名前になったと云うものもあった。
岡崎市にも、ヤマトタケルの伝説が残る神社が、確認しただけでも二つあった。その内の一つ、矢作(やはぎ)神社では、ヤマトタケルの軍隊が立ち寄り、地元の矢作部と云う一族が矢を沢山作って渡したというものもあった(なので矢作神社)。


また家康公所縁のお城、岡崎城の東北にある山、「甲山」には「ヤマトタケルが3人の賊を討ち、その首を山に埋めた」という生々しい昔話も残っている。
更に岡崎の山の方に行けば、熱田神社や大日尊神社(ヤマトタケルが御祀神)などがあった。この二つに関しては近隣の人でも知らないという人もいた。
このブログで紹介するかどうかは悩むところであるが、岡崎を抜けた豊橋市の方には、恐ろしい名前の神社が遺っている。
山の中のかなり古い神社だ。
昔、「これは古代の激戦に因んだ神社だ」と気づき、参拝に出かけたが山の斜面に設けられた参道の階段に、足を一歩掛けたら、風が吹いて山が唸ったので、「すいません!」と言って退散したことがあった。
今まで行った神社で最も恐ろしく、また参拝に行ったのに参拝せずに一目散に逃げ帰った唯一の神社だった。私はここもヤマトタケルに関係しているのではと思う。
話を戻すが、岡崎市や豊川市に遺る犬の名がつく神社がある理由、それは犬とされた豪族がいたのだと考えた。
そこへ全国制覇を目指す大和朝廷の軍隊、ヤマトタケルが率いる強力な軍隊が、ある日突然制圧にやって来たのだ。
予定にない1回分になりましたが、次回に犬に纏わる神社と民話について私なりに結論を出したいと思います。
※画像はすべて岡崎市の矢作神社
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