2013-05-06
神光寺・上条辨財天御開帳
5月4日、愛知県安城市の上条辨財天が12年に1度の御開帳と言う事でお参りに行った。

仕事で安城には良く訪れる。こちらの辨天社の前を通ると、車を止めてお参りに行く。
御開帳を今年行うと知ってから、何とかお参りに行きたいと思っていた。
着いた時には大勢の参拝客がいた。その殆どは福引をする為に並んでいたが…。
どうやらここで引いたクジを、この辨天社と縁の深い、近くの神光寺さんにて
景品と引き換える仕組みになっているらしい。
この日は神光寺さんも御開帳で、ようするに強制的に仏縁が出来る仕組みになっている。
「牛に曳かれて善光寺参り」ならぬ「景品に釣られて神光寺参り」と言ったところか…。

ようやくその御姿をお参り出来た辨財天。その姿は宇賀辨天だった。
その御顔は今迄見た事が無い、笑みを浮かべた辨天さまだった。
脇には走り大黒天も祀られている。
この近所には毘沙門天を祀る寺もあるので、ここを併せると三面大黒天になるなと思った。
辨天様の手から出た紐は白い布へと繋がっていた。
参拝を終え、同じく御開帳中の神光寺に向う事にした。
お祭りの手伝いをしていた方に場所を尋ねると、「白い布を辿ると行けるよ」と教えてもらった。

車が多く止まり、賑わっている。辨天社の前は道路になっているので、白い布はそこで途切れていたが、
横断歩道を渡るとまたそこの立て看板の柱から白い布は再スタートしていた。
道路が出来る前は、一本に繋がっていたのだろう。
白い布は結構長かった。

畑の間の細い道を進む。

踏切が見えて来た。更に進む。

五分ほど歩いて提灯が見えて来た。


現在では浄土宗西山派になっているが、昔は天台宗だった。
神光寺さんは徳川家から50石を下付されていたそうだ。

先程の辨天社と言い、こちらのお堂も人が溢れていた。
お祭りに地域の人が沢山いる様子を見ると安心する。
神光寺さんの秘仏薬師如来の来歴を聞いて驚いた。
元々聖徳太子御作と伝わる薬師如来と十二神将が祀られていたが、400年前に焼失。
新たにお堂が再建された際、新しい御本尊として比叡山延暦寺の根本中堂の御前立てを祀ることになった。
御前立と言っても、慈覚大師御作と言われる見事な薬師如来だ。

平安位ありそうだった。身体のあちこちには、ハッキリとまではいかないが、
ノミ(?)の痕が残っている。ヘルメットを被っているかのような髪形が特徴的だった。
間近でお参り出来たのが何より有り難い。お堂の中には他にも仏像が数体あった。
阿弥陀如来、如意輪観音、三面大黒天などなど…。
しかし延暦寺と所縁の深い慈覚大師御作の仏像が、よくこんな遠くのそれほど大きくない寺に来たものだ。
不思議に思いながら頂いた縁起が書かれたプリントを読んでいたら何故か分かった。
徳川家康の家臣、米津小大夫正信とその長男は三ヶ原の戦いで忠死。
次男の盛圓は白山社地内に祠を建て、傍らに庵を結び勤行に励んでいた。
(父と兄を失くしてから僧侶になったのかもしれない)
ある時、家康が鷹狩りでこの地に訪れた際、盛圓の庵に立ち寄り、
還俗して公に仕えよと伝えたが盛圓は辞退した。
家康は米津親子の忠誠をめで、社領50石を寄進され、盛圓を上条白山権現の別当職に任じ、
神光寺を創建させた。
…とあった。なるほどと思った。
その後、寺は火災になってしまうが、再建出来たのも、延暦寺の尊い御前立がこの地に来たのも、
徳川家の力添えがあったのだろう。
嘗ての御前立像はこの土地で本尊となった。天台の総本山から地方のお堂へ…。
延暦寺からすれば複雑な心境だったのかもしれないが、
今日の様子を見るに、お薬師さんは、この土地にいる事を喜んでいる…。
そんな気がした。

仕事で安城には良く訪れる。こちらの辨天社の前を通ると、車を止めてお参りに行く。
御開帳を今年行うと知ってから、何とかお参りに行きたいと思っていた。
着いた時には大勢の参拝客がいた。その殆どは福引をする為に並んでいたが…。
どうやらここで引いたクジを、この辨天社と縁の深い、近くの神光寺さんにて
景品と引き換える仕組みになっているらしい。
この日は神光寺さんも御開帳で、ようするに強制的に仏縁が出来る仕組みになっている。
「牛に曳かれて善光寺参り」ならぬ「景品に釣られて神光寺参り」と言ったところか…。

ようやくその御姿をお参り出来た辨財天。その姿は宇賀辨天だった。
その御顔は今迄見た事が無い、笑みを浮かべた辨天さまだった。
脇には走り大黒天も祀られている。
この近所には毘沙門天を祀る寺もあるので、ここを併せると三面大黒天になるなと思った。
辨天様の手から出た紐は白い布へと繋がっていた。
参拝を終え、同じく御開帳中の神光寺に向う事にした。
お祭りの手伝いをしていた方に場所を尋ねると、「白い布を辿ると行けるよ」と教えてもらった。

車が多く止まり、賑わっている。辨天社の前は道路になっているので、白い布はそこで途切れていたが、
横断歩道を渡るとまたそこの立て看板の柱から白い布は再スタートしていた。
道路が出来る前は、一本に繋がっていたのだろう。
白い布は結構長かった。

畑の間の細い道を進む。

踏切が見えて来た。更に進む。

五分ほど歩いて提灯が見えて来た。


現在では浄土宗西山派になっているが、昔は天台宗だった。
神光寺さんは徳川家から50石を下付されていたそうだ。

先程の辨天社と言い、こちらのお堂も人が溢れていた。
お祭りに地域の人が沢山いる様子を見ると安心する。
神光寺さんの秘仏薬師如来の来歴を聞いて驚いた。
元々聖徳太子御作と伝わる薬師如来と十二神将が祀られていたが、400年前に焼失。
新たにお堂が再建された際、新しい御本尊として比叡山延暦寺の根本中堂の御前立てを祀ることになった。
御前立と言っても、慈覚大師御作と言われる見事な薬師如来だ。

平安位ありそうだった。身体のあちこちには、ハッキリとまではいかないが、
ノミ(?)の痕が残っている。ヘルメットを被っているかのような髪形が特徴的だった。
間近でお参り出来たのが何より有り難い。お堂の中には他にも仏像が数体あった。
阿弥陀如来、如意輪観音、三面大黒天などなど…。
しかし延暦寺と所縁の深い慈覚大師御作の仏像が、よくこんな遠くのそれほど大きくない寺に来たものだ。
不思議に思いながら頂いた縁起が書かれたプリントを読んでいたら何故か分かった。
徳川家康の家臣、米津小大夫正信とその長男は三ヶ原の戦いで忠死。
次男の盛圓は白山社地内に祠を建て、傍らに庵を結び勤行に励んでいた。
(父と兄を失くしてから僧侶になったのかもしれない)
ある時、家康が鷹狩りでこの地に訪れた際、盛圓の庵に立ち寄り、
還俗して公に仕えよと伝えたが盛圓は辞退した。
家康は米津親子の忠誠をめで、社領50石を寄進され、盛圓を上条白山権現の別当職に任じ、
神光寺を創建させた。
…とあった。なるほどと思った。
その後、寺は火災になってしまうが、再建出来たのも、延暦寺の尊い御前立がこの地に来たのも、
徳川家の力添えがあったのだろう。
嘗ての御前立像はこの土地で本尊となった。天台の総本山から地方のお堂へ…。
延暦寺からすれば複雑な心境だったのかもしれないが、
今日の様子を見るに、お薬師さんは、この土地にいる事を喜んでいる…。
そんな気がした。
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