2022-10-20
◆百済寺
2022年10月16日、家族で滋賀県にある百済寺(ひゃくさいじ)に参拝に行きました。
百済寺の秘仏、十一面観世音菩薩像が御開帳されたからです。
私は昔、父と二人で参拝に行きました。今回は初めて訪れる妻と娘と一緒です。前回の御開帳は湖東三山と呼ばれる三か所のお寺、百済寺、西明寺、金剛輪寺が何かの記念で一斉開帳されました。今回は聖徳太子千四百年御聖忌で御開帳されたようです。
こういう何かの記念ではないかぎり、原則御開帳は住職一代限りとのことでした。

釈迦山百済寺は、飛鳥時代、推古14年(606)に聖徳太子の勅願によって開かれた近江最古の仏教寺院。後に天台宗となります。長い歴史の中で、幾度か戦乱や厄災により本堂は度々焼失したそうです。

百済寺はお庭も見事です。
鯉にエサをあげれますが、沢山集まってくるので最初は驚きました。

さて、秘仏の十一面観世音菩薩像ですが、お寺のHPにはこうありました。

昔、聖徳太子が、八日市の太郎坊山の麓に宿をとられた時、毎夕方に東の山中に瑞光(妙光)をご覧になられた。
不思議に思われた太子が翌朝、山中に分け入られると光湧の場所には幹の上半分が切り取られた大木が立っていた。
この大木の周りには、たくさんの山猿が果物を供えて礼拝している。
太子はその光景を見られて、この杉の大樹こそ聖木であると感ぜられ、この大木を生えたまま、観世音菩薩像を作り上げるよう指示され、第一刀を入刀された。
この観世音は根の付いた大樹であることから「植木観音」と呼ばれ、上半分の幹は百済の龍雲寺で東向きに安置された「十一面観音」となり、西向きの「植木観音」が相向き合った「同木二体の観音さま」となりました。
まず興味深いなと思えた個所は、「山に瑞光があり、その場所へ行くと上半分が切り取られた杉の大木があった」とその大木を「猿が拝んでいた」というものです。既に最初の件で、尋常ではない霊木という事が分かります。神が宿っている木なのでしょう。
比叡山を守護している神社に日吉大社があります。日吉大社の神様の御眷属が猿の神様です。そう考えると、この場合の猿は野生の其れではなく神猿(まさる)という意味も出てくるかも。
そして霊木を見つけた聖徳太子は、「この大木を生えたまま、観世音菩薩像を作り上げるよう指示され、第一刀を入刀された」とあります。ここも興味深い記述です。木を切ってから仏像を彫るのではなく、生えた状態で仏像を彫ったのです。一番最初の状態は、仏像が地面に繋がったままで御堂が建ってたのかもしれません。
「この観世音は根の付いた大樹であることから『植木観音』と呼ばれた」とのこと。妻は寺社参拝時、御朱印帳を持ち歩いています。百済寺の御朱印を見せて貰ったら「植木観音」とありましたので、なんだこれはと思いましたが、そういうことでした。
実際の十一面観世音像の御姿は異形です。まっすぐの体躯、突き出た顔、太く長い腕。時代は奈良時代で一木作り。比べれば違うのでしょうが、どこか昔お参りした甚目寺観音の秘仏と似ているところがありました。どちらも異形の仏像です。像高は3.2メートルとあります(これ多分蓮華台も含めてだと思う)。
このブログを纏めるにあたり、朝日新聞の記事がありました。以下新聞記事より抜粋。
奈良時代以前の仏像は、仏教を伝えた中国の影響で銅造や塑造(そぞう)(粘土)が多い。木造は平安時代以降に盛んに造られるが、それ以前のものは飛鳥時代の法隆寺・百済(くだら)観音(国宝)など奈良が中心地だ。その後いったん廃れ、文化庁によると奈良時代の現存例は20~30体ほどしかないという。
百済寺の観音像は滋賀県で最古の木造仏とみられる。高さは、同時代の木造仏では安祥寺(あんしょうじ)(京都市山科区)の十一面観音立像(2・52メートル)に次ぎ最大級だ。
像の表面には、漆で接着した当初の金箔(きんぱく)が残り、保存状態が良い。一方で長身ながらも頭部が小さい特異な姿をし、正面の彫り具合は浅く、立体感が少ない。
こうした特徴から、造ったのは仏師ではなく、半専門的に仏像を造った僧侶(造仏僧)などとみられる。
なるほど、確かに都の腕の良い仏師というより、どこか素人っぽいところはあります。お坊さんが彫ったのかも。でもそれも含めてこの仏像の魅力になっていると思います。記事を読んで「奈良時代以前の木彫像と言うのは全国でも20~30体ほどしかない」というのも言われてみて「あっ、そうか」でした。確かに少ないです。
大きな十一面観音をお参りして、気になったのは足元が見えなかったことです。しかし、この朝日新聞の記事は全体像の写真入りだったので有難かったです。

ほんとに下まで真っすぐです。木そのものが観音になったかのよう。寺の縁起には書かれていなかったことが新聞記事で分かりました。それは・・・
「杉の大木の上半分が百済(くだら)(朝鮮半島の一国)の寺の仏像用に運び出されたことを知った太子が、根がついたままの下半分の木に観音像を刻んだという伝承だ。1573年に織田信長の焼き打ちに遭い、運んで逃げる際に台座が切断された」

・・・というものです。当初は仏像の蓮花台が根っこになっていたというのです。その姿を想像すると、完全に杉の霊木から仏が顕現された表現です。寺伝の通り、杉の霊木ありきの十一面観世音菩薩像です。
本堂付近にあった看板には、信長焼討の前日に難を逃れたこと、本堂から8キロ離れた場所へ僧侶たちが非難させたことなどが書いてあります。大きい仏像ですし、山の中なので移動するだけでも大変そうです。
昔の人の英断と行動力のお陰で、今こうして尊い御姿がお参り出来る訳です。誠に有難いことです。しかし、よく焼討の前日に避難できたなと思いました。それも含めて観音様の霊力なのでしょう。凄い話です。
紅葉屋呉服店はこちらまで
百済寺の秘仏、十一面観世音菩薩像が御開帳されたからです。
私は昔、父と二人で参拝に行きました。今回は初めて訪れる妻と娘と一緒です。前回の御開帳は湖東三山と呼ばれる三か所のお寺、百済寺、西明寺、金剛輪寺が何かの記念で一斉開帳されました。今回は聖徳太子千四百年御聖忌で御開帳されたようです。
こういう何かの記念ではないかぎり、原則御開帳は住職一代限りとのことでした。

釈迦山百済寺は、飛鳥時代、推古14年(606)に聖徳太子の勅願によって開かれた近江最古の仏教寺院。後に天台宗となります。長い歴史の中で、幾度か戦乱や厄災により本堂は度々焼失したそうです。

百済寺はお庭も見事です。
鯉にエサをあげれますが、沢山集まってくるので最初は驚きました。

さて、秘仏の十一面観世音菩薩像ですが、お寺のHPにはこうありました。

昔、聖徳太子が、八日市の太郎坊山の麓に宿をとられた時、毎夕方に東の山中に瑞光(妙光)をご覧になられた。
不思議に思われた太子が翌朝、山中に分け入られると光湧の場所には幹の上半分が切り取られた大木が立っていた。
この大木の周りには、たくさんの山猿が果物を供えて礼拝している。
太子はその光景を見られて、この杉の大樹こそ聖木であると感ぜられ、この大木を生えたまま、観世音菩薩像を作り上げるよう指示され、第一刀を入刀された。
この観世音は根の付いた大樹であることから「植木観音」と呼ばれ、上半分の幹は百済の龍雲寺で東向きに安置された「十一面観音」となり、西向きの「植木観音」が相向き合った「同木二体の観音さま」となりました。
まず興味深いなと思えた個所は、「山に瑞光があり、その場所へ行くと上半分が切り取られた杉の大木があった」とその大木を「猿が拝んでいた」というものです。既に最初の件で、尋常ではない霊木という事が分かります。神が宿っている木なのでしょう。
比叡山を守護している神社に日吉大社があります。日吉大社の神様の御眷属が猿の神様です。そう考えると、この場合の猿は野生の其れではなく神猿(まさる)という意味も出てくるかも。
そして霊木を見つけた聖徳太子は、「この大木を生えたまま、観世音菩薩像を作り上げるよう指示され、第一刀を入刀された」とあります。ここも興味深い記述です。木を切ってから仏像を彫るのではなく、生えた状態で仏像を彫ったのです。一番最初の状態は、仏像が地面に繋がったままで御堂が建ってたのかもしれません。
「この観世音は根の付いた大樹であることから『植木観音』と呼ばれた」とのこと。妻は寺社参拝時、御朱印帳を持ち歩いています。百済寺の御朱印を見せて貰ったら「植木観音」とありましたので、なんだこれはと思いましたが、そういうことでした。
実際の十一面観世音像の御姿は異形です。まっすぐの体躯、突き出た顔、太く長い腕。時代は奈良時代で一木作り。比べれば違うのでしょうが、どこか昔お参りした甚目寺観音の秘仏と似ているところがありました。どちらも異形の仏像です。像高は3.2メートルとあります(これ多分蓮華台も含めてだと思う)。
このブログを纏めるにあたり、朝日新聞の記事がありました。以下新聞記事より抜粋。
奈良時代以前の仏像は、仏教を伝えた中国の影響で銅造や塑造(そぞう)(粘土)が多い。木造は平安時代以降に盛んに造られるが、それ以前のものは飛鳥時代の法隆寺・百済(くだら)観音(国宝)など奈良が中心地だ。その後いったん廃れ、文化庁によると奈良時代の現存例は20~30体ほどしかないという。
百済寺の観音像は滋賀県で最古の木造仏とみられる。高さは、同時代の木造仏では安祥寺(あんしょうじ)(京都市山科区)の十一面観音立像(2・52メートル)に次ぎ最大級だ。
像の表面には、漆で接着した当初の金箔(きんぱく)が残り、保存状態が良い。一方で長身ながらも頭部が小さい特異な姿をし、正面の彫り具合は浅く、立体感が少ない。
こうした特徴から、造ったのは仏師ではなく、半専門的に仏像を造った僧侶(造仏僧)などとみられる。
なるほど、確かに都の腕の良い仏師というより、どこか素人っぽいところはあります。お坊さんが彫ったのかも。でもそれも含めてこの仏像の魅力になっていると思います。記事を読んで「奈良時代以前の木彫像と言うのは全国でも20~30体ほどしかない」というのも言われてみて「あっ、そうか」でした。確かに少ないです。
大きな十一面観音をお参りして、気になったのは足元が見えなかったことです。しかし、この朝日新聞の記事は全体像の写真入りだったので有難かったです。

ほんとに下まで真っすぐです。木そのものが観音になったかのよう。寺の縁起には書かれていなかったことが新聞記事で分かりました。それは・・・
「杉の大木の上半分が百済(くだら)(朝鮮半島の一国)の寺の仏像用に運び出されたことを知った太子が、根がついたままの下半分の木に観音像を刻んだという伝承だ。1573年に織田信長の焼き打ちに遭い、運んで逃げる際に台座が切断された」

・・・というものです。当初は仏像の蓮花台が根っこになっていたというのです。その姿を想像すると、完全に杉の霊木から仏が顕現された表現です。寺伝の通り、杉の霊木ありきの十一面観世音菩薩像です。
本堂付近にあった看板には、信長焼討の前日に難を逃れたこと、本堂から8キロ離れた場所へ僧侶たちが非難させたことなどが書いてあります。大きい仏像ですし、山の中なので移動するだけでも大変そうです。
昔の人の英断と行動力のお陰で、今こうして尊い御姿がお参り出来る訳です。誠に有難いことです。しかし、よく焼討の前日に避難できたなと思いました。それも含めて観音様の霊力なのでしょう。凄い話です。
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2022-06-20
◆伊勢志摩 潮仏
家族で伊勢神宮に参拝に行きました。この日の行程は、伊勢神宮(内宮)参拝→伊勢志摩の海女小屋で食事→真珠の養殖場で真珠取り出し体験という流れでした。
昼食後、真珠の養殖場見学の予約時間まで、一時間ほど空いたので近くにお寺とか神社とかないかと探して見つけたのが潮仏と呼ばれる場所でした。
真珠の養殖場からもそんなに離れていなかったので、ここへお参りに行くことになりました。
ナビが示した場所は、かなり狭そうな道でしたので、通行止めになってるとまずいと思い、潮仏近くの漁港に車をとめ歩くことに。

画像右側に小さな鳥居がありますが、ここが潮仏と呼ばれる場所です。
この鳥居がこちらです。

仏というと寺のイメージでしたが、入り口は鳥居です。神仏習合の匂いがします。

ぱっとみ寺と思しき建物はありませんでした。小さなお堂や祠といったものもありません。
鳥居を潜り、潮仏が祭られている場所がこちらです。

ここが祈りの場です。
鳥居の近くに来歴を記した看板がありました。

それによると、こうありました。その昔(いつの頃からかは不明)石仏のお地蔵様がこの浦で祀られていた。ある時、村人の弥吉老人が昼寝をしていると夢にお地蔵さまが現れた。
お地蔵さんは、
「我は御座浦の地蔵菩薩なり。古くより因縁を感じてこの処に姿を現す。至心に祈願せんものには誓って腰より下の病室を治すべし。我海水の浸すところに在りて、諸人の為に常に代わりて苦忠を洗浄せん。必ず高所に移すことなかれ」
というお告げがありました。この霊夢の話を聞いた村人たちは、迷いの雲が晴れたように地蔵尊に帰依し、日参して病苦の平癒を祈願して御仏の慈悲にすがったというものです。ご利益は婦人の腰から下の病、子宝、安産、生理を調節などとあります。人それぞれの願いをかけて救いを求めてもよしということですが、看板からは女性の信仰が強いのかなと思いました。
潮仏とはお地蔵さんでした。しかも全国でおそらくここだけの海中の仏です。潮が引かないとその姿は分からないということです。

この場に立った時、一体どこにお地蔵さんがあるかは全く分かりませんでした。しかし、よく辺りを見渡すと、線香を置く場所があります。どうもこの位置がお地蔵さんの正面のようです。
後で調べてみましたが、どうもこの赤い矢印の小さな岩がお地蔵さんのようです。

海水に浸かっているのでよく分かりませんでしたが、とくに仏像が彫ってある訳ではなさそうです。なんの変哲もないこの小さな岩がお地蔵さんなのです。
神道では木や岩が神様が宿るご神体として祀られるケースがありますが、あれと同じ感じがしました。一木一草皆仏。木にも草にも仏性は宿るという話を聞いたことがありますが、ただの岩がお地蔵さんであるのも、そう考えれば違和感はありません。
そこには確かにお地蔵さまが宿っているのでしょう。
この岩の横に石仏がありました。

潮水で摩耗していますが、確かにお地蔵さんです。これが本尊かと思いましたが、こちらは昭和になってから奉納されたお前立のようです。ある意味、潮の満ち引きにより御開帳がある天然の秘仏と言えます。

海中のお地蔵さんの後ろには岩があり、鳥居が立っています。方位を調べるのを忘れていたのが悔やまれますが、何か意味があるのやもしれません。
しかし、不思議なお地蔵さんです。
女性の下半身の病気、安産とか子宮に関する病に良いとうのは、やはりこの辺りは海女さんが多いので、体を冷やしたり酷使することで病気になったり、冷えることで生理不順になってしまうことが多かったのかなと推測します。子供の出産も命がけだったでしょう。それゆえに女性の信仰をより集めたお地蔵さんなのだと思いました。仏教ではお地蔵さんもお釈迦様と同じで人間時代があったとされていますが、人間だった頃は女性でした。
海女の歴史も調べましたが弥生時代!からあったそうです。そういえば昼食で訪れた海女小屋で、海女さんから話を聞きましたが、ウエットスーツを着るようになってから大分寒さが気にならなくなったと言っていました。
女性の参拝者が多い、ご利益が女性向けというのは分かりましたが、何故海中なのか?それは村人がそうしたのではなく、地蔵菩薩が自ら海中に祀られることを望んだ・・・。
現場にいた時は答えが出ませんでしたが、このブログを纏めているときに「あっ!」と思い出したことがありました。滋賀県の伊崎寺に伝わる古くからある行事、「竿飛び」です。
伊崎寺は琵琶湖に面した半島にある修行寺です。今は半島ですが昔は島だったそうです。竿飛びとは琵琶湖に突き出た木製の長い竿から僧侶が琵琶湖に飛び込む行事です。お寺のHPから引用しますとこうありました。
「伊崎寺で毎年8月1日の千日会に行われる棹飛びは、水面から数メートルの高さに突き出した棹の突端から琵琶湖へと飛び降りる雄壮な行事です。長きにわたって地域の人々から親しまれているのはもちろん、全国的にも知られ、伊崎寺の代名詞ともいえます。伝承では1000年近く続いてきたといわれており、文献的にも16世紀にはすでに行われていたことが確認されています。」
続けて引用します。
「一人の行者が棹の先端まで歩き湖に飛び込むというのは、「捨身(しゃしん)の行」、つまり報恩や他者救済のため、自らを犠牲にして仏道を求める修行の姿です。行者は人々のさまざまな願いを背負っています。」
「棹というのはいわば『人生』、行者は多くの願いを背負いながら先まで歩き、自分の身よりも人々の願いのためにわが身を捨ててそこから飛び込み、そしてまた陸に帰る=生まれ変わります。この行は「再生」の意味合いも持っているのです。」

(伊崎寺の竿飛び)
ようやく納得できました。
お地蔵様が自ら海中に潜った理由は、捨身の行だったのです。生活の為に、生きていくために冷たい海に潜らねばならない海女達。体を壊したり亡くなってしまうことも多々あったのでしょう。
お地蔵様はそんな海女達の為に、漁が無事終わるように、体を壊さぬように自らが救済の為に海に潜り身代わりとなる。そして命を落としてしまった人は再生できるよう地蔵菩薩の浄土へと導く・・・そういうことだと思います。
私は今まで好きな寺のお参りは、どちらかというと古い仏像を目当てにしていくことが多かったです。仏像は素晴らしいし、そこに魂があり芸術性もあります。今でも時間があればお寺参りはしたいと思っています。
しかし、この潮仏のようにただの岩が、実は古仏に匹敵するような尊いものであると気付くことが出来ました。この伊勢旅行では最も感動したのがこちらの潮仏でした。いつか干潮の時にお参りに再訪したいものです。

潮仏はこちらまで
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昼食後、真珠の養殖場見学の予約時間まで、一時間ほど空いたので近くにお寺とか神社とかないかと探して見つけたのが潮仏と呼ばれる場所でした。
真珠の養殖場からもそんなに離れていなかったので、ここへお参りに行くことになりました。
ナビが示した場所は、かなり狭そうな道でしたので、通行止めになってるとまずいと思い、潮仏近くの漁港に車をとめ歩くことに。

画像右側に小さな鳥居がありますが、ここが潮仏と呼ばれる場所です。
この鳥居がこちらです。

仏というと寺のイメージでしたが、入り口は鳥居です。神仏習合の匂いがします。

ぱっとみ寺と思しき建物はありませんでした。小さなお堂や祠といったものもありません。
鳥居を潜り、潮仏が祭られている場所がこちらです。

ここが祈りの場です。
鳥居の近くに来歴を記した看板がありました。

それによると、こうありました。その昔(いつの頃からかは不明)石仏のお地蔵様がこの浦で祀られていた。ある時、村人の弥吉老人が昼寝をしていると夢にお地蔵さまが現れた。
お地蔵さんは、
「我は御座浦の地蔵菩薩なり。古くより因縁を感じてこの処に姿を現す。至心に祈願せんものには誓って腰より下の病室を治すべし。我海水の浸すところに在りて、諸人の為に常に代わりて苦忠を洗浄せん。必ず高所に移すことなかれ」
というお告げがありました。この霊夢の話を聞いた村人たちは、迷いの雲が晴れたように地蔵尊に帰依し、日参して病苦の平癒を祈願して御仏の慈悲にすがったというものです。ご利益は婦人の腰から下の病、子宝、安産、生理を調節などとあります。人それぞれの願いをかけて救いを求めてもよしということですが、看板からは女性の信仰が強いのかなと思いました。
潮仏とはお地蔵さんでした。しかも全国でおそらくここだけの海中の仏です。潮が引かないとその姿は分からないということです。

この場に立った時、一体どこにお地蔵さんがあるかは全く分かりませんでした。しかし、よく辺りを見渡すと、線香を置く場所があります。どうもこの位置がお地蔵さんの正面のようです。
後で調べてみましたが、どうもこの赤い矢印の小さな岩がお地蔵さんのようです。

海水に浸かっているのでよく分かりませんでしたが、とくに仏像が彫ってある訳ではなさそうです。なんの変哲もないこの小さな岩がお地蔵さんなのです。
神道では木や岩が神様が宿るご神体として祀られるケースがありますが、あれと同じ感じがしました。一木一草皆仏。木にも草にも仏性は宿るという話を聞いたことがありますが、ただの岩がお地蔵さんであるのも、そう考えれば違和感はありません。
そこには確かにお地蔵さまが宿っているのでしょう。
この岩の横に石仏がありました。

潮水で摩耗していますが、確かにお地蔵さんです。これが本尊かと思いましたが、こちらは昭和になってから奉納されたお前立のようです。ある意味、潮の満ち引きにより御開帳がある天然の秘仏と言えます。

海中のお地蔵さんの後ろには岩があり、鳥居が立っています。方位を調べるのを忘れていたのが悔やまれますが、何か意味があるのやもしれません。
しかし、不思議なお地蔵さんです。
女性の下半身の病気、安産とか子宮に関する病に良いとうのは、やはりこの辺りは海女さんが多いので、体を冷やしたり酷使することで病気になったり、冷えることで生理不順になってしまうことが多かったのかなと推測します。子供の出産も命がけだったでしょう。それゆえに女性の信仰をより集めたお地蔵さんなのだと思いました。仏教ではお地蔵さんもお釈迦様と同じで人間時代があったとされていますが、人間だった頃は女性でした。
海女の歴史も調べましたが弥生時代!からあったそうです。そういえば昼食で訪れた海女小屋で、海女さんから話を聞きましたが、ウエットスーツを着るようになってから大分寒さが気にならなくなったと言っていました。
女性の参拝者が多い、ご利益が女性向けというのは分かりましたが、何故海中なのか?それは村人がそうしたのではなく、地蔵菩薩が自ら海中に祀られることを望んだ・・・。
現場にいた時は答えが出ませんでしたが、このブログを纏めているときに「あっ!」と思い出したことがありました。滋賀県の伊崎寺に伝わる古くからある行事、「竿飛び」です。
伊崎寺は琵琶湖に面した半島にある修行寺です。今は半島ですが昔は島だったそうです。竿飛びとは琵琶湖に突き出た木製の長い竿から僧侶が琵琶湖に飛び込む行事です。お寺のHPから引用しますとこうありました。
「伊崎寺で毎年8月1日の千日会に行われる棹飛びは、水面から数メートルの高さに突き出した棹の突端から琵琶湖へと飛び降りる雄壮な行事です。長きにわたって地域の人々から親しまれているのはもちろん、全国的にも知られ、伊崎寺の代名詞ともいえます。伝承では1000年近く続いてきたといわれており、文献的にも16世紀にはすでに行われていたことが確認されています。」
続けて引用します。
「一人の行者が棹の先端まで歩き湖に飛び込むというのは、「捨身(しゃしん)の行」、つまり報恩や他者救済のため、自らを犠牲にして仏道を求める修行の姿です。行者は人々のさまざまな願いを背負っています。」
「棹というのはいわば『人生』、行者は多くの願いを背負いながら先まで歩き、自分の身よりも人々の願いのためにわが身を捨ててそこから飛び込み、そしてまた陸に帰る=生まれ変わります。この行は「再生」の意味合いも持っているのです。」

(伊崎寺の竿飛び)
ようやく納得できました。
お地蔵様が自ら海中に潜った理由は、捨身の行だったのです。生活の為に、生きていくために冷たい海に潜らねばならない海女達。体を壊したり亡くなってしまうことも多々あったのでしょう。
お地蔵様はそんな海女達の為に、漁が無事終わるように、体を壊さぬように自らが救済の為に海に潜り身代わりとなる。そして命を落としてしまった人は再生できるよう地蔵菩薩の浄土へと導く・・・そういうことだと思います。
私は今まで好きな寺のお参りは、どちらかというと古い仏像を目当てにしていくことが多かったです。仏像は素晴らしいし、そこに魂があり芸術性もあります。今でも時間があればお寺参りはしたいと思っています。
しかし、この潮仏のようにただの岩が、実は古仏に匹敵するような尊いものであると気付くことが出来ました。この伊勢旅行では最も感動したのがこちらの潮仏でした。いつか干潮の時にお参りに再訪したいものです。

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2021-10-09
◆信貴山 毘沙門天王 出御開帳
名古屋駅にある名鉄百貨店10階にて信貴山 朝護孫子寺の秘仏、毘沙門天像が来ているというので、お参りに行って来ました。会場は写真撮影禁止、図録などの販売もありませんでした。入場無料、10月12日までです。(2021年)
毘沙門天像は四天王の一角で、別名多聞天とも言います。四天王から離れて単独で祀られると毘沙門天となります。
朝護孫子寺の本尊毘沙門天像は秘仏で12年に一度寅年に御開帳となりますが、前の年に出張して開帳されることがあるようで、今回は名古屋にて出開帳となっていたようです。
昔から一度は信貴山の毘沙門天はお参りしたいと願っておりましたが、たまたま新聞広告で知り今回は御縁を頂くことが出来て有難かったです。
初めてみたご本尊は、ものすごい力を感じました。そもそもですが、今まで博物館や美術館で行われる仏像の企画展は何度も足を運んだことがありましたが、このような出張開帳は初めて参加しました。

そして勉強させて頂いた訳ですが、出開帳というのは博物館などで行われる仏像展示とは似て非なるものだと理解出来ました。
博物館での展示ですと、仏像が寺を離れる場合、発遣(はっけん)とよばれる儀式を行ってから移動します。仏像の魂を抜くのです。そして会期が終わり寺に戻ると、開眼(かいがん)という儀式を行います。仏様の魂(力?)を仏像に戻します。
なので、博物館で見るのと、寺で観る仏像は同じ仏像でもどこか違うのです。寺で観る方が迫力があるのです。
魂を抜いた入れ物の展示ではなく、バリバリの毘沙門天の魂が入った仏像の出張開帳です。
わざわざ奈良県から名古屋まで毘沙門天様が来てくれたのです。しかも12年分、厨子の中で蓄えられたパワーをひっさげてきてくれた訳ですから、大変有難いことです。
また、強い毘沙門天像を間近で拝することで再確認できたのは、毘沙門天という天部は、やはり外敵から仏様をきっちり守る存在なのだと言うことですね。
本来ならこういう名古屋まで来て頂いた時こそ、困ったことがあるならお願いすれば良かったなと思いましたが、あの前に行くとその凄さに圧倒されて、お願い事は頭からすっかり無くなっていました。ただただ感謝です。
他にも数体古い仏像が展示されていたり、珍しい絵巻物もありました。掛軸もいくつか展示してありましたが、気になる点もいくつか出て参りました。これは一度、信貴山の御開帳に併せてお参りに行かねばならないですね。
詳しい説明はなかったですが、腕が4本ある「将軍毘沙門天像」という珍しい毘沙門天像がありました。顔も毘沙門天の顔と違います。
古い時代は神仏習合であり、神道だけではなく陰陽道に登場する神も習合していたこともあったようなので、この将軍毘沙門天像は陰陽道に出てくる大将軍神と習合した毘沙門天なのかもしれません。
大将軍神とは八坂神社や津島神社のかつての御祭神、牛頭天王様の御子息です。
毘沙門天は怖くはないですが、やはりきつい仏様だなと言うことが良く分かりました。そして好きになりました。毘沙門天に興味が湧いてきましたのでまた調べてみたいと思います。
名鉄百貨店で行われている出開帳。12日で終わりですので、御縁のある方はぜひお参りにお出かけ下さい。元気を頂けること確実です。
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毘沙門天像は四天王の一角で、別名多聞天とも言います。四天王から離れて単独で祀られると毘沙門天となります。
朝護孫子寺の本尊毘沙門天像は秘仏で12年に一度寅年に御開帳となりますが、前の年に出張して開帳されることがあるようで、今回は名古屋にて出開帳となっていたようです。
昔から一度は信貴山の毘沙門天はお参りしたいと願っておりましたが、たまたま新聞広告で知り今回は御縁を頂くことが出来て有難かったです。
初めてみたご本尊は、ものすごい力を感じました。そもそもですが、今まで博物館や美術館で行われる仏像の企画展は何度も足を運んだことがありましたが、このような出張開帳は初めて参加しました。

そして勉強させて頂いた訳ですが、出開帳というのは博物館などで行われる仏像展示とは似て非なるものだと理解出来ました。
博物館での展示ですと、仏像が寺を離れる場合、発遣(はっけん)とよばれる儀式を行ってから移動します。仏像の魂を抜くのです。そして会期が終わり寺に戻ると、開眼(かいがん)という儀式を行います。仏様の魂(力?)を仏像に戻します。
なので、博物館で見るのと、寺で観る仏像は同じ仏像でもどこか違うのです。寺で観る方が迫力があるのです。
魂を抜いた入れ物の展示ではなく、バリバリの毘沙門天の魂が入った仏像の出張開帳です。
わざわざ奈良県から名古屋まで毘沙門天様が来てくれたのです。しかも12年分、厨子の中で蓄えられたパワーをひっさげてきてくれた訳ですから、大変有難いことです。
また、強い毘沙門天像を間近で拝することで再確認できたのは、毘沙門天という天部は、やはり外敵から仏様をきっちり守る存在なのだと言うことですね。
本来ならこういう名古屋まで来て頂いた時こそ、困ったことがあるならお願いすれば良かったなと思いましたが、あの前に行くとその凄さに圧倒されて、お願い事は頭からすっかり無くなっていました。ただただ感謝です。
他にも数体古い仏像が展示されていたり、珍しい絵巻物もありました。掛軸もいくつか展示してありましたが、気になる点もいくつか出て参りました。これは一度、信貴山の御開帳に併せてお参りに行かねばならないですね。
詳しい説明はなかったですが、腕が4本ある「将軍毘沙門天像」という珍しい毘沙門天像がありました。顔も毘沙門天の顔と違います。
古い時代は神仏習合であり、神道だけではなく陰陽道に登場する神も習合していたこともあったようなので、この将軍毘沙門天像は陰陽道に出てくる大将軍神と習合した毘沙門天なのかもしれません。
大将軍神とは八坂神社や津島神社のかつての御祭神、牛頭天王様の御子息です。
毘沙門天は怖くはないですが、やはりきつい仏様だなと言うことが良く分かりました。そして好きになりました。毘沙門天に興味が湧いてきましたのでまた調べてみたいと思います。
名鉄百貨店で行われている出開帳。12日で終わりですので、御縁のある方はぜひお参りにお出かけ下さい。元気を頂けること確実です。
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2020-07-03
◆紀三井寺 その2
紀三井寺は素晴らしい霊験あらたかな古仏像も多々ありますが、もしこのブログを読まれたらぜひこちらもお参りして欲しいという場所もありますので、御紹介します。

まずはこの大きな御神木、楠です。

和歌山県の天然記念物に指定されている立派な巨木です。
木の下には「大樟龍王」という龍神様が祀られていました。楠と言うのは御神木になりやすいのか、霊木で彫る仏像も、楠が多いように思います。もちろん、他の霊木で楠以外もありますが。
こちらの楠をお参りして思いましたが、樟の古木に社がある場合、高確率で龍神が祀られている場合が多いです。白蛇系の神様もいますが、蛇も龍神と捉えて良いでしょう。
木の成長には水が欠かせないから龍神なのか、それとも巨木には龍神が入ることが多いのか。
人間の何十倍も長生きする巨木は、エネルギーの塊ですね。命もあるし魂もあるのでしょう。木には神様も宿るので、そんな神の宿った木で仏像を彫るから、より強い仏像になるのだと思います。

もう一つはこちらの春子稲荷。
間違いなく紀三井寺の歴史を語るには外せない、お寺の代表的な守護神の一角のお稲荷さんです。看板によれば・・・
天正14年、織田信長と羽柴秀吉の軍勢による、紀州征伐の6万の大軍は、粉河寺、根来寺を焼き討ちし、紀三井寺に迫っていた。
丁度その頃、紀三井寺の観音堂に仕えていた美女、春子が突然須弥壇の中から白狐の姿となり、身を翻して敵の軍営に赴き、霊力をもって武将を威服させ、先鋒の武将、羽柴秀長から「焼討禁制」の書状を得て紀三井寺を戦火から救ったという。
後に人は危難除けとしてこの地に春子稲荷として祀った。
何とも凄い話だ。気になるのは、春子という女性が、稲荷神を呼び出したのか? あるいは稲荷が人間の女性に変化して寺で働いていたのか?ということだ。
少々分かり辛い個所のある伝説なので、調べてみたらこんな話もあった。和歌山県の観光情報サイトからの抜粋です。
そちらに掲載されていた話によるとこんな感じです。
◆春子稲荷(はるこいなり)
天正13年(1585)、豊臣秀吉紀州攻めの時、紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫は寺を守る僧兵の大将として出陣しました。しかし僧兵軍は散々な目にあい、自身も瀕死の状態で逃げ帰ったのです。
その時、平大夫にすがりついて泣いたのが観音堂に仕える巫女の春子姫。恋仲にあった平大夫が息をひきとると、春子は観音堂へこもってお経を唱え始め、やがて声が激しくなると、一匹の白狐となって石段を駆け下りました。
白狐は、迫っていた攻撃軍の総大将・秀吉に話しあいを求め、秀吉から「寺に無礼があってはならぬ。寺への軍勢の出入りも禁止する」という証文をとりつけ、それを持ち帰り、観音堂で絶命しました。そのお陰で紀三井寺だけは焼き討ちをまぬがれたと言われています。
信長軍によって焼討された粉河寺や根来寺も大きな寺院だ。僧兵がいたのだろう。紀三井寺も僧兵がいたと分かった。そして紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫と春子が恋仲であったと分かった。また春子自身も巫女でもあった。霊能力があったのだろう。
観光情報サイトには、お寺の看板よりも、詳細が載っていた。
読んでいて思ったが、巫女であるのならば、春子にはもともと稲荷神が憑いていたのかもしれない。仏教に出てくる仏様には性別がある場合とない場合がある。お釈迦さんは人間としては男であったが、如来になってからは性別は関係ないように思う。
菩薩や明王も性別はなさそうだが、その下の天部(諸天善神)の中には性別がハッキリと分かる神様もいる。女神では吉祥天や弁才天、荼枳尼天などなど。男神では毘沙門天とか。
仏教の稲荷と神道の稲荷は違うそうだが、仏教稲荷の場合、本地は荼枳尼天になる。荼枳尼天から分かれたか、その御眷属が稲荷神だ。当然、沢山いる稲荷の中にもいろいろな個性の稲荷神がいらっしゃるのだろう。
稲荷神にも性別があるようで、単純に霊力が強いのは男稲荷より、女稲荷の方だと聞いたことがある。これはつまり、本地の荼枳尼天が女神であるので、より荼枳尼天の性質に近いのが男稲荷より女稲荷なのだそうです。
春子は巫女、強い霊力があったのでしょう。6万の大軍を止めるというのは、相当強い稲荷神、女稲荷が憑いていたと思います。大難を克服するため、まさに命がけの願掛けになったのでしょう。(あるいは稲荷が春子と習合して女稲荷になったかも)
紀三井寺の参拝で、数枚写真を頂きましたが、この春子稲荷の社のお写真も頂きました。しかし、色々調べてみて、こちらの春子さんも、おそらく春子さんに憑いていた強いお稲荷さんも、大変苦労されたのではと思うようになりました。そう思うと気軽にブログに上げることは出来ませんでした。やはり写真を撮るという事は、本当に気をつけねばならないですね。
お寺が1200年以上も残るというのは、ある意味奇跡です。そうなるのも繋げてきた大勢の人達の気持ちと努力、寺を守ろうとした神仏の力があったればこそだなと思いました。
紀三井寺の御開帳は秋にも行われるようです。これをお読みの皆様に良きご縁がありますように。
※紅葉屋呉服店はこちらまで

まずはこの大きな御神木、楠です。

和歌山県の天然記念物に指定されている立派な巨木です。
木の下には「大樟龍王」という龍神様が祀られていました。楠と言うのは御神木になりやすいのか、霊木で彫る仏像も、楠が多いように思います。もちろん、他の霊木で楠以外もありますが。
こちらの楠をお参りして思いましたが、樟の古木に社がある場合、高確率で龍神が祀られている場合が多いです。白蛇系の神様もいますが、蛇も龍神と捉えて良いでしょう。
木の成長には水が欠かせないから龍神なのか、それとも巨木には龍神が入ることが多いのか。
人間の何十倍も長生きする巨木は、エネルギーの塊ですね。命もあるし魂もあるのでしょう。木には神様も宿るので、そんな神の宿った木で仏像を彫るから、より強い仏像になるのだと思います。

もう一つはこちらの春子稲荷。
間違いなく紀三井寺の歴史を語るには外せない、お寺の代表的な守護神の一角のお稲荷さんです。看板によれば・・・
天正14年、織田信長と羽柴秀吉の軍勢による、紀州征伐の6万の大軍は、粉河寺、根来寺を焼き討ちし、紀三井寺に迫っていた。
丁度その頃、紀三井寺の観音堂に仕えていた美女、春子が突然須弥壇の中から白狐の姿となり、身を翻して敵の軍営に赴き、霊力をもって武将を威服させ、先鋒の武将、羽柴秀長から「焼討禁制」の書状を得て紀三井寺を戦火から救ったという。
後に人は危難除けとしてこの地に春子稲荷として祀った。
何とも凄い話だ。気になるのは、春子という女性が、稲荷神を呼び出したのか? あるいは稲荷が人間の女性に変化して寺で働いていたのか?ということだ。
少々分かり辛い個所のある伝説なので、調べてみたらこんな話もあった。和歌山県の観光情報サイトからの抜粋です。
そちらに掲載されていた話によるとこんな感じです。
◆春子稲荷(はるこいなり)
天正13年(1585)、豊臣秀吉紀州攻めの時、紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫は寺を守る僧兵の大将として出陣しました。しかし僧兵軍は散々な目にあい、自身も瀕死の状態で逃げ帰ったのです。
その時、平大夫にすがりついて泣いたのが観音堂に仕える巫女の春子姫。恋仲にあった平大夫が息をひきとると、春子は観音堂へこもってお経を唱え始め、やがて声が激しくなると、一匹の白狐となって石段を駆け下りました。
白狐は、迫っていた攻撃軍の総大将・秀吉に話しあいを求め、秀吉から「寺に無礼があってはならぬ。寺への軍勢の出入りも禁止する」という証文をとりつけ、それを持ち帰り、観音堂で絶命しました。そのお陰で紀三井寺だけは焼き討ちをまぬがれたと言われています。
信長軍によって焼討された粉河寺や根来寺も大きな寺院だ。僧兵がいたのだろう。紀三井寺も僧兵がいたと分かった。そして紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫と春子が恋仲であったと分かった。また春子自身も巫女でもあった。霊能力があったのだろう。
観光情報サイトには、お寺の看板よりも、詳細が載っていた。
読んでいて思ったが、巫女であるのならば、春子にはもともと稲荷神が憑いていたのかもしれない。仏教に出てくる仏様には性別がある場合とない場合がある。お釈迦さんは人間としては男であったが、如来になってからは性別は関係ないように思う。
菩薩や明王も性別はなさそうだが、その下の天部(諸天善神)の中には性別がハッキリと分かる神様もいる。女神では吉祥天や弁才天、荼枳尼天などなど。男神では毘沙門天とか。
仏教の稲荷と神道の稲荷は違うそうだが、仏教稲荷の場合、本地は荼枳尼天になる。荼枳尼天から分かれたか、その御眷属が稲荷神だ。当然、沢山いる稲荷の中にもいろいろな個性の稲荷神がいらっしゃるのだろう。
稲荷神にも性別があるようで、単純に霊力が強いのは男稲荷より、女稲荷の方だと聞いたことがある。これはつまり、本地の荼枳尼天が女神であるので、より荼枳尼天の性質に近いのが男稲荷より女稲荷なのだそうです。
春子は巫女、強い霊力があったのでしょう。6万の大軍を止めるというのは、相当強い稲荷神、女稲荷が憑いていたと思います。大難を克服するため、まさに命がけの願掛けになったのでしょう。(あるいは稲荷が春子と習合して女稲荷になったかも)
紀三井寺の参拝で、数枚写真を頂きましたが、この春子稲荷の社のお写真も頂きました。しかし、色々調べてみて、こちらの春子さんも、おそらく春子さんに憑いていた強いお稲荷さんも、大変苦労されたのではと思うようになりました。そう思うと気軽にブログに上げることは出来ませんでした。やはり写真を撮るという事は、本当に気をつけねばならないですね。
お寺が1200年以上も残るというのは、ある意味奇跡です。そうなるのも繋げてきた大勢の人達の気持ちと努力、寺を守ろうとした神仏の力があったればこそだなと思いました。
紀三井寺の御開帳は秋にも行われるようです。これをお読みの皆様に良きご縁がありますように。
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2020-07-02
◆紀三井寺
開創1250年記念の特別開帳が行われた、和歌山県の古刹「紀三井寺」にお参りに行った。

西国三十三観音の二番目のお寺。昨年参拝に来ましたが、あの時にはなく、今回あったのは仁王門向かって左側の閻魔像。熊野は死者の国とも云われるので、入り口に閻魔像があるというのは何ともそんな感じです。

前回来た時は、確かなかのお厨子は閉まっていたと思いますが、今回は本尊の御開帳だからか、こちらの観音堂のお厨子も開いていました。暗かったですが、平安時代位はありそうな観音様でした。
紀三井寺の歴史は、お寺のHPによるとこんな感じです。(抜粋)
◆紀三井寺略縁起
奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。
そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。
上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三礼のもとに刻み、一宇を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされています。
大陸から渡来した高僧、為光上人によって建てられたのが紀三井寺ですが、古い時代の密教寺院は山の中が多いですね。山そのものが神様であったり、山はあの世、異界というのが古い日本人の考え方であるので、やはり奈良時代には日本古来の神と、大陸から来た仏を習合させていたのかなと思います。
紀三井寺は正式名は「紀三井山金剛宝寺護国院」と言い、名前の由来は寺領の中に三か所の井戸(名水)が湧き出ていることからのようです。

231段ある階段です。この坂は「結縁坂」とも呼ばれています。この坂に関する昔話も残ってました。江戸時代の豪商「紀ノ国屋文左衛門」のお話ですね。それによると・・・
◆紀ノ国屋文左衛門とおかよの昔話
江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。
ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。
困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。
これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。
紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになりました。」 と。
商売繁盛、良縁成就、その他何事もまずは、信心からと申せましょう。
若い頃、父から聞かされた話の中には、この豪商の話もありました。その紀ノ国屋文左衛門所縁の地がこの紀三井寺だったとは。思わぬ発見でした。
しかし、あの坂道を親を背負って上るとは・・・。花緒が切れることも観音様の御利益か。商売繁盛や良縁成就、むしろ後者の方のが御利益が強そうですが、御縁を頂きたいと言う方はお参りに行くと良さそうです。この日はお寺だけのお参りでしたが、この玉津神社も気になりますね。

こちらが秘仏「十一面観音」と「千手観音像」を祀る本堂。1759年建立、総欅造りの建物です。迫力がありました。
こちらのお寺、秘仏の本尊は十一面観音像と千手観音像です。珍しいことに一つの厨子の中に二体の仏像が祀られていました。撮影禁止なので御姿はありませんが、購入した記念図録によれば、十一面観音像は10世紀前半で、楠の一木造。背面に穴を開け、像内を削り出し後で板で覆うと言う内刳りという技法で造像されているとのこと。
もう一体の千手観音像も同様で、おそらく同じ時期に造像された仏像だそうです。千手観音は手がきちんと千本造られています。
どちらの御像も素晴らしい観音様でした。十一面観音は特に迫力がありました。
そして強い仏様だなと思いました。日本の仏像の特徴は彫られた「木」にありますね。木ありきの仏像のようです。他にも紀三井寺には観音像や薬師如来と言った古像が多数残っています。
紀三井寺のブログは、二部構成でアップしたいと思います。次回はお寺の中で、気になったものに着目します。
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西国三十三観音の二番目のお寺。昨年参拝に来ましたが、あの時にはなく、今回あったのは仁王門向かって左側の閻魔像。熊野は死者の国とも云われるので、入り口に閻魔像があるというのは何ともそんな感じです。

前回来た時は、確かなかのお厨子は閉まっていたと思いますが、今回は本尊の御開帳だからか、こちらの観音堂のお厨子も開いていました。暗かったですが、平安時代位はありそうな観音様でした。
紀三井寺の歴史は、お寺のHPによるとこんな感じです。(抜粋)
◆紀三井寺略縁起
奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。
そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。
上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三礼のもとに刻み、一宇を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされています。
大陸から渡来した高僧、為光上人によって建てられたのが紀三井寺ですが、古い時代の密教寺院は山の中が多いですね。山そのものが神様であったり、山はあの世、異界というのが古い日本人の考え方であるので、やはり奈良時代には日本古来の神と、大陸から来た仏を習合させていたのかなと思います。
紀三井寺は正式名は「紀三井山金剛宝寺護国院」と言い、名前の由来は寺領の中に三か所の井戸(名水)が湧き出ていることからのようです。

231段ある階段です。この坂は「結縁坂」とも呼ばれています。この坂に関する昔話も残ってました。江戸時代の豪商「紀ノ国屋文左衛門」のお話ですね。それによると・・・
◆紀ノ国屋文左衛門とおかよの昔話
江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。
ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。
困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。
これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。
紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになりました。」 と。
商売繁盛、良縁成就、その他何事もまずは、信心からと申せましょう。
若い頃、父から聞かされた話の中には、この豪商の話もありました。その紀ノ国屋文左衛門所縁の地がこの紀三井寺だったとは。思わぬ発見でした。
しかし、あの坂道を親を背負って上るとは・・・。花緒が切れることも観音様の御利益か。商売繁盛や良縁成就、むしろ後者の方のが御利益が強そうですが、御縁を頂きたいと言う方はお参りに行くと良さそうです。この日はお寺だけのお参りでしたが、この玉津神社も気になりますね。

こちらが秘仏「十一面観音」と「千手観音像」を祀る本堂。1759年建立、総欅造りの建物です。迫力がありました。
こちらのお寺、秘仏の本尊は十一面観音像と千手観音像です。珍しいことに一つの厨子の中に二体の仏像が祀られていました。撮影禁止なので御姿はありませんが、購入した記念図録によれば、十一面観音像は10世紀前半で、楠の一木造。背面に穴を開け、像内を削り出し後で板で覆うと言う内刳りという技法で造像されているとのこと。
もう一体の千手観音像も同様で、おそらく同じ時期に造像された仏像だそうです。千手観音は手がきちんと千本造られています。
どちらの御像も素晴らしい観音様でした。十一面観音は特に迫力がありました。
そして強い仏様だなと思いました。日本の仏像の特徴は彫られた「木」にありますね。木ありきの仏像のようです。他にも紀三井寺には観音像や薬師如来と言った古像が多数残っています。
紀三井寺のブログは、二部構成でアップしたいと思います。次回はお寺の中で、気になったものに着目します。
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