2012-05-28
鶴岡八幡宮の辨財天 その②
~続き
残っている社歴にははっきりとその言葉は書かれていないが、
読み返して出て来る結論は、北条政子は平氏滅亡を辨財天に願掛けしたという事だ。
(辨財天の御利益の一つに怨敵退散がある)
それも地形(この場合は池の島)を利用する大掛かりな呪詛だ。
源氏池には子孫が沢山増えるよう、島が三つ、そして辨財天を配置。
その正面に島が四つの平氏池。そこには「死ね」という強い意味が込められた。
社が平氏池を向いているので、呪詛の矛先はそちらを向いているということか・・・。
また、源氏池に弁財天を配置るのは、源氏を守ってもらうという意味があるのだろう。
(あるいは呪詛返し対策?)

今迄、辨天さまとは良縁を戴いて,各地の辨天社をお参り出来たが、
相手の滅亡を目的で建てられた辨財天との出会いは初めてだ。
この発見は衝撃であり、同時に何か悲しい気持ちになった。
辨財天は謎多き神様なので、弁財天を祭る寺社では来歴不明の場合が多い。
また呪詛と云うものは、それを行った事が表に出る事はない。
誰にも知らされずに行わなければならないからだ。
(例:藁人形で呪詛する「丑の刻参り」も、呪詛を行っている最中に見られると失敗すると云う)
これらを踏まえて考えるに、鶴岡八幡宮の辨財天は、
建てられた理由が克明に残っている極めて稀な例と言えるだろう。
続く~
残っている社歴にははっきりとその言葉は書かれていないが、
読み返して出て来る結論は、北条政子は平氏滅亡を辨財天に願掛けしたという事だ。
(辨財天の御利益の一つに怨敵退散がある)
それも地形(この場合は池の島)を利用する大掛かりな呪詛だ。
源氏池には子孫が沢山増えるよう、島が三つ、そして辨財天を配置。
その正面に島が四つの平氏池。そこには「死ね」という強い意味が込められた。
社が平氏池を向いているので、呪詛の矛先はそちらを向いているということか・・・。
また、源氏池に弁財天を配置るのは、源氏を守ってもらうという意味があるのだろう。
(あるいは呪詛返し対策?)

今迄、辨天さまとは良縁を戴いて,各地の辨天社をお参り出来たが、
相手の滅亡を目的で建てられた辨財天との出会いは初めてだ。
この発見は衝撃であり、同時に何か悲しい気持ちになった。
辨財天は謎多き神様なので、弁財天を祭る寺社では来歴不明の場合が多い。
また呪詛と云うものは、それを行った事が表に出る事はない。
誰にも知らされずに行わなければならないからだ。
(例:藁人形で呪詛する「丑の刻参り」も、呪詛を行っている最中に見られると失敗すると云う)
これらを踏まえて考えるに、鶴岡八幡宮の辨財天は、
建てられた理由が克明に残っている極めて稀な例と言えるだろう。
続く~
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2012-05-27
鶴岡八幡宮の辨財天 その①
昨年、関東方面に行く用事があったため、せっかくだからと鎌倉に足を運んだ。
目的は、江の島の辨財天であったが、途中、寄り道をした。
その場所は観光地としても有名な鶴岡八幡宮である。
ここに来たのは二回目だが、今回は辨財天の参拝目的で立ちよった。
以前来た時は辨財天があることは知らなかったが、帰宅後鶴岡八幡宮のHPを
見たら、境内にちゃんと祀られていたのに気付いた。
以来、いつか再訪したいとずっと思っていたが、この度、やっとお参り行けることになった。
目的の辨財天は参道沿いの右側、神社に入って直ぐの所であった。

池の中にある、朱塗りの綺麗なお社だ。
興味深いのはその来歴である。それはこのようなものだ。
治承四年(1180)八月、源頼朝公は伊豆国に源家再興の旗を上げ、
石橋山の戦いに敗れて房総に転じ、十月鎌倉に移るや
直ちに鶴岡八幡宮を創建し居館を定めて平家討伐の本地とした。
夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(1182)、大庭景義に命じ
境内東西に池を掘らしめ東の池(源氏池)には三島を配し、三は産なりと祝い
西の池(平家池)には四島を造り、四は死なりと平家滅亡を祈った。
この池が現在の源平池である。そして東の池の中の島に辨財天社を祀ったのが
当社の始めで明治初年の神仏分離の際、境内にあった他の堂塔と共に省かれた。
とあった。
その後、昭和三十一年に古図に基づき再建されたそうだ。
これを見つけた時はホントに驚いた。
次回はこの来歴について考えてみる。
続く~
目的は、江の島の辨財天であったが、途中、寄り道をした。
その場所は観光地としても有名な鶴岡八幡宮である。
ここに来たのは二回目だが、今回は辨財天の参拝目的で立ちよった。
以前来た時は辨財天があることは知らなかったが、帰宅後鶴岡八幡宮のHPを
見たら、境内にちゃんと祀られていたのに気付いた。
以来、いつか再訪したいとずっと思っていたが、この度、やっとお参り行けることになった。
目的の辨財天は参道沿いの右側、神社に入って直ぐの所であった。

池の中にある、朱塗りの綺麗なお社だ。
興味深いのはその来歴である。それはこのようなものだ。
治承四年(1180)八月、源頼朝公は伊豆国に源家再興の旗を上げ、
石橋山の戦いに敗れて房総に転じ、十月鎌倉に移るや
直ちに鶴岡八幡宮を創建し居館を定めて平家討伐の本地とした。
夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(1182)、大庭景義に命じ
境内東西に池を掘らしめ東の池(源氏池)には三島を配し、三は産なりと祝い
西の池(平家池)には四島を造り、四は死なりと平家滅亡を祈った。
この池が現在の源平池である。そして東の池の中の島に辨財天社を祀ったのが
当社の始めで明治初年の神仏分離の際、境内にあった他の堂塔と共に省かれた。
とあった。
その後、昭和三十一年に古図に基づき再建されたそうだ。
これを見つけた時はホントに驚いた。
次回はこの来歴について考えてみる。
続く~
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