2015-08-04
◆濱名惣神明宮
静岡県のお寺巡りに出かけた際、たまたま見つけた神社が凄そうだったのでお参りに寄ってみた。

社名は「濱名惣社神明宮」という。

社歴によれば、その昔、この地方を統治していた濱名縣主(はまなのあがたぬし)なる豪族が先祖神を祀る為に建てたのが始まりのようだ。
「縣(あがた)」というのは古語辞典(旺文社)によれば、
地方豪族の所有地。大化の改新以前に開墾によって所有地となったもので、「吾(あ・私のこと)が田」の意
とあった。この神社の近くに浜名湖があるが、この浜名湖という湖名のルーツを辿ると、案外この濱名縣主に辿り着くかも知れない。この地域を治めていた偉大な豪族だったのだろう。
具体的に何年に創建とは分かっていないようだが、940年に御祀神が天照大神に替わっているという記録を見るに、相当古い神社であることが伺える。この地域を代表する古社であろう。

参道入り口からの景色であるが、なかなかに凄い神社だというのが伝わって来る。

夏祭りがあるのか、何か準備をしているようだった。しばらく歩くと鳥居に見立てた立派な楠の御神木が見えた。

御神木の前に看板があったので、立ち止まって読んで見たらおもしろいことが書いてあった。どうもこの御神木、近年になってから御神木に決まったらしい。神社庁ではこういう仕事もしているようだ。
「神社庁御神木審議会」なるものがあること、御神木とは昔から決まっているものばかりではないこと、どちらも初めて知った。

しかし、なんとも清々しい神社である。
画像の社はコンクリート製の拝殿であるが、神様がいらっしゃる本殿の祀られ方は珍しい形態だった。

山の斜面?を利用した階段の先に祀られていた。なんともいえない神々しい雰囲気がある。
また、この本殿も珍しいものであった。

国の重要文化財に指定されている建物だった。
しかし、この神社で最も印象にのこったことは「本来の御祭神が替わってしまった」ことであろう。
元々の濱名縣主の先祖神、太田命が本殿から追い出されてしまったのである。
現在、その太田命はどこにいってしまったのかと言うと、拝殿向って右側の小さな社に祀られていた。

後で気付いたが、この写真、社の屋根の辺りにボワツとしたオレンジ色のもやのような光が出ていた。
一種の霊的な写真かもしれない。
さて、この太田命(おおたのみこと)について調べてみた。
太田命は別の漢字では、意富多多泥古命/太田田根子命(おおたたねこのみこと)とも言う。
第10代崇神天皇(前148~前30年)の御代、疫病が大流行し多くの人達が亡くなった。
天皇は大いに愁いていたが、ある日、夢枕に大物主神(おおものぬしのかみ:三輪大社の御祭神)が現れ、
「我が児、太田田根子をして私を祀らせれば天下は平らぎなん」
と御神託があった。
そこで天皇は太田田根子を探しだし、大物主神を斎祀ったところ疫病は治まり天下泰平になったと云う。
太田田根子、即ち太田命は大物主の神の子孫であり、初代三輪大社の神主であるということだ。
そして濱名惣社神明宮を創建した濱名縣主は太田命の子孫でもある。

調べてみたら記紀神話にも登場する有名な神様であった。
しかし、平安時代に御祀神が入れ替わっているのに、よくぞ今日まで忘れられず小さな社の状態で残ったものだ。
これはとても珍しいことだと思う。
神社巡りをしていると、特に地方にある神明社、天照大神を祀る神社に行くとどこか違和感があることが多い。
全部とは言わないが、どうも明治時代に御祭神が替えられた形跡があるような感じがする。
もともと地方の神社にしかない、記紀神話には登場しない氏神が大分替えられてしまったのでは?と思えるのだ。
例えば、明治以前の東京では最も多かった神社は明神社と呼ばれるものだったと聞いたことがある。
この明神社で祀られていたのは、あの関東の英雄「平将門」であった。
しかし、江戸城が皇居になる際に、東京各地の明神社は、平将門は悉く別の神様に替わってしまったのだ。
平将門と言えば、王権側から見れば逆族である。庶民のヒーローも目線を変えればヒールになってしまうからだ。
こちらの濱名惣社神明宮の場合は、元々の氏神も記紀神話に登場する神様だったので残ることが出来たのかもしれない。
今回の参拝を経て、神社の神様も人間の都合によって振り回されて大変だよなぁと改めて思いました。
これをお読みの皆様も、ご自宅の近くにある氏神様に行って見て下さい。
境内をくまなく探せば、本来の氏神様がどこかにいらっしゃる・・・のかもしれません。
おしまい
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆
紅葉屋呉服店
店主 加藤大幾(ひろちか)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆

社名は「濱名惣社神明宮」という。

社歴によれば、その昔、この地方を統治していた濱名縣主(はまなのあがたぬし)なる豪族が先祖神を祀る為に建てたのが始まりのようだ。
「縣(あがた)」というのは古語辞典(旺文社)によれば、
地方豪族の所有地。大化の改新以前に開墾によって所有地となったもので、「吾(あ・私のこと)が田」の意
とあった。この神社の近くに浜名湖があるが、この浜名湖という湖名のルーツを辿ると、案外この濱名縣主に辿り着くかも知れない。この地域を治めていた偉大な豪族だったのだろう。
具体的に何年に創建とは分かっていないようだが、940年に御祀神が天照大神に替わっているという記録を見るに、相当古い神社であることが伺える。この地域を代表する古社であろう。

参道入り口からの景色であるが、なかなかに凄い神社だというのが伝わって来る。

夏祭りがあるのか、何か準備をしているようだった。しばらく歩くと鳥居に見立てた立派な楠の御神木が見えた。

御神木の前に看板があったので、立ち止まって読んで見たらおもしろいことが書いてあった。どうもこの御神木、近年になってから御神木に決まったらしい。神社庁ではこういう仕事もしているようだ。
「神社庁御神木審議会」なるものがあること、御神木とは昔から決まっているものばかりではないこと、どちらも初めて知った。

しかし、なんとも清々しい神社である。
画像の社はコンクリート製の拝殿であるが、神様がいらっしゃる本殿の祀られ方は珍しい形態だった。

山の斜面?を利用した階段の先に祀られていた。なんともいえない神々しい雰囲気がある。
また、この本殿も珍しいものであった。

国の重要文化財に指定されている建物だった。
しかし、この神社で最も印象にのこったことは「本来の御祭神が替わってしまった」ことであろう。
元々の濱名縣主の先祖神、太田命が本殿から追い出されてしまったのである。
現在、その太田命はどこにいってしまったのかと言うと、拝殿向って右側の小さな社に祀られていた。

後で気付いたが、この写真、社の屋根の辺りにボワツとしたオレンジ色のもやのような光が出ていた。
一種の霊的な写真かもしれない。
さて、この太田命(おおたのみこと)について調べてみた。
太田命は別の漢字では、意富多多泥古命/太田田根子命(おおたたねこのみこと)とも言う。
第10代崇神天皇(前148~前30年)の御代、疫病が大流行し多くの人達が亡くなった。
天皇は大いに愁いていたが、ある日、夢枕に大物主神(おおものぬしのかみ:三輪大社の御祭神)が現れ、
「我が児、太田田根子をして私を祀らせれば天下は平らぎなん」
と御神託があった。
そこで天皇は太田田根子を探しだし、大物主神を斎祀ったところ疫病は治まり天下泰平になったと云う。
太田田根子、即ち太田命は大物主の神の子孫であり、初代三輪大社の神主であるということだ。
そして濱名惣社神明宮を創建した濱名縣主は太田命の子孫でもある。

調べてみたら記紀神話にも登場する有名な神様であった。
しかし、平安時代に御祀神が入れ替わっているのに、よくぞ今日まで忘れられず小さな社の状態で残ったものだ。
これはとても珍しいことだと思う。
神社巡りをしていると、特に地方にある神明社、天照大神を祀る神社に行くとどこか違和感があることが多い。
全部とは言わないが、どうも明治時代に御祭神が替えられた形跡があるような感じがする。
もともと地方の神社にしかない、記紀神話には登場しない氏神が大分替えられてしまったのでは?と思えるのだ。
例えば、明治以前の東京では最も多かった神社は明神社と呼ばれるものだったと聞いたことがある。
この明神社で祀られていたのは、あの関東の英雄「平将門」であった。
しかし、江戸城が皇居になる際に、東京各地の明神社は、平将門は悉く別の神様に替わってしまったのだ。
平将門と言えば、王権側から見れば逆族である。庶民のヒーローも目線を変えればヒールになってしまうからだ。
こちらの濱名惣社神明宮の場合は、元々の氏神も記紀神話に登場する神様だったので残ることが出来たのかもしれない。
今回の参拝を経て、神社の神様も人間の都合によって振り回されて大変だよなぁと改めて思いました。
これをお読みの皆様も、ご自宅の近くにある氏神様に行って見て下さい。
境内をくまなく探せば、本来の氏神様がどこかにいらっしゃる・・・のかもしれません。
おしまい
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