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2020-10-23

◆菅原天満宮

西大寺参拝のあと、近くに喜光寺という寺院があったので、そちらへ向かった。その途中にあった神社が菅原天満宮


この辺りの町名が菅原東というので、この神社がある故に名付けられたと思います。


菅原天満宮2

神社の前についてみて知ったが、この地域が菅原道真公の誕生した所だった。


これは驚いた。全くの想定外の出会いでした。

菅原天満宮1

菅原天満宮の御祀神は道真公と、その先祖神である野見宿祢(のみのすくね)と天穂日命(あめのほひのみこと)です。天穂日命は菅原家の始祖とされています。


菅原道真公の誕生日が6月25日と分かりました。こちらの神社でも誕生祭をやっているようです。うちでもやろうかな。



今回の旅は、何となく西大寺にお参りに行きたくなり来た訳ですが、まさか道真公が生まれた地の神社を見つけるとは思いませんでした。
 
 
子供の頃よりお参りするようにしておりますが、昨年あたりから、ふとお参りの仕方が違うのではないのか?どのようにお参りすればいいのか?と考えるようになりました。
 
 
神道式の二礼二拍手一礼か、それとも仏教式の合唱か・・・。
 
 
どちらが正しいとかはないのとは思います。神道式でも問題ないのでしょうが、それだとどうも違うような・・・。
 
 
かといってただ合唱するのも、どこか物足りないです。


そんな疑問が出たことに天神様が応えてくれたのか、とある本を読んでいたら天神様の真言があると知りました。その昔、神仏習合の流れの中で十一面観音と習合されたのが天満大自在天(天神様)です。真言があってしかるべきでした。以来、お参りは般若心経と真言を唱えることにしました。個人的にしっくりきます。肚に落ちました。


菅原天満宮3


全くお参りに来るとは思いもしなかった、菅原道真公生誕の地に建てられた神社です。知ったからには言葉を頂こうということで参拝の後、お御籤を引かせて頂きました。


詳しくは控えさせて頂きますが、「もしこの御籤を引くものが商人であるなら・・・」という件が非常に有難いというか、なるほどというお言葉でした。
 

道真公という方は、寸暇を惜しんで勉強された努力の人です。菅原家初の右大臣になられた方です。そのことも良く踏まえて、自分も言葉を頂いた以上は「やらねば!」という気持ちが強くなりました。


菅原天満宮4


大変気持ちの良い、立派な神社でした。今度は京都の北野天満宮に参拝に行きたくリました。


また、いつかはまだ一度も言ったことがない、太宰府に行ってみたいですね。



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2020-10-16

◆石落神社 その2

西大寺に纏わる興味深い昔話が出て来たので紹介します。


それは「続日本紀」にあった昔話です。続日本紀は日本書紀に続く第二の日本紀という意味合いで、文武天皇から桓武天皇までの95年間の歴史を全40巻に収めた勅選史書です。
 
 
各時代の天皇陛下が在位中に起こった出来事が記されています。
 
 
その中で、称徳天皇の代、宝亀元年(770年)2月23日に起こった出来事に、石落神社に関すると思われる、とある出来事がありましたので紹介したいと思います。


西大寺の東塔の心礎を壊し捨てた。その石の大きさは1丈四方余り、厚さ9尺で、東大寺の東、飯森山にあった石である。初め数千人で引き動かしたが、一日で数歩分しか進まず、時に唸り声がした。そこで人夫を増やして9日かかってやっと運んだ。それから削り刻んで据え付けの基礎を築くことが完了した。

その時、男女の巫女の中に、ともすれば石の祟りがあるかもしれないという者があった。そこで芝を積んで石を焼き、三十石あまりの酒を注いで、細かく砕いて道路に捨てた。その後、一ヵ月余りして天皇が病気になった。これを占ったところ、砕いた石の祟りであるというので、すぐにまた拾って清らかな土地に置き、人馬が踏まないようにした。今、寺内の東南隅にある数十片の砕石がそれである~



なるほどというような記録が出てきました。祟る石の話です。西大寺は称徳天皇(東大寺を建立した聖武天皇の娘)勅願により建立された大寺院ですが、その発起人になった天皇が障りをうけて病気になるのです。そしてこの年の8月4日、称徳天皇は53歳で崩御しました。
 
 
大勢の人工をもってしても殆ど動かない、うなりを上げる石と言うのは、山の御神体とか古代の磐座かなにかだと思います。石そのものが神です。
 
 
その石を無理やり動かし、削って五重塔の礎石に用いるも、祟るかもしれないという理由で燃やして酒をかけ地面にばら撒きました。当時の厄除けの仕方なのでしょう。しかし、石の祟りは衰えず、称徳天皇は病気になります。


巨大寺院を建立する時には、資材を集めるのも大変だと思うので、当時この石に目をつけた人たちも、ひょっとしたら神として崇めている石だと分かっていたのかもしれませんが、やむを得なかったのでしょうか。


そういえば、京都の東寺にも似たような話が伝わっています。五重塔の建立にあたり、聖域とされた伏見稲荷の森から木を伐採したら時の天皇陛下が病気となったという話です。これも同じパターンだと思います。



西大寺は最盛期には110以上の堂舎があった巨大寺院ですが、平安中期には最盛期の姿は見る影もないほど衰退していたようです。衰退した切っ掛けは、平安遷都があり、援助が受け難くなったことだと言われています。


その後、衰退した西大寺を再興させたのが、興正菩薩叡尊上人(1201~1290)です。鎌倉時代の人です。


ここからは推測ですが、叡尊上人が西大寺を再興していく中で、これは絶対に何とかしなくてはと考えたのが、あの祟る石の残骸だったと思います。
 

御神石を山から取り出し、破壊し、それを祀りもせずその辺にばら撒いていた。挙句、寺の建立に携わった称徳天皇すら命を落としている。御神体の神が怒り、祟り神になっていることが西大寺が衰退した直接の原因であると考えていたのかもしれません。


そこで、おそらくその石の破片を搔き集め、三輪山から超強力な呪力を持つ神、少名彦命を勧請し祀った。


これは二通り考えられると思いますが、一つは病を齎す名も無き古代の祟り神を、病を治す薬の神である少名彦命と同体であるとして習合させ、一緒に祀った。
 
 
あるいは封じの力をもつ少名彦命をもってきて、祟り神を封じ込めたのどちらかでしょう。


西大寺4

どっちの可能性もあるかと思いますが、真実は分かりません。


今でも石落神と呼ばれるのは、やはり祟る神への敬意、忘れてはなるまいという先人の想いを感じます。


石落神社の結界がどういう意味であるのか。
 
 
ただ単に文化財になっている社に、イタズラされないようにあるのかもしれませんが、色々と調べるとこの小さな神社が西大寺にとっては、とても大事な神社であるということが良く分かりました。


石楽神は豊心丹という薬を授与したり、初午の厄除けの御祭では大きな力を発揮しているようです。西大寺参拝の折はぜひこちらの石楽神社へもお参り下さい。ただし、境内の中には入らない方が良いかと思います。


おしまい


※あくまで個人の感想です。

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参考文献  続日本紀全現代語訳  宇治谷孟   講談社学術文庫 
2020-10-15

◆石落神社

奈良県の西大寺にお参りに行って来ました。ふと行ってみたいと思ったのが切っ掛けです。


小学生の頃、父に連れられてお参りに行った記憶がありますが、かれこれ40年近く経ってからの再訪です。


西大寺1

随分時間が経過してからの再訪です。当時のうっすらとした記憶では、六角形だったか八角形の建物があり、その中に大きな塑像の文殊菩薩があったような・・・。
 
 
しかし、実際に訪れた西大寺は記憶と随分違いました。文殊菩薩はありましたが木彫で、それほど大きくありません。
 
 
そして見上げるほどの大きな仏像は長谷寺様式の十一面観音像でした。西大寺は大きなお寺ですが、見所はやはり画像の四王金堂の十一面観世音菩薩と同じお堂にある四天王でしょう。
 
 
鋳造の四天王(一体は木造)というのも珍しいかと思います。


西大寺でもらった境内図を見ていたら、変わった名前の神社がありました。「石落神社」です。読み方は「いしおち」かと思いましたが、正しくは「しゃくらくじんじゃ」です。


西大寺5

一目見て尋常ではない神社だと思いました。鳥居の前に結界(竹製の棒)があるのです。ようするに入ってはならない神社です。入り口の鳥居に結界がいきなりある神社は初めてかもしれません。


社名も独特です。石が落ちる神社です。


西大寺3

近くの看板によれば、西大寺の鎮守の神様であること、西大寺を再興させた叡尊上人が仁治三年(1242年)に祀られたとありました。
 
 
何を祀っているのかはさっぱり分かりません。
 
 
気になったので調べてみました。西大寺のHPによればこうありました。

 
「東門前の道を隔てた東北にある小祠。仁治3年(1242)叡尊が三輪から少彦名命を勧請したと伝えられ、呪薬法会などに奉祀されてきた。わが国最古の売薬として著名な豊心丹はこの石落神が授与した秘薬という由来によって製作された漢方薬である。現在は春日造の檜皮葺一間社である。3月の初午厄除祈願は石落神を勧請して祈願を行う。


気になった個所を赤字にしてみました。


まず、御祀神が分かりました。少名彦命(すくなびこのみこと)です。


私もそんなに詳しくない神様だったので調べてみました。簡単ですが少名彦命について特徴を纏めてみます。


①神道における、創造に携わった神々の一柱、神産巣日神の御子神。
 
②一寸法師のモデルとも言われるように、非常に小さな神様。しかしやっていることはスケールがデカい。
 
③大国主命と共に全国を巡り国造りをした神様。国土を開発した。

④常世からやってきた神様。

⑤農業技術や酒造りの技術、薬の技術などを齎した神様。

⑥温泉神としての一面もある。

⑦穀物の神でもあるので、鳥獣や昆虫の害から穀物を守る禁厭(まじない)を大国主命と共に定めた。


ざっとですが、このような特徴がありました。少名彦命は、ガガイモの皮で出来た船(実が長さ10センチくらい)に乗ってやってきたとあるように、とても小さな神様ですがそれに反して凄まじい力を持っている神様でもあると分かりました。有能過ぎます。
 
 
国土経営の神、医薬神、酒神、農耕の神、温泉の神・・・一体どれほどの力を持つ神様なのでしょうか。
 
 
そんな経歴のはっきりした石楽神社の御祀神でもある少名彦命ですが、一点だけ不可解なのは、西大寺のHPでは厄除けの祈願祭では、寺の守護神でもある少名彦命を、その神名では呼ばず、「石楽神」と呼ぶことです。
 
 
そもそもなんでこの社名なのか?
 
少名彦命の来歴を調べてみても、石が落っこちてくるような話は出てきません。


実はこの石落という社名、西大寺に纏わる昔話にこれだなと思うようなものがありました。


次回はもう少し石落神社について考えてみたいと思います。


続く~


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※参考文献 八百万の神々 戸部民夫著 新紀元社
2018-09-26

◆南宮大社

先月の話ですが、岐阜県にある南宮大社へ参拝に出かけた。

名前は聞いたことがあったが一度も行ったことがなく、夏の休みに何となく思い立ちお参りに。

南宮大社③

道中、神社の手前で巨大な鳥居が現れたので驚く。こんな大きな神社だったとは。

南宮大社⑥


南宮大社②

鳥居を潜ってしばらく行くと大きな建物が見えた。
立派な楼門だ。


南宮大社⑤

正面の石橋は柵が施してある。本殿の正面を真正面からとらえているので、これは神様が通る石橋。人が通ってはいけない。

神社でこういう石橋はよく見かけるが、お寺でもたまにあることがある。弁才天を祀る寺で見たか。


現在の建物は寛永19年(1642年)、春日の局の願いにより 三代将軍徳川家光公が再建したもの。1600年におきた関ケ原の戦いで全焼したらしい。どうもこの辺りに陣地を構えていた大名がいたようだ。

南宮大社①
御祭神は「金山彦大神」。鉄の神様だ。知り合いに金属関係の会社の社長さんがいるが、そこの会社の敷地内に立派な御社があった。どんな神さまかと聞いたらこちらの神社だった。思えばその時に初めて知ったのが南宮大社だった。


当店のお客様にも金属関係の会社をしている方がいらっしゃるが、やはりそこの会社の事務所の神棚にも、こちらの神様のお札があるらしい。全国的に見ても、製鉄関係のお仕事をしている人達の信仰が多いようだ。寺社参りをしていると神様や仏さまにも得意分野があると分かる。やたらめったら御利益目的で回るよりも、自分の職種にあった神仏を信仰すると言うのもアリだろう。


南宮大社⑦

こちらが拝殿。どの建物も立派だ。主だったどの建物も重要文化財に指定されている。素晴らしい。


南宮大社⑧


こちらが本殿。一部修理中だったようで、全容は分からなかった。誰かが常駐し、建物や境内が手入れ掃除され、また参拝客も多い神社は気持ちが良い。神様の力も強いし機嫌も良いからだと思う。社伝にはこうあった



~御祭神金山彦命は、神話に古く、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおかみ)の兄神に当らせられる大神様であります。

 社伝によれば、神武天皇東征の砌、金鵄(きんし:トビ)を輔(たす)けて大いに霊験を顕わされた故を以って、当郡府中に祀られたらせられ、 後に人皇十代崇神天皇の御代に、美濃仲山麓の現在地に奉還され、古くは仲山金山彦神社として申し上げたが、国府から南方に位する 故に南宮大社と云われる様になったと伝えます~


とある。十代崇神天皇の頃と言うのは諸説あるが3~4世紀頃らしい。続けて社伝に戻ると・・・


~御神位は古く既に貞観15年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美濃国39座の内、当社のみ名神大社として 名神祭にも預る大社に列せられています。  

天慶3年(940)、平将門の乱の誅伏の勅願や、康平年中(1058~65)安部貞任(さだとう)追討の神験によって、 正一位勲一等の神位勲等を極められ、以来、鎌倉、室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の有力な武将の崇敬をうけ、 美濃国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります ~




平将門公を誅伏したという話はここ以外でも聞いたことがある。確か奈良県の秋篠寺の太元帥明王(たいげんすいみょうおう)にもそんな逸話があったと記憶している。太元帥明王は明王の総帥とも呼ばれ、御利益と言うか得意分野は相手を調伏すること。昔、一度秋篠寺へお参りに行ったが、太元帥明王のそのお姿の凄さには恐れ入った覚えがある。
 
 
金山彦大神も、平将門公を倒すために祈りを捧げられたということは、相当に強い、厳しい神様なのだろう。実際、武将たちの信心も厚かったようだ。

南宮大社④

参拝を終え、楼門の裏側を一枚写真を頂いてから神社を後にした。この後、神社から少し行った所のお寺へ行った。元々、明治以前の南宮大社は、仏と神を一緒に祀っていた場所だった。境内に神宮寺があったのだ。次回は旧神宮寺のお話です。




2018-08-24

◆天河神社  御開帳

奈良県にある天河神社。修験道とも所縁の深い神社で、1300年の昔から弁財天を祀っている。もう終わってしまったが2018年8月某日、ご本尊の弁財天像が30年ぶりに御開帳という事でお参りに出かけた。

IMG_4977.jpg

天気は快晴、確かに暑いが名古屋よりは涼しかった。

IMG_4978.jpg


IMG_4974.jpg


この神社に参拝に来たのは、4回目か。前回訪れたのは平成20年。この時も御開帳だった。


弁財天は仏教(主に真言宗や天台宗)に登場する水の性質を持つ天部であるが、神社で祀られることもある。昔は神と仏は今ほど区別なく祀られていた。神仏習合という考え方で一緒になっていた。
 
 
今日の神社には仏教の仏が殆どいなくなってしまったが、弁財天は神社に残っているケースが比較的多いと思う。


IMG_4971.jpg


手と口を清めて本殿へ向かう。拝観料は3000円ほどだったか。通常の他所の御開帳と比べると高いような気がするが、これはお土産で弁財天の「比礼(ひれ)」が頂けるから。
 
 
比礼とは布のこと。神社側からの説明は無かったがおそらく御開帳に併せて御祈祷されたものと思われる。比礼とは神道に所縁のあるもので、古事記を読むと蜂比礼と蛇比礼が登場する。強力な厄除けの力がある御神器だ。
 

頂いた比礼は使い方等の解説も無かったが、今ならなんとなく分かるような気がする。

さて、上野画像左側の階段から本殿へと上がるが、階段側から見ると進行方向上に本殿はなく、上り詰めると神楽殿と本殿の間に着く。
 
本殿と神楽殿が階段に対して横向きに建てられている。これは珍しい造りで、全国でも類例はないんじゃないかと思わせる。
 
 
何度来てもこちらの弁財天社は清々しくも力強い場所だ。御開帳になっていた弁財天像を見て驚いた。10年前の御開帳で見た弁財天像とまるで違うのだ。少々混乱したが、後で神社の人に聞いたら、平成20年の御開帳は日輪大弁財天像で、この像とは違うと言う事だった。
 
 
天河弁財天社には、秘仏になっている弁財天像が二つあったと知った。前回御開帳の日輪大弁財天像は60年に一回の御開帳。今回の弁財天像は本尊格のものであった。こちらが30年毎の御開帳だったのだ。
 
 

どちらの弁財天像も、例え写真を撮っても良いと言われても、撮れない雰囲気があった。霊位と言った方が良いかもしれない。
 
 
本尊の弁財天像は所謂「宇賀弁財天像」で、三尊形式で祀られていた。中央に弁財天、向かって右側が阿弥陀如来、左側が蔵王権現だ。弁財天の周囲には小さな15童子像もあった。
 
 
蔵王権現ありきの弁財天、弁財天ありきの蔵王権現という感じで、こういう祀られ方をしているのは他にはないと思う。
 

10年前を思い返すと、日輪大弁財天像は単独で祀られており、どこか生々しいより人に近い雰囲気の尊像だった。もう感覚の話でしかないが、今回御開帳の弁才天は仏教色の濃い弁財天で、日輪大弁財天は神道寄りの弁財天だと感じた。


参拝を終え、境内にある祠をお参りしていた時、神社側が用意してくれた説明書きに目が留まった。

IMG_4968.jpg

上から4枚目の画像、階段途中の左側に5つ社があるが、それの解説文だ。この5柱の神様を見て驚いたのは、陰陽道に出てくる祟り神の中でも特に凄まじい力を持つと言われる「大将軍」を祀っていることだった。
 

五つ社の真ん中が日本を代表する天照大神、その両脇に大将軍と怨霊神として祀られた天神様、そして両角に地元の神と竜神様(弁財天は龍神の一族)を祀っていた。さらにこんな説明文も・・・。


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古い寺社はそこにある理由というのがある。何故その地が選ばれたのか。


天河弁財天の場合、それは4つの石があり、三つの川があり、8つの社があったからだという。この内8つの社は後から出来たのかもしれないが、8という数字、それも前述の境内に大将軍が祀られているとすると、この8とは八王子神を指す可能性も出てきた。
 
 
祟り神の王様的な存在、牛頭天王という神様が陰陽道には出てくるが、その子供達のことを八王子神と云う。もし説明文の八つの社が八王子神だとすると、八王子神に囲まれた中心に弁財天社があることになる。
 
 
帰りの道中、天河神社からさほど離れていない所に「八坂神社」があった。八坂神社の御神体は牛頭天皇(後に素戔嗚尊になる)だ。当日は時間が限られていたので調べられなかったが、天河神社の周辺の八つの神社に興味が出てきた。
 

そしてもっと良く分からないのが元々あった(?)4つの石。この内三つは境内にある。もう一つはどこにあるのか?

IMG_4970.jpg

触れないよう柵が施されていることから、御神体のような扱いだ。

IMG_4969.jpg


写真は無いが、境内には役行者像も祭られていた。役行者には二柱の鬼神が仕えていたとの伝説がある。男の鬼が前鬼、女の鬼が後鬼だ。この天河神社の氏子には前鬼の子孫が今なお残っているらしく、境内に奉納された石柱の裏にはその子孫を匂わせる名前もある。

IMG_4975.jpg

修験道との所縁が深い天河神社。それを切り離しては考えられない。

4回目の参拝にして初めて気付いた様々な疑問。
 
 
修験道の本尊で有名な蔵王権現、蔵王権現とはそもそも何なのか、天河神社周辺の八つの社は何が祀られているのか、八つの社は天河神社創建以前にあったのか、なかったのか、4つの石とは何なのか?


何分名古屋からは遠い吉野。頻繁に出かけることも出来ないですが、機会があれば天河神社の周辺をじっくり調べてみたいと思いました。





プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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