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2007-12-31

結局何だったのか?

靴底爆発
~続き~
その日、帰宅した私に先に帰っていた父は興奮気味に話した。

父「大変な事が起こった!靴を見て来い!」
私「?どうした?うんこでも踏んだの?」
父「違うわ!いいから見て来い!」
私「分かったよ・・・・・・・。何じゃこれ!」

靴底が爆発した時、前回、書き忘れたが両足が火傷したかの如き熱かったそうだ。直後に慌てて付近のお手洗いに駆け込み、ズボンの上から水道の水を掛けだが蒸気が上がったらしい。トイレから出たら乾いていたそうだ。

父が言うには夜叉の悪戯だろうという事だった。両方から語りかけられた時、「ギャギャギャギャ!」という笑い声らしき音が聞こえたそうだが、後で調べたら夜叉の真言(密教では各仏様によって専用のお経がある)に「ギャギャギャ」と発音する箇所があった。

仏の姿が次々浮かんだのも夜叉がくれたご褒美だったのではと結論づけた。何故有り難い筈のお寺に、命を簡単に奪ってしまう恐ろしい存在があるのか?父が言うには「仏の慈悲」だそうだ。つまり、神仏に全く感心の無い人がかりに東寺を訪れて夜叉の看板を見たにも関わらず、帰ってしまったとする。後でどうも気になって、結果また東寺を訪れて、念の為に夜叉を参る。そうすることで仏との縁が出来る。

話を聞いてなるほどなと思った。

今年、wakaさんの勧めでブログを始め、神社に始まり靴底が吹っ飛んだ話で今年最後のブログ更新の幕を降ろす事になりました。これを御覧の皆様、眞に有り難うございます。

来年が皆様にとって素晴らしい一年でありますように。

もみじ
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2007-12-29

あんびりーばぼー!

父と問屋さんのHさんは、東寺の蚤の市に出かけた。寺の門を潜った直後、父に異変が起こった。両足が急に重たくなり、地面に吸い付いてしまったのだ。足を動かそうにも微動だにしない。それでもなお力を込めたら「ベリベリベリ!」と靴底がばりばりに剥がれてしまった身体も急にだるくなる。Hさんに悟られまいと、今起こった事は秘密にし歩き始めた。

暫く歩くと更に異変が続く。気付くと騒がしい境内の音が聞こえなくなっていた。「あれ?」と思ったら次は話し声が耳元で聴こえてきた。耳を澄ますと、父の右と左で何かが話をしている。

「おう。よく来たな」「逃がすなよ」「おまえ、良かったなぁ。今日ここで死ぬぞ」というような内容だやがて「ギャギャギャギャ!」というような笑い声が聞こえてきた。お経のようなものも聴こえてくる。

仏像の近くに行けば消えるかもと思い、東寺の本堂に入った。最後にとんでもないものを、父の殆ど見えない左目が捕らえた。金色眩い巨大な千手観音が地面の底から「ゴゴゴゴゴ」と現れたのだ呆然と立ち尽くす父。金色の映像は更に続き曼荼羅に登場する数多の御仏が次々と現れては消え、やがて我に返った。

時間で言えば数秒の体験だったがとても長く感じたそうだ。寺を後にし、Hさんに東寺で体験した出来事を話し、粉々になった靴底を見せた。じっと父の話を聞いていたHさんはこう言った

「何か様子が変だった。実は、紅葉屋さんが気を悪くすると思って言わなかったが、紅葉屋さんの周りからずっとお経が聴こえてましたよ。周りはやかましい筈なのに、お経だけがはっきり聴こえたんです・・・」

~続く~
2007-12-29

夜叉(やしゃ)

東寺の夜叉についての話で、子供の時、父からこんな話を聞いた。修学旅行でとある小学生達が東寺に訪れた。その中の一人が、夜叉の説明を受けたにも関わらず、あろう事か夜叉像に悪戯書きをしてしまった。その小学生は帰宅後まもなく死んでしまったそうだ。

よくある光景で、小さな子供が寝る時、親が絵本などを読み聞かせるのがあるかと思うが、うちの場合はいつも怪談や妖怪話ばかりで余計寝れなくなったのを思い出した話がそれました。

何年か前、京都の取引先の社長に招かれて会社を訪れた事があった。行ったのは父と紅葉屋の担当者の二名。ちょうどその時は21日で、東寺では蚤の市が開催されていた。

大勢の人でごった返す中、世にも奇妙な出来事が父の身におきた。

~続く~
2007-12-28

東寺にて…。

京都に有名なお寺で、空海が根本道場としたという東寺(教王護国寺)がある。それに因んだ話です。

このお寺は好きで、今迄何度か足を運んだ。真言宗や天台宗という宗派の寺は、仏像好きにはたまらない、楽しい寺だ。何故なら日本の仏教の中で最も仏様の種類が多い宗派だからだ。
東寺は大日如来に始まり、千手観音、不動明王、、普賢菩薩、四天王、帝釈天等、時間を忘れるほど魅力的な仏像が揃っている。そんな中で変わった仏様がいる。それが夜叉だ。

東寺の夜叉像は夫婦になっていて、長年外にあったせいか、木彫のそれはボロボロになっていて、蜂が巣を作ったらしく穴だらけになっていた。さながらゾンビのような雰囲気がある。見た目もインパクトがあるが、更に特徴があるのは、東寺の夜叉が御祭りしてある門の前に、立て看板がある。
看板には「夜叉の前を通った方は必ず手を合わせて下さい。素通りされた方は何があっても当方では責任を取れません」的な内容の文章が書かれてある。事件はこの夜叉に関係していた。

~続く~
2007-12-25

仏像と光背

20年ほど前の話。当時、父が所有していた織部焼の古い器があった。本人もかなりお気に入りだったそうだ。ある日父が出入りしていた名古屋市内の某骨董屋さんに、1200年くらい前に作られた、20cm余りの金銅佛があった。値段を聞いてみると、とても高くて買えない。しかしその御姿に惹かれた父は何とか手に入れようと思った。
そこで所持していた織部焼の器を交換に持ちかけたら話は成立し、我が家にご縁があった。
(因みにこの時の器は、現在瀬戸の陶磁器資料館に入っている)

この仏像、保存状態は良かったが、仏像に付き物の光背(仏像の背にある板のようなもの)が紛失していた。光背とは仏が内より放つオーラを意味しているらしい。

「惜しいなぁ」と思った父の脳裏に「あれっ?ひょっとして…」と浮かんだものがあった。仏像を手に入れる何年か前、安城市にある某骨董屋にて仏像の光背だけ入手していたのだ。それがあまりに古くて美しい細工がしてあったので安かった事もあり購入したのだ。

仏像のサイズ的にはピッタリ合いそうだったので、合わせてみた。するとどうだろう、「パチ!」という音と共に二度と外れなくなってしまった。仏像と光背をよく観察してみたら驚く事が判明した。光背についていた傷と仏像の背中の傷の場所が一致したのだ。
そう、もともと一つのものだったのである

全く違う場所、違う時期に入手したものが出会う。不思議な御縁です。
2007-12-17

京都にて ~将門公の話4~

御首神社→首塚→神田明神の順でお参りし最後に縁があった場所は京都だった。その日はセミナーを受けに京都に来ていた。会場でもある○○会館に到着した。開始まで40分程あったので、そうそうこの場所にはこないだろうと会場周辺を散歩する事にした。京都という町は、注意して歩くと町のそこかしこに歴史を記した立て看板を目にする。

そんな面白い発見がないかと会場を後にした。どちらの方角かは忘れたが、会場入り口前の歩道を真っ直ぐ歩いて、二本目の路地に差し掛かった時、ふと「あっ…。ここを左に曲がると何かあるかも…」と思い進んで行った。そこは民家が立ち並び、特に寺や神社がある訳ではなかった。

30メートル位歩いただろうか。右手側の民家の壁に小さな社があるのを見つけた。家の中にめり込むように祭ってある。「何か不思議なものがあるなぁ。どんな神様が祀ってあるんだ?」

よくよく見ると、社の向って左側に金属製の看板が設置してあった。自然に目がいく。背筋が寒くなるという言い方があるが正にそれだった。

看板には「平将門の首を晒したところ」とあったのだ
2007-12-15

首塚 ~将門公の話3~

平将門の首塚には様々な祟り話が付き纏う。そもそもこの「祟」と言う字は分解すると「出」と「示」になる。つまり、何かが「出て」きて力を「示す」という訳だ。
首塚の祟りでは、撤去しようとした建築業者が次々と病や怪我をし死者も出たらしい。戦後間も無く進駐軍が「教育上不適切」とか言う理由で、ブルドーザーで潰そうとしたら、首塚手前で転倒したそうだ

首塚を参拝した時、幾つか気付いた事があった。首塚の三方向はビルになっているが、首塚側の窓は全部ブラインドが降りていた。またその境内にはチリ一つ落ちていなかった。
その日も掃除をしていたオジサンがいたので、ブラインドの事を聞いてみた。

思った通り、首塚を見下ろす事に気を使っているようだ。またどのビルも机の配置が考えられており、首塚にお尻を向けないようにされていると知った。

千年以上経つにも関わらず、今尚大都会の一角で力を示していると強く感じた。
2007-12-14

皇居にて… ~将門公の話2~

御首神社に行って暫くたった頃、東京に遊びに行く機会があった。関東在住の知人に、「何処に行きたい?」との問いかけに、平将門が御祭りされているという神田明神に連れて行ってもらうことにした。その日の午前中の出来事だ。

東京に来て二日目の朝、待ち合わせ場所の、地下鉄○○駅の○○番出口に着いた。予定より1時間近く早く着いてしまったので、付近を散策する事にした。初めて行く土地でもある為、あまりウロウロしていると迷うと思い、地下鉄出口から外に出て道なりに真っ直ぐ歩こうと決めた。前方に皇居が見えたので、まず近くまで行ってみる事にした。周辺はオフィス街のようでビルが建ち並んでいる。そんなビルを横目で見ながら歩いていたら、突然、ビルとビルの間に小さな空き地が現れた。「神社かな?」と思いよく見ると、それを説明する看板があった。

看板には「平将門首塚」とあった
お参りした後、知人はその場所を知ってて集合場所に指定したのかなと考えていたら、電話が入った。「降りる駅を間違えて教えた! 出口の番号は同じだから!ごめん」と言って来た。
合流して将門の首塚の事を聞くと、そんなのは知らないと言っていた。

御縁を頂いたなと思った。
2007-12-08

御首神社  ~将門公の話1~

以前、大垣に住んでいる友人に付き添ってもらって参拝に行った神社が将門公所縁の「御首神社」だ。首から上の病にご利益があり、今でも神社の境内には首から上の病回復の願掛けに訪れた人々が奉納した、帽子が沢山る。

この神社、反乱の後、打ち首となった将門の首が祀ってあるそうだ。将門の首は当初、京都で晒し首となった。しかし、その怨念は凄まじく夜な夜な呻き声を上げ、身体が残っている故郷へ戻るため、ついにその首は中を舞い、東へと飛び立った。それを、とある神が矢で打ち落とし落ちた所が御首神社となった。
日本最古の本と言われる「古事記」の描写にもあるが、古来の日本人の感覚として殺した相手の遺体を切り刻むという風習があった。それは、身体を分ける事により「二度と復活させまい」というものだ。身体を求めて飛ぶ→身体に戻れば復活する→それを阻止するという考えが御首神社の伝説に込められていると思った。

また後日アップするが東京にも将門公の首塚がある。どちらが真実かはこの際どうでもいいが、岐阜の地に将門の怨霊伝説が残っているのは何か意味があるのだろう。

この神社に参拝に行った時、友人がある発見をした。神社に鳥居や改築工事のお布施した人達の名簿(石に彫ってあった)を見た時の話だ。
彼が言うには…いや、やっぱりこの話は辞めておきます。

帰宅後、神社で貰ったパンフレット(注:当時のもの)を見ていてそこに載っていた神事の写真を見た時愕然とした。焚き火の前で神主さんが御祭りをしている写真だが、その炎の姿が大きな人の顔になっていたのである
2007-12-06

関東の英雄  

中学生の頃、「帝都物語」という映画を友達と観に行った。映画の内容は詰め込み過ぎの為、かなり消化不良を起こし、いま一つ良く分からなかったが、内容云々より「陰陽道」「式神」など初めて知った言葉に強い興味を持った。映画の中で取り上げられたで歴史上の一人の人物、「平将門(たいらのまさかど)」もその興味の一つだった。
学校の歴史の教科書でも詳しくは取り上げられていない。ただ朝廷に対して反乱を起こしたとだけ記載してあった。

時は流れて平成17年、当時抱いた興味を掘り起こすような出来事が幾つかあった。平将門については正直勉強不足で知らない事が多い。ただ、神社研究を始めて、「悪者を成敗した」とかいう話は真実が勝者の都合の良いように捻じ曲げられている事が多々あると判ってから、「怨霊」「逆賊」として散々言われ続けた将門も「悪い人間ではなかったのでは?」と思うようになった。朝廷に打ち滅ぼされた将門こそ英雄だったのではないのか…。

そう考えるようになったからなのか、将門公との不思議な縁をいくつか頂く事になった。次回から順を追って紹介します。
プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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