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2020-07-03

◆紀三井寺 その2

紀三井寺は素晴らしい霊験あらたかな古仏像も多々ありますが、もしこのブログを読まれたらぜひこちらもお参りして欲しいという場所もありますので、御紹介します。

 
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まずはこの大きな御神木、楠です。

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和歌山県の天然記念物に指定されている立派な巨木です。


木の下には「大樟龍王」という龍神様が祀られていました。楠と言うのは御神木になりやすいのか、霊木で彫る仏像も、楠が多いように思います。もちろん、他の霊木で楠以外もありますが。
 

こちらの楠をお参りして思いましたが、樟の古木に社がある場合、高確率で龍神が祀られている場合が多いです。白蛇系の神様もいますが、蛇も龍神と捉えて良いでしょう。
 
 
木の成長には水が欠かせないから龍神なのか、それとも巨木には龍神が入ることが多いのか。
 
 
人間の何十倍も長生きする巨木は、エネルギーの塊ですね。命もあるし魂もあるのでしょう。木には神様も宿るので、そんな神の宿った木で仏像を彫るから、より強い仏像になるのだと思います。


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もう一つはこちらの春子稲荷。
 
間違いなく紀三井寺の歴史を語るには外せない、お寺の代表的な守護神の一角のお稲荷さんです。看板によれば・・・



天正14年、織田信長と羽柴秀吉の軍勢による、紀州征伐の6万の大軍は、粉河寺、根来寺を焼き討ちし、紀三井寺に迫っていた。

丁度その頃、紀三井寺の観音堂に仕えていた美女、春子が突然須弥壇の中から白狐の姿となり、身を翻して敵の軍営に赴き、霊力をもって武将を威服させ、先鋒の武将、羽柴秀長から「焼討禁制」の書状を得て紀三井寺を戦火から救ったという。

後に人は危難除けとしてこの地に春子稲荷として祀った。

 


何とも凄い話だ。気になるのは、春子という女性が、稲荷神を呼び出したのか? あるいは稲荷が人間の女性に変化して寺で働いていたのか?ということだ。


少々分かり辛い個所のある伝説なので、調べてみたらこんな話もあった。和歌山県の観光情報サイトからの抜粋です。


そちらに掲載されていた話によるとこんな感じです。


◆春子稲荷(はるこいなり)

天正13年(1585)、豊臣秀吉紀州攻めの時、紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫は寺を守る僧兵の大将として出陣しました。しかし僧兵軍は散々な目にあい、自身も瀕死の状態で逃げ帰ったのです。

その時、平大夫にすがりついて泣いたのが観音堂に仕える巫女の春子姫。恋仲にあった平大夫が息をひきとると、春子は観音堂へこもってお経を唱え始め、やがて声が激しくなると、一匹の白狐となって石段を駆け下りました。

白狐は、迫っていた攻撃軍の総大将・秀吉に話しあいを求め、秀吉から「寺に無礼があってはならぬ。寺への軍勢の出入りも禁止する」という証文をとりつけ、それを持ち帰り、観音堂で絶命しました。そのお陰で紀三井寺だけは焼き討ちをまぬがれたと言われています。



信長軍によって焼討された粉河寺や根来寺も大きな寺院だ。僧兵がいたのだろう。紀三井寺も僧兵がいたと分かった。そして紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫と春子が恋仲であったと分かった。また春子自身も巫女でもあった。霊能力があったのだろう。
 
 
観光情報サイトには、お寺の看板よりも、詳細が載っていた。
 
 
読んでいて思ったが、巫女であるのならば、春子にはもともと稲荷神が憑いていたのかもしれない。仏教に出てくる仏様には性別がある場合とない場合がある。お釈迦さんは人間としては男であったが、如来になってからは性別は関係ないように思う。
 
 
菩薩や明王も性別はなさそうだが、その下の天部(諸天善神)の中には性別がハッキリと分かる神様もいる。女神では吉祥天や弁才天、荼枳尼天などなど。男神では毘沙門天とか。
 
 
仏教の稲荷と神道の稲荷は違うそうだが、仏教稲荷の場合、本地は荼枳尼天になる。荼枳尼天から分かれたか、その御眷属が稲荷神だ。当然、沢山いる稲荷の中にもいろいろな個性の稲荷神がいらっしゃるのだろう。
 
 
稲荷神にも性別があるようで、単純に霊力が強いのは男稲荷より、女稲荷の方だと聞いたことがある。これはつまり、本地の荼枳尼天が女神であるので、より荼枳尼天の性質に近いのが男稲荷より女稲荷なのだそうです。
 
 
春子は巫女、強い霊力があったのでしょう。6万の大軍を止めるというのは、相当強い稲荷神、女稲荷が憑いていたと思います。大難を克服するため、まさに命がけの願掛けになったのでしょう。(あるいは稲荷が春子と習合して女稲荷になったかも)
 
 
紀三井寺の参拝で、数枚写真を頂きましたが、この春子稲荷の社のお写真も頂きました。しかし、色々調べてみて、こちらの春子さんも、おそらく春子さんに憑いていた強いお稲荷さんも、大変苦労されたのではと思うようになりました。そう思うと気軽にブログに上げることは出来ませんでした。やはり写真を撮るという事は、本当に気をつけねばならないですね。
 
 
お寺が1200年以上も残るというのは、ある意味奇跡です。そうなるのも繋げてきた大勢の人達の気持ちと努力、寺を守ろうとした神仏の力があったればこそだなと思いました。


紀三井寺の御開帳は秋にも行われるようです。これをお読みの皆様に良きご縁がありますように。



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2020-07-02

◆紀三井寺

開創1250年記念の特別開帳が行われた、和歌山県の古刹「紀三井寺」にお参りに行った。

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西国三十三観音の二番目のお寺。昨年参拝に来ましたが、あの時にはなく、今回あったのは仁王門向かって左側の閻魔像。熊野は死者の国とも云われるので、入り口に閻魔像があるというのは何ともそんな感じです。

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前回来た時は、確かなかのお厨子は閉まっていたと思いますが、今回は本尊の御開帳だからか、こちらの観音堂のお厨子も開いていました。暗かったですが、平安時代位はありそうな観音様でした。

紀三井寺の歴史は、お寺のHPによるとこんな感じです。(抜粋)





◆紀三井寺略縁起

奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。

そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。

上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三礼のもとに刻み、一宇を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされています。



大陸から渡来した高僧、為光上人によって建てられたのが紀三井寺ですが、古い時代の密教寺院は山の中が多いですね。山そのものが神様であったり、山はあの世、異界というのが古い日本人の考え方であるので、やはり奈良時代には日本古来の神と、大陸から来た仏を習合させていたのかなと思います。


紀三井寺は正式名は「紀三井山金剛宝寺護国院」と言い、名前の由来は寺領の中に三か所の井戸(名水)が湧き出ていることからのようです。


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231段ある階段です。この坂は「結縁坂」とも呼ばれています。この坂に関する昔話も残ってました。江戸時代の豪商「紀ノ国屋文左衛門」のお話ですね。それによると・・・


◆紀ノ国屋文左衛門とおかよの昔話

江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。
 
ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。

困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。
 
これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。

紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになりました。」 と。
商売繁盛、良縁成就、その他何事もまずは、信心からと申せましょう。



若い頃、父から聞かされた話の中には、この豪商の話もありました。その紀ノ国屋文左衛門所縁の地がこの紀三井寺だったとは。思わぬ発見でした。
 
 
しかし、あの坂道を親を背負って上るとは・・・。花緒が切れることも観音様の御利益か。商売繁盛や良縁成就、むしろ後者の方のが御利益が強そうですが、御縁を頂きたいと言う方はお参りに行くと良さそうです。この日はお寺だけのお参りでしたが、この玉津神社も気になりますね。

 
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こちらが秘仏「十一面観音」と「千手観音像」を祀る本堂。1759年建立、総欅造りの建物です。迫力がありました。


こちらのお寺、秘仏の本尊は十一面観音像と千手観音像です。珍しいことに一つの厨子の中に二体の仏像が祀られていました。撮影禁止なので御姿はありませんが、購入した記念図録によれば、十一面観音像は10世紀前半で、楠の一木造。背面に穴を開け、像内を削り出し後で板で覆うと言う内刳りという技法で造像されているとのこと。
 
 
もう一体の千手観音像も同様で、おそらく同じ時期に造像された仏像だそうです。千手観音は手がきちんと千本造られています。


どちらの御像も素晴らしい観音様でした。十一面観音は特に迫力がありました。


そして強い仏様だなと思いました。日本の仏像の特徴は彫られた「木」にありますね。木ありきの仏像のようです。他にも紀三井寺には観音像や薬師如来と言った古像が多数残っています。
 
 
紀三井寺のブログは、二部構成でアップしたいと思います。次回はお寺の中で、気になったものに着目します。



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2019-10-20

◆金勝寺と狛坂磨崖仏   「狛坂磨崖仏」について

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金勝寺の駐車場に車を止め、林道を暫く歩く。

狛坂寺古地図

目指すは、金勝寺の更に山奥にある狛坂寺(こまさかでら)。室町時代の古地図には諸堂確認出来るが、現在は廃寺になっている。ここに今回の目的でもある狛坂磨崖仏がある。


20分ほどすると登山口に到着した。


登山口付近には、馬頭観音堂がある。

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お参りを済ませて登山口から入山した。

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分かり難くて申し訳ないが、画像赤丸が馬頭観音堂のある登山口(P)、赤矢印が狛坂磨崖仏である。


それほど大きな山ではない。竜王山から金勝山(こんぜさん)にかけて歩いて行く。


金勝寺は「こんしょうじ」、金勝山は「こんぜさん」と読む。


金勝寺の名の由来は、


天長10年(833年)仁明天皇により、鎮護国家の僧侶を育成する官寺である「定額寺」に列せられ、その折の勅願の題字が、金光明最勝王経の金勝陀羅尼品の「金勝」であり、金勝山金勝寺と改称した。


とあった。また別資料によれば、お寺の開基の良弁僧正の別称が金鷲(こんしゅう)菩薩と呼ばれていたそうなので、「こんしゅう」という読み方にはこっちの意味も入っているのかも。


金勝山の名の由来は、昔、大陸から渡ってきた金勝族が、この付近に住みついたという話があるようだ。漢字が同じだが、元は違う漢字が充てられていたのか。鉄とか銅を作る技術を持っていたからこの字なのか。それは分からない。


この日の天気は晴れで、風も通って涼しく気持ちの良い御登拝だった。


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入山してしばらく進むと、竜王山の頂上に着く。頂上付近には龍神様が祀られていた。

この辺りの場所から名神高速が見えた。そういえば、名神を走っていると竜王ICがあった。ここのことかもなと思った。

前回の金勝寺の歴史を調べていて、途中再興に尽力した僧侶の名前が、竜王院清賢法院といったので、やはりこの辺りの山の信仰ありきのお寺なのかも。
 
 
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こちらが竜王山の頂上。龍神様の祠から徒歩1分以内。
 
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こんな感じの山道を歩いて行くと、反対側の山(別のハイキングコース)が見えた。

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積年の風雨によって浸食したのか、山の表面が崩れ落ちた姿は、大きな岩がゴロゴロしている山肌だった。

大木もそううだが、巨大な岩を見るとそこになにか力を感じることがある。もう畏れ多いという感覚だ。

こういう岩がゴロゴロしている山だからこそ、お寺が出来たり、仏像を彫ったのか。

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途中、小さな磨崖仏があった。茶沸観音と云う。何故こんな名前なのか調べても分からなかった。疲れた人をお茶でもてなしてくれたのかな? 
 
時代は不明だが、相当古いのかもしれない。この観音様、実は行きには気づかず、帰り道で気づきました。


山道といっても初心者でも歩きやすい道を1時間30分ほど歩いだろうか。目的地の狛坂摩崖仏は突然現れた。


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高さ6.3メートル、幅4.5メートルの大きな花崗岩に刻まれた」如来三尊像だ。


木々の間からいきなり現れたその姿は圧巻だった。


時代は諸説あるようだが、奈良時代という説に賛同する。


しばし呆然となったが、やはり気になるのは如来像の手の形だ。一体これはどうなってるの?というほど手の向きがひん曲がっている。

狛坂磨崖仏の手2


手元の資料では「転法輪印ではないか」とあった。この三尊像は阿弥陀三尊なのか、釈迦三尊なのか、あるいは弥勒如来なのか。識者の間でも諸説あるようである。


現在は廃寺になっている狛坂寺。弘仁7年(816)頃、金勝寺の奥の院として、金勝寺を建立した願安によって創建されたが、この摩崖仏はそれよりも前にすでに存在していたらしい。そしてこの彫刻は渡来人の手により彫られたのでは?と考えられているようだ。


確かに、異国的な雰囲気も感じられる。


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菩薩像の足先がそれぞれ真横に向いている。こういう表現は古代の朝鮮の石仏にも見られるという。

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古仏像としても大変素晴らしいものであるが、それよりも本当に尊い、有難いと思える仏様だった。時間が許すのであればずっとこの場で手を合わせていたいと思う仏像だった。
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山の中に先にこの石仏があったので、後に金勝寺や狛坂寺が出来たのか。よく観察すれば、苔のようなものが付着し、石の割れ目には草が生えている。自然に溶け込むような仏像だった。


古代人にとって、仏教が伝来する前には自然そのものが信仰の対象だった。山は異界であり、山そのものが神であった。金勝山のような巨石が乱立する山は、岩そのものも神になったり、祭壇的な意味があったのだろう。


そういえば、過去、山の中や山に近い古い寺社に訪れた時、境内の一角には岩座があるがある所があった。


例えば同じ滋賀県の日吉神社。比叡山の麓にある神社にも巨石が祭られていた。

山王社の巨岩

山王社の巨岩2

我が家には、今思えば不思議なご縁のおかげで、岡山県の最上稲荷神を祭っている。昔お礼のお参りに本山のある」岡山県に行ったが、こちらのお寺にも岩座があった。

最上稲荷の巨岩

最上稲荷のお寺、妙教寺は山に隣接しており、境内に残る最上稲荷出現の霊地とされているのが画像の岩座だ。八畳岩という。この場所でお寺の開祖となった報恩大師が、孝謙天皇の病気平癒の祈願の折、出現したのが最上稲荷(最上位教大菩薩)だという。


今、改めて画像を見ても、尋常ではない感じを受ける。子供の頃から慣れ浸しんだお稲荷さんなので、いつも家族のように感じていたが、初めて実際にお稲荷さんの故郷のこの場所に立った時は、とてつもない稲荷神を家で祭っているのだと思い知った。
 
 
因みにこの場所で嫁にプロポーズしたが、あの時は猛烈に「言ってしまえ、言え!」と後押しされた気がする。この後おみくじ引いたらほとんど引いた事がない大吉がでたので、お稲荷さんがご祝儀くれたと思いました。お稲荷さん、いつもありがとうございます。


話を戻すが、お寺や神社ある場所は、やはりその場所に建てねばならない何かがあるのだろう。日吉神社も最上稲荷も、あの岩座は元々神が降りる場所なのだ。だから信仰の場になり寺社が建立されたのだと思う。


狛坂摩崖仏が彫られた岩も、然るべくして彫られた岩なのだ。明治以前はこの場所にもお堂があったそうだ。


現在はその建物もなくなり、跡地だけがある。


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明治頃に無くなったとあったが、廃仏毀釈と関係があるのだろうか。ただ朽ちてしまったのか?調べてみたが良くわからなかった。


山に溶け込むような狛坂摩崖仏。今すぐということもないのだろうが、昔の写真を見ると大分違って見えた。

狛坂磨崖仏絵葉書

日本の気候もだんだんと厳しくなるので、こういった野ざらしの仏像は徐々に朽ちていくのだろう。お堂の跡地を眺めながらどこか寂しい気持ちがした。


狛坂摩崖仏は初心者でも優しい登山ルートにあります。ご興味のある方はぜひどうぞ。



参考文献  渡来仏の旅  久野健 著  日本経済新聞社
        近江観音の道   近江文化を育てる会 編
        
参考サイト  滋賀・びわ湖 観光情報  


2019-10-10

◆金勝寺と狛坂摩崖仏   「金勝寺について」

滋賀県、栗東市の狛坂摩崖仏へお参りに行った。金勝山(こんぜやま)ハイキングコースの中にある摩崖仏である。

山の初心者なので、登山が趣味の友人に御同行を願いついてきてもらった。

ありがとうございます。

コースは金勝寺(こんしょうじ)の駐車場から林道を通り、馬頭観音堂がある登山口から入山するルートをとった。片道2時間弱の山道だ。

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今回のスタート地点の金勝寺駐車場にあった看板に、室町時代に画かれた境内の地図があった。

金勝寺古地図


上の画像が地図の上半分に当たる、金勝寺周辺の地図。


金勝寺の歴史は古く、聖武天皇の勅願により奈良の都の鬼門(丑寅:東北)を守る国家守護の祈願寺として、天平七年(733年)、良弁僧正が開基し、後に山の中に額安が山の中に伽藍を建立。八世紀の中頃までに、近江の二十五別院を総括する、金勝山大菩提寺として、法相宗興福寺の山岳仏教道場であった。


奈良時代には既に「鬼門」という発想があったのか。ということは陰陽道もその時代にあったのかもしれない。


聖武天皇は思うに、大変気の弱い方だったように思う。何よりも障りや祟りを恐れていたのではないか。歴代の天皇の中でも、最も寺院を建立した方だと思う。国分寺や国分尼寺、他寺院多数、そして巨大な大仏殿・・・。寺巡りをしていると本当に多い。その裏返しは恐れだったのではないのかと思う。
 
 
金勝寺は文治元年(1185年)11月15日、失火する。


時の住職、正心上人が再興し、大講堂、常行堂、法華堂、二月堂が建立された。平安後期には天台宗へ転宗。
 
 
その後、歴代の天皇、武家将軍から保護されるも、天文18年(1549年)大火により諸堂悉く焼失。


後奈良天皇は再建の論旨を下され、慶長14年(1599)、住職竜王院清賢法院は徳川家康に誓願したが、再建までには至らなかった。現在の本堂は400年前の仮堂である。


本尊は丈六仏の釈迦如来。

金勝寺 釈迦如来
※画像はお寺で購入した絵葉書より

重要文化財指定の大きなお釈迦様。12世紀の仏像です。

古いお寺だけあり、古仏が多く残っているが、金勝寺と言えばやはりこちらの仏像が一番印象に残ると思う。

軍荼利明王像だ。

金勝寺 軍荼利明王
※こちらも同絵葉書より

10世紀(9世紀とも)の仏像で、こちらも重要文化財指定。


像高360.5センチ、桧の一材で彫られている。足元でお参り出来るが大きな尊像である。通常軍荼利明王は、手足に赤色の蛇を巻くが、こちらの像は修理の際に外されたらしい。かなり傷んでいたようだ。
 

軍荼利明王は五大明王(不動明王、金剛夜叉明王、愛染明王、降三世明王)の一角で、南方に配される。宝生如来が変化して現れた仏様である。
 
 
阿修羅、悪鬼などすべての外敵から人間を守護し、種々の生涯を取り省くという。恐ろしいほどの霊験をもたらすとされる歓喜天に対して特別な影響力があり、支配すると云う。


その姿は画像のように1つの顔に8本の腕のものもあれば、4つの顔で4本の腕、1つの顔に4本の腕のものもある。


改めて画像で拝見しても凄い仏像だが、間近で見た迫力は相当なもので、この仏様は強いと素直に思える。識者の間では当初から単独で祀られていたのでは?という見解のようだ。

 
個人的にはこのサイズで五大明王像があったという説の方が、ロマンがあって良いなと思うが。


山の中の寺なので、雰囲気は静かで大変落ち着く。境内の中には塔の跡や御香水館という井戸が残っている。


歴史的にも天皇家と所縁の深いお寺であるので、かつては毎年正月15日、九重御祝小豆粥の水として京都御所で献上してそうだが、明治3年(1870年)まででこの習慣は途絶えてしまった。
 

神仏分離令と共に無くなってしまったのだろう。 1200年の歴史の中で、災害や人の考え方で金勝寺は右往左往させられ、現在に至っている。今残っている仏像は奇跡的だと思う。
 

しかし古い寺院に行くと、廃仏毀釈や神仏分離令という言葉がいつも頭を巡る。人の都合で祀られたり、人の都合で捨てられる。当の神仏はどう見ているのかなと考えてしまった。

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金勝寺は電話予約は無くとも参拝できるので、山の雰囲気を楽しみながらお参りしたいという方には、特にお勧めしたいお寺です。


次回は狛坂磨崖仏についてのご紹介です。お読み頂きありがとうございました。



参考文献  金勝寺で頂いたしおり
        密教の本          学研



2019-05-07

◆温泉寺 後編

事前に頭に入っていた情報や、実際にお参りした際に得た情報を元に考えると、温泉寺の十一面観世音菩薩像は明らかに霊木像と言えるが、仏像自体に残っていた昔話からも、やはりこの仏像が、元々霊木であることが分かった。


しかもあの奈良県の長谷寺観音と同じ材だと云う。


奈良県の長谷寺に残る縁起は興味深い。


簡単に紹介すると、神亀4年(727年)、聖武天皇の勅命により、徳道上人が丘の上に祀ったという長谷寺の十一面観音像。


元々、この巨大な観音像を造る元になった大木は、近江の国高島より流出し、各地で祟りを起こしていた霊木だった。


現在、日本最大の木彫仏と言われるこの十一面観音像だ。

 
奈良県長谷寺の十一面観音
(画像は長谷寺のHPより)


私も3度ほどお参りに出かけたことがあるが、まさに巨木のような観音様だった。大木を見ると、その大きさにも驚くが人間などちっぽけな存在だと思わせる大きなエネルギーを感じることがある。木の中に神を見た理由も分かる。


奈良の長谷寺は今まで何度も火災があったようで、現在の観音像は室町時代に造像されたものだが、元々この霊木は相当大きかったらしく、長谷寺の観音像以外に別の十一面観音も造像したと云われている。

 
奈良県の長谷寺の観音像と同じ霊木で彫られたという逸話が残る仏像は、各地に残っている。鎌倉にある長谷寺や三重県多気町にある近長谷寺が有名だ。
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(近長谷寺のHPより)

これらの仏像が本当に一本の霊木から彫ったかどうかは分からないが、それだけ祟る木で彫られた仏像が、強い力と御利益をもたらすということが実際にあったので、長谷寺の霊木観音は人気が出たのは間違いないと思う。
 
 
霊木仏とは神仏習合の思想から生まれた仏像だ。


中でも長谷寺の観音像は天照大神の本地とされていたこともあり、観音の中の観音として大変な人気があった。
 
 
その同木で彫られたという伝説が残る仏像が、温泉寺の十一面観音像だった。


温泉寺の観音像について調べている際に、より詳細な縁起が出てきたので、そちらから順を追って紹介する。(城崎温泉のHPから)




①天平の昔のお話。奈良県の長谷寺の観音像と同じ霊木で、2体の観音像が造られた。鎌倉の長谷寺観音と、後に温泉寺に祀られる十一面観音像である。

 
②小さな方の観音像(温泉寺の方)は、奈良県の長谷寺近くにある長楽寺に安置するため、稽文という仏師が一刀三礼にて彫刻していた。
 
 
③ところが完成を間近に稽文は中風の病にかかり、やむなく未完成のまま長楽寺にその観音像を祀ることに。


④時を同じくして、地蔵菩薩の化身といわれる道智上人により但馬の国に霊湯(後の城崎温泉)が湧出し、その効験あらたかさを聞いて、稽文は湯治のために当地を訪れる。温泉の効験により稽文の病はたちまちに回復する。
 
 
⑤稽文は、奈良の都に帰る前に近辺のあちらこちらを見て回ると、今の城崎温泉駅の少し上流の下谷浦というところに観音像が流れつくのを見つける。村人の助けを借りて救い上げてみると、なんと不思議なことに自身が彫刻し長楽寺に安置したはずの十一面観音像だった。(以来この下谷浦を観音浦と名付ける)


⑥実は未完のままの観音像を祀った長楽寺の近隣では、疫病が流行し、この観音さまのせいではと疑い、村人が川に観音像を流していたのだ。流された観音像は、下流のところどころで発見され、その都度観音像を救い上げてお祀りするが、その度に病や祟りがおこり再び川に流されて、ついには摂津の国 難波の津より海に投じられて、波を漂い流れてこの地まで流れ着いたのだった。


⑦稽文仏師はこの不思議を道智上人にお伝えし、草堂を建立して観音像を安置して道智上人に託し、奈良へ戻る。その後、観音のお告げあって道智上人は今の温泉寺の場所に伽藍を建立し、観音像をお祀りしたのが温泉寺のはじまりとなる。
 
 
⑧この温泉湧出の不思議と効験あらたかなることと、観音像の不思議の話が天聴にまで届き、天平10年(738)聖武天皇より末代山 温泉寺の勅号を賜り、爾来温泉寺は城崎温泉守護の寺となり、十一面観音さまは温泉寺の本尊であると同時に城崎温泉守護の観音さまとして広く知られ信仰を集めることに。
 
 
⑨この観音像は2メートルを超える大きな観音さまですが、大和、鎌倉の長谷寺の観音さまを含む三体のうちでは最も小柄なお姿であり、巨木の最も先の部分より造られた観音像であります。よってこの観音により守られるこの地を城崎(きのさき=木の先)と呼ぶ地名の謂れにもなったと伝えられる




こう言った昔話の類は全て信じることは「?」だが、あとで誰かが付け足したにしろ、この部分だけは強調したいという箇所は、やはり無視出来ない。真実に近い部分はあると思う。そう思って改めて温泉寺の観音に纏わる昔話を読むと、尋常ではない霊木仏であると分かる。気になる個所を青字にしてみた。

温泉寺3

 
稽文という仏師が一刀三礼しながら彫ったにも関わらず、霊木の力により病気になること(②)や、稽文が不在の間、長楽寺で祀られた観音像だったが、その地域で疫病が流行り、疑われた観音像は川に捨てられ(⑥)、更に流れ着いた場所で祀られるも更に祟るというのは、如何にこの観音像の元の木材が、曰く付きの霊木であったかが良く分かる。(観音様が祟る訳ではない)

 
城崎温泉に辿り着くまで、各地で祀られるがことごとく祟っているようだ。ここまで強調するとお寺にとってマイナスイメージが残るのではと心配になるが、それは逆で、祟りが強い霊木ほど、それが仏様の力で供養され祀られると、比例するように御利益も強くなるのだ。
 

長谷寺観音の霊木とは計り知れない力をもった、荒ぶる神が宿っているのである。(⑨)にもあるように「城崎」の語源が「(霊木の)木の先」であるとい言うことからも、数ある霊木仏のなかでも、長谷寺の霊木は特別視されているようだ。


そしてやはり、この観音様は温泉ありきの観音様(④、⑤、⑧)であることも強調されている。現代人からすると、温泉というのは特に疑問もなく、あったかい、気持ちが良い、快適位の感覚しかないと思うが、当時としてはお湯が自然に際限なく湧き出るというのは驚くべことであったのだと思う。
 
 
生活に欠かせない水。しかもそれが暖かく、病にも効く。


古来から人々にとって火と水は特別なものであった。
 
 
日本各地に残る祭にも、火と水に関する祭(お水取りとか)はあるし、古事記を読むと、火と水の力を得たものは支配者になるという話もある。

 
そういう意味では、温泉とは火と水の象徴でもある。更に病に効くとなれば神聖視されたり、そこに霊威を感じたのだろう。「温泉」と「観音」と言うのも、ある意味神仏習合と言えるのではないだろうか。

 
温泉寺には宝物館があり、中には沢山の破損仏があった。

温泉寺5

小さいながらも数が多く、かつてはもっと大きな寺院だったのかと偲ばせる。
 
 
これらの仏像が祀られていたお堂があったのだろう。


祀られることはなく、今は宝物館で展示されている仏像群だがどれにも何か力がまだ宿っているようにも感じる。

 
その一体一体に手を合わせながら、あの大きな十一面観音像を彫った残りの木で、これらの仏像も彫られたのか。あるいは今はもう無くなってしまったが別の大きな霊木像があり、それを彫った際の残りの木で彫ったのか・・・。
 
 
そんなことを考えながらお寺を後にしました。


温泉寺の秘仏十一面観音像は2020年のは4月まで御開帳しております。温泉街も楽しいので、ご興味のある方は出かけてみるのはどうでしょうか?
 
 
これをお読みの皆様に、良きご縁がありますように。



※参考文献  仏像の本  学研
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紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
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