2014-06-23
物部神社
名古屋市東区、とある交差点の角にある小さな神社、「物部神社」。
月一で通っている歯医者さんに行く道中にある神社で、いつも通る度気になっていた神社だ。

物部神社の歴史は古い。式内社ということなので平安時代には既にあった神社だ。

神社で頂いた社歴によれば御祀神は宇摩志麻遅命(うましまでのみこと)、物部氏の先祖神だ。
平安時代に編纂された延喜式神名帳、愛知郡の部に物部神社の名前が記されている。
その後、元禄年間に藩主、徳川綱誠(つなのぶ)の命令により重修、遷宮されたとあった。
因みにこの藩主、藩主になって6年で急死しているらしい。

霊璽(れいじ)は一塊の大石であるという。璽は宝という意味がある。

御神体が石であることから、石神神社、石神堂と呼ばれているようだ。
神社の横に公園があるが、この公園の名前が「石神公園」だったのでここから名付けられたのだろう。

区画整理の為、神社の規模も随分小さくなっているようだ。
この公園も元は神社の境内だろう。
神社によく遊具があったりする光景をみるが、本来あってはならないものだ。
長い歴史の中で様々なことがあったとは思うが・・・。これも仕方がないことか。
この神社の社歴にはこうある。
神武天皇が凶魁(かいい)を討ち給いし時、この石を以て国の鎮めとなし給うという
俗に要石、鎮撫石と称し、なおこの石を世に根なし石とも伝へ、全国に水戸、鹿島三カ所の在すると言う。
かつて国主光圀、これを掘らしめしに竟(つい)に掘ること能はざりきりと伝へ 石神の称はこれより起こる
宇摩志麻遅命は神武天皇御東征の時、御父饒速日命(にきはやひのみこと)と共に長髄彦(ながすねひこ)を
殺して帰順せられ後 物部の軍兵を率いて専ら皇城守護の任にあたられた
神武天皇即位に、命は伝来の十種の天瑞宝と神盾を献上し布都神剣を殿内に安置し
天皇、皇后の御魂を鎮め寿祚(じゅそ)を祀った。
とあった。
大変興味深い昔話である。御神体でもある霊璽、即ち巨石のことだが、神社の方に何処にあるのか聞いた所、
境内の地面の中にあるという話だった。
境内にはいくつも社があるが、その中の一つ白龍社の社殿の下にあるらしい。

社歴を読んでいて思ったのは、神武天皇がこの地に来たのは戦争の為だろう。
地元の豪族と戦になり、これを討ち滅ぼした。
そして倒された相手が祟って出てこないよう大岩で封じたのではと思った。
二度と出てこれないようにだ。
社歴には他にも気になる箇所がある。
一つは光圀、これは水戸黄門のことだろう。光圀の伝説には古代の神々の研究に纏わるものが出てくる。
社歴を読むに、あろうことかこの霊璽を掘り起こそうと試みたらしい。
だが結果的に、掘る事は出来なかったようだ。
村人たちの反対にあったのか?
あるいは掘り始めたら祟ったからなのか?
この一文からも尋常ではない岩であることが伝わって来る。
次に気になったのは「十種の天瑞宝」という文字だ。
これは神道最大の謎ともいわれる十種神宝(とくさのかむたから)のことだ。
十種神宝は物部氏の先祖神に纏わる書物「先代旧事本記」に登場する謎の神宝で、
天照大神から饒速日命が授かったとされるものだ。
奈良県にある石上神宮に残るとされているが、見た者はいない。
石上神宮も物部氏に縁の深い神社なので、名古屋の物部神社にその名があったのも納得だ。
ふと思ったが十種神宝というのは複数あったのかもしれない。
社歴についてではないが、もう一つ気になることがあった。
本殿を参拝していて、これはまずいなと思ったことだ。

本殿の真後ろの土地にマンションが建っていたのだ。
今まであちこちの神社にお参りに行ったが、幾つか気付かせて頂いたことがある。
その中の一つに社の後ろにある木や森が、神社にとっては途轍もなく大切だというものがある。
そこは神様にとって最重要な場所なので、本来人が住むところではないのである。
これも先ほどの公園と同じく、仕方のない事情があったのだと思うが、社を見下ろすような高層マンションをみると
「うーーーん」と思う。
いくら安くても自分なら畏れ多くて住めないかなぁ・・・。
月一で通っている歯医者さんに行く道中にある神社で、いつも通る度気になっていた神社だ。

物部神社の歴史は古い。式内社ということなので平安時代には既にあった神社だ。

神社で頂いた社歴によれば御祀神は宇摩志麻遅命(うましまでのみこと)、物部氏の先祖神だ。
平安時代に編纂された延喜式神名帳、愛知郡の部に物部神社の名前が記されている。
その後、元禄年間に藩主、徳川綱誠(つなのぶ)の命令により重修、遷宮されたとあった。
因みにこの藩主、藩主になって6年で急死しているらしい。

霊璽(れいじ)は一塊の大石であるという。璽は宝という意味がある。

御神体が石であることから、石神神社、石神堂と呼ばれているようだ。
神社の横に公園があるが、この公園の名前が「石神公園」だったのでここから名付けられたのだろう。

区画整理の為、神社の規模も随分小さくなっているようだ。
この公園も元は神社の境内だろう。
神社によく遊具があったりする光景をみるが、本来あってはならないものだ。
長い歴史の中で様々なことがあったとは思うが・・・。これも仕方がないことか。
この神社の社歴にはこうある。
神武天皇が凶魁(かいい)を討ち給いし時、この石を以て国の鎮めとなし給うという
俗に要石、鎮撫石と称し、なおこの石を世に根なし石とも伝へ、全国に水戸、鹿島三カ所の在すると言う。
かつて国主光圀、これを掘らしめしに竟(つい)に掘ること能はざりきりと伝へ 石神の称はこれより起こる
宇摩志麻遅命は神武天皇御東征の時、御父饒速日命(にきはやひのみこと)と共に長髄彦(ながすねひこ)を
殺して帰順せられ後 物部の軍兵を率いて専ら皇城守護の任にあたられた
神武天皇即位に、命は伝来の十種の天瑞宝と神盾を献上し布都神剣を殿内に安置し
天皇、皇后の御魂を鎮め寿祚(じゅそ)を祀った。
とあった。
大変興味深い昔話である。御神体でもある霊璽、即ち巨石のことだが、神社の方に何処にあるのか聞いた所、
境内の地面の中にあるという話だった。
境内にはいくつも社があるが、その中の一つ白龍社の社殿の下にあるらしい。

社歴を読んでいて思ったのは、神武天皇がこの地に来たのは戦争の為だろう。
地元の豪族と戦になり、これを討ち滅ぼした。
そして倒された相手が祟って出てこないよう大岩で封じたのではと思った。
二度と出てこれないようにだ。
社歴には他にも気になる箇所がある。
一つは光圀、これは水戸黄門のことだろう。光圀の伝説には古代の神々の研究に纏わるものが出てくる。
社歴を読むに、あろうことかこの霊璽を掘り起こそうと試みたらしい。
だが結果的に、掘る事は出来なかったようだ。
村人たちの反対にあったのか?
あるいは掘り始めたら祟ったからなのか?
この一文からも尋常ではない岩であることが伝わって来る。
次に気になったのは「十種の天瑞宝」という文字だ。
これは神道最大の謎ともいわれる十種神宝(とくさのかむたから)のことだ。
十種神宝は物部氏の先祖神に纏わる書物「先代旧事本記」に登場する謎の神宝で、
天照大神から饒速日命が授かったとされるものだ。
奈良県にある石上神宮に残るとされているが、見た者はいない。
石上神宮も物部氏に縁の深い神社なので、名古屋の物部神社にその名があったのも納得だ。
ふと思ったが十種神宝というのは複数あったのかもしれない。
社歴についてではないが、もう一つ気になることがあった。
本殿を参拝していて、これはまずいなと思ったことだ。

本殿の真後ろの土地にマンションが建っていたのだ。
今まであちこちの神社にお参りに行ったが、幾つか気付かせて頂いたことがある。
その中の一つに社の後ろにある木や森が、神社にとっては途轍もなく大切だというものがある。
そこは神様にとって最重要な場所なので、本来人が住むところではないのである。
これも先ほどの公園と同じく、仕方のない事情があったのだと思うが、社を見下ろすような高層マンションをみると
「うーーーん」と思う。
いくら安くても自分なら畏れ多くて住めないかなぁ・・・。
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