2020-12-15
◆熊野那智大社

熊野本宮大社の後は、熊野那智大社へ参拝に出かけました。こちらも初です。

主祀神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。熊野本宮大社と同じく、伊弉諾尊や天照大神、そして素戔嗚尊を祀っています。熊野本宮大社と違うのは、大己尊神と八咫烏が神として祀られていることです。

こちらが拝殿。この場所に立った時、「あれ?」と思いました。神社で感じる雰囲気がしないのです。この時は何故そう思ったのか、理由はよく分かりませんでした。
このブログ作成にあたり、神社のHPを見ましたが、本殿の前には参拝客は入れないようです。

上の画像はHPより拝借。熊野本宮大社と同じく、建物が横に連なる権現造りです。この画像を見た時は「こんな建物どこにあったっけ?」と思いましたが、現場に足を運んでも入れてもらえないので分からい訳です。
やはり熊野の神様はキツイのでしょう。本来、何処の神社もそうなのかも。拝殿のある神社はそこからお参りするのが自然な、というかマナーなのでしょうね。因みに一番大きな社(右から四番目)が主祀神のお社です。そう、普通はこうなんです。熊野本宮大社がやはりおかしい・・・。でも真ん中ではないんですね。不思議だ。

八咫烏も祀られている。

建角身命というのが八咫烏の神名か。

境内には大きな樟の御神木があった。写真を頂こうと思いましたが遠慮しました。それほどの立派な御神木でした。

この大楠、中が空洞になっており、入ることが出来る。その際は護摩木を購入(願いを書く)します。厄を木に移すという解釈か。
子供が「やりたい!」と言っていましたが止めさせました。
何故、止めさせたかという理由については、また次回にでも纏めたいと思います。
しかし、今までたくさん神社参りはしてきましたが、やはりここは何か違います。
神社なのに、あたたかい雰囲気です。

それは多分、神社のすぐ隣がお寺だからでしょう。
隣のお寺は青岸渡寺です。西国三十三観音の第一番、如意輪観世音菩薩を祀る古刹です。
推古天皇の時代には勅願寺となっていたそうなので、相当古いお寺です。
熊野本宮大社と同じく、随分昔から神仏習合になっている霊地でもあります。明治以前は今のように神社と寺という感じには分かれていなかったそうですが、表向きは(人間の都合で)分離されていますが、こと熊野那智大社の場合は、今でも神仏がしっかり繋がってるなと思いました。
後になって思いましたが、神仏習合とはどういうことなのか?というのがよく分かる場所ですね。

時間の都合で那智の滝はこの位置から見るだけでしたが、次回もし行ける機会があれば滝の神社?まで参拝に行きたいと思います。
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2020-12-02
◆熊野本宮大社 その3

熊野本宮大社の歴史を遡っていくと、一番最初の神名は「熊野巫大神(くまのにいますおおかみ)」という神様が出てきます。
神社のHPから抜粋しますと・・・
熊野坐大神の御鎮座の年代は文献に明白ではありませんが、神武東征以前には既に御鎮座になったと云われており、社殿は崇神天皇65年(紀元前33年)に創建されたと『皇年代略記』や『神社縁起』に記されています。奈良朝の頃より仏教を取り入れ、平安朝以後は仏化により「熊野権現」と称し、神々に仏名を配するようになりました。熊野本宮大社は上・中・下社の三社から成るため、熊野三所権現と呼ばれています。また、十二殿に御祭神が鎮座ますことから、熊野十二社権現とも仰がれています。
・・・とありました。
いつごろから祀られていたのかは定かではないようですが、神武天皇がこの地に来た時には既にあったようです。紀元前の歴史がある神社ですが、奈良時代から平安時代にかけて仏教色が強くなったようです。
熊野巫大神が素戔嗚尊だったかは微妙な感じがしますが、奈良の終わり頃や平安始め頃には素戔嗚尊や牛頭天王になっていたのでは?と思えます。
日本に残る最古の牛頭天王像は平安初期(9世紀)のもので、密教の色が強い姿の尊像です。それから考えると平安初期以降に牛頭天王として熊野に祀られていたと思われます。

(熊野観心十界曼荼羅)
日本の山は異界、霊山が殆どです。奈良時代から始まった神仏習合の流れは中世で大きく昇華します。上の画像のように昔からの霊山は極楽浄土になぞられ、日本各地に霊場が出来ました。
熊野のような阿弥陀の浄土、弥勒の浄土、観音の補陀落浄土、大日如来の密厳浄土などなどです。
日本各地の神社は、もう殆ど仏教は外されてしまいました。熊野本宮大社に行くと見た目には仏教色は見当たりませんが、神社の資料やHPを見ると仏様のことが記されています。熊野は神仏習合の歴史が1200年以上あり、仏ありきの神社であるので、流石にそれまで外してしまうと神社自体の意味が分からなくなるからでしょう。
帰り際、神社にいくつかある案内看板を見ている内、興味深いものを見つけました。

八咫烏の由来についてです。

初めて聞いた言葉、「熊野三党」。
熊野三党とは、紀伊国熊野地方に強い勢力を持っていた豪族達のことです。榎本氏、宇井氏、鈴木氏で、この三党が熊野大社の神職を代々受け継ぎ、八咫烏を家紋としました。八咫烏の三本足にこの三党はなぞられている訳です。
宇井という名字の人は知り合いでいませんが、榎本さんとか鈴木さんは馴染みがあります。この名字を辿って行くと熊野に行き着くとは知りませんでした。鈴木と言う姓は日本でもダントツに多い姓ですが、鈴も木も神社っぽいなと思っていましたが、熊野所縁だった訳です。
鈴木、榎本、宇井という姓の方は、素戔嗚尊、即ち牛頭天王様と所縁のある姓とも言えます。他にも神様由来の名字も調べれば多そうですね。
今回の熊野の参拝を経て、牛頭天王様は実は大昔の庶民にとっては一番馴染みが深い神様だったということが良く分かりました。牛頭天王様所縁の神社をざっと調べてみますと・・・
・八坂神社 全国で約2300社 (3000社とも)
・津島神社 全国で約3000社
・熊野神社 全国で約3000社
・社の数は不明なれど、各地にある天王社、須賀神社
・・・となります。嘗ては牛頭天王様を祀っていた神社を全部数えたデータはないでしょうが、少なくとも全国には1万社はあったと思われます。
天照大神を祀る伊勢神宮も、昔は密教寺院が境内にありました。
伊勢周辺の家々で正月に飾る注連縄は「蘇民将来」です。通常、一月くらいで外す注連縄も一年間かけっぱなしと聞きました。それは病気除けを兼ねているからです。
牛頭天王様は密教の仏として取り込まれました。そして伊勢神宮で分けてもらう注連縄は蘇民将来です。そうなると、明治時代以前の伊勢神宮にも牛頭天王様が祀られていた可能性はあるでしょう。
今も昔も、人間の一番の問題は病気です。その病気を統べる牛頭天王様を祀ることで、「私はあなた様にはかないません」とか「私は蘇民の子孫です」と意思表明することで病気から逃れたかったのでしょう。
その気持ちは良く分かります。昔も今も病気は本当に怖いものです。コロナ禍の今だからこそ、日本各地の素戔嗚尊を祀る神社で、牛頭天王様が復活すればいいのになと思う今日この頃です。
おしまい。
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参考文献 修験道の本 学研
2020-11-30
◆熊野本宮大社 その2
気になったところをいくつか挙げてみます。

こちらは拝殿の画像。位置的に言いますと、この後ろが伊邪那岐大神と伊邪那美大神を祀っている大きな社があります。まず「やはりちょっと違うな」と思った最初がここでした。
画像を拡大しますと・・・

本殿が全く見えません。白い布が全面を覆って隠しています。
お伊勢さんでもにたようなものは見ましたが、ここまで全部隠す例はちょっと思い出せません。
拝殿を通り越して本殿の前まで行けるので、お社は見えますが、本来は拝殿からしかお参り出来なかったのでしょう。神様は見てはいけないという考えがありますが、神像ではなく建物そのものも見てはいけないという時代があったのかも。
やはり、きっつい神様なのだと連想させます。
熊野と言えば、古事記にも出てくる八咫烏です。しかし、こちらの神社には八咫烏はお祭されていませんでした。オブジェクトはありましたが。

あと二つの岩が拝殿の左右にありました。結界的な意味でしょうか。

一つは亀石、もう一つは大黒石とありました。
同行した妻が、御朱印をもらいに社務所で並んでいたので、私も社務所へ向かいました。そこではお札を売っていました。

蘇民将来の札と、八咫烏のお札です。「あっ、やはり牛頭天王様だ」と思いました。
(蘇民将来の話はこちらまで)
素戔嗚尊を祀っているということは、嘗ては高確率で牛頭天王様を合祀していたということです。その証拠の一つが蘇民将来の注連縄とかお札です。
もう一つの札は八咫烏のお札です。沢山のカラスで文字が表現されているよでした。最初の文字は熊野の「熊」でしょう。

そしてこの八咫烏のお札、正式名称が牛王神符(ごおうしんふ)と言います。八咫烏のヤの字も出てこない符です。ここにも牛頭天王様を連想する「牛王」の二文字がありました。この符、厄除けの札で病にも効くとあります。
一節には牛王とは、漢方薬の牛黄ではないかという話もありますが、私は牛頭天王様かと思います。
牛頭天王様とはどんな神か。簡単に言えば、あらゆる病気の元締め的な最強の祟り神の一柱です。大陸から渡って来た神様で、仏教でも神道でもない、陰陽道由来の神様ですが、奈良から平安時代頃にかけておそらく弘法大師が薬師如来と習合させ、仏として祀った神様です。
全ての病を治す薬師如来と、あらゆる病気を巻き散らす恐るべき祟り神を同体として祀ったのです。牛頭天王様の札が病に効くとはそういうことかと思います。
しかし、おそらくこの神社にも嘗てはいた牛頭天王様は、熊野においては阿弥陀如来と習合したようです。これは平安末期に大流行した阿弥陀信仰に由来します。その影響か、熊野が極楽浄土としての霊地になっていた時代もありました。
神仏習合もその土地や時代背景により、どの神とどの仏が集合したと言うのは、一つのパターンだけではないようです。
熊野の牛王神符の解説文が社務所にありました。

長いので気になった個所を拾ってみます。
①カラス文字で書かれた熊野独特の符である。カラスの数は八十八羽。
②牛王府は宝印符とも呼ばれ、古くは白鳳十一年の記録に登場する。
③時代が降るにこの府はいろいろな方面で用いられ、鎌倉時代には誓約書に、江戸時代には起誓文の代わりとして用いられた。
④熊野権現との誓約を破ると、熊野の大神の使いであるカラスが2、3羽死に、(願掛けし、誓約を破った)本人も血反吐を吐いて死に、地獄へ落ちると信じられた。
なんという恐るべき話でしょうか。まさに願掛けする方も命懸け。ここに仏様と神様の違いを見たような気がします。そして祀ってある素戔嗚尊(牛頭天王様)の性質のきつさが良く分かるエピソードでもあります。
神様に願掛けし、承認されるとその神様の御眷属が神様に派遣されて、願を立てた本人に尽力しますが、熊野権現の場合、誓約を破るのは人間にも関わらず、仲介役をした神の使いのカラスもろとも死ぬのです。連帯責任と言うことでしょうか。しかも殺された人間は、その後も極楽には行けず地獄に直行するという凄まじさ・・・。
牛頭天王様がかつてこの地に祀られていたとすると、まさに神様の性質を考えるとありえるような話だと思いました。
そこまできつい神様であるので、拝殿からも社が全く見えないように白い布が張り巡らされていたのではと思いました。
⑤熊野神社では神前結婚式を行っており、結婚式で用いる誓詞の紙の裏に、この宝院符が貼ってある。
結婚式自体が覚悟を決めてやるものでしょうが、熊野権現で式を挙げた夫婦は他の神社とはちょっと違いますね。
どっちかの我がまま、相手を傷つけた身勝手な離婚と神様が解釈したら最後、とんでもないことになりそうです。
妻はカラスの符を買っていましたが、知れば知る程、今まで私が手にした符で、最も扱いに注意せねばならない符であり、この二柱の神々は、より気を引き締めてお参りしないとならない神様であるというのが良く分かりました。やはり素戔嗚尊や牛頭天王様は厳しい神様です。
でも、そういう恐るべき神様がいるお陰で、人間は謙虚さを学べるのでしょう。ある意味、とても有難いことです。

こちらは拝殿の画像。位置的に言いますと、この後ろが伊邪那岐大神と伊邪那美大神を祀っている大きな社があります。まず「やはりちょっと違うな」と思った最初がここでした。
画像を拡大しますと・・・

本殿が全く見えません。白い布が全面を覆って隠しています。
お伊勢さんでもにたようなものは見ましたが、ここまで全部隠す例はちょっと思い出せません。
拝殿を通り越して本殿の前まで行けるので、お社は見えますが、本来は拝殿からしかお参り出来なかったのでしょう。神様は見てはいけないという考えがありますが、神像ではなく建物そのものも見てはいけないという時代があったのかも。
やはり、きっつい神様なのだと連想させます。
熊野と言えば、古事記にも出てくる八咫烏です。しかし、こちらの神社には八咫烏はお祭されていませんでした。オブジェクトはありましたが。

あと二つの岩が拝殿の左右にありました。結界的な意味でしょうか。

一つは亀石、もう一つは大黒石とありました。
同行した妻が、御朱印をもらいに社務所で並んでいたので、私も社務所へ向かいました。そこではお札を売っていました。

蘇民将来の札と、八咫烏のお札です。「あっ、やはり牛頭天王様だ」と思いました。
(蘇民将来の話はこちらまで)
素戔嗚尊を祀っているということは、嘗ては高確率で牛頭天王様を合祀していたということです。その証拠の一つが蘇民将来の注連縄とかお札です。
もう一つの札は八咫烏のお札です。沢山のカラスで文字が表現されているよでした。最初の文字は熊野の「熊」でしょう。

そしてこの八咫烏のお札、正式名称が牛王神符(ごおうしんふ)と言います。八咫烏のヤの字も出てこない符です。ここにも牛頭天王様を連想する「牛王」の二文字がありました。この符、厄除けの札で病にも効くとあります。
一節には牛王とは、漢方薬の牛黄ではないかという話もありますが、私は牛頭天王様かと思います。
牛頭天王様とはどんな神か。簡単に言えば、あらゆる病気の元締め的な最強の祟り神の一柱です。大陸から渡って来た神様で、仏教でも神道でもない、陰陽道由来の神様ですが、奈良から平安時代頃にかけておそらく弘法大師が薬師如来と習合させ、仏として祀った神様です。
全ての病を治す薬師如来と、あらゆる病気を巻き散らす恐るべき祟り神を同体として祀ったのです。牛頭天王様の札が病に効くとはそういうことかと思います。
しかし、おそらくこの神社にも嘗てはいた牛頭天王様は、熊野においては阿弥陀如来と習合したようです。これは平安末期に大流行した阿弥陀信仰に由来します。その影響か、熊野が極楽浄土としての霊地になっていた時代もありました。
神仏習合もその土地や時代背景により、どの神とどの仏が集合したと言うのは、一つのパターンだけではないようです。
熊野の牛王神符の解説文が社務所にありました。

長いので気になった個所を拾ってみます。
①カラス文字で書かれた熊野独特の符である。カラスの数は八十八羽。
②牛王府は宝印符とも呼ばれ、古くは白鳳十一年の記録に登場する。
③時代が降るにこの府はいろいろな方面で用いられ、鎌倉時代には誓約書に、江戸時代には起誓文の代わりとして用いられた。
④熊野権現との誓約を破ると、熊野の大神の使いであるカラスが2、3羽死に、(願掛けし、誓約を破った)本人も血反吐を吐いて死に、地獄へ落ちると信じられた。
なんという恐るべき話でしょうか。まさに願掛けする方も命懸け。ここに仏様と神様の違いを見たような気がします。そして祀ってある素戔嗚尊(牛頭天王様)の性質のきつさが良く分かるエピソードでもあります。
神様に願掛けし、承認されるとその神様の御眷属が神様に派遣されて、願を立てた本人に尽力しますが、熊野権現の場合、誓約を破るのは人間にも関わらず、仲介役をした神の使いのカラスもろとも死ぬのです。連帯責任と言うことでしょうか。しかも殺された人間は、その後も極楽には行けず地獄に直行するという凄まじさ・・・。
牛頭天王様がかつてこの地に祀られていたとすると、まさに神様の性質を考えるとありえるような話だと思いました。
そこまできつい神様であるので、拝殿からも社が全く見えないように白い布が張り巡らされていたのではと思いました。
⑤熊野神社では神前結婚式を行っており、結婚式で用いる誓詞の紙の裏に、この宝院符が貼ってある。
結婚式自体が覚悟を決めてやるものでしょうが、熊野権現で式を挙げた夫婦は他の神社とはちょっと違いますね。
どっちかの我がまま、相手を傷つけた身勝手な離婚と神様が解釈したら最後、とんでもないことになりそうです。
妻はカラスの符を買っていましたが、知れば知る程、今まで私が手にした符で、最も扱いに注意せねばならない符であり、この二柱の神々は、より気を引き締めてお参りしないとならない神様であるというのが良く分かりました。やはり素戔嗚尊や牛頭天王様は厳しい神様です。
でも、そういう恐るべき神様がいるお陰で、人間は謙虚さを学べるのでしょう。ある意味、とても有難いことです。
2020-11-29
◆熊野本宮大社
和歌山県の熊野本宮大社へお参りに行きました。初参拝です。

いつもは寺社参拝に行く時は事前にどういう場所かというのを調べてから行きますが、今回は事前情報なしで出かけました。一体どんな神様を祀っているかもこの時点では分かりませんでした。

歴史ある神社ですね。びっしり書かれています。神社を知る上で、この社歴と言うのは侮れません。神社に行っても読まないという人にこそ、一度足を止めて読んで頂きたいなと思います。この時も大勢の参拝客がいましたが、誰も読んで無かったです。

後で調べて分かりましたが、この熊野本宮神社は熊野権現と嘗ては呼ばれていました。権現とは簡単に言えば、仏教の仏様が神の姿を借りて現れるということです。熊野本宮大社は12柱の神々を祀っているので、「熊野十二権現」と呼ばれていたとありました。
この参拝旅行では、12柱の神々全てをお参りすることは出来ませんでした。訪れたこの地には4柱の神々がいました。残りの8柱は別の所に祀られているのかも。
今回お参り出来たのは、家津御子大神(けつみこのおおかみ)と速玉大神(はやたまのおおかみ)、夫須美大神(ふすみのみこと)と天照大神です。
熊野の信仰は、かなり古い時代から神仏習合があったようで、大変複雑です。現地に足を運んだり、実際に調べたりすると、かなり頭が混乱します。
まず、この神社で初めて知った神名「家津御子大神」とは「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」でした。そして速玉大神は「伊邪那岐大神(いざなぎのみこと)」で、夫須美大神は「伊邪那美大神(いざなみのみこと)」です。
大神という漢字の読み方も、「おおかみ」と「みこと」と二種類あります。最初に言葉ありきで漢字が充てられたと思いますが、こういう一つ一つを取り上げても混乱します。
若宮とは、通常子供の神の事を指しますが、熊野の場合は天照大神を祀る社が若宮と云う訳です。
この四柱の神々の中で、主祀神が素戔嗚尊になります。この熊野本宮大社は素戔嗚尊が中心に祀られる神社という事です。まず御祀神が素戔嗚尊というのを知って驚きました。
庶民の近くにも祀られている熊野神社。全国に3000社以上あるそうですが、その全ては素戔嗚尊だと云う事です。これは知らなかったです。
鳥居を潜り、階段を上る途中に穢れを払う為に参拝する神社があったことを付け加えておきます。写真はちょっとやめました。

こちらが本殿の画像。社が横一列に並ぶ珍しい造りでした。権現造りというそう。
これも後で知って混乱しましたが、画像の手前の社、人が大勢並んでいる社ですが、この社が主祀神の素戔嗚尊を祀っています。その奥の大きな社が、伊邪那岐大神と伊邪那岐大神になります。(一つの社に扉が二つある)
この事実も驚きました。何処の神社に行っても、主祀神が入っている社は、必ず一番大きい、立派なのが当たり前なのに熊野本宮大社は例外でした。主祀神の社の方が小さいのです。

この画像は神社のHPより拝借しましたが、お参りする順番を示したものです。
①は素戔嗚尊
②は伊邪那岐大神
③は伊邪那美大神
④は天照大神
⑤の神社は見つけれませんでしたが、どうも大鳥居(第一鳥居)の方に歩いて行くとある神社のようです。
一度行っただけでは、謎が多すぎて理解に苦しむ熊野本宮大社。現在は仏様の要素は外されている感じですが、神社のHPによればこうありました。
・素戔嗚尊は阿弥陀如来と同体。
・伊邪那岐大神は薬師如来と同体。
・伊邪那美大神は千手観音と同体。
・天照大神は十一面観音と同体。
という考え方だそうです。熊野十二権現、残り8柱の神々も、様々な仏様と習合しています。
記録、歴史としてはしっかりと神仏習合の話は残っておりますが、実際に神社の境内に入ると完全に神社の様相です。でもどこか神社のようなキリっとした雰囲気ではなく、暖かな感じでした。
コロナ禍の影響か、宝物館が閉館していたのが残念でしたが、仏像が残っているのかもしれません。
素晴らしい神社でしたが、謎が多い神社でした。次回は気になったことを中心にまとめてみます。
続く~
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いつもは寺社参拝に行く時は事前にどういう場所かというのを調べてから行きますが、今回は事前情報なしで出かけました。一体どんな神様を祀っているかもこの時点では分かりませんでした。

歴史ある神社ですね。びっしり書かれています。神社を知る上で、この社歴と言うのは侮れません。神社に行っても読まないという人にこそ、一度足を止めて読んで頂きたいなと思います。この時も大勢の参拝客がいましたが、誰も読んで無かったです。

後で調べて分かりましたが、この熊野本宮神社は熊野権現と嘗ては呼ばれていました。権現とは簡単に言えば、仏教の仏様が神の姿を借りて現れるということです。熊野本宮大社は12柱の神々を祀っているので、「熊野十二権現」と呼ばれていたとありました。
この参拝旅行では、12柱の神々全てをお参りすることは出来ませんでした。訪れたこの地には4柱の神々がいました。残りの8柱は別の所に祀られているのかも。
今回お参り出来たのは、家津御子大神(けつみこのおおかみ)と速玉大神(はやたまのおおかみ)、夫須美大神(ふすみのみこと)と天照大神です。
熊野の信仰は、かなり古い時代から神仏習合があったようで、大変複雑です。現地に足を運んだり、実際に調べたりすると、かなり頭が混乱します。
まず、この神社で初めて知った神名「家津御子大神」とは「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」でした。そして速玉大神は「伊邪那岐大神(いざなぎのみこと)」で、夫須美大神は「伊邪那美大神(いざなみのみこと)」です。
大神という漢字の読み方も、「おおかみ」と「みこと」と二種類あります。最初に言葉ありきで漢字が充てられたと思いますが、こういう一つ一つを取り上げても混乱します。
若宮とは、通常子供の神の事を指しますが、熊野の場合は天照大神を祀る社が若宮と云う訳です。
この四柱の神々の中で、主祀神が素戔嗚尊になります。この熊野本宮大社は素戔嗚尊が中心に祀られる神社という事です。まず御祀神が素戔嗚尊というのを知って驚きました。
庶民の近くにも祀られている熊野神社。全国に3000社以上あるそうですが、その全ては素戔嗚尊だと云う事です。これは知らなかったです。
鳥居を潜り、階段を上る途中に穢れを払う為に参拝する神社があったことを付け加えておきます。写真はちょっとやめました。

こちらが本殿の画像。社が横一列に並ぶ珍しい造りでした。権現造りというそう。
これも後で知って混乱しましたが、画像の手前の社、人が大勢並んでいる社ですが、この社が主祀神の素戔嗚尊を祀っています。その奥の大きな社が、伊邪那岐大神と伊邪那岐大神になります。(一つの社に扉が二つある)
この事実も驚きました。何処の神社に行っても、主祀神が入っている社は、必ず一番大きい、立派なのが当たり前なのに熊野本宮大社は例外でした。主祀神の社の方が小さいのです。

この画像は神社のHPより拝借しましたが、お参りする順番を示したものです。
①は素戔嗚尊
②は伊邪那岐大神
③は伊邪那美大神
④は天照大神
⑤の神社は見つけれませんでしたが、どうも大鳥居(第一鳥居)の方に歩いて行くとある神社のようです。
一度行っただけでは、謎が多すぎて理解に苦しむ熊野本宮大社。現在は仏様の要素は外されている感じですが、神社のHPによればこうありました。
・素戔嗚尊は阿弥陀如来と同体。
・伊邪那岐大神は薬師如来と同体。
・伊邪那美大神は千手観音と同体。
・天照大神は十一面観音と同体。
という考え方だそうです。熊野十二権現、残り8柱の神々も、様々な仏様と習合しています。
記録、歴史としてはしっかりと神仏習合の話は残っておりますが、実際に神社の境内に入ると完全に神社の様相です。でもどこか神社のようなキリっとした雰囲気ではなく、暖かな感じでした。
コロナ禍の影響か、宝物館が閉館していたのが残念でしたが、仏像が残っているのかもしれません。
素晴らしい神社でしたが、謎が多い神社でした。次回は気になったことを中心にまとめてみます。
続く~
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2020-11-04
◆名駅 椿神明社について
名古屋駅に用事があり、いつも車で通る道にある椿神明社が、何の工事か、かつての雰囲気が様変わりしておりました。

もう何年も昔のことですが、車でふと通りかかったら、なかなか強い感じのする神社だなと思い、お参りに訪れたことがありました。
ちょっとショックでしたね。
神社そのものを潰すのか、それとも引っ越しするのか・・・。
境内正面入り口の壁に工事の内容が記されたものがありました。

それによれば、以前の本殿の位置をずらすようです。縮小ですね。
社の後ろ側の土地と、社が建っていた土地の一部を手放したみたいです。
土地の買い手(?)はJRのようです。
嘗ての雰囲気を知っていたので、あまりの変わりように言葉もありませんでした。
「一体、あの神社はどういう神社だったのか・・・」
興味が湧いたので調べてみました。
まずは御祀神です。
豊受大神を祀っていました。この辺りは江戸時代には牧野村と呼ばれており、その当時からあった村の五つの神社の一つです。この五つの神社は現在も残っています。
椿神明社と天王社(牛頭天王様)、厳島社(弁才天)、神明社、稲穂社(稲荷神)で牧野五社となっていました。
この辺りの歴史は古く、鎌倉時代には伊勢の荘園として神様へお供えをする作物を作っていたようです。故にいつの頃か椿神明社を伊勢の外宮として、もう一つの神明社を伊勢の内宮として村人たちは崇めていたとありました。
かなり古い時代からあった神社と分かりました。

あと2年位は工事をしているようなので、この賽銭箱も当分こんな感じなのでしょうか。
おそらく綺麗な境内になるのでしょうが、沢山あった木々が壊滅しているのが痛々しいです。
何故木々を切ったのか。重機が入るのに邪魔だったのか。耐震とかで地面から手を入れるから仕方がなかったのか。
神社の工事を請けおった会社のサイトに、解体工事の詳細が載っていました。
リンク先の昔の神社の写真と見比べると、随分違います。JRが買ったのかと思いましたが、譲り渡したとあるのでお金は発生していない?そんなことはないか。
神社への参拝を続けているうちに気付きましたが、写真を撮ってもよさそうな所や、ここは撮ってはいけないという場所があります。
祀っている神様にもよりますが、写真を撮ったり足を踏み入れたりしてはいけないのは社殿の後側の土地です。それは神社にとって最も神聖な場所だということです。
神職の方がきちんとした所作を行い、工事をしているとは思いますが、こういう元々神社の社の後ろだった土地を知らずに買って、家でも建てて住むとなると、その後はなかなか大変かと思われます。
土地を買ったのがJRなので、誰かが住むようなものは出来ないとは思いますが・・・。

椿神明社について調べていると、牧野村とこの地域に残る「甘酒祭」という神事に纏わる昔話で、興味深いものが出てきました。
◎甘酒祀の云われ(年代不詳)
椿神社境内近くの笈瀬川の川辺に大きな藤の木があり、たいそう評判で毎年大勢の人たちが訪れた。しかし、あまりにも見物人が増えて、近くの畑などを踏み荒らされてしまったため、人がもう来ないようにということで村人がこの木を切り倒したところ、疫病が流行り、村人の殆どが患った。
困った村人の一人が智者に頼み占ったところ、それは藤の木を切り倒したことによる祟りだから、家ごとに酒を作り、その酒を神様に献上するようにと言われた。
ただ、村で酒を作るのは難しいということで甘酒で勘弁してもらって、椿神明社ともう一つの神明社に供え、そのお下がりの甘酒を飲んだたところ、疫病は治まったと云う。
というものです。気になる個所を赤字にしました。
前回のブログで奈良県の西大寺境内にあった「石落神社」を思い出させるような話が、まさかここで出て来るとは・・・。
最近、田んぼの田の字の意味について、思考を巡らせていましたが、この話の中にもヒントがありそうです。
長くなりそうなので、椿神明社についてはここで終わります。
次回は牧野五社の一つ、弁才天様について考えてみたいと思います。
これは一度お参りに行かねばならないかも・・・。
※参考サイト
名古屋神社ガイド
https://jinja.nagoya/top/nakamuraku/tubaki-sinmeisya
よくこれだけ調べたなと思います。名古屋の神社はまずこれを見ると良いかも。
※紅葉屋はこちらまで

もう何年も昔のことですが、車でふと通りかかったら、なかなか強い感じのする神社だなと思い、お参りに訪れたことがありました。
ちょっとショックでしたね。
神社そのものを潰すのか、それとも引っ越しするのか・・・。
境内正面入り口の壁に工事の内容が記されたものがありました。

それによれば、以前の本殿の位置をずらすようです。縮小ですね。
社の後ろ側の土地と、社が建っていた土地の一部を手放したみたいです。
土地の買い手(?)はJRのようです。
嘗ての雰囲気を知っていたので、あまりの変わりように言葉もありませんでした。
「一体、あの神社はどういう神社だったのか・・・」
興味が湧いたので調べてみました。
まずは御祀神です。
豊受大神を祀っていました。この辺りは江戸時代には牧野村と呼ばれており、その当時からあった村の五つの神社の一つです。この五つの神社は現在も残っています。
椿神明社と天王社(牛頭天王様)、厳島社(弁才天)、神明社、稲穂社(稲荷神)で牧野五社となっていました。
この辺りの歴史は古く、鎌倉時代には伊勢の荘園として神様へお供えをする作物を作っていたようです。故にいつの頃か椿神明社を伊勢の外宮として、もう一つの神明社を伊勢の内宮として村人たちは崇めていたとありました。
かなり古い時代からあった神社と分かりました。

あと2年位は工事をしているようなので、この賽銭箱も当分こんな感じなのでしょうか。
おそらく綺麗な境内になるのでしょうが、沢山あった木々が壊滅しているのが痛々しいです。
何故木々を切ったのか。重機が入るのに邪魔だったのか。耐震とかで地面から手を入れるから仕方がなかったのか。
神社の工事を請けおった会社のサイトに、解体工事の詳細が載っていました。
リンク先の昔の神社の写真と見比べると、随分違います。JRが買ったのかと思いましたが、譲り渡したとあるのでお金は発生していない?そんなことはないか。
神社への参拝を続けているうちに気付きましたが、写真を撮ってもよさそうな所や、ここは撮ってはいけないという場所があります。
祀っている神様にもよりますが、写真を撮ったり足を踏み入れたりしてはいけないのは社殿の後側の土地です。それは神社にとって最も神聖な場所だということです。
神職の方がきちんとした所作を行い、工事をしているとは思いますが、こういう元々神社の社の後ろだった土地を知らずに買って、家でも建てて住むとなると、その後はなかなか大変かと思われます。
土地を買ったのがJRなので、誰かが住むようなものは出来ないとは思いますが・・・。

椿神明社について調べていると、牧野村とこの地域に残る「甘酒祭」という神事に纏わる昔話で、興味深いものが出てきました。
◎甘酒祀の云われ(年代不詳)
椿神社境内近くの笈瀬川の川辺に大きな藤の木があり、たいそう評判で毎年大勢の人たちが訪れた。しかし、あまりにも見物人が増えて、近くの畑などを踏み荒らされてしまったため、人がもう来ないようにということで村人がこの木を切り倒したところ、疫病が流行り、村人の殆どが患った。
困った村人の一人が智者に頼み占ったところ、それは藤の木を切り倒したことによる祟りだから、家ごとに酒を作り、その酒を神様に献上するようにと言われた。
ただ、村で酒を作るのは難しいということで甘酒で勘弁してもらって、椿神明社ともう一つの神明社に供え、そのお下がりの甘酒を飲んだたところ、疫病は治まったと云う。
というものです。気になる個所を赤字にしました。
前回のブログで奈良県の西大寺境内にあった「石落神社」を思い出させるような話が、まさかここで出て来るとは・・・。
最近、田んぼの田の字の意味について、思考を巡らせていましたが、この話の中にもヒントがありそうです。
長くなりそうなので、椿神明社についてはここで終わります。
次回は牧野五社の一つ、弁才天様について考えてみたいと思います。
これは一度お参りに行かねばならないかも・・・。
※参考サイト
名古屋神社ガイド
https://jinja.nagoya/top/nakamuraku/tubaki-sinmeisya
よくこれだけ調べたなと思います。名古屋の神社はまずこれを見ると良いかも。
※紅葉屋はこちらまで
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