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2021-05-07

◆疱瘡神

過去のブログを振り返ると、昨年の夏ころに六回に分けてアップしたブログ記事に「注意すべき神社」というのがあります。


個人的にお参りに行く時は、より背筋を正し、緊張感と敬意をもって行かねばと思える神社について考察したブログです。


最近になって、このコロナ禍にあったのに思い出せなかったのですが、「注意すべき神社」に入れ忘れていた神社がありました。

 
それは疱瘡神(ほうそうしん)を祀る神社です。


疱瘡(天然痘)は病名です。病気そのものが神様になったパターンです。疱瘡は現代では完全に予防できるようになりましたが、調べてみると、これがまぁ恐ろしい病気でした。
 
 
昨年NHKの「知恵泉」という歴史番組で幕末に流行った疱瘡のことをやっていましたが、当時の日本の全人口の3分の1が亡くなったそうです。感染後の致死率は50%とか。まさにパンデミックですね。
 
 
あまりにもすごい勢いで人が死ぬので、当時の人はこれは凶悪な厄神、鬼神が祟っていると解釈し祀ることになったようです。悪いものは戦って追い出すのではなく、祭り上げて服従する、許しを請うという意味なのでしょう。
 
 
私が知っている疱瘡神は、愛知県の津島神社の中に祀られていました。写真は怖かったので撮れなかったです。


津島神社1

明治以前に祀られていた津島神社の御祀神、牛頭天王様はあらゆる病気を司る神という一面があるので、そこに疱瘡神が祀られるというのも至極当然です。
 
 
古事記や日本書記に出てくる神々、地方の豪族、陰陽道由来の神、自然神、実在した人物、そのどれとも当てはまらないのが疱瘡神。疱瘡神を祀る社には一体どんな神が鎮座しているのか。
 
 
そこには当時の人々の恐怖が居るのか。亡くなった人達の魂か。人達が作り上げた厄神か。
 
 
今までの人生を振り返るに、どうも神仏というものはちゃんと存在するというのが私の解釈です。またそれと対を成す厄神、祟り神というのもどうも在るようです。見える現実世界と見えない神仏、厄神や祟り神、鬼神の世界は繋がっていると思います。疱瘡の原因は天然痘ウィルスですが、そういうものが流行る背後には厄神は関与していたのでは?と思います。

 
それを踏まえて今回の、世界中を巻きこんんだコロナ騒動。アメリカでは死者50万人を突破し、このブログを上げた頃はインドが大変なことになっています。一日の感染者が30万とか40万とかになり、死者も一日2000人とか。現代の医学をもってしてもパンデミック状態です。
 
 
日本はと言えば、緊急事態宣言が一部地域で出されました。しかしながら、世界の大変な状況になっている国と比べると、日本は奇跡的に低い数字で推移しています。
 
 
コロナ経過
(クリックで拡大)


これは中日新聞に出ていた国別のコロナ感染者数の折れ線グラフです。2020年3月から2021年4月までのグラフです。日本は白色のそれですが、多少の上下はありますが、ほぼほぼ横一線で来ています。パンデミックにはなっていません。
 
 
政府のデータで見ても、感染した人の重症化率は1.6%。変異種が出てきた今は5.5%です。94.5%は感染しても重症化しないということです。パンデミックになっている国と比べると、これは不思議と言うか奇跡的なことです。
 
 
ラジオで聞きましたが、日本では仕事などで来日した人は指定のホテルなどで2週間待機して、異常が無ければ出れるという対策を取っていますが、今年の3月から多い日で一日300人はこれを経ずに出ていたそう。随分前から変異種はあったのでしょう。
 
 
それを踏まえてこの数字です。


日本人に知らずに備わっていたもののお陰か、衛生観念か。これだというのは今のところ不明ですが、猛威を振るうコロナウィルスが日本ではそれほど(パンデミックの国と比べて)脅威ではないというのもまた事実です。
 
 
私のブログ的にはこう考えます。日本に世界程新型コロナが流行らない理由。
 
 
疫病の陰に厄神がいるのであれば、恐るべき厄神をも祀り上げるという日本人の考え方、もしくは厄神や鬼神、魔神ですら仏として取り込んでしまう仏教が、まだ生きているからということも、少なからずあるからではないのか?と思えます。




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2020-08-17

◆注意すべき神社  その⑥

注意すべき神社ということで私目線で考えてきましたが、本テーマについては今回で終わりです。


最後は⑥、戦没者を祀る神社です。


該当するのは、愛知県で言えば名古屋市中区にある護国神社、東京には靖国神社がそれにあたります。


明治期に出来た神社であること、神仏習合時代の神社と違い、ずっと神社であること、祭ってある御魂が多いというのが私達の身近にある神社との大きな違いです。(江戸以前の大勢の死者を弔う場合、仏教式で供養したケースが多いと思いますが、明治政府の政策があったので、戦没者を祀る際は神道でなければならなかったのでは?)
 

 
愛知県の護国神社は当初は戊辰戦争に戦死した藩士等二十五柱の神霊を、現在の名古屋市昭和区川名山にお祀りして「旌忠社」と号したのが始まりで、後に愛知県所縁の大東亜戦争までの戦争で亡くなられた英霊が祀られています。


靖国神社も同様で、戊辰戦争で亡くなった人達を祀ったのがきっかけで、後の戦争で亡くなられた人達も合祀されたようです。その数は246万柱とか。


実在した人物を祀る為に神社を建てる理由とは何なのか?


その根底にあるのは恐れだと思います。


非業な死を迎えた大昔の人。難工事で亡くなった人達、大勢の戦没者達。誰も望んで死んだ人達ばかりではありません。望まない死に方をしたと思っている死者達も大勢いたでしょう。


残った人達は自分達に怒りを持って祟るのではないか?と思うのは自然な感情です。
 
 
日本に根付いた大きな霊的な考え方が、神と仏です。


仏の場合は教え。神の場合は道です。この辺りから大きく違うのかもしれません。

 
仏教の場合は、非業な死を迎えた魂は供養します。仏の世界に導くのです。


それに対して神道は神として祀り上げます。それは遠くに送るのではなく、神として人々の身近に祀ります。慰めて神とする発想です。古くからの考え方では多くの御霊が一か所に集まると、祖霊とか神になる、そして残った人や国(故郷)を守る氏神となるというのがあります。守って頂きたいので、近くに祀るということです。


何百年も家系が続き、同じ場所に子孫が住み続けるという古い御屋敷には、敷地の一角に先祖の墓地があることもあります。それも同じ発想かと思われます。こういった考え方は相当古く、昔テレビで見ましたが、とある縄文遺跡では集落の中心に縄文人達の墓地があるそうです。
 
 
神として祀り上げたにも関わらず、それでもなお祟りまくる場合は別の神様を持って来て封じるということもあります。(最初から封じる場合もあるかも)


今回のテーマに話を戻しますが、靖国神社や護国神社への参拝は、今自分の立っているところの真下には大勢の犠牲者がいるということを忘れてはならないことです。

神社イラスト

 
こういった戦没者を大勢祀る神社へ参拝に行くと言う人達の中には、変な人はいないと思いますが、亡くなってから神になったのが比較的新しいということと、膨大な数の御魂が祀られているという事、祖国や故郷の為に殉じた人、生きたくともそうならなかった無念の人、様々な御魂が集合しているということを念頭におくことが大切かと思います。
 

神社全般に言えると思いますが、特にこういう神社は礼節を守ったりすることは大事ですし、夜に参拝へ行ったり、写真をバシャバシャ撮ってSNSに上げたりするのは止めた方が良い神社かと思います。
 
 
今回紹介した神社は、お参りに行かない方が良いと言う意味で挙げた訳ではありません。これらの神社は神への参拝と言う意味と、お墓参りと言う意味が両方ある神社です。その神様がどういう気持ちでいたのかを考えることが、結果的にはどういう参拝をするのがベストなのかを導くことになります。
 
 
そこを見落とすと、せっかく出かけた神社参拝が見当違いになるかもしれません。また場合によっては神の怒りを買うことになるかも・・・。


このブログが何かのお役に立てれば幸いです。



おしまい。



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2020-08-07

◆注意すべき神社  その⑤

ようやく一区切りつきそうです。


人を神として祀った神社、⑤と⑥について考えてみます。


⑤当事者が生きていた時代には無く100年単位の時間が経過して祀られた神様の神社

⑥戦没者を祀る神社



・・・です。


これは非常に稀なケースですが、昔、岐阜県の海津市付近を散策していた時に見つけました。

薩摩藩士を祀った神社です。

薩摩藩士神社③



薩摩藩士神社①

上の画像から少々修正して文字化します。

~昔からこの地域は木曽川・揖斐川・長良川の支流が網目のようにあった。その間に出来た区画を「輪中」といい、堤防を築いて水を防いでいた。


ところが、その三つの河川の川床(かわどこ:川の底、または河川の堤防の内側)は、東から木曽川・長良川・揖斐川の順に八尺(2.4メートル)も差があるので、大雨が降るたびに一番低い揖斐川へ滝のように水が流れ込んだ。
 
 
そして逆流してくる水と一緒になって、輪中の堤防を決壊させたり、あふれて洪水となり、農作物はもちろん命まで失われると言う被害が連続して起こった。
 
 
この惨状を見て、民たちは徳川幕府に訴えたところ、徳川幕府は工事に着手することになったが、実際に工事をしたのは幕府ではなく、岐阜から遠く離れた薩摩藩へ命じた。
 
 
時は宝暦4年正月(1754年)。当時の藩主、島津重年公は当時の金としては莫大な金40万両を借金し、家老の平田靱負(ひらたゆきえ)を総奉行として現地に派遣した。


大変な難工事で、幕府の重圧に耐え、苦心に苦心を重ねついに完成したが、八十八名の犠牲者を出した。~



薩摩藩士神社②

続きを文字化します。


~この大堰川洗堰(あらいぜき:水流を横ぎって、川幅いっぱいに石を敷き詰めて造る堰)は、その事業の一つで対岸の勝賀と大藪の間に、高さ1.2メートル、幅178.4メートルに亘って堰を造るという難工事中の難工事でした。
 
 
これは長良川の水位が1.2メートルまでは、揖斐川に流れないようにし、水位が1.2メートルを超えると自然に洗堰を超えて水が流れ込み、その水勢も弱まる様に設計されたものでした。


後に明治の改修ですっかり埋まってしまい、完全に遮断されましたが、当時は尾張藩が強く、ここを締め切ると尾張側が危険にさらされるというので許されず、洗堰で水の調整をはかっていたのです。
 
 
この工事完了は宝暦四年十二月、経費は金四千九百八十八両と云われています。


ここに薩摩藩士の功績を讃え、当地が五穀豊穣の地として今日あるを感謝し、その偉勲を永く後世につあてるため、昭和5年この地に現在の記念碑を建立したのであります。~



薩摩藩士神社④


この神社を知ったのは偶然でした。たまたま近くを通った際に立ち寄りました。後に調べてみましたが、難工事を完成させた平田靱負は八十八名の犠牲者を出したことに責任を感じ、自害しました。
 
 
そして私が訪れたこの神社は、洗堰の現場に立てられた神社で、後に新聞で知りましたが昭和の50年代に社が建てられたようです。大勢の犠牲者を出してから200年以上経って祀られた、島津藩士が神様となっています。
  
 
祀られた経緯は、昭和になってから洪水がこの近辺であり、「もしかしたら島津藩士が祟っているのでは?」という考えから慌てて祀られたようでした。
 
 
このブログ作成にあたり、つい最近しりましたが海津市には治水神社という、同じく薩摩藩士と家老の平田靱負を神として祀る神社があると知りました。


こちらの治水神社の方が、現場に立てられた神社より少し古く、昭和の13年に建立された神社でした。昭和の13年ですから、やはりこちらも犠牲者を出してから200年以上経って建立された神社です。

 
当事者を知る人たちが生きていない、時を隔てて行き成り建立したということは、やはり昭和初期頃に大きな水害があり、これは家老の平田靱負や薩摩藩士を弔っていなかったから、彼らを忘れてしまっていたからではないか?と考えたと思われます。もしくは不幸な出来事が連続して起こったのかもしれません。


いずれにせよ、200年も経って犠牲になった人達の慰霊の為の神社が出来ると言うのは、異常事態です。


時系列順で言えば、昭和5年に現場だった場所に碑が出来る。それから8年後に治水神社を建立。そして昭和の50年代に現場にも神社が建立されました。
 

今では非科学的なことは信用しないという人も増えてきていますが、人間の深層心理には、どこかに誰でも得体のしれないモノ、コトに対して畏れという感情があるのでは?と思います。


しかし、徳川幕府も大変な作業を薩摩藩へ命じたものです。これは幕府に逆らえないよう、薩摩藩の力を減らす為にやらせたのでしょう。もう嫌がらせです。島津の殿様からしたら、国力と大事な家臣達を同時に失った訳です。後の歴史を見るに、徳川幕府は西からの勢力、薩長同盟により一つの時代が終わります。そう考えると薩摩武士の恨みというのも読み取れる神社でした。


長くなって来たので、⑥は次回で・・・。



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2020-07-31

◆注意すべき神社  その④

前回の続きです。


③祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(全国版)

④祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(地域限定)



次に③と④、祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社です。


どちらも死後、異変が起こり祟っているとされて祀られましたが、規模の違いがある為、全国版と地域限定とさせて頂きました。


全国版で有名なのはやはり天神様こと菅原道真公でしょう。天神とは元来「天津神」、即ち天上の神々のことでしたが、あまりにも有名になり、現在では天神=菅原道真公を表す言葉になってしまいました。(詳しくは過去ブログ参照
 
 
権力者に祟ったことで、国を挙げて祀ることになったこと、道真公自体が天才だったため、後に学問の神として崇められたことが大きく作用し、全国的に有名になり沢山のお社で祀られました。
 


次に地域限定の祟った神様、あるいはその場所のみで祀られる祟り神の神社です。関東方面には佐倉惣五郎という義民が死後、祟ったとされ神に祀り上げられました。舞台化もされた有名な話でもありますが、もうほとんど知られていない、地元の人も忘れかけている個人が祀られているものも、結構あります。


最近、仏像や御開帳参拝が好きな方から教えて頂きましたが、四国に凄い神社がありました。薫的大神(くんてきおおかみ)という神様を祀る「薫的神社」です。これが調べてみたら今回のテーマど真ん中の神社でした。


まず、この薫的大神の概要を紹介したいと思います。生きていたときは薫的和尚と言うお坊様でした。


〇薫的和尚の概要

薫的和尚は、伝説によれば寛永二年(一六二五)に生まれた。十五才で出家得度し、二十二才まで御修行、香美郡土佐山田町楠目の豫岳寺(よがくじ)の住職となった。詩歌、俳句、絵画、彫刻にすぐれ、武術の稽古もしていたと伝えられ、身長は六尺の偉丈夫であった。後に洞ヶ島の曹洞宗瑞應寺(ずいおうじ)に移り、瑞應寺第十七世住職となった。


当時、この地域の有力な寺は二つありました。滅びた長曾我部氏の菩提寺であった「瑞巌寺」と、長曾我部氏滅亡後にこの地にやって来て統治することになった山内氏が設けた、その菩提寺である「真如寺」です。真如寺も曹洞宗のお寺でした。


薫的和尚は瑞巌寺の住職で、真如時の住職、良谷和尚と何かにつけて衝突していました。そんな時、薫的和尚が激怒する事件が起こります。二代目藩主が亡くなり、その戒名を真如寺の良谷和尚がつけましたが、その戒名は「竹巖院殿龍山雲公大居士」でした。
 
 
薫的和尚は、


「巌上の竹は枯死するが松はよく成育する故に松巌院でなければならない。 雲公の雲は、風によって乱れる意味を持つので不吉。 公は三公九郷の高官でなければ使用すべきでない。忠義は従四位侍従であるから公は僭上の嫌いがある」


と指摘。要するに戒名が良くないと言ったのです。また、法事の際、瑞應寺の座列が真如寺の下座に置かれていることを抗議し、対立するようになりました。


薫的和尚はこの問題を宗門支配の周防の国、長源寺に直訴しようと訴状を書き、瑞應寺の脇寺の芳心院(僧侶)に長源寺に行く様託しましたが、芳心院は真如寺に内通してしまいました。


真如寺から内通を受けた奉行「孕石頼母」ら藩の重役は関所違反という無実の罪をきせ、薫和尚を投獄しました。そして7年後、獄中にて経文を血で書き、49日間自ら食を絶ち抗議。


寛文11年(西暦1671年)旧正月10日高知城を睨み付け、自ら舌を噛み切り憤死。享年47才でした。




何とも凄まじい最後です。血書をしたため、食を断って舌を噛みきり自決。しかもお城を睨みながら・・・・・


獄中死した薫的和尚の遺体は、高知市小高坂山の住人、郷士西内半次正義が密に貰い受け、現高知市三の丸の私有地の畑に埋葬。光善芝と名付け、松を植え牛馬を繋ぐことを禁じた。 墓はいつしか忘れ去られていました。


そして異変が起きます。神社のHPより抜粋です。


薫的和尚の判決をした奉行の孕石頼母は、正徳4年(1714年)乱心し庭先を指して、「あの石の上に、緋の衣を着けた坊主が物凄い形相で睨み付ける。」と言って狂死。子・孫も次々に変死をして、血脈が絶えました。
 
 
また、直訴の手紙を託されたにもかかわらず、ライバル関係の真如寺側へ寝返った芳心院は、元禄8年(1695年)薫的和尚の命日より喉を痛め発病、不眠に悩み、発病後21日で発狂し死亡。長男、次男も変死。


ある時、山内家の重臣、山内主馬様のご母堂、光善院様の夢に薫的様が御出現され、「今を去る55年前、無実の罪に陥れられ、無念の死を遂げた。その恨みを7世まで晴らさんものとする。」というお告げをうけた。光善院様は、薫的様の祟りを大変恐れました。


光善院様は家臣に命じ、薫的様のお墓を探し享保12年(1725年)に小高坂山から洞ケ島に御改葬。現在の薫的神社裏の霊光塔にお祀りされている。瑞應寺は明治3年廃仏棄釈により、廃寺となり、洞ケ島神社と称す。昭和24年に薫的神社に改称した。

 


後半、少々分かり辛いので整理すると、


・1671年に薫的和尚、獄中にて自決

・薫的和尚を売った芳心院は1695年に狂死。長男、次男も変死

・薫的和尚を裁いた奉行、孕石頼母は1714年に狂死。その子供、孫も変死

・1725年、光善院の夢枕に薫的和尚が出現。祟りを恐れて忘れられていた薫的和尚の墓地を改め、祀り直す。

・薫的和尚が住職をしていた瑞應寺に祀られたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となる。

・そして神社として復活。洞ケ島神社になる。

・昭和24年に薫的神社に改名し、現在に至る。


死後、祟り神となり、自身を嵌めた関係者の命を奪い、恐れられて寺を守る神(?)として祀られるも、寺は廃仏毀釈により廃寺になる。しかし、祟り神となった薫的和尚を祀る御堂(社?)だけは無くならず、逆にそれを主祀神として祀る神社となる。廃仏毀釈の嵐の中でも、薫的和尚を祀る場所だけは、寺が無くなっても残る・・・。残さなければならなかったのでしょう。
 
 
昭和になって、その神社の名前も変わる。地域の意味を込めた社名から、その御祀神様の名を表す社名に・・・。
 
 
神社のHPがあったので覗いてみましたが、興味深い情報が載っていました。


それは薫的和尚が最後を迎えた当時の牢屋が移築(!)されていること。

孕石頼母の家にあった庭石もあります。この庭石の上に薫的和尚の幽霊が出たとか・・・。

 
古い牢屋などは取り壊されそうなものですが、それすら当時の人にとったら、あの薫的和尚が最後を迎えた牢屋を壊すのは恐ろしいという感情があったのでしょう。


薫的大神様の目線で考えて、果たして薫的和尚が最後を迎えた牢屋を境内に持ってくるというのは大丈夫か?とは思いますが・・・。これは凄いことです。庭石をこの地に持ってきたのも、恐れ故に粗末に出来なかったのでしょう。
 
 
また薫的神社とは違う場所ですが、薫的和尚のお母さんも神として祀られているようです。
 
 
こちらの薫的神社は薫的和尚の神像が遺されています。神像は原則御開帳と言うのはありません。しかし、こちらの神社では50年毎に御開帳があるようです。これはお寺だった時代の名残でしょう。
 
illustrain02-building05.png


死して祟った個人の姿の像をつくると言うのは、凄いことです。ぱっと思い浮かぶのは菅原道真公や平将門公でしょうか。どちらも恐ろしい怨霊伝説が残る神様ですが、薫的和尚もそれぐらい畏れられたので和尚の神像が造られたのでしょう。
 
 
来年が50年毎の節目になるので御開帳をやるそうですが、行かれる方は「一体自分はどんな神様をお参りするのか?」ということを良くご理解して、お参りに行った方が良いかと思います。


 
続く・・・




薫的神社はこちらまで

2020-07-27

◆注意すべき神社   その③

注意すべき神社で項目から外れていた、大事な神社がありました。


それは「もと人間を神として祀っている神社」です。歴史上に実在した人物を祀る神社です。


有名どころだと菅原道真公、平将門公、徳川家康公や豊臣秀吉公、加藤清正や吉田松陰などなどです。ある意味このような方々を祀る神社はお墓とも言えます。


天皇陛下のご先祖神にあたる神様の中だと、最も多いと思われるのが八幡神社の応神天皇やそのお母さんの神宮皇后もそれに該当しそうです。八幡社は全国で二番目に多い神社というので、元人間を神として祀る神社というのは、全国の神社の中でもかなりの割合をしめるかも。
 
 
この元人間の神様と一括りにすると、ちょっと無理が生じます。なので、「祟ったから・あるいは祟りそうだから祀られた」場合と、そうではない場合と大きく分けます。さらにそれを出来る限り細分化すると・・・


①歴史において有名な人物で、勝った方の神様の神社

②歴史において有名な人物で、負けてしまった方の神様の神社

③祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(全国版)

④祟りまくって恐れられて祀られた神様の神社(地域限定)

⑤当事者が生きていた時代には無く100年単位の時間が経過して祀られた神様の神社

⑥戦没者を祀る神社



まだあるかもしれませんが、考えれるだけ考えてみました。①で有名なのはやはり古代の戦争に勝利した戦神、応神天皇を祀る八幡社が該当すると思います。徳川家康公を祀る東照宮もそうですね。

 
②だと平将門公や、京都にある御霊神社が有名です。御霊とは不遇な死に方をした人の霊を神としたものです。
 
 
例で挙げた京都の上御霊神社・下御霊神社、奈良県の秋篠寺付近の八所御霊神社は同じ神様を祀っています。私はこの中で八所御霊神社のみ参拝に行ったことがありました。(調べてて思い出しました)
 
 
この三か所の神社でお祭されている神様は崇道天皇(すどうてんのう)です。気になったので調べてみました。


崇道天皇は平安時代の人物で、その当時は早良親王と呼ばれていました。以下、かいつまんで紹介致します。


延暦三年、桓武天皇は長岡へ遷都。この時、藤原種継の暗殺事件が起こる。長岡京の造宮司の藤原種継は早良親王と敵対関係であったため、早良親王が暗殺事件の首謀者とみなされる。(早良親王は桓武天皇と異母兄弟)

その後親王は、淡路島の乙訓寺にて監禁されることになった。早良親王は無実を訴え、食を断った。10日余り過ぎ、宮内卿の石川恒守らが淡路島へ移送する途中、高瀬橋頭で絶命した。
 
恒守はそのまま遺体を淡路島へ運び葬った。その後、異変が起こる。

桓武天皇の妻、藤原旅子が他界。続いて母親の高野新笠(たかのにいがさ)、皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が他界。天変地異もおきた。さらに皇太子の病気が長引くので占った所、皇位を廃された早良親王の祟りであると出た。

朝廷は淡路国に使者を送り、奉謝を行った。

しかし、これでも祟りは治まらず、早良親王の死後、78年経過した貞観5年(863年)、神泉苑で御霊会を行い、早良親王らを御霊として祀る様になった。



崇道天皇というお名前は、死後早良親王に送られた名前のようです。しかし、皇統譜上では今も正規の天皇としては認められていないようです。

八所社2
 

昔、奈良の方の八所神社はたまたま通りかかった時に参拝しました。御霊神社というのは祟り神を祀っていると聞いていたので、緊張してお参りしたのを思い出しました。

八所社1

当時撮影した看板。
 
火雷大神は荒ぶる神様で雷神です。天神様こと菅原道真公という意味もありそうですが、やはり超自然的な怖い神と考えてよさそうです。崇道天皇以下七柱の神様は人の名前です。御霊とあるので、やはり非業な死を遂げた神様達なのでしょう。
 
 
この看板の注意すべき点は、境内に於いて「①不敬・不浄な行為」、「②鳥獣をとるなどの殺生行為」「③尊厳を疵つける一切の行為」を禁ずるとあることです。どこの神社にも当てはまることです。②のような生き物をとるなというのはたまに見かけますが、①とか③のような強い口調の言葉はあんまりみないかも・・・。
 

それを大々的に入り口に表記するというのは、やはり参拝するのに要注意せよ、怒らせる行為は絶対するな!という恐怖の裏返しかと思います。
 
 
確かにものすごく掃除が行き渡っている神社です。異様に綺麗さに拘っていると思いました。

と同時に、大変緊張する神社でもありました。よく写真撮ってきたなと思います。参拝当時の自分に会えるとしたら、「写真は撮るな!」と言ってたでしょう。
 
こういう神社は謙虚な気持ちでお参りすることが必須です。
 
 
長くなって来たので次回に続きます。


※参考文献 天皇の本 学研

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プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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